ここ数日、世間では無差別発砲事件のニュースが大きく取り上げられているが、実は私も乳飲み子の頃、撃たれたことがある。
と、言っても、実際に弾は当たらず、だからこそこうして無事、生きているわけだが、私と母に向けて発砲したのは実の祖父で、実際、祖父の家の柱には、私が中学生になっても、小さな鉛の弾がいくつも埋まっていたのを、私は今もはっきり記憶している。
それは私が生まれて間もない頃のことらしい。
たぶん、私が他所に貰われていったり、戻ってきたりする前の話だと思う。当時仕事をしていなかった(と思われる)父と、私を生んだばかりの母は、父の父親、つまり祖父の暮らす家で、一緒に生活していた。
私の祖父はアルコール依存症で、父もその姉達もひどい虐待を受けて育ったが、おそらく精神も病んでおり、それは今でいう統合失調症(分裂症)か何かで、それを理由としてか、若いうちから足を悪くしていたからか、戦争に召集されることもなかったようだ。
とにかく、私が物心ついた頃には、祖父はトイレに行く以外に自室を出ることもなかったし、お風呂など数ヶ月に一度入ればいいほう。朝から晩までずっと酒を飲み、一日中、それこそ昼となく夜となく、罵声にも似たひとり言を言い続けるのが常だった。
そんな祖父が、何ゆえ母と私を撃ったのか、その理由など、考えるまでもない。おそらく理由などないだろうし、その異常さゆえに逮捕されることもなく、その後も死ぬまであの家に根を下ろしたまま暮らせたのであろう。
ただ、なぜ、そんな頭のおかしいアル中患者が銃を所持出来ていたのかは、いまだにわからない。また、その銃の種類も、母や伯母は「空気銃だった」と言うのだが.....。果たして空気銃とやらで鉛の弾が撃てるものなのか、細かい知識がないので、それもわからない。
祖父は、自室から、フスマ越しに、つまりフスマの向こうに母親と赤ん坊がいることだけはわかっていて、何も見えない状態で発砲した。
幸い、母と私に弾は命中せず、数発が、先述した柱に深く食い込んだわけだが、もし私達親子に命中していたら命はなかったかもしれない。母は私を抱えたまま庭に飛び出し、すぐに警察が呼ばれたそうだが、伯母の話ではいきなり戸を開けた警官も胸に銃を突きつけられ、「すみませんっ!」と言って、慌てて戸を閉めた、ということである(笑)
無論、その後銃は警察に押収され、のちも私達親子が撃たれることはなかったが、銃がなくとも祖父は灯油をまいて家に火を点けたりと、色々したようである。
その頃の私はまだ赤ん坊だったから、その時の事を覚えていないし、また、すっかり成人となった今となっても、どうしてそんな事をする祖父が、いかに精神異常者であろうと身柄を拘束されなかったのか、病院へぶち込まれなかったのか理解できないでいる。
時代が今とは違ったといえばそれまでかもしれないが、果たしてそれが許されることなのか。
しかし、祖父の持つ家と土地が欲しかったらしい父は、そんな事があっても祖父の家に出たり入ったり(つまり引越し)を繰り返し、そのたび家庭がギクシャクし、ついには崩壊(他にもたくさん理由があるけど)。最終的に母が家を出て行った折には、祖父の食事を作る役目も、罵声の向かう矛先も私の役目となり、祖父がその、いつ果てるともしれないひとり言で言うように
「子供なんてうるさくて汚くて、邪魔なだけだ」
が、自分の価値なのだと思うようになった。
そんな中、祖父が毎日食べる刺身を買いに行き、食事の支度をし、一升瓶の酒を買いに行かされる日々は、ただひたすら惨めで暗く、時には誰かに甘えたくて甘えたくてたまらない気持ちになることもあったが、それも叶わず、叫び出したくなったこともたびたびである。
祖父のひとり言に耐えながら、暗い、木造の平屋で電気も点けず、学校帰りの空腹を満たすために砂糖をつけた食パンを齧り、一人うずくまる私。
その時の気持ちを私は一生忘れることはないだろう。
たださみしくて、さみしくて、誰かに抱きつきたくて......
でも、その時の私が誰かに抱きしめてもらえることはなく、男と付き合うようになって初めて、それが叶うようになったのみである。
結局、再婚した父は、祖父になど耐えられるはずもない継母と、私達三人の子供を連れて家を出、そこにはやはり、祖父の財産が欲しくて欲しくてたまらなかった父の長姉が三番目の夫と共に入った。彼女は祖父が寝たきりになってからその全財産を取り上げるために、自分の夫と祖父に養子縁組とやらをさせ、我々の姓を名乗り、私の父や三人いる妹たち(父にとっては姉)にはいくらかの現金を渡して強引に決着をつけたらしい。
寝たきりになった祖父はといえば、のちに、私の父と暮らしておけばよかった、と後悔していたとかいう話だが、その頃にはもう父の家すら出ていた私には、細かい事は知る由もない。私は、祖父が死んだと妹に聞かされても何も思わなかったし、むしろ「やっと死んだか」くらいに感じていた。
ただ、確かに、祖父がいなければ父も生まれて来ず、私も存在しなかったことも事実。しかし、自分の中にも流れているその血の異常さに今も私が怯え、子供を生む事すらためらわれてならない、というのもまた、間違いのない真実である。そして、同じ恐怖を妹も弟も抱え、「こんな血は残してはいけない」と、密かに決意しているということも。
ちなみに、父の姉にも異常者がおり、妹などは幼い頃に彼女に肩を抱かれ、「お前ら一家、皆殺しにしてやる」と脅された恐怖を、いまだ忘れられずにいるという。
と、ここまで書いて、私が書いていることをウソだと思われる方もいるだろうな~などと、考える。
ここまでカテゴリのルーツで書いてきたこと全部が、果たして一人の人間に起こりうることなのか。「本当?」と思う方もいることだろう。
しかし残念ながら、答えはイエス。つまりはここに書いたことすべてが真実で、家族というものは、一人がコケれば、総崩れになり、一人の異常者がすべてを壊すものだということ。そして私の話はまだこれだけに留まらないということも真実である。
しかし、私は自分を不幸だとは思わない。
無神論者のクセにこんなことを言うのもなんだが、「天はそれに耐えられる人間にのみ、試練を与える」そうだから、きっと私はそれに耐えられる人間だということだろう。
事実、私はずいぶんと前から自分の人生をむしろ面白がっており、それこそが私が強くなれる秘訣なのであるから。
そう。人間は転んでもタダで起きてはならない。
この先私がどんな運命を辿ろうとも、面白がって、何度でも立ち直ってやるつもりである。
そりゃあ、幸せになれれば、それに越した事はないけどね~。
と、言っても、実際に弾は当たらず、だからこそこうして無事、生きているわけだが、私と母に向けて発砲したのは実の祖父で、実際、祖父の家の柱には、私が中学生になっても、小さな鉛の弾がいくつも埋まっていたのを、私は今もはっきり記憶している。
それは私が生まれて間もない頃のことらしい。
たぶん、私が他所に貰われていったり、戻ってきたりする前の話だと思う。当時仕事をしていなかった(と思われる)父と、私を生んだばかりの母は、父の父親、つまり祖父の暮らす家で、一緒に生活していた。
私の祖父はアルコール依存症で、父もその姉達もひどい虐待を受けて育ったが、おそらく精神も病んでおり、それは今でいう統合失調症(分裂症)か何かで、それを理由としてか、若いうちから足を悪くしていたからか、戦争に召集されることもなかったようだ。
とにかく、私が物心ついた頃には、祖父はトイレに行く以外に自室を出ることもなかったし、お風呂など数ヶ月に一度入ればいいほう。朝から晩までずっと酒を飲み、一日中、それこそ昼となく夜となく、罵声にも似たひとり言を言い続けるのが常だった。
そんな祖父が、何ゆえ母と私を撃ったのか、その理由など、考えるまでもない。おそらく理由などないだろうし、その異常さゆえに逮捕されることもなく、その後も死ぬまであの家に根を下ろしたまま暮らせたのであろう。
ただ、なぜ、そんな頭のおかしいアル中患者が銃を所持出来ていたのかは、いまだにわからない。また、その銃の種類も、母や伯母は「空気銃だった」と言うのだが.....。果たして空気銃とやらで鉛の弾が撃てるものなのか、細かい知識がないので、それもわからない。
祖父は、自室から、フスマ越しに、つまりフスマの向こうに母親と赤ん坊がいることだけはわかっていて、何も見えない状態で発砲した。
幸い、母と私に弾は命中せず、数発が、先述した柱に深く食い込んだわけだが、もし私達親子に命中していたら命はなかったかもしれない。母は私を抱えたまま庭に飛び出し、すぐに警察が呼ばれたそうだが、伯母の話ではいきなり戸を開けた警官も胸に銃を突きつけられ、「すみませんっ!」と言って、慌てて戸を閉めた、ということである(笑)
無論、その後銃は警察に押収され、のちも私達親子が撃たれることはなかったが、銃がなくとも祖父は灯油をまいて家に火を点けたりと、色々したようである。
その頃の私はまだ赤ん坊だったから、その時の事を覚えていないし、また、すっかり成人となった今となっても、どうしてそんな事をする祖父が、いかに精神異常者であろうと身柄を拘束されなかったのか、病院へぶち込まれなかったのか理解できないでいる。
時代が今とは違ったといえばそれまでかもしれないが、果たしてそれが許されることなのか。
しかし、祖父の持つ家と土地が欲しかったらしい父は、そんな事があっても祖父の家に出たり入ったり(つまり引越し)を繰り返し、そのたび家庭がギクシャクし、ついには崩壊(他にもたくさん理由があるけど)。最終的に母が家を出て行った折には、祖父の食事を作る役目も、罵声の向かう矛先も私の役目となり、祖父がその、いつ果てるともしれないひとり言で言うように
「子供なんてうるさくて汚くて、邪魔なだけだ」
が、自分の価値なのだと思うようになった。
そんな中、祖父が毎日食べる刺身を買いに行き、食事の支度をし、一升瓶の酒を買いに行かされる日々は、ただひたすら惨めで暗く、時には誰かに甘えたくて甘えたくてたまらない気持ちになることもあったが、それも叶わず、叫び出したくなったこともたびたびである。
祖父のひとり言に耐えながら、暗い、木造の平屋で電気も点けず、学校帰りの空腹を満たすために砂糖をつけた食パンを齧り、一人うずくまる私。
その時の気持ちを私は一生忘れることはないだろう。
たださみしくて、さみしくて、誰かに抱きつきたくて......
でも、その時の私が誰かに抱きしめてもらえることはなく、男と付き合うようになって初めて、それが叶うようになったのみである。
結局、再婚した父は、祖父になど耐えられるはずもない継母と、私達三人の子供を連れて家を出、そこにはやはり、祖父の財産が欲しくて欲しくてたまらなかった父の長姉が三番目の夫と共に入った。彼女は祖父が寝たきりになってからその全財産を取り上げるために、自分の夫と祖父に養子縁組とやらをさせ、我々の姓を名乗り、私の父や三人いる妹たち(父にとっては姉)にはいくらかの現金を渡して強引に決着をつけたらしい。
寝たきりになった祖父はといえば、のちに、私の父と暮らしておけばよかった、と後悔していたとかいう話だが、その頃にはもう父の家すら出ていた私には、細かい事は知る由もない。私は、祖父が死んだと妹に聞かされても何も思わなかったし、むしろ「やっと死んだか」くらいに感じていた。
ただ、確かに、祖父がいなければ父も生まれて来ず、私も存在しなかったことも事実。しかし、自分の中にも流れているその血の異常さに今も私が怯え、子供を生む事すらためらわれてならない、というのもまた、間違いのない真実である。そして、同じ恐怖を妹も弟も抱え、「こんな血は残してはいけない」と、密かに決意しているということも。
ちなみに、父の姉にも異常者がおり、妹などは幼い頃に彼女に肩を抱かれ、「お前ら一家、皆殺しにしてやる」と脅された恐怖を、いまだ忘れられずにいるという。
と、ここまで書いて、私が書いていることをウソだと思われる方もいるだろうな~などと、考える。
ここまでカテゴリのルーツで書いてきたこと全部が、果たして一人の人間に起こりうることなのか。「本当?」と思う方もいることだろう。
しかし残念ながら、答えはイエス。つまりはここに書いたことすべてが真実で、家族というものは、一人がコケれば、総崩れになり、一人の異常者がすべてを壊すものだということ。そして私の話はまだこれだけに留まらないということも真実である。
しかし、私は自分を不幸だとは思わない。
無神論者のクセにこんなことを言うのもなんだが、「天はそれに耐えられる人間にのみ、試練を与える」そうだから、きっと私はそれに耐えられる人間だということだろう。
事実、私はずいぶんと前から自分の人生をむしろ面白がっており、それこそが私が強くなれる秘訣なのであるから。
そう。人間は転んでもタダで起きてはならない。
この先私がどんな運命を辿ろうとも、面白がって、何度でも立ち直ってやるつもりである。
そりゃあ、幸せになれれば、それに越した事はないけどね~。