由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

近代という隘路 その7(最終回)

2011年07月31日 | 近現代史
メインテキスト: 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社 平成20年 平成21年第16刷)

サブテキスト: 石光真清『石光真清の手記三 望郷の歌』(中公文庫昭和54年初版 平成10年第11版)

 石光真清の手記を読んだ人の記憶に、多くの場合最も鮮やかに残るのは、真清と同郷の、熊本出身の軍人、本郷源三郎の事績であろう。
 本郷は貧農の家に生まれたが、成績優秀な勉強家であったために、陸軍幼年学校に進み、そこで真清と知り合い、無二の親友となる。途中学費が続かなくなったとき、真清の叔父の野田豁通(のだ ひろみち。後に陸軍監督総監)などが中心になって援助したおかげで、無事士官学校まで進んで卒業し、軍人になることができた。
 その後、真清の妹真津子に求婚し、まとまりかけたが、石光家の母がその頃急に易占いに凝り出していて、この結婚は大凶と言われたので、反対した結果、破談となった。納得がいかない本郷は、真清と絶交する。
 因みに、この石光真津子は、後にエビスビールの取締役になった橋本卯太郎と結婚した。その孫に、橋本龍太郎・大二郎の兄弟がいる、と言うと、この時代と現代とは案外に近い、と実感されるかも知れない。(もう一つ因みに。真清の娘菊枝は、法学博士で日大学長となった東季彦と結婚した。その息子、つまり真清の孫は、作家志望で、夭折したが、若き日の三島由紀夫の親友だった東文彦である)。
 この本郷と真清は、日清戦争時、台湾で遭遇する。
 このとき、下関条約はすでに調印され(明治二十八年四月十七日)、戦争は形式上は終わっていたのだが、この条約によって清から割譲された台湾では、まだ清軍が降伏していなかったので、平定の必要があった。そしてこの地が、実質上日清戦争随一の激戦区となった。一つには、上陸してきた日本軍の数が少なすぎた。せいぜい一個連隊(一万人)の規模であることが知られると、五十万以上残っていた清軍は、武器はほとんど青竜刀と槍ぐらいのものだったとはいえ、最後の抵抗を試みる気になったのである。
 安平鎭では、頑丈な城のような豪邸に、三、四百名の敵兵が立て籠もり、たびたび日本軍を脅かした。二日間砲撃したが、全く退却しない。そこで、十名の決死隊を募って、壁を爆薬で破壊して、内部への突入を試みた。今や中隊長となった本郷源三郎の部隊も、これに次いで突撃するはずだった。 
 首尾良く爆破はできた。が、こじ開けた爆破口は狭く、一人づつしか通れない。それでも中に入った決死隊は、片端から清兵に捕まり、裸にされて壁の上に引き据えられ、青竜刀で目をえぐられ、耳と鼻を削ぎ落とされ、手足を斬られ、嬲り殺しにされていく。
 本郷は、この酸鼻な光景をじっと眺めているばかりで、動こうとしない。連絡係として立ち会っていた真清は、彼に駆け寄る。気づいた本郷は、別人のように紫色に膨れあがった顔の、鋭い視線をこちらに向けただけで、一言も発しない。敵の射撃が始まり、こちらの応戦も始まったとき、真清はその場を離れ、「絶交してよかった。僕は間違っていなかった、母もまちがっていなかった」と独りごちる(以上は手記の一巻目『城下の人』に叙述されている)。
 それから十年の歳月が流れ、日露戦争時、大連で、二人は再び巡り会う。本郷は真清に許しを乞い、義絶を解きたいと申し出る。たぶん自分はもうじき戦死するだろう。その予感がある。その前に、真清にはわかってもらわなければ、死ぬに死ねない。十年の間、安平鎭での真清の、食いつきそうな顔を忘れたことはなかった、と。
 あのとき、自分が指揮棒を振らず、中隊を突入させなかったのは、そうすれば自分たちまで全滅すると判断されたからだ。結果として決死隊十名を見殺しにしたようになったが、それは臆病からではない、と。
 真清もそれは諒解する。あのときには本郷を恨みもしたが、それは人情からで、戦では人情が通用しない場合もあるのはわかっている。本郷の判断は正しかったろう。それを聞いて本郷は「これで俺は安らかに死ねる」と、涙を流しつつ、笑う。以下はその後の述懐である。

「いい時代だった、俺は明日死んでも悔いることはない、恨むこともない。考えてみろ、御維新前だったら、俺は熊本の片田舎の貧乏百姓で一生暮らさねばならんかったろう。貴様は武士の子だ、俺は百姓の子だ。貴様などと言ったらお手打ちになる……」
「いい時代だった。この時代のためなら俺はよろこんで死ぬ、親爺もお袋も悦んでくれるだろう。貴様も祝ってくれ。わかったな」


 この言葉の通り、数日後、本郷源三郎は、旅順攻略戦の初っ端の、東鶏冠山での激闘で、戦死する。

 摘要を記しただけでも、感動して、目頭が熱くなる。もう贅言を費やすのはいやな心持ちになったが、それではこんなものを書く意味はないので、敢えて言う。
 日清・日露戦争に従軍したすべての日本人兵士が、本郷のように、時代のため国のために、よろこんで死んでいったわけではないだろう。田山花袋は、短編小説「一兵卒」(明治四十一年作)で、脚気になって戦線を離れたが、傷病院に当てられた洋館のあまりの不潔さに嫌気がさして、原隊を目指して満州の野を彷徨う兵士を冷徹な筆致で描いている。花袋自身が遼陽会戦(明治二十七年八月末)の直前まで写真班として第二軍に従軍していて、戦争の有様を具に見ている。それだけに、徴兵された日本人のかなり多くが、このような悲惨を体験をしたのだろう、と素直に納得される。
 間もなく遼陽会戦が始まろうとしているときのこと。主人公はまず、汽車、と言っても、打ち捨てられた、釜も煙筒もない車に米を積んだものを、何百人もの支那苦力(クーリー)に押させているのだが、これに乗せてくれと頼んで、輸送を指揮している下士官に断られる。「兵を乗せる車ではない、歩兵が車に乗るといふ法があるか」と。「兵、兵と謂つて、(帽子と肩章の)筋が少いと馬鹿にしやがる。金州でも、得利寺でも兵のお陰で戦争に勝つたのだ。馬鹿奴、悪魔奴!」と心で罵ってももちろん益はない。
 どこまで続くともわからぬ満州の、褐色の道をとぼとぼ歩くしかない。固いデコボコ道だが、一日雨が降ると、膝をも没する泥土となる。主人公はかつてその道を、頭まで泥だらけになりながら、三里もの距離を、砲車を押して進んだことがある。車がぬかるみにはまって動けなくなるのを、ともかく押し切るのである。終夜働いたあとは、戦闘だ。仲の良い戦友は、そのときに死んだ。それを思い出した後の主人公の心に浮かぶものは。

 軍隊生活の束縛ほど残酷な者はないと突然思つた。と、今日は不思議にも平生(ひごろ)の様に反抗とか犠牲とかいふ念は起らずに、恐怖の念が盛に燃えた。出発の時、此身は国に捧げ君に捧げて遺憾が無いと誓つた。再びは帰つてくる気はないと、村の学校で雄々しい演説を為た。当時は元気旺盛、身体壮健であつた。で、さう言つても勿論(もちろん)死ぬ気はなかつた。心の底の底には花々しい凱旋を夢みて居た。であるのに、今忽然起つたのは死に対する不安である。自分はとても生きて還ることは覚束(おぼつか)ないといふ気がはげしく胸を衝いた。此病、此脚気、假令(たとえ)この病は治つたにしても戦場は大(おおい)なる牢獄である。いかに藻掻(もが)いても焦つてもこの大なる牢獄から脱することは出来ぬ。

 その後、主人公は夜になってやっと兵站部の酒保にたどり着き、体を休めることができたものの、翌朝には脚気衝心(ビタミンB1欠乏症が、下肢のむくみや痺れだけでなく、心臓機能不全まで引き起こす場合)で死んでしまう。

 以上のようなことを長々と記したのは、これから概括的なことを述べる前に、戦場へ行った兵士にとって、戦争とはどのようなものか、可能な限り具体的に腹に入れておきたかったからである。
 時代が下るに従って、戦争の災禍は増す。例えば日清戦争(1894―95)時には日本人の誰も知らなかった機関銃が量産され、十年後には日本軍も使うようになっている。このような人を殺傷する技術は、人を助けるための医学より早く進歩するような気がする。脚気は江戸時代から知られていたのに、鈴木梅太郎が特効薬になるオルザニンを発見したのは明治四十三年(1910)である。
 兵士にとって、疾病は敵兵と同等か、それ以上に恐ろしい対手だった。日清戦争では、戦死者およそ一万三千人のうち、コレラやマラリア、脚気で死んだ者が一万人に達したと言われる。健康で戦闘に参加したほうが、生存率はずっと高かったわけだ。七月に行われた「戦後の戦闘」である台湾討伐ではこれが特にひどく、石光真清もコレラで死にかけ、従卒(将校の世話を主な任務とする兵士)の献身的な看護で助けられている。
 日露戦争になると、戦病死者約八万四千人のうち、病死者は三万七千人、そのうちの七割を脚気による者が占めた。脚気は麦飯で予防できることは以前から経験的に知られていたが、陸軍軍医監石黒忠悳(いしぐろ ただのり)やその後継者の森鷗外(日露戦争時には第二軍の軍医監だった)が頑固に細菌原因説を採り、白米を主食とすることにこだわった話も現在ではよく知られている(以上の記述は主として内田正夫「日清・日露戦争と脚気」による)。
 しかし一方、自分で作った米を食べられない貧農や都市の下層民にとって、白米は「銀シャリ」と呼ばれた御馳走であり、その魅力に惹かれて徴兵をいやがらずに、むしろ進んで軍隊へ来る場合もあったと言われている。もっとも、そうなると、白米さえあれば副食品のおかずはどうでもいい感じになるから、ますます粗食になって、栄養不良から病気が蔓延する原因にもなったろう。
 以上からもあらためてわかるのは、前回紹介した秋山真之の言葉に見えるように、大東亜戦争以前の日本では、兵は消耗品扱いだったが、一般庶民のうちでも最底辺に属する者たちは、それに劣るとも勝らない状況に置かれていた。明治二十五年頃、士官学校から残飯を払い下げてもらい、これを売る「残飯屋」という商売が繁盛したことは松原岩五郎『最暗黒の東京』にも書かれている。その後、前々回述べたようなありさまで、資本主義の進展は、成金以上に下層民を生みだしたろう。
 最大の問題は、優勝劣敗が当然とされ、雇用対策も貧民救済策も、政策としてはほとんど採られなかったことであろう。当時の日本国家にとって、兵になる以前の下層民は、消耗品ですらなかったのである。支配層が、表面上だけでも、彼らの民生を気にかけねばならなくなるのは、ずっと後になってからのことだ。
 近代国家は国民の存在を前提にするが、「国民」はまず、総力戦を戦い得る兵士として、国家によって必要とされ、見出される、ということである。徴兵された兵士が出征すれば、酷使される半面、国運を直接担う「国士」として、国内ではそれなりの扱いを受けた。演説会に呼ばれ、盛大な壮行会も開かれる。うまく生還できたら、各地に凱旋門が作られて華々しく故郷に迎えられ、あわよくば地元の名士にもなれ、そうでなくても年金はつく。若者の功名心をくすぐるには十分なものがあった。
 近代化の道筋としては、こういうのが唯一のものだろうか? 日本の近代を考えると、どうもそう思えるのだが、それは過ぎたことを後から眺めているからだろうか? それはよくわからないが、事実の問題として、日本の一般庶民は、まず兵士として、福沢諭吉が求めたような、「独立した」国民となり、それが国内の隅々まで行き渡った後、「国民」という立場そのものをも相対化し客観視する「近代的個人」が時折現れるようになったのである。
 前者の国民形成の具体的な効用はというと、本郷源三郎の言葉にあったように、江戸時代までの身分制度を完全に破壊したことであろう。国内ではどんな社会的なステータスにあろうと、戦場では等しく一兵士として働くことができなければ、近代的な軍隊とは言えないのだから。これほど実際に即した、有無を言わさぬ合理主義はない。
 前回私は、不用意に、西洋的合理主義と日本の不合理、てなことを言ってしまったが、兵士を使い捨てにして顧みないのも、人命最優先という戦後の常識をカッコに入れて考えれば、非情な合理主義そのものである、とも言える。この合理主義のもと、貧農出身の将校は軍人としての本分を尽くしたと信じて、満足して戦闘で死に、豊橋の、比較的豊かな農家出身である一兵卒は、拭い難い不全感を抱きながら、病死する。どの場合でも、「皇軍の兵士」であることに変わりはない。
 そして彼らの傍らには、部下思いとして知られ、ために「軍神」と祭り上げられた橘周太や広瀬武夫がいる。結果として兵を見殺しにすることもやむを得ない場合もある戦場だからこそ、下級兵士の身を案じ、そのために死ぬような上級兵士の言行は、美しく語られる。そしてこれまた「国民の物語」の一部として、近代国家の成立に寄与する。
 最後に、戦死した兵たちは「英霊」となる。一身を投げ打って国家のために尽くした兵士たちの存在こそ、国家が価値があるものとして存在する何よりの証拠ではないだろうか? かくして、ベネディクト・アンダーソン(『幻想の共同体』)が指摘したように、特に無名兵士を祀ることが国家の枢要な儀式となり、それを通じて国家という共同幻想は強固なものになっていく。
 それだけではない。加藤は、日露戦争直後から昭和初期まで、満州は「二十億の資材と二十万の生霊」で贖った地だ、というようなレトリック(言い回し)が、最初は山縣有朋あたりから、言われるようになったと記している(P.149)。日露戦争だけでもそれだけの犠牲を出した場所なのだから、簡単に手放せるものではない、という意味だ。兵士は、生きているときには消耗品でも、死ねばこのような意味ある存在になる。そして、元は国の都合で拵えられたその存在が、と言うよりその思い出が、今度は国家を抜き差しならぬところまで追い込むのである。

 日本の近代史を、この後大東亜戦争から現代まで、自分なりにたどるのは、もう少したってからにしたい。
 次回からは、日本での「近代的自我」の成り立ちを、文学作品から考えてみたいと思う。近代文学は例えば、日露戦争後に、平凡な一人の兵隊の生と死を主題として取り上げた。これこそ、それまでにはなかったことである。それは人間の「自然」を描きたいという、文学者側の欲求から出てきたものだが、「国家」と、あるところで対立しながら、別のところでは補完する近代的個人の、日本的な姿はどうであったのか、あらためて興味を惹かれる。

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