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パン

2019-09-20 15:34:41 | 日記
高校生の頃、小遣いが不足して来ると叔父の奥さんのK子さんに昼食の弁当を頼んだ。K子さんが作ってくれるのは、いつもホットドッグだった。細長いパンに切り目を入れ、そこにフランクフルトソーセージを挟んだものである。少々の練り辛子が塗ってあるのが旨かった。思い返してみると、それ以後、ホットドッグを食べた記憶がほとんどない。ウチの子供たちが高校生の頃、家人との間で、買いパンという言葉があった。家人が朝寝坊などをして弁当を作る時間がないときは、学校の近くのパン屋で昼食用のものを買う。それが買いパンだった。しかし、そういった時でもホットドッグの名は聞こえなかった。

夏の間は娘がパンを焼くことはない。素人には夏はむずかしいのだろうか。その代わり、家人が旨い葡萄パンをみつけてくれた。私は毎朝ココア入り豆乳と野菜スープ、バナナ半分とパンを食べる。そのパンがレーズン入りであるのが、いちばん望ましい。それをトーストせずにバターを塗っただけでなのがいい。家人や娘の、レーズンパンをトースターに入れるという味覚が、どうにも理解できない。

20歳からの40年間、菓子を食べなかったと何度か書いたが、パンもそうだった。例外として、朝の出勤前に、食事をとるヒマがなく、何かの飲み物とパンを半切れぐらい口にすることはあったかと思うが、とにかくパンには興味がなかった。それが70歳を過ぎる頃から変わって来た。朝食は米飯よりパンの方が好きになった。軽いというか、胃袋がラクなのだ。家人は白いパンにジャムをのせるのが好きなようだが、私は前記のレーズン入りがいい。ついでに言うと、それが旨いのは、OKストアという店で売っている品だ。ぶどうの入り方が豊かなのがいい。だが、その店は近所にはない。かなり遠くまで行かなければならないようだ。

相撲

2019-09-18 13:08:52 | 日記
芦屋の小学校には校庭の隅に土俵があった。少年の体力向上、という掛け声もあったが、体操の時間はよく相撲になった。半ズボンのうえから子供用のマワシというか、厚手の布の帯のようなものを巻いた。ブルという呼び名の級友がいた。彼のことは以前に書いたが、小児麻痺を患ったために、いつも身体が小さく震えていた。ブルは相撲に参加するが、もちろん勝つことは出来ない。力が出ない。そして、誰もがブルと対戦するときは、ゆっくりと両マワシをとって、静かに寄り切るようにしていた。それが身体不自由な仲間に対する思いやりであり、礼儀のようなものだった。そして、ブルは、負けても嬉しそうだった。私の得意技は吊り出しだった。小学生時代の私は長身ではなかったが、相手と4つに組むと、どうしても吊り出そうとする動作になった。子供の相撲というのは、おとなの教えを受けて形を身につけているような場合を除けば、必ず、互いのマワシを取って組み合いになる。あとは寄り切るか、寄り倒すか、偶然に脚がかかるかといったような勝負になる。吊りというのは、自分が仕掛けると、相手も負けまいと吊り返しの形になることが多く、つまりは、力比べになる。だから勝った時はいい気分になる。俺の方が力が強かったと満足する。

今は小学校で土俵があるのは珍しいだろう。小・中学生でプロの力士を目指す子は、土俵のある相撲教室のようなところへ行くのか。高校になると、埼玉栄とか明徳義塾、鳥取城北といった強い相撲部があるようだが、大相撲のテレビ中継を観ながら、たとえば、モンゴル出身の横綱たちの小学生時代はどうだったのかという説明をちょっとしてもらいたいなぁと思うことがある。また、いま人気の貴景勝は、芦屋市の出身だそうだから、もしかして、子供の頃私と同じ小学校のあの土俵で・・・なんて思ったりする。

9月15日

2019-09-15 21:27:02 | 日記
大相撲は横綱・鶴竜が今日から休場で、横綱不在の場所となる。これで本命は御嶽海になるのか。家人が贔屓にしている遠藤も2敗をキープしているが、昨日の負けが痛い。私が好きなのは北勝富士で、負けた時に腰を直角に折って土俵に礼をする姿がいかにも潔い。現在の立田川親方の豊真将がそうだった。

臀部の肌が擦り切れて痛む。それがもう10日間に及ぶ。汚い話だが、10日間風呂に入っていない。家人に体を拭いてもらうだけだ。金曜日に治療に来てくれた重田名人から円座を使ったらどうかと教えられ、娘がネットで探して、昨日の昼には配達されて来た。便利というか、凄いスピードの世の中だと感心した。そして、それを使用すると椅子に座るのがラクになった。ありがたい。

テレビのニュースを観る度に気の毒だと思うのが、千葉県に広がる停電だ。私も伊勢湾台風の恐怖を知っているが、停電、断水はなかった。全国で5千人の死者が出たが、我が家の被害は、それを考えれば大きくはなかった。当時(昭和33年)は、ボランティアという言葉はなかったが、近所の人たちが、いろいろと助けてくださった。食べ物のついでに酒を持って来てくださる方がいて、片付け仕事の後が酒盛りになった。いや、話が逸れた。千葉の方々のことである。山中に建つ巨大な電柱が倒れているのを見るだけでも、その瞬間の突風がいかに凄かったかがわかる。復旧と言っても、山の木の伐採から始めなくてはならないのだ。そして、電気の無い生活の辛苦は想像に余りある。

明日は久々にボンちゃんが遊びに来る。1週間後の23日で満1歳になる。今朝の血圧は143-79。

評判

2019-09-15 10:44:21 | 日記
最高の宣伝はクチコミだと思っていて、それについて少し書いたことがある。特に商店、酒場、宿などがそうだと思う。もちろん人の好みは千差万別だから、すべてがそうだということではないが、大方の人気の集まるところ、つまり評判の好さは大きなポイントになる。

若い頃というか、学生時代あたりまでの評判は、あまりアテにならない。あの喫茶店には好い娘が多くてコーヒーも旨いなんていうのは信用できない。第一に学生にコーヒーの味がわかるというのが怪しいし、第二に、いい娘がいるというのもウェイトレスの1人がちょっとだけ愛想が好かっただけたったりするのである。しかし、サラリーマンになって、少しは呑める人間になって来ると、評判の確率が高くなる。つまり、酒飲みの先輩が推奨する酒場はたいていがアタリになる。いわゆる評判通りであることが多い。

病院も評判の差が大きい。ドクターが威張っている。看護婦がバタバタしている。人員が少ないので多忙なのだとわかる。病院はこの2つだけでもダメだ。やがて患者たちの口から口へ、あそこは感じが悪いと伝わり、新しい患者は来ないし、以前からの患者の足も遠のく。閑古鳥が啼くという状態になる。私も病人歴が長いので、それがよくわかる。

佐渡は好い所だな、人情が好いと何人かの男女から聞いたことがある。旅行先でその地の人情を感じる。それが数人に共通するというわけだから確かなのだろう。佐渡の宿に泊まる。女将や仲居さんの接待をうける。タクシーに乗る。土産物店に寄るというように、かなりの地元民に接するわけだが、その人達の情け(温かさ)を感じるのだから、いい旅になるのは当然だ。私は2人の佐渡娘を知っている。2人とも、昔の会社の同僚で、社内結婚していて、今も時々電話で話したりする。2人そろってよく仕事のできるOLだった。性格も明朗であり感じも好い。佐渡へ旅した人がその地の人情を褒めるのがよくわかる。

グレー

2019-09-14 18:27:51 | 日記
ねずみ色という言い方がなくなった。グレーに変わった。明るいねずみ色を、うすねず なんて言ったりしていたが、これはライトグレーと呼ぶのだろう。濃い方は灰色だったから、ダークグレーになるのだろうか。灰色は、ねずみと違って死語にはなっていない。汚職事件などのときに、灰色高官の文字が出て来る。

我が家は昭和14年の春に東京・目黒から兵庫県武庫郡精道村に転居した。翌15年が紀元2千6百年である。精道村が芦屋市になった。私は4歳だった。それまでの自由が無くなった。軍隊スタイルを嫌う祖母が、私の丸刈り頭を許さなくなった。髪は坊ちゃん刈りである。写真が残っている。カラーフィルムではないが、そのときの色をボンヤリとおぼえている。背広の上衣は、うすねず である。ライトグレーである。細いネクタイと半ズボンは紺色だった。つまり、祖母は私のルックスを芦屋のボンボンに仕立てあげたのだった。

サラリーマンの頃はチャコールグレーを多く着ていた。いちばんのヒットがダブルの背広で、婚葬に重宝した。葬儀に行くと周囲は全員が黒である。ネクタイも黒だ。従ってチャコールグレーの背広にチャコールグレーのネクタイは目立つ。目立つのが好いわけではないが、他人の印象に残る。それが会社の仕事面で役に立ったことが2,3度ある。この代用礼服は今も何度に眠っている。私がお迎えのクルマに乗るときは、家人がそれを私の身体に掛けてくれるだろうか。