猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

発砲は犯罪ですよ~

2005年09月27日 19時54分39秒 | ルーツ
ここ数日、世間では無差別発砲事件のニュースが大きく取り上げられているが、実は私も乳飲み子の頃、撃たれたことがある。
と、言っても、実際に弾は当たらず、だからこそこうして無事、生きているわけだが、私と母に向けて発砲したのは実の祖父で、実際、祖父の家の柱には、私が中学生になっても、小さな鉛の弾がいくつも埋まっていたのを、私は今もはっきり記憶している。

それは私が生まれて間もない頃のことらしい。
たぶん、私が他所に貰われていったり、戻ってきたりする前の話だと思う。当時仕事をしていなかった(と思われる)父と、私を生んだばかりの母は、父の父親、つまり祖父の暮らす家で、一緒に生活していた。
私の祖父はアルコール依存症で、父もその姉達もひどい虐待を受けて育ったが、おそらく精神も病んでおり、それは今でいう統合失調症(分裂症)か何かで、それを理由としてか、若いうちから足を悪くしていたからか、戦争に召集されることもなかったようだ。
とにかく、私が物心ついた頃には、祖父はトイレに行く以外に自室を出ることもなかったし、お風呂など数ヶ月に一度入ればいいほう。朝から晩までずっと酒を飲み、一日中、それこそ昼となく夜となく、罵声にも似たひとり言を言い続けるのが常だった。
そんな祖父が、何ゆえ母と私を撃ったのか、その理由など、考えるまでもない。おそらく理由などないだろうし、その異常さゆえに逮捕されることもなく、その後も死ぬまであの家に根を下ろしたまま暮らせたのであろう。
ただ、なぜ、そんな頭のおかしいアル中患者が銃を所持出来ていたのかは、いまだにわからない。また、その銃の種類も、母や伯母は「空気銃だった」と言うのだが.....。果たして空気銃とやらで鉛の弾が撃てるものなのか、細かい知識がないので、それもわからない。

祖父は、自室から、フスマ越しに、つまりフスマの向こうに母親と赤ん坊がいることだけはわかっていて、何も見えない状態で発砲した。
幸い、母と私に弾は命中せず、数発が、先述した柱に深く食い込んだわけだが、もし私達親子に命中していたら命はなかったかもしれない。母は私を抱えたまま庭に飛び出し、すぐに警察が呼ばれたそうだが、伯母の話ではいきなり戸を開けた警官も胸に銃を突きつけられ、「すみませんっ!」と言って、慌てて戸を閉めた、ということである(笑)
無論、その後銃は警察に押収され、のちも私達親子が撃たれることはなかったが、銃がなくとも祖父は灯油をまいて家に火を点けたりと、色々したようである。
その頃の私はまだ赤ん坊だったから、その時の事を覚えていないし、また、すっかり成人となった今となっても、どうしてそんな事をする祖父が、いかに精神異常者であろうと身柄を拘束されなかったのか、病院へぶち込まれなかったのか理解できないでいる。
時代が今とは違ったといえばそれまでかもしれないが、果たしてそれが許されることなのか。

しかし、祖父の持つ家と土地が欲しかったらしい父は、そんな事があっても祖父の家に出たり入ったり(つまり引越し)を繰り返し、そのたび家庭がギクシャクし、ついには崩壊(他にもたくさん理由があるけど)。最終的に母が家を出て行った折には、祖父の食事を作る役目も、罵声の向かう矛先も私の役目となり、祖父がその、いつ果てるともしれないひとり言で言うように
「子供なんてうるさくて汚くて、邪魔なだけだ」
が、自分の価値なのだと思うようになった。
そんな中、祖父が毎日食べる刺身を買いに行き、食事の支度をし、一升瓶の酒を買いに行かされる日々は、ただひたすら惨めで暗く、時には誰かに甘えたくて甘えたくてたまらない気持ちになることもあったが、それも叶わず、叫び出したくなったこともたびたびである。
祖父のひとり言に耐えながら、暗い、木造の平屋で電気も点けず、学校帰りの空腹を満たすために砂糖をつけた食パンを齧り、一人うずくまる私。
その時の気持ちを私は一生忘れることはないだろう。
たださみしくて、さみしくて、誰かに抱きつきたくて......
でも、その時の私が誰かに抱きしめてもらえることはなく、男と付き合うようになって初めて、それが叶うようになったのみである。

結局、再婚した父は、祖父になど耐えられるはずもない継母と、私達三人の子供を連れて家を出、そこにはやはり、祖父の財産が欲しくて欲しくてたまらなかった父の長姉が三番目の夫と共に入った。彼女は祖父が寝たきりになってからその全財産を取り上げるために、自分の夫と祖父に養子縁組とやらをさせ、我々の姓を名乗り、私の父や三人いる妹たち(父にとっては姉)にはいくらかの現金を渡して強引に決着をつけたらしい。
寝たきりになった祖父はといえば、のちに、私の父と暮らしておけばよかった、と後悔していたとかいう話だが、その頃にはもう父の家すら出ていた私には、細かい事は知る由もない。私は、祖父が死んだと妹に聞かされても何も思わなかったし、むしろ「やっと死んだか」くらいに感じていた。
ただ、確かに、祖父がいなければ父も生まれて来ず、私も存在しなかったことも事実。しかし、自分の中にも流れているその血の異常さに今も私が怯え、子供を生む事すらためらわれてならない、というのもまた、間違いのない真実である。そして、同じ恐怖を妹も弟も抱え、「こんな血は残してはいけない」と、密かに決意しているということも。
ちなみに、父の姉にも異常者がおり、妹などは幼い頃に彼女に肩を抱かれ、「お前ら一家、皆殺しにしてやる」と脅された恐怖を、いまだ忘れられずにいるという。

と、ここまで書いて、私が書いていることをウソだと思われる方もいるだろうな~などと、考える。
ここまでカテゴリのルーツで書いてきたこと全部が、果たして一人の人間に起こりうることなのか。「本当?」と思う方もいることだろう。
しかし残念ながら、答えはイエス。つまりはここに書いたことすべてが真実で、家族というものは、一人がコケれば、総崩れになり、一人の異常者がすべてを壊すものだということ。そして私の話はまだこれだけに留まらないということも真実である。

しかし、私は自分を不幸だとは思わない。
無神論者のクセにこんなことを言うのもなんだが、「天はそれに耐えられる人間にのみ、試練を与える」そうだから、きっと私はそれに耐えられる人間だということだろう。
事実、私はずいぶんと前から自分の人生をむしろ面白がっており、それこそが私が強くなれる秘訣なのであるから。

そう。人間は転んでもタダで起きてはならない。
この先私がどんな運命を辿ろうとも、面白がって、何度でも立ち直ってやるつもりである。
そりゃあ、幸せになれれば、それに越した事はないけどね~。
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目から鱗のきゅうりレシピ

2005年09月27日 18時35分52秒 | 今日のお弁当
我が家の冷蔵庫は、週明け、お腹一杯に中身が詰まってる。
私の買い物方法は、日曜にゴンザとスーパーへ行き、一週間分の野菜や肉、魚を購入し、保存する、というやり方だから、月曜の冷蔵庫・冷凍庫は開けるたびに目が楽しく、「さ~て、何を使って何を作ろう?」と、バリエーションも拡がる感じなのであるが、一方、週末の冷蔵庫ときたらその反対で、「ええと、これとこれが残ってるから、さて、これをどう活用すべきか.....」と、まあ、ある意味楽しいと言えば楽しい、光景としては寂しい絵づらで......(笑)

で、今日のお弁当。

<サーモンのバターきのこソテー><きゅうりと水菜のじゃこ炒め><アボカドとトマトのサラダ> です。

サーモンは
*バターをひいたフライパンに、サーモン、エリンギ、えのきを入れ、塩コショウ。フタをして片面をじっくり焼く。軽く焦げ目がついたらすべて裏返し、火を通す。レモンを副え、好みで醤油を回しかける。
じゃこ炒めは
*きゅうりは斜めスライスから細切りにし、水菜は5センチ程度に切っておく。しょうがと大葉をそれぞれ千切りに。フライパンにゴマ油をひき、しょうがの香りが出るまで炒めたら、じゃこを加え、軽くロースト、水菜ときゅうりを加えて炒め、塩で味を調える。仕上げに大葉、すりゴマを振って、軽く混ぜ、火を止める。
サラダは
*アボカドは1センチ角、プチトマトは1/4に切っておく。アボカドにレモン汁をかけ、色止めをしたら、そこにトマト、塩、コショウ、マヨネーズ、パセリのみじん切りを加え、混ぜ合わせる。

何かの本で読んだところ、きゅうりは体を冷やす食材、だということだが、しょうがと合わせて使えば、体も冷やさず栄養が摂れるとか。炒めれば吸収も良くなるし、おかずにもなるしで、いいことずくめ!?
トマトは大きなものよりも、プチトマトのほうが味が濃く、私のお気に入り。ミネストローネなんかもプチトマトで作れば、ギュッと濃厚な味になるし、色も綺麗に仕上がるし。そういえばいつだか、「トマト料理の仕上がりの色を良くするにはアクをとってはいけない」と、どこかのシェフがTVで言ってたけど.....
ホントかな?
コメント (2)
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お金は大事だけどね Ⅱ   - 依存 -

2005年09月27日 01時11分46秒 | ルーツ
私が父の家を出て母の元に来た時、母には付き合っている恋人がいた。
当時の彼女はまだ30代半ば。若さも華やかさもあったからそれは当然のことで、すでに高校生になっていた私も、そんな事は始めから予測していた。
いや、私が彼の存在に薄々ではあるが気付いていたのは母が出てゆく前で、その後、数度母と会うたびにそれを確信していった、と言ったほうが良いかもしれない。
それでも、私にとっては母が幸せであればそれで良かったし、家を出て、突然母の元にやって来た私を、その「母の恋人」が大変可愛がってくれたこともあり、私の、いや、私と母の新しい生活のスタートは、とてもうまくいっているように思えた。
そう。私は知らなかったのだ。
母の恋人が実は妻帯者で、しかも世でいう「ヒモ」だということを。
少なくとも数ヶ月間は.....知らなかった。

ただ、「ヒモ」と言っても、暴力を振るうわけではない。
ひたすら母にマメに尽くし、その見返りに金を貰う、そんなやりかただった。
彼はひたすら細かなことによく気がつき、女性のニーズに敏感だったから、女性にもよくモテた。
母はといえば、元々が不倫なのだから嫉妬も何もあったものではないと思うのだが、彼の浮気が判明するたびに逆上し、泣き、私に自分の辛さを訴えた。
私はといえば、周囲の同年代の子たちから比べれば世の中の良くない部分をたくさん知っていたとはいえ、所詮子供だったから、自分を異常なまでに可愛がってはくれるものの、母を泣かせる彼の事が許せず、彼に対し、次第に憎しみを強くしていった。
なぜなら、もうひとつの事実に気付いていなかったから。
私はほんの子供だったから。

母が、「彼の浮気の証拠さえ握れれば、私はきっぱり彼と別れるつもりだ」と言ったとき、私は本気でそれを信じ、まだ十代の子供とは思えないやり方で色々な事実を調べあげた。
そうすれば、母が不実な男の呪縛から逃れ、彼に流れてゆく大金を彼女自身のために使ってくれると信じたから.....。
しかし、実際に現実を、事実を目の前にした母は、怒り、泣き、叫び、最終的には
「あなたはこれだけ尽くした私を捨てるのだ。あなたが私に今まで言ったことはウソだったのか」と言って、彼にしがみついた。

母と彼の「関係」を私が理解するには、そこからさらに数年の歳月が必要だった。
そこまでには.....同じような繰り返しが、さらに数度必要だったから。

そして。
私は悟った。
お金を貢ぐということは、貢ぐほうも相手に依存しているのだ、ということを。

数年の時を経て、幾度もの修羅場に立ち会ってわかったことは、金を渡すほうも、「金で何でも出来る」と思っている、ということだ。
金で誰かの心を買い、時間を買い、行動を制限する。自分の我がままを押し通す。そして買われるほうは、どんなに相手に見下されようと、そんなことには構わずに、ただひたすら、遊ぶために、いい服を着るために、外で見栄を張るために、軽やかに、狡猾に立ち回る。
私はいつしか、そこにちゃんと利害関係が成立している事を悟り、母のことを諦めた。

その結果。
母は人の心を理解しようとしなくなり、何事にも無頓着になり、努力もせず、少しの距離を歩くことすら嫌がるようになった。何をしてもつまらなそうに暮らし、ギャンブルと愚痴、睡眠薬の常用、それによる体調不良が日常で、家族の心でさえ、平気で踏みにじる言動を繰り返した。
そして.....結局はいつしか、その「ヒモ」とも別れ、彼女が彼に依存している時間に失ったものたちだけが、確かに、彼女のしてきた事の結果を物語っている。
金で自分のいう事を聞く男と過ごす「快適」な時間に馴れたために、人との正常な関係も築けず友もなく.....。
わが子への愛情まで、金がないと表現できないと思ってしまっている。

そんな母に、私、妹、弟は、いまだに根気よく、
「人は変わらなければいけない、何事も遅いということはない。誰かに愛情を伝えたいなら、お金で表現するのではなく、自分自身が毎日をきちんと、楽しんで生きれるように努力する事だ。それで充分、私達には愛情が伝わるのだ」
と、言い聞かせているのだが.......。

果たしてこれから彼女が変わっていってくれるかどうかはわからない。
なぜなら彼女はいつも何かに依存しているし、その中のひとつ、ギャンブルは不治の病であるからだ。この、ギャンブルについてはまたいつか改めて書こうと思っているが、私には理解不能な重篤な病であるようだ。

ちなみに、私が今まで目にしてきたお金持ちたちも金に「依存」している人が多かった。そして、一様につまらなそうだった。それもまた、機会があれば書こうと思うが......。

お金は大事だけどね。
金に使われるようになってしまったら人間つまらない。
何より、心の豊かさは、決してお金では買えないのだから。
コメント (4)
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