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由紀草一の一読三陳

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正しい道はあるのか? その5

2011年02月20日 | 倫理
メインテキスト: マイケル・サンデル 鬼澤忍訳『これからの「正義」の話をしよう いまを生き延びるための哲学』(原著2009年刊 早川書房平成22年5月 同年9月87版)

サブテキスト:田中克彦『ことばと国家』(岩波新書昭和56年)

 閑話休題。
 前々回私は本書第9章「たがいに負うものは何か?―忠誠のジレンマ」中に出ている問題を取り上げたのだが、サンデルが提出している最も困難な課題は棚上げにしてしまった。それは、共同体が犯した罪を、個人が、自分のものとして引き受けよ、という要請である。それも、自分が生まれる前のできごとについても。例えば日本なら、かつての従軍慰安婦への非道を償う責任が、現在の私たちにある、とされる。
 「自分の国が過去に犯した過ちを償うのは、国への忠誠を表明する一つの方法である」(P.303)。
 同意されるだろうか? これに答えるためには、サンデルが直接には述べていないことについても、あれこれ考慮されなければならない、と私は感じる。

 まず、国家に対する忠誠心、などと言うと、少し前の日本なら、直ちに忌避されたものだ。忠誠なんて言葉自体、封建的でオクレているものの代表だった。今は、いわゆる保守化傾向の世の中で、そうでもなくなったのだろうか?
 あまりよくわからないけれど、国家共同体にまつわる、難しい問題はまだなくなっていない。それは、ここまで大きくなってしまうと、普通の個人には全体を見渡せなくなってしまう、という事情に由来する。
 家族や地域共同体なら、人が実際にその中で育つのだから、疑いようのない具体性を備えたものとして個人の前にある。いや、それ以前に、これら共同体内部の人々との交流を通じて、あなたはあなたという一個の人間になるのであって、あなたと、あなたの家族や故郷とを完全に切り離すことは決してできない。
 つまり、あなたのかけがえのないアイデンティティの一部がそこにある。それに対する忠誠などという「他人行儀」な言葉は、ふつう似つかわしくない。それは前々回に詳しく述べたことである。
 国家の場合、ただちにそうとは言えない。日本のような、さほど広くない国の場合でも、大部分が行ったことのない土地だし、そこに住む国民の大多数が見知らぬ他人だ。そこに同胞意識が生まれるためには、特別な教育が必要とされる。そのために、学校がある。
 以前私は、「学校のリアルに応じて その4」で、近代の勤め人のエートスを身につけるために、学校は必要だと書いた。それとは少し次元が違うところで、学校は、国民国家の、国民を形成する役割も果たす。
 と言って、「学校にそんな大それたことができるものか」と呆れられた経験が、これまで何度かある。それはそうだ、中でやっていることだけを考えれば。
 例えば、かつて標準語普及のために、学校で「方言撲滅運動」というのが実行されたことがある。現在、方言がなくなったわけでもないし、なくそうという人もいないと思うが、日本ならどこへ行っても、言葉がまるで通じなくて困る、なんてことはまずなくなった。その、最大の功績は、どう考えても、まずマスメディア、の中でもラジオ、次にテレビ、という電波媒体にあって、学校ではない。学校だけだったら、どんなに子どもを虐めても、とてもこうはいかなかったろう。
 重要なのはそれ以前なのだ。我が国では明治五年に「邑に不学の戸なく、家に不学の人なからしめん事を期」した学制ができ、小学校の就学率は当初こそ三割に満たず、農村部では、労働力として当てにされていた子どもを、学校なんてわけのわからないところへ取られるなんて馬鹿な話があるか、という理由で一揆まで起きたくらいだったが、明治末までにはほぼ100パーセントを達成した。この時期から日本では、学校はあるのが当たり前であり、子どもはそこへ通うのが疑いの余地のないものとなった。
 学校が子ども期を制度化し、さらに中高等教育の拡大によって、その時期は次第に延びて、前時代にはあまり一般的ではなかった「青年」という階層が普通のものとなった。それは国家の意思である。あなたが「子ども」というと漠然と思い浮かべる、イメージの大本を作ったのは学校なのだ。
 中でやることだって、全く問題にならないわけではない。達成されることだけ考えたら、半分以上の人が、学校で習ったことなんて、社会へ出たらたいてい忘れるよ、と言うかも知れない。しかし、何しろ、全国統一カリキュラムで、日本語を使って、国語とか算数とか、やることはやるのである。地域にも社会階層にも性別にも左右されない、共通の経験は、国民全員に与えていると言っていいだろう。
 それだけか、と言われるかも知れないが、それだけでも、あるのとないのではえらい違いだ、とは納得されるのではないだろうか。

 学校の話のついでに、日本ではあまり気がつかれない、次のことにも触れておこう。
 アルフォンス・ドーデの短編集『月曜物語』中の「最後の授業」は、以前はよく教科書に載っていたから、かなりよく知られているだろう。独仏両国にはさまれたアルザス地方で、フランス語の教師が最後の授業をする。教室には子どもたちだけでなく、大人も混じっている。教師は言う。この地方はドイツに占領された。明日から学校でフランス語を教えることはできず、自分もどこか他へ行かなければならない。しかし、忘れないでほしい。フランス語は「世界じゅうでいちばん美しい、いちばんはっきりした、いちばん力強いことば」なのだ。「たとえ民族が奴隷の身にされようとも、自分の国のことばを守ってさえいれば、牢屋のカギを握っているようなもの」である。そして彼はいつものように授業をした後、黒板にVive la France!(フランス万歳!)と大書して、皆に別れを告げる。
 美しい物語だ。しかし、『ことばと国家』(「最後の授業」中からの引用も、同書による)などのおかげで、次の事情も今ではよく知られている。
 フランスではアルザス・ロレーヌ地方、ドイツではエリザス・ロートリンゲン地方と呼ばれる地域は、ヨーロッパ史の中で、領有権をめぐって複雑な争いの舞台になった。1648年のウェストファリア条約で、神聖ローマ帝国からフランスに割譲されてから、公用語はフランス語となったが、土着語のアルザス・ドジン語は、ドイツ語の方言とみなすべきものである。「最後の授業」の時代背景は1871年の普仏戦争だが、この時代でもフランス語が生活の中で定着していなかったことは、「ドイツ人たちにこう言われたらどうするんだ。君たちはフランス人だと言いはっていた。だのに君たちのことばを話すことも書くこともできではないか」という先生の言葉からもわかる。
 つまり、「最後の授業」が描く、母国語(フランス語)が奪われることに対する抵抗の物語は、その奥に、もともとフランスがこの地方の土着語を住民から奪おうとしてきた事情を隠している。田中克彦などは、これがつまり国家というもののやり口であり、同一言語を話し同じ過去を持つ「国民」というものは、むしろ後からでっちあげられるのだ、と論じる。
 私は、その面もあることは否定しない。
 人が生きるとは物語を生きるということだ、とサンデルはアラスデス・マッキンタイア『美徳なき時代』を援用して述べている。自分が地域的歴史的に形成されたある集団の一員であり、そこである役割を背負う、と考えることは、契約によって他者とつながる、という個人主義の考えよりずっとダイナミックでエキサイティングな「生きる意味」を与える。国家はその中でも、民族の物語という、最も大きなものを与え、またそれを基盤にして成立している。
 しかし、それが物語、と呼ばれてもいいのは、客観的に確実な根拠はないからだ。その意味では、フィクションの部分が非常に大きい。学校は、このフィクションを伝える場なのである。例えば、お前たちはもともとフランス人だったのだ、これから政治体制は変るかも知れないが、フランス語を忘れない限り、その「事実」はずっと続く、というような。
 「最後の授業」の場合ほどフィクションがはっきりしている例はむしろ稀だ。特に島国日本など、「一民族一国家」がほとんど疑われることがないぐらい、国家幻想が深く浸透している、とも言えるかも知れない。私の先祖など、いつどこから来て、どういう人の血と混じって、その結果今私が日本人として生活しているものやら、皆目わからない。それでも、全く平気で、「日本人」をやっている。
 正直なところ、このような「アイデンテティの根拠」には、あまり興味もない。国民意識を、根拠のない幻想であるとして解除したとしても、今度は例えば「階級意識」なる、別の物語に取り込まれるのがオチだ。20世紀は、そのための大実験が世界的に行われた時期だったと思う。

 とはいえやっぱり、国家というデカすぎる物語は、ときに我々をとんでもないところへ連れて行く可能性があることは、確かである。
 他の人もたいがいそうだと思うが、私はふだん自分が日本人だなんて特に意識することはない。が、TVでオリンピックやサッカーのワールドカップやWBCを見ると、自然に日本チームを応援している。その一方で、日本人一般が侮辱されたと感じたら、平静ではいられない。昔、日の丸が焼かれる映像を見て、嫌な気になったものだ。日本人が別の国の人に、不当に扱われたり、極大だと虐殺されたと知れば、怒りもする。
 我々を主に動かすのは後者の感情だ。本ブログの最初「学校のリアルに応じて その1」で、小グループの排他性ということに触れたが、それは大グループにもある、ということである。人と人をつなぐ原理は、同時に人を遠ざける原理にもなる。
 戦後日本で、国家や、「集団への忠誠」がいやがられたのは、この面が強調されたからである。それは結局、差別や虐待、さらには戦争の温床ではないか、と。アメリカのリバタリアンもまた、その面で、共同体を警戒しているのだろう。
 だからサンデルは、共同体の過去の罪業も背負え、と言ったのだろうか? 「ユダヤ人に対してドイツ人が、アフリカ系アメリカ人に対して白人のアメリカ人が負うように、歴史的不正への集団的謝罪と補償は、自分が属さないコミュニティに対する道徳的責任が連帯から生み出されることの好例だ」と彼は、冒頭に挙げたP.303の引用文のすぐ前に書いている。
 このような道徳的責任は、共同体を外へと開いていくものだろうか? そうだとして、その前提についても、効果についても、まだ考えるべきことは多い。
コメント
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