猫猿日記    + ちゃあこの隣人 +

美味しいもの、きれいなもの、面白いものが大好きなバカ夫婦と、
猿みたいな猫・ちゃあこの日常を綴った日記です

授業は続く。

2015年06月25日 18時48分25秒 | ルーツ

 

写真はフランス、シャルルドゴール空港の空。

 

今の時代なら大問題になるのだろうが、
私が中学生の頃、国語を担当してくれた先生は、
とても風変わりな面白い人で、
教科書や黒板など、ほとんど使わない授業をよくしたものだった。

それは、たとえばカセットデッキを持ち込んで、
中島みゆきの音楽を一時限聞かせる、とか、
ただひたすら、小松左京の小説を読んで聞かせるとか。

さらに『じゃリン子チエ』の単行本を持ち込んで、
生徒に読ませるなんてこともあった。

くしゃくしゃの髪に無造作に載せた野球帽。

あからさまに気に入った生徒は贔屓し、
それを公言して憚らなかった。

「俺が嫌いなのは根性がイヤらしい子供」
「だからそういう子供には何もしたくない」
...と。

反面、彼が気にかけたのは、家庭環境に恵まれない子供で、
特にそれでも一生懸命頑張っている子には、公然とエールを送った。

私はお世辞にも『頑張っている』とはいえない生徒ではあったが、
やはり家庭環境から、彼にとっては不憫に感じられたのか、
「キミは面白い人だよね」と、何かと目をかけてくれ、
時には食事に連れて行ってくれたこともあった。

その傍若無人さから、噂も絶えない人で。

『実は経歴から校長も逆らえない』とか、
『独身と言ってはいるけど、実は隠し妻と子がいる』とか、
いろんなことが生徒たちのあいだで言われていた。

けれど、彼の名誉のために言っておくならば、
『贔屓はする』とはいっても、
たとえば真夏の教室で、生徒にアイスを振る舞う時には、
(もちろん彼のポケットマネー。もちろん授業中)
必ず全員にそれを与え、自由に楽しませたし、
結局は各生徒の記憶と心に、
他のどの授業にもないような、
大きなものを残したと思う。

彼が好きなものはきっと人生の真理で、
だからそれを伝えたかったのだと。

その後、中島みゆきは多感な時期だった私の大好きなアーティストとなり。

『じゃリン子チエ』も長きに渡る愛読書となった。

『じゃリン子チエ』の中では、
ネコやヤクザやチンピラや無職が人生の真理を語り、
自意識過剰で愚かでひ弱な人間の目を、
少しだけ覚ませてくれる。

「お前の理想は歩く文学全集やからな」

そう、鬱になった仲間のネコを皮肉るネコのセリフを理解しようとすることは、
まだ若い学生には、大きな意味があったと思う。

あの先生が今も元気か、それはわからないけれど。

たとえば定年ではないにしても、
こんな窮屈な世の中では、
教師は続けていないだろう。

...国語は今も、私の大好きな教科だけれど。

授業は今も続いている。




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私的久々大ヒット 『MAD MAX 怒りのデス・ロード』

2015年06月24日 17時09分28秒 | 映画

 

『MAD MAX  怒りのデス・ロード』

最高にかっこいい!

変なサブタイトルはいかがなものかと思うが、もう大興奮だったよ。

バカバカしいほどかっこええ。

内容なんてどうでもいいんだよ。

かっこよけりゃあさ!って爽快!

(ま、油と水を巡って争ってんのは現実世界も一緒だから、深いっちゃ深いわな)

ババァがかっけぇ!

ギターもかっけぇ!

何もかもが突き抜けてる世界だよ。

ヒャッハー!!

「かっけ~♪」って、笑いながら見るのが正解。

もちろん映画館でね!

 

 

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聖なる要塞。

2015年06月22日 06時46分24秒 | イタリア見聞録。

 

巨大で圧倒的な、ミラノのドゥオモ。



宗教や寺院の持つ意味というのは。

今と昔ではずいぶん、違うのではないかと思う。

病や死や、飢えが身近にあった、時代。

そこは、まさしく別世界で、
だから究極の美しさや、威厳や、荘厳さが、
すべてを跳ね除けてくれるような、
忘れさせてくれるような、機能が必要だったのだろう。

 

美しい光が射し込む。



絢爛なステンドグラスや彫刻や鐘の音が、
浮世を遮るように。

たとえばそこに渦巻くものが、
実は権謀術数や、欲にまみれたものだとしても。

『祈り』が集める金と力は結局圧倒的なのだと、
美しく巨大な教会を見ると思う。

人は、本当に面白い生き物で、
生きるのに必死なら、
本来、目の前に降りかかる出来事に対処するだけで精一杯だと思うのに、
実際はそうなればそうなるほど、
確約されない、祈りの力に縋ろうとする。

 

たとえ外界が暗くとも、隠したいものが何であっても。

 


つまり、救いの道が、
医療や、安定供給される食や、『泰平の世』ではない時代。

美しい教会は、まさにその道を示すものとなっただろう。

膝まづき、見上げたくなるほど、巨大に、巨大に。

迫りくる、圧倒的な、飲み込まれる美しさ。

閉じ込められたら、答えが見出せるだろうか?

それともやはり、
「それでも浮世は捨てられぬ」か?

 

 美しく、ある意味何者にも侵されない場所が、誰しも欲しいもの。

 

誰もを受け入れて、
けれど結局、別世界である教会の持つ意味を。

しかし現代人が、本当の意味で理解することは、
不可能であるように思う。

今や、祈りより、懺悔より、
デジカメの音が響き渡る聖堂で。

...いや。

旅先で、『日常を忘れ、憩う』という意味では、
それも現代の『祈り』だろうか。

互いに神は違えども、
つまりは結局、
同じ光を求めるからには。


 

どれだけの労力と月日と金が、費やされたのだろう。
今ではもうきっと、不可能なこと。
技術や費用という意味ではなくてね。
 


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クマ、水の都へ。

2015年06月19日 21時39分09秒 | 携帯から

 

クマ。

 

水の都、ヴェネツィアへ。

美しい、迷路の街。

 

 

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フランチャコルタへ。

2015年06月17日 07時20分29秒 | 携帯から

 

一面のぶどう畑は。

 

ワインを扱っている者なら一度は来たい...

 

カーデルボスコ、フランチャコルタ。

 

収穫の話から、製造過程、設備のこだわりまで。

本当に勉強になりました!

お土産話もいっぱい!

 

 

 

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