秀明記(syuumeiki)

着物デザイナーが日々感じたこと、
全国旅(催事)で出会った人たちとのエピソードなど・・・
つれずれなるままに。

酒呑童子その2.

2008年03月09日 09時30分19秒 | 京都非観光迷所案内
酒呑童子のお話の前にすこし鬼について。

昔話に出てくる鬼、ではなくて「朝廷にまつろわぬ人々」を鬼として追放、または
処刑していたんですね、かつては。

京に都ができる遥か以前から当然人々はこの地に暮らしていたわけですし、力を
持った豪族もいたはずです。鴨一族のように迎合した一族もあったけど、
すべてがそうではなかったはず。

彼らは都を追われ、その子孫はあるいは盗賊となり、時折都に降りてきては、町々を
襲うこともあったのかも知れませんね。

一説では、大江山の酒呑皇子は比良山を所領としていたが、最澄が比叡に根本中堂
を建てたため、比良を追われ大江に住み着いた、ともいわれています。

また、「丹後風土残欠」によると、若狭富士山中に二人の首領をいだく「土蜘蛛」
がいて、その一人を日子坐王(ひこますおう)が討ち、逃れたもう一人が大江山
に逃げ込み、のちの頼光の鬼退治になったともいわれているそうです。
(参考文献 京都聖地案内 小松和彦著)

ようするに、妖怪変化ではなく、おそらく実在した一族、もしくは人物だったんで
しょう。

貝原益軒は頼光の酒呑童子の鬼退治は中国の「補江総白猿伝」が下敷きになっている
、と指摘しています。確かに酒を飲まして酔いつぶれた鬼を討つ、って日本人好みの
話ではありませんよね。

何となく頼光よりも、酒呑皇子に気持ちを寄せてしまうのは、やはり「まつろわぬ」
人たちに対する同情心が都人のどこかにあったのかも知れません。

旅の人(山伏)を親切にもてなしたうえに宴会まで催して、酔いつぶれたところで
首を討たれたんじゃ、あんまりですよね~。

そのせいか、首を都に持ち帰ろうとした頼光さん、ここまで来たら首が急に重く
なって動けなくなったそうな。で、この地に埋蔵したとか。
  
↑車はこの先、行き止り。右の鳥居を潜って木の根が露出している小道を登ります。

  
祠の横の大木。落雷の跡がみられます。普通の木だと真っ二つに裂けていたのに、
しっかり生き残っているのは酒呑皇子の威光か怨念力か・・・・。

  
途中の道も荒れております。足利尊氏や明智光秀が京を目指した道中、この酒呑童子
がその心中を、塚の中からじぃっと窺っていたとしたら・・・・。

酒呑皇子の首は宇治の平等院に奉納した、という話もあります。この平等院、いつか
取り上げたいと思うのは、殺生石から抜け出した九尾の狐の遺骸も納められた、
という話も残っているんですよね。
いったいどんな役割をはたしていたんだ、平等院って・・・。

次回は「伊藤若冲」のお話です。