由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

W.H.氏との対話 その2(自由からの自由―ブレーキ装置)

2016年12月16日 | 倫理
 以下の記事は、「過去・現在・未来 W.H.氏との対話」の続きとして、W.H.氏から送っていただいたものです。正直言って、この思考と感性は現在かなり独特なものだと思いますが、それだけに貴重ですし、個人的に、私の言論にきちんと向き合ってくれる、ありがたい存在でもあります。これに触発された愚考は、なるべく早く公表したいと念願しています。それとは別に、W.H.氏に直接意見を言っていただけますなら、彼にも大きな励みになると思いますので、できたら宜しくお願いします。

由紀草一様

 私のコメントをブログの記事にしていただき、有り難く思っております。たいへん納得の行く回答をいただき有り難く思いました。大方において私も同感です。さて、前回、私が述べたことは「近代主義」への疑義でした。また、それを下支えしている「近代の展開の不可逆性」という歴史観への違和の思いでした。しかし、まだ由紀さんとの小さな差異は残っているように思うので、質問を続けたいと思います。その差異というのは「リベラル・デモクラシーを条件づきで支持する」という「言挙げ」についでです。私はもう、この「言挙げ」は不要なのではないかと考えています。新たな「言挙げ」をもって「リベラル・デモクラシー」は相対化されるべきであると提案したいと思います。その前提として、由紀さんの技術の進展への肯定的な思いについても述べたいと思います。ともあれ、前回の由紀さんのコメントに対する返答から……

 <過去> 由紀さんは文学を「個人的なことをできるだけ掘り下げて、そこに一定のフォルムを与えて、他人とも共有可能にしたもの」とされました。歴史も同じだという趣旨だと思います。歴史は事実としての真理を、文学は普遍としての真理を求めます。とはいえ、歴史も畢竟個人的な記憶・感情の集積であり、客観は目標とする理念です。個人的なものと普遍的なものとの間に明確な区別は立てられないでしょう。強く主張される過去は普遍的なものとなり、力の弱い過去は消滅していきます。戦後、自由と民主主義の進展のみが客観的かつ真正な歴史の展開と見られ、それに見合わない過去がノスタルジーという名を負わされたのではなかったでしょうか。「こぶな釣りしかの川」と唄われた世界は、日本列島改造を是とし、生命尊重を至上の価値とする世論の流れのなかで、ノスタルジーへと貶められた一例であったようです。しかしそれは年老いていく世代の弱い意志がそうさせたのであって、新しい世代によっては再生の目標ともなりうる記憶であるかもしれません。そう考えれば、由紀さんの言われるとおり、自らの固有の過去、感じ取ったものを「今あるもの」と自覚することが重要なのだと思います。共有できる既成のフォルムが見あたらないからといって、弁明しながら述べるものではないということです。

 <未来> 歴史に方向などはないし、人間性の本質部分は進歩しない。極端に言えば、未来は存在しないと考えたほうがいい。あるべき未来を考えることは、往々にして現在を手段とする思考につながる。現在あることが未来を生み出す、と考えるべきだ、という由紀さんの捉え方に同意します。少し訂正させていただけば、未来もまた「ある」のだと思います。それは過去が「ある」ようにです。未来からあらゆる意味は生じます。由紀さんが「現に今も、W.H.さんにも、他の人にも、読んでもらうという「将来」のために、営々として文章を綴っている」と言われたようにです。但だ未来は、各人の過去を反映したものになるのだと思います。

 さて、「言葉に対してもっているイメージの違い」に関しては、由紀さんのおかげで大分視界が良好になりました。ここで私がどうして、由紀さんが諦念の意味で用いた「近代化の不可逆性」という言葉遣いにこだわったのかということを述べたいと思います。先にも述べたように「近代化の流れは不可逆だ」という表現は、竹田(青嗣)・西(研)両氏が絶えず用いていたものです。私は、かつて、両氏の社会思想における所説に対して、どうしてもよく理解できないところがあると感じていました。しかし、いったいその違和感の原因がどこにあるのか、長いあいだよくわからなかったのです。いろいろと考えていた折、もしかしたら、これではないかと見当をつけたものが、この「近代化の不可逆性」という見方でした。多くの場合、懐疑主義とも思われるくらいに”物語”に対して拒否の姿勢をとる竹田・西氏の思想にあって、この部分は頑固なほどに一貫したものでした。むろん、近代化は、現実に世界大で進んでおり、両氏の主張がまったくの見当外れだということは有り得ません。しかしそのことを強調し前提とする、そのモチーフが両氏にはあると感じられたのです。こうした経緯があって、その後、由紀さんや小浜さんの周辺で、その言葉に接したとき、私は過敏すぎるくらいに耳をそばだてました。前回も述べたとおり、私は、このテーゼは重要な意味を包摂すると考えます。先にも述べたように、この表現を用いることによって、古い進歩主義の亡霊がまたぞろ復活するだろうと思っているからです。その進歩主義は根強い感情的モチーフを根底に含んでいると考えます。そしてそれは由紀さんのいうように、「現在」を二の次にし、「未来」という夢に賭けようとする、一種の救済の思想につながるものであると思うのです。

 この救済の思想の内実を縷説するのも野暮かもしれませんが、一応述べてみましょう。それはキリスト教的歴史観が典型的ですが、何かうまくいかない、気に入らないという人が、歴史の進歩に希望を託すものです。今はダメなんだ、何かを変えれば良くなる、現在生きている人が不幸なのは社会が悪いからだ、間違った人間がいるからだ、と考えていくものでしょう。もちろん、こうしたものの見方の全部が全部、まちがいとは言えないと思います。しかし、また同時に、それらすべてが正しいわけでもないわけです。われわれが不完全な存在であるかぎり、退歩の可能性だってあるかもしれないのに、また実際、近代の経験した不幸は、前代に比較してそれほど小さいものでもないはずなのに、人は際限のない満足を外に求め、未来に希望を託そうとするわけです。もちろん、それは我々の罪のない性癖であり、人性の然らしむるものとは思うけれど、それが往々にして理論にまでなっていくところに、問題の生ずる余地があるわけです。つまり、”抽象化され”、”無限が入り込んでくる”。そして何かしらの感情のはけ口となり、否定の手段となっていく。ついには、ある種の社会変革の思想、正義の思想が誕生するわけです。

 竹田青嗣氏の場合、「近代化の不可逆性」という言葉は、ヘーゲル思想の本質を肯定するところから生まれるものです。氏が「人間の本質が自由であるということ。もう、これは原理として不変であるだろう」というようなことを言われていたのを覚えています。もっとも、竹田氏の原理とは究極的な真理を指すのではなく、今現在もっとも妥当で理にかなった考え方を言うわけですが、おそらくは自然科学を範に取った経験的な真理に類したものでしょう。何をもって反証とするのかは難しいところです。また、思想その他においてモチーフをつかむことの重要さを教えてくれたのも竹田氏ですが、私は氏自身のモチーフを一種の救済思想につながるものと見ました。またそれは、”自由・平等の理念化”に手を貸すものであると考えます。

 「近代化の流れは不可逆である」という断定が、どうして必要になるのか。かつてのマルクス主義と同様に、本当に行き先が定まっているなら、このようなことは言及しなくともいいわけです。竹田・西氏をことさら指すわけではありませんが、近代主義にとって大切なことは前へ前へと進むことだと思います。とすれば、以下のように語ろうとするのでしょうか。「安心していいよ。どっちにしたって行き先は決まっているんだ。保守的な人間は、自由と平等、人権の擁護に待ったをかけるけれど、結局は無駄な抵抗だし、時間つぶしに過ぎない。何をあがいたって、結局われわれは人類の理想に向かっていくだろう。また進んでいかなければならないんだ」と。その未来のイメージは、おそらく「双六の上がり」のようなものだと思いますが、具体的にどれくらいその未来像の内実が詰められているかと言えば、たいへん怪しく思われるということは前回も書いたとおりです。また由紀さんのように、諦念として「近代化の流れは不可逆である」と詠嘆する場合もあるでしょう。しかし、そうした表現は社会に再帰し、近代化の流れを速めることを利するだけなのだと思います。

 さて、私は、こうした理想への熱意が、科学・技術の進歩の念と手を携え、そこにメタファーを採っていると考えています。たしかに、技術の進化とともに近代社会は発展してきました。工業化によって可能になった物質的な豊かさは、それ自体としては素晴らしいもので、その豊かさが現代人の幸福の基礎を形作っているのは確かなことです。しかし、月並みを言いますが、そうした物質的な豊かさが精神的な高さ、生命の強さ、人格の豊かさを保証するものであるかといえば、やはりそうは言えないわけです。つまり、科学技術が発達し、われわれは物質的に豊かになり、自由で平等な社会をも誕生させた。しかし、その過程で支払った額も、そう小さなものではないでしょう。差し引き残額が大幅に黒字であると考えているならば、案外それは幻想なのではないか、と考えるのです。もちろん、私がこの年齢で昔と今とどちらを採りたいのかと問われるならば、すぐさま「今」と答えます。しかし、こうしたことは習慣が大きな意味を占めているものです。その時代に生きていれば、多くを求めることもないでしょう。

 ここまできてお分かりだと思いますが、私は由紀さんとは少し感じ方が異なっているかもしれません。由紀さんは技術の進歩について有り難いと書かれていました。私も常々、今向かっているワープロを含め、いろいろな技術に助けられ有り難く感じています。ことに表計算ソフトは、あたかも自分のために作られたもののように思われ、「ロータス123」の前にあった「カルク」といったソフトの頃から使い続けています。しかし少し考えてみれば、本当にそれほど感謝すべきことなのか、とすぐに疑念は生じます。由紀さんの提出された例に沿って考えてみましょう。由紀さんは悪筆であり、ワープロによって今の文筆活動が可能になっていると言われています。しかし、ワープロがなければないで、活字印刷ではだめだったでしょうか。金を出して他人に頼むというのはどうだったでしょう。また名文家は必ずしも美しい文字を書いていたわけでもないだろうし、悪筆も必要と反復練習によっては、それなりに読めるようにもなるでしょう。さらに月並みを言いますが、キーボードのタッチタイピングではない、アナログな手の動作、それはより応用の広がりを可能とする動作ですが、それはそれで手先の運動神経を開発するといった、何かしら別な価値をも与えたでしょう。また、いつでも書き直せるという思いが招くマイナスの側面がないでしょうか。筋ジストロフィーのような病におかされたホーキンスのような例もありますが、結局は同じことだと思います。

 私の予想では、ツイッター、ブログにみられるような一億総執筆家化、総表現者化、読むものより書く人間の方が多い状況は、もっと進むと思います。それから先は分かりませんが、しばらくは書くことが一部の特権でなくなることでしょう。ソフトは、言語同士の変換を容易にするでしょうし、日本語変換ソフト、例えば「一太郎」「ATOK」ですが、アシスト機能をどんどん高めていくことでしょう。また、タッチタイピングが必ずしも要求されなくなるかも知れません。音声で入力すればいいわけです。推敲も指先と音声などを使って簡単にできるようになるでしょう。また、文法違反に関する修正もより高度化することだと思います。次に文体のアシストも行われるでしょう。漢文体、和文体、そんなものではない。夏目漱石文体、司馬遼太郎文体、需要があれば由紀草一文体などといったものも、ソフトが出ることでしょう。これは十分可能だと思います。清水義範がいくつかの作品でパスティーシュ(文体模倣作品)を試みていますが、そうしたものを見ても、技術的には十分可能でしょう。きっといつか、「私のような無学無筆の、作文なんて書いたこともない人間が、こんな大作を一週間でものすることが出来ました」という時代が来るかも知れません。ともかく、知の寡占状態がなくなることは良いことかも知れませんが、真贋の判定が難しくなる事態でもあるでしょう。こうした状況は由紀さんにとって良きものなのでしょうか。収支は黒字でしょうか。ある技術史家は「必要は発明の母である」ではなく、「発明は必要の母である」と言ったそうですが、私はその通りだと思います。

 「自然に帰れ」などというと誤解を呼びます。しかし、進まなければ、それは戻ることだ、というわけでもありません。科学技術の進歩は有り難いことだ、素直に認めよとは、由紀さんの周辺でよく聞かれた言葉です。が、たとえ素直になれたとしても極めて怪しいことではないか、と思われてなりません。少なくとも科学・技術を素朴に肯定するそのあとに、「進歩」への信仰がこっそりついて廻ってはいないかと危惧するものです。

 以上、由紀さんと左程の意見の相違はないのかも知れません。しかし、由紀さんの記事では技術の進展に関し、但し書きもなく肯定されているので、念のために述べています。さて、そうはいっても技術の進歩に関し、簡単でない問題が隠れていることは認識しているつもりです。技術の進歩をまづ不可避にしたものは由紀さんのいう生活面ではなく、軍事面においてだと思うからです。由紀さんもイスラム原理主義者たちが武器だけは近代兵器を使っていることを言われていますが、私はここに本質的なものを見ます。「防衛的近代化」。あらゆる近代化を引っ張ってきたものは、これではないかと考えています。明治維新にしても富国強兵が国権派の意識の中核にあったものでしょう。インディアンにしたって、ライフル銃だけは手に入れなければならなかった。イスラムも北朝鮮も然り、映画『アバター』においても必要だったのは防衛における機械化だったと思います。そうしなければ、次作では敗北は必至でしょう。西欧近代の中心にあるのは武器だと私は信じます。そして、この武器を作るためにも最終的にソフト、すなわちリベラル・デモクラシーを輸入しなければならなかったように、竹山道雄が述べていたと記憶します。軍事技術の優位のために、経済的優位が、そのためには精神的近代化が必要ということです。しかし、この問題は措いておきましょう。

 ここで今回の主題に入りたいと思います。私にとっては少し難しい問題なのですが、長い間の懸案でもあり、この機会に語ってみるのもよかろうと思ったのです。それはもっとも広く用いられている言表、おそらくほとんどの良識ある人が用いていると思われる言葉、すなわち由紀さんが言われた「私はリベラル・デモクラシーを支持する」という表明です。この支持の表明に対して言いがかりをつけるというのは無謀であるかもしれませんが、敢えて言いたいと思うのです。私はこの表現は、今やもう役割を果たし終えたのではないかと考えるのです。むろん、由紀さんの支持は条件つきのものでした。そして、大方どんな支持者も条件はつけるでしょう。伝統的な左翼は「経済における自由」には待ったをかけるでしょうし、環境左翼も無制限の技術革新にストップをかけるでしょう。また最左翼に当たるだろうフェミニズムもまた、多く言論の自由に圧力をかけるのを事としています。また保守は言うまでもなく、「自由」という理念自体に大きな疑問を抱くものです。つまり、みな条件付きの自由を語っている。純粋かつ無制限の「自由」を叫ぶ者は、今では高校生か、自分で自分の言っていることが分からない者くらいかも知れません。デモクラシーという言葉に関しても、ある程度、同様のことがいえるのでしょう。

 とはいえ、限定を与えながらも、自由、民主主義を多くの人が支持しているというのも歴史的に必然的なことです。現在までに得られた自由、民主主義はそう簡単に手に入ったものではありませんでした。口先だけの権利の主張などといったものは、後世に特有なものであり、実際には多くの人の血を流して得られたものですし、また多くの人々の願望の帰趨するところのものでした。また現在においても、リベラル・デモクラシーへの信仰は言うまでもなく大きなもので、その自由と民主主義という言葉が光り輝くように見える国々もあると思います。しかし、ある程度、リベラル・デモクラシーの進行した国では、その意味内実をもう少し冷めた目で見ることができている。この自由は有り難いものであるけれど、そうは言っても、絶対的な理念として拝跪することはできないと。それはどうしてか。この力をもった言葉も、やはり理念とされると副作用が生まれてくるからです。

 本来は、「具体的な」「有限な」自由であり、民主主義であったものが、「理念化」され、抽象的な理念になる。そうして、それが奇妙な副作用を我々の生活に及ぼしていく。このことを省察するのが現在のわれわれの課題ではないかと思うのです。この機序機構を見抜くべき時ではないのかと思うのです。こうしたことは佐伯啓思氏が説いていると思いますが、私はこのことをフッサールやハイデッガーからも学んだ気がします。有限な「自由」、有限な「民主主義」というのは、アメリカや西欧などで行われている、また行われていたものです。日本にも日本なりの「自由」や「平等」がありました。それに対し、抽象的な自由や、無限の平等に近いものが日本では猖獗を極めているように思われます。もちろん、近代というもの自体が、抽象化・普遍化へ進んでいく傾向を持つとも言えるでしょうが、そうした「理念化」の純粋な形態をめざし、新たな実験国家もしくは社会たらんとしているかのように見えます。

 「理念化」について例を出しましょう。たとえばイスラームのコーランは、マホメットが生きていたころ、そしてその後継者の時代にあっては、きわめて具体的なものだったでしょう。それはコーランを読めば明らかです。その時代、その地域においては、具体的すぎるほど具体的であったと思います。神は日常生活のずいぶん細かなことにまで指示を出している。たとえば、マホメットの家庭問題といったプライベートなことにまで口を出しています。人々が対等であることに関しても、具体的に、どの地域の、どの人たちと対等・平等であるかを明示しています。しかし、それらの言葉が、後継の法律家たちによって解釈される段になってくると、無限の応用を効かせるために、場所・時間を超えたものとなってくる。食物の禁忌なども、当時はそれなりに意味のあったことが、抽象的で神秘的な戒律になってしまった。こうしたものが「理念化」です。

 アメリカにおける「リベラル・デモクラシー」はきわめて具体的なものであり、アメリカ的なものでした。その源流は英仏の共和主義的な思想にあるでしょうが、それが広大な国土を移民である開拓民によって拓かれていったという歴史的な経緯、またアメリカの地政学位置と相俟ってできあがったものだと思われます。そして、それは常にプロテスタント的なものに限定された自由と平等であったでしょう。すなわち、アメリカはアメリカ的な特殊性のもとで自らの「リベラリズム」と「デモクラティズム」を作り上げていった、醸成していった、と言えるでしょう。

 ビリントンという人が以下のように語ったそうです。「16世紀のはじめ以来、西欧の人間は新しい地域を開発し、処女資源を使用して生活した。コロンブス及び彼に続いた人びとは、ヨーロッパ人によって、南北両アメリカ、アフリカ、オーストラリア、太平洋諸島において使用されるのを待つすべての地下資源から採り出した富を明らかにした。この偉大なフロンティアの発見は、一夜にして土地対人間の比率を西欧世界で、一平方マイルにつき、26.7人から4.8人に変えた。人が肩を突き合わせて生活する時に必要であった厳重な統制は、もはや必要でなかった。すなわち、絶対君主、権威を持った教会、カースト制による社会秩序、経済活動の厳格な規制はもはや必要でなかった。今や人間は、地理的にも社会的にも、一層多く自由に移動することや自分を向上させることができた」(猿谷要『物語アメリカの歴史』)。新たに手に入った広く豊かな土地、これが近代的自由の正体、少なくとも一側面であったというわけです。

 それに対し、日本を含む後発の近代国家はそれを思想の形で受けとった。それは後のマルクス主義の摂取の仕方とまったく同形でした。日本には殊に外来のものに対する素直な畏敬の気持ちがありますから、そうした思想を純粋に受けとったと思われます。しかし、そのとき、室町・江戸と続いた伝統文化、もしくは、従来の自由の在り方、農山村に根付いていた平等意識は取るに足りないものとされ、簡単に捨て去られました。日本には自生的な自由と平等があったのに、それらが外来語のものに置き換えられていった。木に竹を接ぐようなことをして疑うことがなかった。むろん、文化など、所詮木に竹だということは措いておくにしてもです。

 どんな言論の自由も制限あってのものであるし、どんな平等も差異を認めた上のものであるはずです。欧米に出自をもつ抽象的な権利を主張してやまない人たちに対し、われわれは普遍的な空間に住んでいるのではないし、永遠に生きるわけでもない、視界のきかない未来のために犠牲になる言われもないと語りかけるべき時なのだと思います。そして歴史・文化・慣習に沿った、具体的な個々の自由・制限について議論すべきなのだと思います。しかし、そうした議論を進めるにしても普遍的な自由・平等が絶対の高みに据えられていては、「自由だ!平等だ!」と大きな声で唱える者が、優位を占める結果に終わるのは自明なことです。純粋で粗雑な思考ほど力をもつことになる。それでは議論が成り立ちません。リベラル・デモクラシーを守るためにも、リベラル・デモクラシーを相対化することが必要なのではないでしょうか。それにはどうしたらいいのか。何か出来ることがないのか。私はあると考えます。それはリベラル・デモクラシー以外の原理を立てることです。例えばそれは保守主義でしょう。共和主義でもいい。名称・在り方はいろいろと可能でしょう。近頃、中公新書から出た待鳥聡史の『代議制民主主義』を読みました。そこで書かれていることも、大きな目で見れば「直接」民主主義という理念に傾いた民主主義を、相対化する意図で書かれたものと私には読めました。

 そうした展開の仕方を「保守的」と考えない人がいるのは認識しています。福田恆存もそうだったでしょう。また保守思想をリベラル・デモクラシーの施行細則のようなものとして捉える人も多いと思われます。しかし、それら保守思想の本質について語ることはここでは差し控え、次回にまわしたいと考えます。ともかく、私は、たとえ方便としてであっても、いや、方便でしかないかも知れませんが、それを政治的な原理として取り上げる必要があるだろうと考えています。「リベラル・デモクラシー」の肯定だけではブレーキが効かないからです。

 私はかつて近代化の議論において、竹田青嗣氏に「(進んでいくにしても)進歩に待ったをかけるブレーキが必要ではないか。現在はアクセルしかない」と、生徒の立場で述べたことがあります。しかし、そのとき、それは原理にはならないと言われました。そのとき、私はどう答えていいか分かりませんでした。また、それを承けて佐伯啓思氏に「保守には原理がないのか」と訊いたことがあります。そして「ない」といった返答を受け取りました。さらに保守の思想はポスト・モダンの思想に通ずるところがあるのかと聞いて、肯定的な返答を得た覚えがあります。しかし今、保守思想が実践の思想である限り、いつまでも反定立的なものにとどまっていてはならないと考えます。

 もう「精神のアリストクラシー」などとメタフォリックな表現は用いないで、「私は必ずしもリベラル・デモクラシーを支持する者ではありません。保守主義のものの見方を可しとするものです。」というような具体的な表現の仕方があってもいいのではないかと考えます。その内実はというならば、西部邁氏が語るように、ものごとを自由・平等だけでなく、規制・格差とのバランスでもって考えていくということであり、中庸を専らにするということに外なりません。歴史的な智恵を尊重したうえでの進取です。私はこうした方策を以て、原理を以て答えるべしとした竹田青嗣氏に対する返答としたいと考えているのです。

 私は由紀さんの「リベラル・デモクラシーを支持する」といった「言挙げ」は、もうそろそろ不要であると感じました。「リベラル・デモクラシー」以外の選択肢が「事実上ない」状態での支持・選択の表明は、単に理念化を押し進めるだけだろうと思ったからです。

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