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呑める

2019-03-09 12:13:16 | 日記
埼玉に住む友人のM君と久しぶりに電話で話した。M君はサラリーマン時代の同僚だから、50年以上の付き合いになる。齢は私より7つ下だが、それでも76歳ということになる。「まだ仕事しているのか?」「やってますよ、週に6日、1日3時間のこともあれば、1時間半のこともありますよ」。彼の仕事というのはコンクリートの検査であって、その内容は私にはわからない。「いい金になるの?」と訊くと、「890円から980円になった」と言う。時給のことである。金額から想像してコンクリ検査は公の仕事であるのだろう。1日2時間働いたとして、月に5万円。家でボンヤリしているよりずっといい。仕事の場所へは自転車で行くそうで、これも健康に役立つであろう。

「呑めるんだろう?」と訊く。これがいちばん大事な質問である。M君は20年ほど前に癌の手術をしていて胃袋が無い。そのあとに何度か昔の仲間達とのパーティーで会ったり、鎌倉まで来てくれたこともあって、呑めることは知っていたが、とにかく、癌のその後が気になる。呑めるときいて、ほっとする。「女房に文句を言われないように、酒は自分で買うんです」なんて言う。これは私も同じである。何かの用意に、サントリー角の大瓶を家人が買い置きしてくれているが、夜ごとの水割り用のスコッチは自費で買う。私は労働収入はないが、そのぐらいはなんとかなる。

M君に限らず、昔の友人と話すときは、必ず酒の話をする。「今も呑んでるか?」るか?が雑談の入り口になる。リハビリを担当してくれたC子さんも呑む人だった。重田名人も酒好きである。明日はデイケアサロンへ行く。サロンのリーダーであるIさんも50を過ぎた女性であって、話がその方向に行くと、「お酒って美味しいですね」なんて言う。呑める人が呑めなくなるとヤバい。呑める人が呑んでいるうちは平和である。平和は何よりも大事である。

老人の嫉妬

2019-03-09 12:02:42 | 日記
以前にも書いたが、私は4,50歳代の頃、複数の同人誌会に参加していて、そこで老人の嫉妬というものをたくさん見て来た。たとえば、私がA子さんの作品を褒める。作品の合評のページで褒める。私は彼女の作品が好みだったから、それが2度、3度と続く。そうすると何人かの老男老女がひがむ。己の作品には何のコメントも出ない。それは文章がおもしろくないからなのに、それには気づかない。他人が他人の作品に讃辞を送るのが気になってしまう。60,70代の先輩が中学生の女の子のように(いや、それ以上に)ヤキモチに熱心になるのはなぜなのか。私が思ったのが、他にやることがないからということだった。他にやることがないから、嫉妬心が湧くのではないかと思ったりした。

8つ年上の伯母が80を過ぎて、デイケアサロンへ通うようになって、そこでの出来事を電話で話すことがあって、やはり、そういう小さな老人社会にも禁句が多いことを知った。たとえば、昔の我が家には兵庫県芦屋にあって、それはいまで言う豪邸に当たるものだったが、デイケアサロンではそういった昔話はタブーだったようだ。うっかりしたら大変、と言っていた。つまり、デイケアサロンでの会話は、当たり障りのないことに限られるようだった。

私もデイケアサロンに行くようになった。週に1回出かけて行って麻雀を打つようになった。雑談もする。若いスタッフ達が老メンバーの話に耳を傾ける。私は10歳年長のKさんと戦時中の話をする。B29の爆撃、P51の機銃掃射、防空壕、ジャガイモだけの食事・・・これなら当たり障りがない。周囲の老人からも嫉妬されることもない。

お定(き)まりの・・・

2019-03-09 11:51:15 | 日記
警部級の刑事がヒラの刑事と2人で容疑者の関係者の住居であるマンションへ行く。玄関のベルを押す。2,3度押すが応答がない。「留守のようですね」とヒラが言う。すると隣室のドアが開いて、買い物姿の主婦が出て来る。必ず出て来る。お定(き)まりである。「あら、お隣さんはおでかけですよ」と主婦が言う。主婦の声は甲高い。これもお定まりである。主婦はもちろん善人である。そういう顔をしている。「どちらへ行かれたか、わかりますか?」、またヒラが尋ねる。「大阪へ行くとか言っていましたよ」、するとヒラが「やっぱり大阪ですね、警部」と真剣な目つきになるい。そのような捜査に関することを警察官が人前で言うわけはないのだが堂々と言う。いわゆる、刑事ドラマでこのようなシーンをご覧になった方は少なからずいらっしゃると思う。

「きょうもまた 水辺で終わる サスペンス」。20年前か25年前に私が作ったつたない川柳であるが、新聞に載ったから同調してくださる方はいたのだろう。これも多かった。海辺、川辺、海に近い崖の上、とにかくラストシーンには水が必要であるようだった。あのころのお定まりと言ってもいいだろう。

脚本家という方たちは、お定まりは避けようとは考えないのだろうか。刑事が尋ねた家が留守だと、必ず、お隣の声の高いオバちゃんが出て来るようにしないと、ストーリーがつながらないのだろうか。

ケ・セラ・セラ

2019-03-09 11:40:53 | 日記
「あなたの人生観は?」と、打席に立ったバッターに1球目から真ん中の快速ストライクを投げ込んだ投手のような顔で訊く人がいるが、あれは些かシンドい。「ま、ケ・セラ・セラということでしょうか」と小声で答えるしかない。

人生は「れば・たら」である。あとから振り返ってみれば、そういうことになる。たとえば、私の父は私が産まれた1年後に他界している。だから私は祖父母を両親として、父の弟妹達を兄姉として育てられた。られもし父がごく普通に60歳ぐらいまで生きていたら、私の人生は全く別のものになったわけで、つまり、私の人生はスタートの1歩目から大きな「れば・たら」に遭遇したわけだ。その続きを書けば一晩かかってしまう。戦争もあった。詳細は省くが、戦争がなかったら、私と家人の出会いは無かったから、当然に2人の子供がこの世に存在するはずもない。

「ケ・セラ・セラ なるようになる 先のことなどわからない・・・」という歌が流行ったのは昭和30年代だっただろうか。人生航路という小さな船が行く。水の流れのままに進むことが多いが、時には自分で舵をきる。流れに逆らおうと試みたりする。もしかすると、それを努力と言うのかもしれない。しかし、それにも「れば・たら」がつきまとう。

「れば・たら」は、幸運や不運を連れて来る。そうなると、どうしても、舵取りには限界があることがわかって来る。人生を計算式に表してみれば、加減乗除してみれば、その答えはケ・セラ・セラになるのではないだろうか。あるいは、それに近いものになるのではないだろうか。