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由紀草一の一読三陳

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悲劇論ノート 第8回(神の不在証明による存在証明)

2025年03月11日 | 


福田恆存/村田元史演出「カクテル・パーティ」劇団昴公演 昭和56年 三百人劇場

 一昨年の9月に続き、今年の2月16日、日本演出者協会主催の「日本の戯曲研修セミナー」に招かれ、福田恆存「龍を撫でた男」について話をしました。この戯曲については以前に当ブログでも触れたことありましたがあらためて、正面から本格的に、となるとなかなか難解であることが実感されます。
 最初に、福田による「作者のことば」を挙げておきます。これはこの戯曲が発表された『演劇』昭和27年新年号に掲載されたもので、その後の自作解説に比べて、執筆直後の、一番素直な気持が出てゐるやうに感じられます。また、福田の各種の全集や評論集には未収録なやうですので、全文を示す価値があるでせう。

 この芝居にはじつは三つの下敷があります。それは三つの作品のシチュエイションをまねたといふことです。翻案とすべきかもしれませんが、それではわたくしの良心が許しません。あんまり種あかしをすると、作者のオリジナリティーを疑はれる心配があるので、こゝにはそのうち、いちばん罪の軽いやつを申しあげることにします。みなさんのうちにはエリオットの「カクテル・パーティー」の幕切をおぼえてゐるかたがあるかもしれませんが、わたくしは「龍を撫でた男」の第一幕をそこからはじめたらどうなるだらうかと思つて筆をとりました。もちろん、日本はクリスト教国ではありませんので、登場人物の性格や役割は当然ちがつてまゐります。わたくしはライリー卿とエドワードとを同一物(ママ)にしてしまひましたし、殉教者シーリアを喜劇化してしまひました。「カクテル・パーティー」の精神病医は落ちついたものですが、「龍を撫でた男」のそれは、最後に気が狂つてしまひます。どうも困つたことですが、やむをえませんでした。わたくしにはこれをまともな演劇の形式美にまで高める力がないよう(ママ)です。

 私はここで言はれてゐる「三つの下敷」にこだはつてみました。一つは「カクテル・パーティ」であることは作者本人が明らかにしてゐますが、あとの二つのうちの一つは、ルイジ・ピランデッロ「エンリーコ四世」(「ヘンリー四世」の名で、昭和42年、劇団雲によって上演された)ではないか、といふのが私の昔からの思ひ込みでした。
 それは本記事では触れません。発表のために、「龍を撫でた男」を通じて「カクテル・パーティ」を再読・再考して、前の記事にも書いた現代的な信仰の問題がここで深く追求されてゐることを納得できるやうに思ひました。これを土台として現代劇を作らうといふのは、宗教的感情=超越的なものに関する感覚が失はれてゐることを劇にする、といふことで、いはば裏側から悲劇を創造する試みと言へさうです。
 以下ではこの見地から「カクテル・パーティ」を分析し、さらにその問題意識を日本的に受け継がうとした「龍を撫でた男」についても少し考へます。

 T.S.エリオットの三幕の詩劇「カクテル・パーティ」(1949年初演)は典型的な家庭劇のやうだが、エウリピデス「アルケスティス」(B.C.438)から想を得た、といふ作者の言葉がある。前作「一族再会」は、アイスキュロス「オレステイア三部作」、特にその二作目の「供養する女たち」を踏まえて作られてゐることは、登場人物が突然ユニゾンで、コーラス(コロス)として詩の朗唱のやうなことをしたり、この世のものではない妖女エウメニデス(復讐の女神)の幻影を見る、などのキーポイントがあるが、「カクテル・パーティ」とエウリピデスの関係は、本人が言はなければ誰にも気づかれなかつたらう。

 「アルケスティス」の概要は以下。
 かつてアポロンはテッサリア地方ペライの領主アドメトスの世話になり、その恩返しのために、アドメトスの命に危険が迫つたとき、代りに死ぬ者がゐたら、助かるやうに取り扱ふ。その時が来て、アドメトスの老親は身代りを拒むが、まだ若い妻アルケスティスは受け入れる。そのときちようど訪問してゐた遠縁のヘラクレスが、事情を知つて、墓所に潜み、アルケスティスを連れに来た死神の使ひと格闘して撃退し、彼女を取り戻す。

 古代の劇らしく、大らかなものだ。ハッピーエンディングの悲劇。もつともこれはサチュロス劇(能楽の番組中の狂言みたいなもの)扱ひだつたらしいが、何しろ、劇とはこれでいいのではないかと思へてくる。
 見せ場はあるのだから。アルケスティスとアドメトス(と彼らの息子)の別れの愁嘆場。→アドメトスと、結果としてアルケスティスを死なせることにした父ペレスとの諍い。→ヘラクレスが助けたアルケスティスを、アドメトスは最初妻とはわからず、館に入れることを拒む取り違へのおかしみ、が最後に付け加わる。
 このうち特に真ん中の、アドメトス「あなたはもう充分に生きたのに、なぜ息子のために死んでくれないのだ」vs.ペレス「いくら生きても命は惜しい。他の者のために死ぬ気にはなれん」、といふ言ひ争ひは、現在読んでも非常に生彩がある。エウリピデスは討論の場面が得意で、恐らく理の勝つた人だつたのだらう。それでニーチェは彼を嫌ったのだが。それはともかく、観客は場面ごとの、俳優の所作や朗唱される詩句の美しさを愉しめばいいのであらう。
 しかし近代になると、観客の中でも、一部かも知れないが、全体の辻褄がどうたらかうたら言ひ出す人も出てくる。この話の発端は、アポロンがタナトス(死神)に頼み込んで交した約束事である。その変更には、なんらかのもつともらしい理屈付けがあつて然るべきではないか。ヘラクレスの武勇で、力尽くで破るとは、神たるアポロンに相応しい行ひとはとうてい思へない、云々かんぬん。
 もう少し文芸批評風に言ひ直すと、この作の中心であるはずの犠牲のテーマにきちんとした決着がつかず、無理矢理救はれて犠牲ではなくなるだけなので、肩透かしを食らはされたやうな気になるのだ。かういふものを今書けば、「お前はバカか?」と言はれかねないので、書けない。

 夫婦の和合と犠牲のテーマを並び立たせるためには、犠牲者は夫婦のどちらかであつてはならないのはもちろん、夫婦以外の誰かが彼らのために犠牲になるのもいけない。たとへ一見さう見えるとしても。
 すると結局どこかで肩透かしを食わせる必要が出てくる。問題は、その肩透かし自体にもつともらしい理屈をつけられるかどうかだ。

 「カクテル・パーティ」の七人の主要登場人物は明白に二つのグループに分かれる。劇が起こるのはエドワード+ラヴィーニアのチェイムバイレン夫妻+シーリア+ピーターの恋愛(か?)関係、特に前三者による三角関係の中でだ。もう一方の、ジューリア+アレグザンダ+ライリー卿の三人は、最後まで正体不明だが(と言ふか、「正体」は問題にされない)、狂言回し兼道化として要所要所に顔を出し、軽快に劇を進め、全体としてチェイムバイレン夫妻の不和を解消する働きをするやうだ。

 舞台はチェイムバイレン家のカクテル・パーティ(飲み物主体の簡易な立食パーティ)から始まる。招待状を出して客を呼んだのに、この家の主婦のラヴィーニアがゐない。田舎の伯母さんから病気の報せがあつて、と夫のエドワードは言ひ訳するのだが、客(上記の五人)は誰も信用してをらず、要するに嘘であることは一見気軽な会話のやり取りからわかるやうになつてゐる。
 やがて四人が帰り、ライリー卿(この時は「見知らぬ客」と表記されている)だけが残ると、ホストのエドワードは初対面の彼に現在の夫婦の問題を聴かせたいといふ誘惑を押さえきれない。ラヴィーニアはパーティの準備を済ますと、短い手紙を置いて家を出て行ってしまったのだ。エドワードは彼女に戻つてきてほしいと思つてゐる。しかし、それはなぜか? と問はれると、答へは見つからない。そんな彼にライリーが言ふ。

これでもう階段が終つたとおもふ、するとあなたの予測に反してもう一段のこつてゐたりしますね。さあ、あなたはどうなりますか、たちまちぐらつとくるでせう。まさにその瞬間、あなたは、そのいぢの悪い階段のおもひのまゝどうにでもなる一箇の客体と化してしまつたわけだ。

 階段の思ひのままといふより重力の、と言つたはうがいいやうに感じるが、何しろ、それまで自由に主体的に動いてゐるとばかり信じ込んでゐたものが、当然あると思つてゐたものがない、ただそれだけで、その「自分自身」は失はれてしまふ。
 考へてみれば、我々はいつどこで生まれて死ぬかについて、自分の意思など関係ない、現代では偶然としか言ひやうのないものに従つてゐるだけの存在なのだ。そんなものが、自分自身に対しても、他者に対しても、どのやうな「責任」が持てるのか?

 最後にライリーはラヴィーニアはやがて戻ってくる、とだけ告げて去る。すると帰つたはずの連中が、忘れ物をしたとかなんとかの口実で次々に戻つて来る。
 シーモアは、エドワードと特別な関係だつたので、彼に対する口実はいらない。しかしその関係はもう終はりにしなければならないやうだ。エドワードは彼なりのやり方でシーモアを愛してゐるが、結局彼女の望むやうな者にはなれないし、彼女の望むものを与へることはできない。それが今やはつきりしたからだ。
 次の日、ラヴィーニアは帰宅する。彼女の不満、といふか不安は、エドワードが自分を理解しない、いや、理解するに足るほどの価値を認めてゐないのではないか、といふところにある。そんな女と一緒に暮らしてゐるのは結局彼の不幸ではないか。それ以前のエドワードは、「ほんたうの自分」であり得たはずだ、と。
 これに対してエドワードは、「きみは相変らずぼくのためにひとつの人物像をでつてあげ、そのあげく、ぼくをぼく自身から遠ざけようとしてゐるだけ」だと断ずる。ラヴィ-ニアの言う「ほんたうの自分」など、あつてもなくても、欲しくはないのだ。自分自身とは彼にとって牢獄だ。エドワードは言う。

なぜぼくは自分の牢獄から出られないのだらう? 地獄とはなにか? 地獄とは自我のことだ。地獄とはひとりぼつちのことだ、そこには他人はたんなる影としてしか映つてゐない。なにから逃げだし、なににむかつて逃げていかうといふのか、なにもありはしない。はじめからひとりぼつちなんだからねえ。

 これをラヴィーニアは理解しないのだが、エドワードが嘘をついてゐるわけではないことがわかつただけでも、一つの収穫である。彼にとつて他人は「影」にすぎないとすれば、シーモアが特別であるわけではない。嫉妬するには及ばないのだ。
 第二幕になつて精神科医であることが明らかになつたライリーは、彼らは「似たもの夫婦」なのだと評する。「自分のことを愛する能力なしとおもひこんでゐる男と、自分はいかなる男にも愛されないだらうとおもひこんでゐる女」だから。帰するところは「おなじ孤独」。
 お互いに相手をすっかり理解できないことだけは理解し、許しかつ諦めること。お互いの中に自分と同じ孤独を感じ取ればそれでよしとする。それで人間は、人間同士も、なんとかやっていける、とライリーは言う。

日常生活の軌道に乗つて着実に自己を維持し、過剰な期待をしりぞける習慣を身につけ、自分にも他人にも寛容になるのです。つまり、常識的な行動に即して、あるものだけを与へ、あるものだけを取るといふわけです。(中略)おたがひに理解しあへぬことを知つてゐる二人の人間が、朝に別れ、夕にはふたゝび相寄つて暖炉の火を眺めながらとりとめない会話を交はし、自分たちが理解できず、また自分たちを理解できぬ子供を育てていくことに、すつかり満足してゐる

 よく考へれば、人間にできる「まともな道」はそんなものだらう、と納得できる。しかし、かういふ言ひ方は、「よく考へ」させるところが問題なのである。そんなのは畢竟ごまかしでしかない、人間にとつて本当の価値ではない、といふ声がどこからか挙がることを予感させるところが。
 現にシーモアはさう言ふ。「それはあたしの心を凍らせるでせう」と。「いまさらだれかと馴れあひの生活をはじめるなんて、あたしのばあひ、どう考へても不誠実としかおもはれませんわ!」と。自分は病気なのかも知れない。しかしその自分はかつて何か夢を見た。それを忘れたくない。「それを胸のうちに温めてゐることさへできれば、ほかにはなにも要りませんし、どんなことにも堪へていけます」。
 かつて彼女はその夢をエドワードにかけた。しかしそんなものに応へるのは生身の人間には土台無理なことだつた。彼がもつと大胆な、身の程知らずの男であつたとして、シーモアとの関係を維持しさらに発展していかうとすれば、その果てには破滅しかない。人は通常絶対の次元では生きられないからだ。
 ライリーは彼女には次のやうに語る。前に述べた「炉辺の幸福」に至るのとは違ふ「第二の道」がある。あるいは、彼女が求めるものが見つかるかも知れない道が。しかしその道は「だれもこれを知るものがない、だからこそ信仰が必要なのだーー絶望から生まれる信仰がね」。
 シーモアは第二の道を進む。その後の彼女の運命は最終幕で明らかにされる。戒律の厳しい教団に入つて、衛生状態も政情も最悪な東洋のある島へ赴いて、現地の病人の看護をする奉仕活動に従事してゐた。内乱が起こり、教団の他の者も逃げ出す中で、瀕死の病人を見捨てずに踏み止まり、最後には十字架に架けられて亡くなった。
 それはシーモアの宿命だつた。彼女が庇つた病人もすぐに亡くなつたのだから、その献身は無駄だつたやうにも思へる。しかしそれは妥協のない勝利の生涯だつた。他人はその勝利になんら手を貸してゐないのと同様に、その悲惨に対してなんの責任もない。これがライリーの最後のご託宣である。

 福田恆存は昭和26年に「カクテル・パーティ」の飜訳を刊行すると、そこに精密な解説を付した(『福田恆存全集 第二巻』に収録)。そこでは原著者の意図は、「それは(精神≒神の)存在証明ではあつても、あくまで不在証明を方法としてゐる」とされてゐる。「愛と精神と神とのみごとなアリバイをつくるために、エリオットには一分の隙もない巧緻な構成が必要だつた」と。
 ある危機的な状況で、「自分とは何か」といふ問ひが立ち上がる。それで「自分」の中を覗くと、そこには何もないことに気づいて、愕然とする。自分が自分であることの根拠も意味も、見つからない。それでも、生きてゐる以上、何かをしたり言つたりせずにはゐられないのだ。
 突然家を飛び出して、多分、離婚といふ危機を招いたラヴィーニアは次のやうに述懐してゐる。

あたしはなにかの機械に手をつけてしまつた。それがいまも動いてゐるんだわ。あたしにはとめることができない。いゝえ、機械とはちがふわーー機械だとしてもそれを動かしてゐるものがほかにゐる。でも、だれでせう? だれかの手がいつも感じられるの……、あたしは自由ぢやない……、でも、けつきよく、あたしが動かしてしまつたんだわ。

 情況、つまりドラマを、動かす本当の作因は舞台の外にある。自我といふ牢獄に閉込められた人間には、それが見えない。我々近代人は、畢竟空つぽな人間(hollow men)にがらくたを詰め込んだやうなものなのだ。確かなものを見出さうとして、ぬるま湯のやうな日常から離れて困難な道を歩むとしても、その先に「絶対」があるのかどうか、それは誰にもわからない。
 しかし、近代人にとつてなんとか受け入れられさうな信仰の可能性は、ここを通るしかない。自己の矮小さを知り、その反対側に、すべてを動かすものの手を感じ取ること。自己とは、その手に操られる人形のやうなものであることを敢えて自認して生きること。福田は後にこれを演戯と呼んだ(「人間、この劇的なるもの」)。

 以上は、歴史的に絶対者の観念とは無縁だつた日本ではどういふことになるのか。その実験が、「カクテル・パーティ」訳出の翌年に書かれた「龍を撫でた男」になる。
 見やうによつては、ここでライリーは、意地悪な質問を突きつけられたやうなものだ。「他人事だから、偉さうなことを言つたり、有益なことができたやうに見えるが、これが自分の身の上に起きたことだとしたらどうだ? 果たして、どれくらゐのことができるのかね?」と。

 エドワード+ライリーはここでは佐田家則といふ精神科医である。妻帯者だが、かつて事故で子どもを亡くしてゐる。義母は心神喪失状態となり、義弟は戦争から復員して以来、何もせずにぶらぶらしてゐる。家則はそんな妻の血族と同居して、養ふ。彼らを理解するのではなく、非常な寛容をもって臨み、支えようとする。何も要求せず、決して責めず、すべてを受け入れる感じで。
 危険は二つある。第一に、すべてを受け入れ、認めるのは、相手に対する全くの無関心と見分けがつかない。第二に、すべてを認めるなど、人間にできることではない。
 家則は実は、絶望から夢想へと激しく気分の変わる妻に最初から苛立つてゐて、それを押さへてゐることが示される。妻のはうでは、自分たちが家則なしでは一日も生きていけないことはわかつてゐるが、そのやうな惨めな状態に対する不満を、時に夫にぶつける。要するに甘えなのだが、それもまた、家則は受け入れるだらう。受け入れねばならぬはずだ、と、甘えの上で生きてゐる妻とその弟はなんとなく思ひ込んでゐる。
 かういふ家族に、劇作家とその妹の女優が絡む。前者は妻の、後者は家則の誘惑者として。このうちの女優がシーモアに当るわけだが、現実の生活など退屈なだけでなんの価値も意味も認められない、と言ふところだけが共通してゐて、絶対の、永遠のものを冀求してゐるわけではない。狙つた男をモノにする恋愛ゲームに耽るだけで、それからどうするかなど考へてをらず、空騒ぎするだけの、喜劇的な存在で終わるしかない。

 主人公に戻ると、家則は一見エドワードより悲劇のヒーローに近い。頑張つて一つの世界を支えてをり、やがて敗北してそれができなくなることまで予感してゐる。「ぼくだけは気ちがひにならないとでもいふんだね……」というのが、全二幕のうちの第一幕の幕切れの科白である。
 それでもここにゐるのはヒーローのパロディーでしかない。家則は「炉辺の幸福」にそれほどの価値を見出してゐるとは思へない。ただ、妻が憧れ、劇作家が唆す「情熱的な生き方」など、その場限りの迷妄に過ぎない、といふ醒めた目を持ち、概ね同じことの繰り返しである生活に耐えるために寛容であらうとする。帰するところは自分を守るため、それ以外にはない。
 つまり、我が国では、寛容を支える精神性はどこにも見つからないだけではなく、「どこにもない」ことに気づく契機もないやうなのだ。「どうにも困つたこと」だが、このやうな内面性の中で自我とそれを支える全体性・絶対性を求めることが、評論家で演劇家であつた福田恆存の生涯の仕事になつた。


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