由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

W.H.氏との対話 その3(保守的な態度とは何か)

2016年12月25日 | 倫理
W.H.様

 ご丁寧にありがとうございます。
 いろいろと疑問を提出していただきましたので、できるだけちゃんとしたお答えしたいと思いますが、第一に、私の頭では理解できないところも多く、そこは失礼させていただくしかないでしょう。

 第二に、前にも申しましたように、言葉の意味・ニュアンス・それに込めた思い、の段階で大きなすれ違いがある、と言うより、W.H.さんと私とでは、何を一番大事と思い、こだわっているのか、肝心なところが重ならないようでもあります。とうてい議論にならないはずなんですが、何度か御論を拝読しているうちに、共感できるところもあるらしく感じました。それは何か、炙り出せればいい、と淡い期待を抱きつつ、以下に勝手な文を綴ります。

由紀さんは文学を「個人的なことをできるだけ掘り下げて、そこに一定のフォルムを与えて、他人とも共有可能にしたもの」とされました。歴史も同じだという趣旨だと思います。】
 いえ、そんな趣旨ではありません。
 文学とは通常、言葉によって表現されたもののことを言います。それと対比した場合の「歴史」とは、歴史叙述のことでしょう。両者には、大きな違いがあります。
 歴史叙述は、記憶を含めた記録を整理して、そこに筋を通そうとするものです。文学は、とりわけ近代文学は、同じく最広義の記録に依拠しますが、あくまで個人の段階に止まり、それを伝えるために「語り」のフォルムを使うのです。
 フランス語のhistoireが「歴史」と「物語」の両方の意味がある(英語のhistoryとstory)ことによく示されているように、語りのフォルムの大本・原型は神話・伝説まで含めた歴史から来ている、と言ってよいのでしょう。それでも、「何を語り・伝えようとするか」の動機の部分が大きく違っているのです。
 別言すると、「公」の側から「私」を問うのが歴史、「私」の側から「公」を問い直そうとする試みが文学である、と(「私」のほうが「公」より価値があるという意味ではありません。為念)。私にとって、このベクトルの相違は、決定的です。
 例としては、支那の古典が典型的ですし、W.H.さんもお詳しいので、挙げましょう。
 江戸時代に我が国でも漢文のお手本とされた左國史漢、「春秋左氏傳」「國語」「史記」「漢書」はすべて歴史書です。個々人の日常茶飯事など、省かれるのが当たり前。士大夫として理想的な生き方を示した者が讃えられ、もって後生を教導する、明確な目標の下に書かれています。例えばそういうことが上で言った「公」です。
 でも、「史記」で普通に読まれている「列伝」なんて(私ももちろん、本紀のほうは読んでいません)、歴史物語じゃないか、と言われるかも知れない、というようなことは脇におきまして、これらに基づいた二次創作として「三国志演義」などの講談、紙に書かれたら稗史小説、があり、「水滸伝」のような、裏歴史というのか、反逆者たちの物語があり(どれだけ史実か、なんて研究者以外は問題にしない)、「西遊記」のような、純然たる空想(にしてもその基は事実・経験がある)の産物である怪異譚があり、最後に「金瓶梅」のような、正史から見たらまことにどうでもいい、庶民の色恋沙汰その他の日常的トリビアルな描写に満ちた読み物があります。
 これ以外に、士大夫でもそうでなくても、個人の述懐に相応しい詩があり随筆がある。前者のためには韻律がなくてはならない。もとは実際に口演されるいわゆる口承文芸からきているのでしょうが、それが、それこそフォルム(型)として確立されると、紙に書いて目で読んだだけでも感知されるようになり、おかげで内容的にはおっさんの愚痴みたいな杜甫の詩が、不朽の生命を得ます。
 ここにはまぎれもなく個人がある。時代の道徳・理想では捉えきれない個人が。そして、個人の思いには意味がある、即ち、個人には意味がある、それを示して伝えるのが文学の効用だ、と私は信じておるのです。そしてそこを一番に重視しておりますので、世の中全体のことは二義的以下と感じられる。そこがW.H.さんとの最大の違いなのでしょう。

 次に、ここもちょっと。
少し訂正させていただけば、未来もまた「ある」のだと思います。それは過去が「ある」ようにです。未来からあらゆる意味は生じます。
 私は過去が「ある」ように未来も「ある」とは思えませんので、この訂正を受け入れることはできません。
 普通に言って、過去は変更不可能な「事実」としてある(もっとも、その「事実」は、人間の数だけバリエーションがあるかも知れませんが)のに、未来は「可能性」としてあるわけですね。可能性の幅が広がれば、つまり選択肢が多くなるということであり、それだけ人間の自由の度合いは高まるように感じられるでしょう。
 ヨーロッパからの移入者にとって、アメリカの広大な土地は、まさしく手つかずの「処女地」であり(ネイティヴ・アメリカンが住んだり狩りをしていた場所であることには目をつぶって)、無限の可能性と、無限の自由を約束していたように見えたのに不思議はありません。もっともこの自由の中には、野垂れ死にする可能性も、そうでなくても開拓のための非常な労苦は含まれているわけで、誰にとってもいつもありがたいというわけにはいかない。
 自由って、現実的にはそういうもんでしょう。いやなことから免れる自由以外は。「理念としての自由」だと、そこのところが捨象されて、誰にとっても都合のいいように感じられてくる。そこに欺瞞があり、危険もあるわけでしょう。 

 それにしても、
戦後、自由と民主主義の進展のみが客観的かつ真正な歴史の展開と見られ、それに見合わない過去がノスタルジーという名を負わされたのではなかったでしょうか。
 こういう歴史観には同意できません。というか、理解できません。
 ノスタルジーって、悪名になりますか? 昔から文学作品の題材としては最もポピュラーなものの一つなのに。「頭(こうべ)を挙げて山月を望み 頭を低(た)れて故郷を思ふ」(李白)とか、「人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける」(紀貫之)とか。それくらいですから、表現のフォルムなんて、いくらでも見つかります。現代でも、ポピュラーソングの題材としては、恋愛の次ぐらいの頻度で使われているんじゃないですか。“Country road, take me home.”(ジョン・デンバー)とか。ちょっと古いか。
 それから、自由と民主主義以前に、日本では明治以来の近代化が、地方の荒廃をもたらす場合があった。「門辺の小川の ささやきも なれにし昔に 変らねど あれたる我家に 住む人絶えてなく」(犬童球渓による詞「故郷の廃家」)は、例に挙げていらっしゃる「ふるさと」と同時期にできた歌です。その「ふるさと」にしてからが、故郷は、そこで暮らして発展を期すべき場所ではなく、「(他所で)志を果たして いつの日にか帰」るべきところとしてある。「ふさとは 遠きにありて思ふもの」(室生犀星)になると、土地は荒廃していなくても、そこに住む人の心は変わってしまい、もう帰るべき場所はない、という喪失感が前面に出ます。
 などとクドクド言うまでもなく、郷愁は懐旧と結びつき、その根底には「昔を今になすよしもがな」(静御前)という哀惜の念がある。それは古今東西、変わらない。一方それは個人的なものだからこそ、純粋で、美しい。また個人的なものだから、「自分は誰かを熱烈に愛している」などと同様、他人にやたらに、生の言葉で、吹聴すべきものでもない。広い意味の文学だけが掬い取って表現することができるのです。

しかしそれ(ノスタルジー?)は年老いていく世代の弱い意志がそうさせたのであって、新しい世代によっては再生の目標ともなりうる記憶であるかもしれません。
 過去にあったものの記憶を再生することが、将来の目標になるかも知れない、ということですか? それはあるでしょうね。孔子も周代を理想としたのだし、明治維新は王政復古(≒天皇親政)をスローガンの一つとしていたわけですし。これらparadise lost(失楽園)の念は、前述の哀惜の感情が強調されたもののようですが、往々にして政治的に使われる。すると、純粋な郷愁にあった美しさは失われる、ことには目をつぶるとしても、そこで言われる「失われた楽園としての過去」は、常に、今人の想像から出た、理念としての理想郷でした。
 なるほどそれは、「再生」(renaissance)や「変革」(revolution)の目標として、時代を変えるエネルギーになりました。が、実現するのはいつも、夢見られていたものとは違う何かになってしまう。その点、フランス革命のスローガン「自由」や「平等」と変わらない。だって、どちらも理念なんですから。
 それに私は、「時は元にもどらない」の断念を含まない過去賛美は、「大人になんかなりたくない」と同様の、どちらかと言えば後向きの、不健康な感情だなあ、と感じてきました。もちろん、世の中の進歩によって、失われるものは確かにあります。だから、今が昔より必ずいいなどと主張するわけではありません。
 それでも、発見可能なことはすべて発見するし、実現可能なことならすべて実現するのがどうやら人間の本性だと観じてはおります。そこは変えようがない。それなら、今までに発見され実現されたことは、いいも悪いもすべて所与のものとして飲み込んで、目前の「やるべきこと」に取り組むのが、大人というものではないかと思っております。

 実は、「近代化の流れは不可逆だ」というのも、私にとっては上とほぼ同じ意味です。一応言っておきますと、  
由紀さんは悪筆であり、ワープロによって今の文筆活動が可能になっていると言われています。(中略)(手書きは)それはそれで手先の運動神経を開発するといった、何かしら別な価値をも与えた
 これ、冗談ですか?
 私が流行作家だったら、出版社に「由紀草一係」が置かれ、その人だけが由紀草一の原稿を読めるんで、重宝される、ということがあるかも。ですけど、そりゃやっぱり、我儘でしかないでしょう。
 手先の運動神経が開発されても、役に立つのは私だけ。文章は読まれるために書くもんですから、読者の役に立たないなら、無益、というしかない。
 だいたい、他に例えば、「新幹線のおかげで東京から大阪まですぐに行けるようになったが、その分途中の景色を楽しむ時間は失われた」とか言う人もいますが、本当にそう思うんだったら、東海道を鈍行か、あるいは歩いて行けばいいだけの話なんです。現在でもその「自由」はある。文筆家であってもワープロを使わない自由はあり、またそういう人は現にいるように。そうしないで、口先だけで進歩や近代への懐疑を口にして見せても、進歩や近代化に伴う悪へのブレーキにはとうていならない。いや、もともとそんなつもりはないんでしょう。こういうのは聞き流すしかないですよ。

 私がリベラル・デモクラシーを支持すると言うのは、これが、「人間の内面には直接立ち入らない」節度を一番きちんと弁えているらしい制度だからです。「今日の立憲政体の主義に従へば、君主は臣民の良心の自由に干渉せず」と既に明治時代に井上毅が言っています。私にとって、政治制度に関する一番重要なポイントです。
 ここのところは非常に微妙で、うまく言えるかどうか自信がないままに、言ってみます。私は、個人主義者と呼ばれてもいいと思っていますが、「個人の自由は絶対」とも、「一人の人間の命は地球よりも重い」と主張する者でもありません。公はあり、例えば国家の危機に際しては、個人の権利が制限されねばならない場合は確かにあります。公、とは、この場合、国家や社会などの制度から、具体的な人間関係まで含めた「個人の外部」すべてと重なりますので、それがなかったら個人はもともと成立しませんし、また一日も存立し難い。
 だから、公のために私が犠牲にされる場合があるのは当然である。にもかかわらず、ではなく、だからこそ、「私」はどこかに保存されねばならず、保存すべく努力されねばならない。
 少し急ぎ過ぎましたかね。戦後「私」のなしくずしの拡張の結果、「公」の領域はだいぶ犯されているのではないか、戦中の「滅私奉公」に対して「滅公奉私」だ、このままでは「公」は滅んでしまう、なるいわゆる保守派に多い心配を、W.H.さんも共有しているらしいので、ちょっとみておきましょう。
 例えば、国家の危機の際、国を守るのではなく、逃げ出してしまう若者のほうが多いんじゃないか、とかね。そうでもないんじゃないかなあ。福島原発事故の時、「また爆発するかも知れない、大量の放射能を浴びるかもしれない」と言われながら、復旧作業のために事故現場へ赴いた自衛隊員や消防隊員の人がいたことですし、とは前にも言いました。
 もう少し軽い例だと、少子化問題がありますね。戦前、に限らず戦後も少し以前までは、男も女も一定年齢が来たら結婚して子供を作るのが当然である、という、法律はないけれど、世間の常識はあり、いい年をして子供のない人は肩身が狭い思いをしなければならなかった。今でも消えたわけではないですよ。不妊治療には、かなりの需要があります。が、その圧力はだいぶ軽くなり、少子高齢化社会を出来する淵源にはなっています。
 でも、国家は、そんなに強いことは言えんでしょう。「女性は子供を産む機械」とか、馬鹿なことを言った大臣はいましたけど。親は子供を産めばすべてよし、とは、この人も、他の誰も言わんのです。一人前になるまで、ちゃんと育てる義務は親にある。それを果たせないような親は、「じゃあ子供を作るなよ」なんて言われたりします。
 子供の養育の最終責任は親にある、と昔から、それこそ自然に考えられてきたわけでして。イスラエルのキブツみたいな例外はありますが、それがいいとは、ほとんどの人が思っていないでしょう? ならば、子供をいつ、何人作るか、親に任せるしかないのが、理の当然というものです。
 逆に、「保育所落ちた、日本死ね」なんて言うんだったら、安心して子供を産めるような国に近づけるよう努める義務が、主権者である国民にはある。「国」を自分とは違うところにあるもののように捉えて、ただ文句だけ言えばいいというが如き態度はお門違いだ、という原理(でしょう?)も、同じ国民の権利・義務関係から出てきます。「権利の上に眠る者は救われない」、それが当然なんです。 
 同じメカニズムが抑止力になりますので、「自由が暴走する」なんて心配も無用ではないでしょうか。自由が現実のものになったら、誰にとってもありがたい、なんてことにはならない。子供を作らない自由、それ以前に結婚しない自由が実現したら、結婚したくてもできない人、子供が欲しくてもできない人、が増えます。現に今の日本はそうなっています。誰かの自由が拡大したら、必ず他の誰かの自由を制限する結果になる。「自由のジレンマ」として有名らしいですね。
 だから、自由と制限のバランスがうまくとれるかどうかはわからなくても、社会全体で自由が行き過ぎる、なんてことはそれこそ原理的にあり得ないんです。これについては、たぶんそちらにまだ言いたいことがおありでしょうから、後ほどうかがわせてください。

 最後に、先ほど棚上げにした個人主義にまつわることを含めた「保守的な態度」について略述します。
 「保守的な態度といふものはあつても、保守主義などといふものはあり得ない」というのは福田恆存先生の言葉として有名です。この意味を今、私なりに敷衍しますと、保守とは、「~主義」として尖鋭化される理念に「待った」をかける、そういうものとして有効である。自由主義、民主主義も例外ではないので、いかにもそれはリベラル・デモクラシーを相対化し、制限しようとするものにもなるでしょう。ここへ来て初めてW.H.さんに同意したようですが、一番肝心なところですからね。
 例えば、「進歩はいいが、進歩主義はよくない。平和もそうだ。平和主義というと、平和が最高価値になってしまうから、まずいんだ」と、福田先生がおっしゃるのを直に聞いたことがあります。後でよく考えて、得心できました。
 例えば、ある国との戦争をほぼ完全に避ける方法はあります。その国の言うことに逆らわず、なんでも言いなりになることです。魚釣島が欲しい? あげましょう。沖縄も? どうぞご随意に。九州も? 別にいいですよ……。そんな国にわざわざミサイルを撃ち込んだり、軍隊を送ろうなんて国、ないですわなあ。でも、そんなこと、できるもんですか?
 そこまで極端なことをしなくても、外交でなんとかなるんじゃないか、いや、すべきなんじゃないか、ですって? それはまあ、戦争とは外交の失敗を意味する、と言ってよいでしょう。でも、人間は失敗するもんです。現に21世紀に入ってからも戦争は起きてますんで、その備えはしなくちゃいけないんじゃないか? と言うと、備えが必要だ、ということは戦争の可能性は認めているんで、それはやがて戦争そのものを認めることにつながる、と返される。
 理念的には完璧に近いところまで行っているのが戦後日本の平和主義です。人間の生の現実を積極的に無視するからこそ、そうなっているのです。しまいには、現実に犠牲を強いるところにまで至るでしょう。それはまずい、という感覚が保守的なものです。
 同じく、進歩も平等も自由も伝統も、「~主義」になって、それらの理念を最高価値にすると、きっと同じような弊害に陥るでしょう。保守主義は、どうやら、進歩主義者が自分たちと敵対する勢力をこう呼んだのが定着したもののようですので、元々人々に犠牲を要求するほどの輝かしい理念はないはずですが、「なんでもかんでも、昔のほうが良い」と言いたげな人はいますから、できればこの言葉も避けたほうがいいですね。
 それからもちろん、個人主義、というのもまずいでしょうね。個人以外に一切の価値を認めない、と言ったら、無政府主義と同じになってしまう。本当の意味で個人を立てるためには……これは以前に申しましたことで、後でできるだけに肉付けしたいと思っておりまして、今はご容赦ください。
 それで、保守的な態度のほうなんですが、これは人間が生きる現実の感覚に基づき、「足りない」「行き過ぎ」を判定しようとするものです。それこそ言挙げしなくても、誰しも、やっていることなんです。自由平等進歩伝統のような理念の輝かしさはなく、現実を変えるだけの力もなく、「そこまでやる必要があるのか」というような、微温的な現れ方をしますんで、恰好良くもない。しかしこれこそ、人の世の「正気」を保つ土台です。
 だからまた制度のほうでは、民主主義や社会主義などの理念で運営されるのは当然であるとしても、それとは別に、「私」が息づく場所はつぶさないように心がけるべきです(いや、放っておけばいいんですがね)。それが失われるなら、結局人間性と呼ばれるもののすべてが目に見えなくなるでしょうから。実はその危険は、案外たくさんありそうに思います。

 お答えになりましたかどうか。私としては、懸命にない頭を絞って、自分の一番根底の信念、と思えるところを開陳いたしました。それに免じて、足りないところや失礼なところはご容赦ください。
 また何かありましたら、きっとあるでしょうが、どうぞご意見をお寄せください。
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