今日は金曜日(競馬のない日)なのでスポーツ紙は配達されないが、たぶん1面トップは、藤圭子さんの自殺か、イチロー4,000本安打のどちらかだっただろう。前橋育英の優勝は2面か。 テレビには視聴率、ラジオには聴取率というのがあって、数字が公表されているが、新聞の場合、その辺のことはどうなっているのだろうか。 我が家では日経新聞しか購読していない。私はまず、株に関する記事の見出し(太文字)のところだけを読み、自分が所有する株に関係したものがあれば、手をとめて詳細を確認する。スポーツ・芸能欄は素通りするのに近く、それらのことはテレビを観れば充分だ。 新聞社では、どの欄、どの項目がどれだけ読まれたかをチェックしている(チェックできる)のだろうか。 これは言い換えれば、注目度(あるいは注目率)であり、テレビの視聴率同様、読む人の少ない欄は消していくのが(経営面から考えれば)当然ではないのだろうか。今朝のトップを、自殺にするか4,000本安打にするかも注目度(率)が天秤にかけられたはずで、最後は編集長の決断だっただろう。日経の夕刊では、将棋の王座戦の棋譜を見る。いや、話が戻るが、株価がおもしろくない(ボロボロと下落した)日は株価欄も読まない。 土日に配達されるスポーツ紙も、競馬のページ以外にはほとんど興味がない。競馬欄に注目するのはどのぐらいの人数なのか。注目率は3%ほどではないかと想像しているが。
昨日は、甲子園の決勝戦と病院行き(定期健診)が重なった。家を出たのが1時で、野球は3回を終わって0対0。 前橋、延岡のどちらを応援しているわけでもないので、とにかく好試合だけを期待していた。病院に着いて、手続きを済ませ、待合室のテレビを観ると、いつのまにか3対0で延岡がリードしていたが、前橋も次の次の回に同点に追いつき、さらに次回に1点をくわえた。願ったとおりの接戦だ。 診察を終えると、すでに8回裏。あとは帰りのカーラジオで、と暑い中を駐車場へ急いだ(というのは気持ちだけであり、腰痛があるから足は急げない)。試合は9回裏、1点を追う延岡の攻撃。まず先頭打者がフォアボールで出塁した。ラジオの解説者がバントを予想したのと同様、全国のファンも同じことを考えたと思う。しかし、延岡ベンチは強攻策を練り、見事に、次打者がセンター前に安打する。無死1・2塁、ここでもまたバントがセオリーだが、なんと延岡の監督は、1年生の選手を代打に起用する。強攻だ!と私は直感した。この1年生は何かを持っているはずだと思った。甲子園のベンチに入れる選手は1チーム18人であり、その中の1年生なのだ。彼の持つ何かとは、むろん打力、選球眼のこともあろうが、もう1つは度胸だろうと感じた。結果、1年生は三振に終わったが、その監督の勝負感には拍手を送りたい。 試合後、監督は「生徒達を勝たせてやれなくて申し訳ない」と涙したが、彼の勝負眼は正しかったと思うし、実に実に気持ちのよい敗軍の将だった。
「女の子だから、なおさら可愛いんだよね」と娘が毎日のように言う。いま我が家の話題を独占している、家人の姪の娘(8月23日で2歳)のことであり、その子のことはブログにも書いた。女の子が男の子よりかわいいと言うと、すべての子供が天使だという反論もあろうが、そういった討論をしても意味がない。娘が言っているのは、女の子は小さくて柔らかくて、優しくきれい(清潔)だといったことであり、私も同感だ。いまや、爺ちゃん婆ちゃんにも「かわいい」という形容語が用いられる時代であり、だから、女の子の愛らしさについては、小さく、柔らかく、優しくきれいで充分な説明ではないか。19歳のときに母と再会し、その日に、母から「あなたには妹がいるのよ」と知らされたときは、不思議な思いと同時に「やった!」と心中で叫んだ。 小中学生の頃から、私は「妹のいる友人」がうらやましかった。 高校の友人A君の家へ麻雀を打ちに行ったときに、彼の部屋の横にセーラー服が掛けてあり、やがて、その妹が雀卓の横にスイカを運んで来てくれたりするのを見て、羨望はますますふくらんだ。 初めて妹に会って、すっかりアガッてしまったことは以前に書いた。妹は7ツ年下だから中学生。ま、大人と子供の中間ぐらいだったが、やはり、小さく、柔らかそうで、優しそうで、清潔だった。妹のセーラー服が自分の部屋の隣にぶら下がったことはないが、それで充分である。 家人は私に2人の娘をプレゼントしてくれた。これもまた、感謝の2文字に尽きる。他人から、「息子さんがいて、晩酌を共にしたいと思うことがありませんか?」と訊かれることがあるが、首を横に振るだけだ。 私は毎日、家人と娘の前夜の残り湯に入っているが、もし息子が使った残り湯だったら、やっぱり尻込みするだろうなぁ。
ファクスの送受がうまくいかない。DVDが故障する。家人と娘が買ってきたオシャレな電燈を天井からつるすのが難しい~といったことがあると、娘がAさんに電話する。Aさんは家人の姪の夫で、クルマなら10分とかからない近所に住んでいて、気さくな人柄で、次の休日にはさっそく助けに来てくれる貴重な存在である。 ファミリーの中では唯一人の理系人間(慶大→東芝)でもある。 我が家に残る古い写真で、写真館でのふるいものを別にすれば、すべてB叔父が撮影したものだ。学校は法科だったが、頭の構造や手先の器用さは完全な理系であって、我が家でカメラや三脚などを持っていたのは彼一人だった。 ファミリーを自分の6親等以内、配偶者の3親等以内(つまり親族)とする考え方もあろうが、要は近くに住んでいるか、親交があるかということであって、どこのお宅でもそういう風な関係で成り立っているのではないか。 つまりは、遠くにいるイトコより近くにいる配偶者のイトコの方が、ツキアイが深いのが世の常だろう。 人はたいてい(レベルの上下を別にすれば)一芸はあるもので、それがファミリーの中で役立つことは少なくない。たとえばAさん夫婦の結婚披露宴はウチの長女が司会をやったが、充分にその役を果たしていた。 私にも麻雀という一芸があるし、ファミリーの中での博才は一番かもしれない。しかし、その芸はファミリーの誰かの役に立つということは(株式市場にアベバブルでも起きない限り)ないのが残念だ。