(関蝉丸神社下社の碑)
(大津宿 7)
関蝉丸神社の蝉丸は、百人一首の中の一人で、ボクは子供の頃、
坊主めくりで(トランプのババ抜きのような遊び)、
この蝉丸が坊主であった。
百人一首にある歌は、
「これやこの ゆくもかえるも わかれては
しるもしらぬも 逢坂の関」である。
謡曲「蝉丸」では、
(幼少から盲目の延喜帝(醍醐天皇885~930)第四皇子 蝉丸の宮を、
延喜帝は侍臣に頼み、僧形にして逢坂山にお捨てになった。
この世で前世の罪業の償いをする事が、
未来への助けになるとあきらめた宮も、
孤独の身の上を琵琶で慰めていた。
一方、延喜帝第三皇女 逆髪の宮も、
前世の業因強く、遠くの果てまで歩き回る狂人となって、
逢坂山まで来てしまった。
美しい琵琶の音色に引かれて、偶然にも弟の宮 蝉丸と再会し、
二人は互いの定めなき運命を宿縁の因果と嘆きあい、
姉宮は心を残しながら別れていく、
という今昔物語を出典とした名曲が謡曲「蝉丸」である。
蝉丸宮を関明神祠と合祀のことは定かではないが、
冷泉天皇の頃、日本国中の音曲芸道の神と勅し、
当神社の免許を受けることとされていたと伝えられる。)
(謡曲史跡保存会)
(「これやこの・・・」の歌碑)
境内には、紀貫之の歌碑がある。
「逢坂の 関の
しみずに影
見えて
いまやひくらむ
望月の駒」
貫之
(紀貫之の歌碑)
蝉丸神社の本殿左横には、国の重要文化財「時雨灯籠」がある。
石灯篭については、
(時雨燈篭の名称で知られる六角形の石燈篭です。
六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、
その上に立つ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯をつくり、
六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。
六角形の火袋は簡素なもので、火口を一ヶ所と小さな丸窓を設け、
壁面も上部にだけ蓮子(れんじ)を彫っています。
六角形の笠もうすく、蕨手(わらびて)はよく古式を留めています。
最上部の宝珠と請花は後補。――後略)よある。(大津市教育委員会)
鎌倉時代の特色を持った石燈篭として貴重なものらしい。
鎌倉市の寺院へ行ったらよく見てみよう、と思った。
(蝉丸神社の本殿)
(本殿左横にある石灯篭)
(時雨灯篭)
勿論、蝉丸の歌碑もある。
蝉丸神社下社を出て、旧東海道を進むと、踏切を越える。
右手に見える安養寺を過ぎて、
(「これやこの・・・」の歌碑)
境内には、紀貫之の歌碑がある。
「逢坂の 関の
しみずに影
見えて
いまやひくらむ
望月の駒」
貫之
(紀貫之の歌碑)
蝉丸神社の本殿左横には、国の重要文化財「時雨灯籠」がある。
石灯篭については、
(時雨燈篭の名称で知られる六角形の石燈篭です。
六角形の基礎には単弁の蓮華座を彫り、
その上に立つ竿の中ほどに蓮華と珠紋帯をつくり、
六角形の中台には花入単弁の蓮華が彫られています。
六角形の火袋は簡素なもので、火口を一ヶ所と小さな丸窓を設け、
壁面も上部にだけ蓮子(れんじ)を彫っています。
六角形の笠もうすく、蕨手(わらびて)はよく古式を留めています。
最上部の宝珠と請花は後補。――後略)よある。(大津市教育委員会)
鎌倉時代の特色を持った石燈篭として貴重なものらしい。
鎌倉市の寺院へ行ったらよく見てみよう、と思った。
(蝉丸神社の本殿)
(本殿左横にある石灯篭)
(時雨灯篭)
勿論、蝉丸の歌碑もある。
蝉丸神社下社を出て、旧東海道を進むと、踏切を越える。
右手に見える安養寺を過ぎて、
道路は上り坂を国道一号線と合流する。
交通量はここから格段に増えるので、充分注意が必要である。
合流地点に信号があるので、進行方向の道路右側に行く。
次の蝉丸神社上社が道路右側にあることになっているからだ。
左側には狭いながらも、歩道が付いているが、
右側には、歩行者用の白線で仕切られているだけで、
少し歩くのに恐ろしく感じる。
(旧街道をまた踏み切り)
(安養寺)
(合流直後の1号線、白線で囲まれた恐怖の歩道)
車におびえながら歩くと程なく蝉丸神社上社が右側にある。
階段を上がった所に本殿はある。
次に同じく右側に、(逢坂山 弘法太子堂)がある。
この先には歩道が確保されていて、すこし歩きやすくなるが、
すれ違う車の量が減る事は無い。
(関蝉丸神社上社)
(上社の神殿)
(太子堂)
(太子堂本殿)
(この先歩道が確保されいくらか安心)
交通量はここから格段に増えるので、充分注意が必要である。
合流地点に信号があるので、進行方向の道路右側に行く。
次の蝉丸神社上社が道路右側にあることになっているからだ。
左側には狭いながらも、歩道が付いているが、
右側には、歩行者用の白線で仕切られているだけで、
少し歩くのに恐ろしく感じる。
(旧街道をまた踏み切り)
(安養寺)
(合流直後の1号線、白線で囲まれた恐怖の歩道)
車におびえながら歩くと程なく蝉丸神社上社が右側にある。
階段を上がった所に本殿はある。
次に同じく右側に、(逢坂山 弘法太子堂)がある。
この先には歩道が確保されていて、すこし歩きやすくなるが、
すれ違う車の量が減る事は無い。
(関蝉丸神社上社)
(上社の神殿)
(太子堂)
(太子堂本殿)
(この先歩道が確保されいくらか安心)
やがて信号にでて、国道1号線の道路は左へ、
そして旧東海道は右への脇道に分かれる。
分かれ道の右角に、「逢坂山関跡」の碑と「
分かれ道の右角に、「逢坂山関跡」の碑と「
逢坂常夜灯」が並んで建っている。
蝉丸の歌にある「逢坂の関」である。
ここは小公園になっていて、トイレも用意してある。
(逢坂の関と常夜灯)
(逢坂の関の小公園)
逢坂の関については、京の都を守る重要な関所である三関
(鈴鹿の関、不破の関、逢坂の関)の一つとして、
弘仁元年(810)以降、重要な役割をしてきましたが、
平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。
逢坂の関の位置については、現在の関蝉丸神社上社の周辺にあったと、
言われていますが、いまだその位置は明らかになっていない。
また、百人一首では、蝉丸の和歌のほかに、清少納言の
「夜をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ」(後拾遺集)
蝉丸の歌にある「逢坂の関」である。
ここは小公園になっていて、トイレも用意してある。
(逢坂の関と常夜灯)
(逢坂の関の小公園)
逢坂の関については、京の都を守る重要な関所である三関
(鈴鹿の関、不破の関、逢坂の関)の一つとして、
弘仁元年(810)以降、重要な役割をしてきましたが、
平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。
逢坂の関の位置については、現在の関蝉丸神社上社の周辺にあったと、
言われていますが、いまだその位置は明らかになっていない。
また、百人一首では、蝉丸の和歌のほかに、清少納言の
「夜をこめて 鳥(とり)の空音(そらね)は はかるとも
よに逢坂の 関はゆるさじ」(後拾遺集)
があるそうだが、昔の人は難しい歌を詠むものだ。
浅学のボクには意味がよく解らない。
清少納言は「枕草子」を著わした才媛で、知識が豊富すぎて、
故事などを織り込んで歌を詠むから、
ボクのような凡才には、とても理解に苦しむ。
歌の意味は、
(夜がまだ明けないうちに、鶏の鳴きまねをして、人をだまそうとしても、
函谷関(かんこくかん)ならともかく、逢坂の関は決して開きませんよ。
=だまそうとしても、決して私はあなたに逢いませんよ。)という意味。
(*)鶏鳴狗盗の故事:(史記にある故事):
猛嘗君が秦国を脱出するに当たって、
函谷関を通ろうとしたが、鶏が朝を告げるまで関を開かないので、
家来に鶏の鳴き声を真似させ、だまして関を開かせた。)
妙なところへ脱線してしまった。
国道一号線から分かれて、脇道に入るが右手に逢坂の関跡を見て、
坂を下っていくと右手にもう一つの蝉丸神社があり、
左手に京阪電車の大谷駅がある。
蝉丸神社は右手の石段を4~50段登った所にある。
石段下には、三条まで続いたという車石の花崗岩が展示してある。
少し行くと左手に京阪電車の大谷駅(無人駅)の改札かある。
(国道1号線と別れた旧東海道の脇道)
(蝉丸神社)
(階段を登った所に本殿はある)
(展示してある車石)
(京阪電車「大谷駅」)
時間はPM14時のため、本日はこれで帰京する事にした。
家に着いたのは21:10であった。
本日の歩行数48516歩=約30kmであった。