由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

正しい道はあるのか? その2

2011年02月05日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

 本書の特に後半で著者が最も力を入れているのは、自由主義の批判である。そして読者である私が疑問を感じるのも、その部分に集中している。
 その検討に入る前に、自由主義の根源について、サンデルの見解を基に瞥見しておく。
 前回紹介した、政府の干渉はいっさい不要とする立場は、経済面に限ってもなお少数であろう。「他人の自由を阻害する自由」なんてものまで認めたら、実際上自由はほとんどなくなってしまう。それなら、自由主義の哲学とは、自由のために自由を制限する原理をどのように建てるか、こそを専ら考究するべきものだろう。
 敵を論難するにしても、くだらない連中ばかり相手にする議論ならそれ自体くだらない。自由主義批判のためには、この主義のチャンピオンにご登場願わなくてはならない。サンデルが選んだ相手は、申し分なさ過ぎるほどの二人である。イマヌエル・カントと、ジョン・ロールズだ。
 この大哲学者たちの全貌を要約する、なんてことをこの私が夢想しているわけではない。私は、彼らについてサンデルが紹介したものを、さらに自分の問題意識に応じて略述しようと思うだけだ。あまりにも見当外れのことを述べた場合には、諸賢のご叱正をお願いしたい。

 カント哲学のうち、重大なものとしてサンデルが挙げているのは、「人格の尊厳」の概念である。これを生かすために人が心がけるべきポイントは、以下の二つであろうかと思う。
(1)一人の人間は、決して、単なる手段・道具として扱われてはならない。たとえ、一般に立派な目的とされるもののためであっても。それを認めたら、結局は人格の完全否定に行き着く。
(2)人が責任・義務を感じるべきなのは、結果よりも動機についてである。全知全能ではない人間が、行為の結果に完全な責任を持てるなんて、あり得ない。しかし、自分の内心の動機に関しては、理性的な人間ならそれができるはずだ。
 サンデルはそう言っているわけではないが、この原理を適用すると、前回挙げた「暴走する路面電車」の問題に解答できそうだ。「仮定2」で、デブを突き落としてはならない。どんなデブでも一個の人間である以上、電車を止めるための道具として扱われてはならないから。それによって五人の人間が死ぬことになっても、それは結果なのだから、責任を感じる必要はない。同じく、「仮定1」で、五人を助ける「動機」で、「結果」として一人を殺すことになっても、それは容認されなければならない。
 と、いうことで、完全に納得できる人は少数だと思う(私も納得していない)が、解答への有力なアプローチではあるだろ。(デブをナメるなよってこと、ではない。念のため)。
 以上でだいたいわかるように、カントの自由主義と呼ばれるべきものは、たいていの反自由主義よりも厳しい戒律を要求する。人格が尊重されるべきなのは、自由で自律的な人間のみが、この世界に普遍妥当する法則を見つけられると期待されるからで、動物的な欲望やエゴイズムはむしろ邪魔なのだ。逆に言うと、後者に由来する欲求の虜にはならず、そこから自由であることこそが肝心なのだ。
 これも前回挙げた、便乗値上げなどは、他人の困窮を利用して金儲けを企む、最も悪しき動機によるものだから、最も忌むべきだ。たとえその結果、被災地の復旧が早まるとしても、そんなことは問題ではない。
 また、売春はいけない。男女双方が合意の上でやるんなら、誰も困るわけではなし、いいじゃないか、なんてことにはならない。このとき、男は女を、欲望を満たすための道具として利用するのだし、女のほうでは男を、金儲けのこれまた道具として、利用するだけだからだ。人と人との交りがそんなものだけになったとしたら、人格の尊厳のための基盤は雲散霧消してしまう。
 嘘もいけない。それはどういう場合でも、相手に偽情報を与えて、自分のつごうのいいようにふるまってほしいという、不純な動機から発しているものだから(しかし、「言い逃れ」ならいいという、カント自身がやった、なかなか笑える話は、P.174~175にある)。
 カント倫理観の弱点は、現実に、厳密に適用することはたぶん不可能だというところにある。すべての人間がそんなに立派な内面を備えられるわけはないし、結果はどうしても気にせずにはおれないし。だから世間は、「結果良ければすべて良し」=「結果が悪ければすべて悪し」になりがちだし。
 しかし原理としては、「すべての人間は個人として尊重されねばならない」という、今も普通に言われているモットーに、最上の根拠を与えるものだろう。それはサンデルも認めているようだ。
 
 カントは政治哲学者ではない(たぶん、そういう分野自体がカントの時代にはなかった)から、具体的な社会制度についての言及はほとんどない。社会契約説は既にあったが、誰もこの社会で生き始めるときに、契約などしていないのは明らかなのだから、仮想上のものであることは当然である。それはそうと、社会とはそもそもどのようなものであって、どうであるのが望ましいか、カントからは直接学ぶことはできない。彼の「人格の尊厳」概念と両立する形で、二十世紀も後半になってからそれを構築しよとうとしたのが、サンデルによると、ロールズなのである。
 そのための方法論「無知のベール」については、あまりにもよく知られているので、ここで繰り返す必要は感じられない。この思考実験から導かれた望ましい社会の姿は、次のようになる。
 社会の中に競争があり、その結果格差が生じること自体は、解消できない。考えるべきなのは、そこから来る害悪を、どうやって減らすか、なのである。具体的には、(1)どのような人種的・宗教的・経済的なマイノリティ(少数派)にも、平等な権利が認められるべきこと、(2)社会の最底辺の階層の利益に一番適っていること、が社会制度の眼目とされるべきである。
(やっぱり「無知のベール」にほんの少し触れると、あなたが、最小のマイノリティに属し、経済的にも最低の部類に属するかも知れない、と考えたとしたら、上のような制度こそ望ましいと考えるはずだ、そして、それこそが「正しさ」を計る唯一の尺度だ、とロールズは主張する)。
 さて、このような考え自体は、わざわざ言うまでもなく、自明であると言う人もいるだろう。マイノリティへの差別撤廃も、弱者救済のための各種の社会保障も、先進国では、公には、当然のこととされている。それがうまくいっていないとすれば、基本的な「考え」の問題ではなく、制度設計や、制度を運営する人間に問題があるからだ、と。
 ロールズはもっとラディカルなことを考えている。彼は、個人の背丈を超えた価値、だから個人がそのために奉仕すべき価値が、社会の中に存在することを認めない。そんなお題目は、無意味であるだけではなく、躓きの石であり、人を欺く口実に使われる。早い話が、上の二点がなかなかきちんとは実現しないのは、「他にもやるべきことはある」などと思われているからだ。それなら、最優先されるべきなのは何かに関する認識が、定められる必要は今もある。
 この地点でロールズとサンデルは決定的に分かれる。しかし一致するところもある。
 ロールズは、現に生きている人間以外の価値を認めず、個々人の自由は可能な限り保障されるべきだとしている。にもかかわらず、最高の金持ちが金を出して、最低の貧者に与える「所得の再分配」は正当だとも言う。なぜか。
 例えば、イチローが千八百万ドルの年俸をもらうのは、彼の超人的な努力の賜物であり、他人からの「借り」など感じる必要はない、と一見思える。しかしよく考えると、その「努力ができる能力」を含めた才能は、彼個人だけで獲得したものと言えるだろうか(遺伝と環境が決定的な因子になるだろう)。さらに、彼が、野球というスポーツがこれほど人気のある時代と社会に生まれなかったとしたら、普通のサラリーマンが一生かかっても絶対に獲得できない金を一年で稼ぐなんて、不可能だった。そういう意味では、イチローの稼ぎは、幾分かは社会の恩恵を受けているのだから、その金の一部を、逆に、この社会では恵まれない境遇にならざるを得なかった人々に与えるのは、理にかなっている。
 どうも私のまとめ方が悪いせいか、屁理屈にも聞こえるな。サンデルが用意した、もっと適切な例を出そう(P.21~24)。
 2008年~09年の金融危機のとき、ブッシュ大統領は、大手銀行や金融会社救済のための公的資金導入を議会に求めた。それは通ったが、大方が予想したように、評判は悪かった。中でも、こうして救済された会社の一つ、保険会社AIGの幹部の中で、一億ドルを超えるボーナスをもらっている者もいることが判明した時には、多くのアメリカ国民の憤激をかった。もっとも、好況時には、この幹部のボーナスは、その二十倍にも及んだらしいが。会社の稼ぎからでなく、公金即ち税金から、破綻した会社の役員に、多額の金が支払われるとなれば、アメリカでも日本でも、多くの人が、不当なことが行われたと感じる。
 「でも」と、幹部の一人が言ったらしい。「会社が依然として業績不振で、公金からの補助を返せないでいるのは、今の経済状況のせいでもあるんです。我々だってできるだけ努力しているんです」
 大いに、そうかも知れない。しかし、業績が伸びないのは幾分かは社会状況のせいであるとしたら、業績が伸びるのも幾分かはそうであろう。それなのに、その時の収益金は全部「自分のもの」としたのはおかしくないか? 困ったっときには国から助けてもらうんだから、儲かっているときには国に、即ち公の側に、幾分か納めるべきだろう。
 
 以上は理にかなった考え方だと一般にも認められるだろう。累進課税の正当性は、こう考えなければ出てこないのだから。
 たくさんの金を稼いだ人ほどたくさん社会に還元すべきだ、とは考えられていないとしたら、累進課税どころか、税率というものが既に不当だということになるだろう。税金とは、公共サービスの対価であるだけなら、消費税や公共料金がそうであるように、一定のサービスは一定の料金が課されるしか、正当なことはないはずなのだ。
(まあ実際は、税金は、取れるところから取ったほうがいいから、ということで累進課税が用いられている面は否定できない。月収二十万円の人から二万円貰うより、月収一千万円の人から五百万円貰ったほうが楽だ。五百万の金は、そんなに簡単には使えないから。しかし、正当化のための理屈はやっぱりあったほうがいい)。

 人格の尊厳の原理やら、正しい社会制度の原理については、サンデルはけっこう、彼が自由主義者と呼ぶ人々と共通していることがわかった。違いが出てくるのは、もっと別の面、「この人生をどうやって充実させるか」に関するところなのである。
 そこでの私の疑問の核心を一番短く言うと、こうだ。人生の問題を、「正義」ということと、必ず関連させなければならないものだろうか?

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