由紀草一の一読三陳

学而思(学んで、そして思う)の実践をめざすブログです。主に本を読んで考えたことを不定期に書いていきます。

学校のリアルに応じて その1

2011年01月16日 | 教育
メインテキスト : 菅野仁『教育幻想 クールティーチャー宣言』(ちくまプリマー新書 平成22年)

 良書である。教員としてとっくに知っていたはずのことに、改めて気づかされた。

 最近(といっても私が教員になってからもう顕著であったから、軽く四半世紀は経っている)の学校では、生徒たちは、クラス内で、2人~6人から成る、小グループで過ごすことが多くなった。以前から、基本的に同性同士による、「仲良しグループ」はあったに違いないが、その存在感が非常に大きくなった、と言ってよいだろうか。逆に言うと、30人~40人の、クラス全体で何かをしよう/しなければならない/したほうがよい、とする意識は、非常に薄くなっている。
 その理由は、というより同じことを別の角度から言うだけかも知れないが、大きな集団を率いるリーダーが非常にできにくくなっている。文化祭などのイベントのとき、クラスで何かをしようとして、クラス委員などが一定の方向で皆をまとめようとしても、そのこと自体がウザがられてしまう(実は、教員が同じことをしようとしても、往々にしてそうなる)。

 以下具体例。
「じゃあ、おでん屋をやろうな。みんな、買い出しと、調理と、販売と、宣伝と、会場作りの係のどこかへは入って」
などと呼びかけても、クラスの半数以上に知らん顔をされたりする。「オレ、おでん屋なんてやりたくねえもん」「かったりい。やりたい人がやれば」等々と、口に出すか、より多くの場合、態度で示す。「放課後に仕事をするから、残って」と言っても、帰ってしまう。
 
 やや脱線。それでも文化祭はできる。半数以下の人間が仕事をするからだ。それも各分野毎に、少人数で、横の連絡もほとんどなしに、勝手にやる。調理がやりたければ、その人間が自分たちの裁量で食材を買って来て、やる。飾り付けが好きな者は、手にはいる限りの材料で、好きなように会場を整える。一人の人間が複数の分野にまたがって活躍することはあるが、一人ではやらない。最低二人でやる。ただし、協力者は多くても四、五人は越えない。これが即ち「仲良しグループ」の規模である。文化祭のときの作業に限って言うと、最初は係でなかった者が、「なんだか面白そうだな」と途中から加わることもあるし、係だった者が「面白くないから」と帰ってしまうこともある。
 それでもできる。それでできるようなことしかやらないし、やらなくてもいいのが文化祭だから。今の文化祭の、クラスの催し物は、たいていそんなふうにしてできあがっている。

 元にもどって。
 大集団の中で、一定の役割を、責任をもって果たす、ということは、敬遠される。そんなこと、つまらないし、意味も感じられない。授業と、他にはホームルームと掃除ぐらいしかやることが定められていないふだんの学校生活では、自然にそうなる。勉強は、結局は一人でやるものだ。仲間なんて必要ない。それなら、一人で過ごしてもいいようなものだが、そうはいかない。休み時間、特に昼休みを楽しく過ごすための居場所を確保する必要はあって、そのためにグループが形成される。

 これだけなら、こんなグループなんて大したことはないじゃないか、と思われるかも知れない。前に言ったことの反対が、これの特質になるはずだから。
 まあ、その通り。集団として追及すべき目的などない。お互いに関する責任など、特に感じられない。このグループはまず第一に、いっしょに昼ご飯を食べるためのものだ。それから、休み時間に適当にダベったりふざけ合ったりして、まったり過ごすための。特に女子の場合、いっしょにトイレへも行ったりする。放課後や休日にいっしょに遊ぶことはあるが、そうでないグループもある。
 いずれにしろ、「責任」なんぞという大仰なものを背負わなければならないとしたら、グループの本来の主旨に反する。笑いのタネにできるような愚痴ならいいが、場の雰囲気が重くなるような深刻な悩みを、ストレートに口にするのはタブーである。そんなことをするために集まっているわけではないからだ。
 そう、こういう仲良しグループにもルールはある。結局のところ、ホンネは言えない。だから、グループのメンバーではあっても、自分のことを本当はどう思っているかはわからない。どういう意味でも、相手を本当に必要にしているわけではないから、いつ解消されても不思議はない。実際、ちょっとしたことがきっかけで、グループが崩れることもあり、そうなるとそこで、取り返しがつかない人間関係上のしこりが残ったりもする。
 
 というようなわけで、「目的もなく、責任もない」からお気楽なはずのグループもまた、独特の緊張をはらんでいるのである。4月の、新クラスが始まってまもなく、グループが形成され、5月から7月、さらに夏やみ明けと、時が経つに従って、緊張も高まる。
 メールを受け取ったら、1時間以内にレスを出さなくてはならない、そうしないのは友だちではない、などというルールが作られたりする。グループへの忠誠を示す儀式であり、冗談半分を装いながらこんなことをすることで、逆にグループの意味が生まれるようにも感じられる。いや、それもまた冗談半分だが。
 それから、みんなが知っている特定の誰か、クラスの他の生徒や先生への、悪意を共有することで、グループの意味を後づけるやり方も、非常にポピュラーだ。人間とはこれほどまでに「意味」を求める、求めないではいられない存在であることに、あらためて驚かされる。

 菅野は前著『友だち幻想 人と人の“つながり”を考える』 (ちくまプリマー新書 平成20年)からひきつづいて、このような現象を「同調圧力」「スケープゴート理論」という用語で説明しようとする(『教育幻想』P.60以下)。以下、彼が問題点として挙げていることをまとめると、
(1)このような小グループは、グループ外の者に対しては「特別に何かもめ事があるわけでもないのに、潜在的な対立・敵意から生じる緊張感を醸し出している場合が多い」
(2)「こういう小グループは、非常に親密で過度に相互に依存した形で閉じた集団になる場合が多い」
(3)「こうした小グループは、ほかの集団に対する「排他性」というものがとても強くなる」
 (1)と(3)が「スケープゴート理論」、(2)が「同調圧力」に関するものだろう。ほぼ、首肯できる。この二つは、互いに表裏の関係で結びついている事情も、察せられるだろう。
 ただ、(2)の部分の「親密さ」に関しては、普通にイメージされるのとはやや違った、現代独特の様相もあると思われ、今回やや詳しく述べた。
 わざわざ言わなくても、特に高校時代がまだ近い過去である若者は、こんなことは先刻、身に沁みてわかっているかも知れない。それでも、私が菅野の本を読んで改めて気づいたように、文章でまとめられると、「ああ、あれはこういうことだったんだ」と気づくこともあるだろうし、高校時代など遠い昔の話で、ノスタルジイで美化された思い出しかない大人たちには、伝えておいたほうがきっといいだろう。
 さて、学校内のこういった微妙な人間関係は容易に病理的なものに転じる。それの処方箋も菅野は提出している。その検討は後でしよう。

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2 コメント

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Unknown (胡瓜)
2011-01-24 20:02:11
興味深く読ませていただきました。

高校時代(20年前)の掃除の時間を思い出しました。
全員参加のはずですが、ここで解説してくださっている小グループでの参加不参加が、確かにありました。
「あるグループの、一人が掃除をして残りのメンバーはやらない」という状況はなかったように記憶しています。
やるならグループ全員が参加するし、やらないならグループ全員が隅っこで雑談、という光景。
当時、思うところがあった場面です。

今後も読ませていただきます。
ありがとうございました。
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胡瓜様へ (由紀草一)
2011-01-24 22:59:30
 コメントありがとうございます。
 グループの様相は、いろいろですよね。
 掃除は、ある特定の者だけがやることになったりしたら、当然、やる人は面白くないので、やがて誰もやらななくなる、ということは体験しています。
 胡瓜様のは、それとは違うかも知れませんが。
 
 今後とも宜しくお願いします。
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