秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

京都南座北座その2.

2008年03月01日 08時40分38秒 | Weblog
19日に北座跡のお話をしたけど、もう少し調べてみようとこの本を手にとってみました。
京都南座物語 毎日新聞社 宮辻政夫氏著   

元和年間に七つの櫓(やぐら。元は武器の矢を収める蔵で、神が君臨する場所)を
許された芝居小屋が、刃傷事件で一旦閉鎖され、再び六つの櫓として再生されて
から幕末までの歴史が(おもに歌舞伎役者を中心に)書かれています。

詳しくはここでは紹介しませんが、私が一番興味を覚えたのは坂田藤十郎一座と
山下半左衛門一座の興行勝負。
あるときは隣同士、またある時は向かい合わせの劇場で繰り広げられました。


半左衛門方に江戸の人気役者、初代中村七三郎が招かれたことから始まる元禄の
歌舞伎界を二分する名勝負です。

当事は上演期間は最初から決まっておらず、当たらない芝居はすぐに降ろして、
新たに次の芝居をかけたそうです。

だから、向かい、もしくは隣で大当たりをとられると、すぐに次の出し物の筋書き
や演出を考えなければいけません。

最初は藤十郎一座が圧勝。勝利の一因は水木辰之助の「七化け」。水木辰之助という
女方(この頃は形とは書かなかったようです)は、当事凄い人気だったそうです。
舞妓の「だらりの帯」は水木結び、といわれ辰之助が始めた、と言われますし、
彼(かの女?)が考え出した「水木帽子」も大流行。

かたや半左衛門一座にも初代芳沢あやめ、という名女方もいたのですが、まずは
藤十郎一座に軍配があがったわけです。

そのまま勝負がついて七三郎は江戸へスゴスゴ帰ったか、というとそうでない。

今度は、趣向を凝らした「傾城浅間蔵」で半左衛門が大逆転。

そのとき藤十郎一座側の劇作者だった近松門左衛門の焦りが、ヒシヒシと感じられ
ます。どうにか「けいせい仏の原」で起死回生した藤十郎は袋屋町に豪邸を建てたとか。

役者の人気だけでは生き残ることが出来なかった当時の歌舞伎界。想像の範囲を
越えてます。

まだまだ面白い話が収録されているので、興味のある方は一読をお奨めします。

これは本と関係ありませんが、前回北座跡の石碑を一緒に出雲阿国の像もUPしまし
たが、実際は阿国が踊っていたのは五条河原だったという話もあります。

ではナゼに四条大橋にあるかというと、阿国のあと、四条河原で「女歌舞伎」が
催され、数万人の観衆が押し寄せた、という古事と、芝居小屋が軒を並べていた
ことから、四条に建てられたのかも知れませんね。