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中山道ひとり歩る記(旧中山道を歩く)

旧中山道に沿って忠実に歩いたつもりです。

・芭蕉の道を歩く
・旧日光街道を歩く

大宮宿(旧中山道を歩く 35)

2005年05月23日 20時48分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(新緑2005.May.03.近所の公園で撮影)

(大宮宿)
氷川神社の表参道入り口に戻り、
「武蔵一ノ宮」の石塔を右に見て、左側の旧中仙道を行く。

「吉敷町」の信号から20メートルほど左に、
町に似合わない古い門構えが見えてくる。
これは加賀前田家の江戸屋敷から貰い受けた門という。

(吉敷町の信号)
(加賀前田家の江戸屋敷から貰い受けたという門)

その20メートル先の右側に、
郵便ポストがあるタバコ屋を右に入ると、
大きなケヤキの木が二本あり、
その先に「子育て地蔵」と「塩地蔵」がある。

由来は、
(「塩地蔵」は、幼い二人の娘を連れた浪人者が、
大宮宿で病に罹り、医者の手当ても薬も利かず寝込んでしまった。
ある夜、夢枕に地蔵様が現れ、二人の娘に塩断ちするよう告げられ、
孝行娘の二人は塩断ちして、近くの地蔵様にお祈りしたところ、
医者も薬も利かなかった父親の病が快方に向かい、全快した。
そのお礼に沢山の塩を奉納し、父親も主家に帰参が叶い、
娘たちも幸せになったと言う伝説。
以後沢山の人たちが塩を奉納して、参詣に訪れると言われている。)
(さいたま市教育委員会)
(写真右が子育て地蔵と左側が塩地蔵)

「子育て地蔵」については、何も記されていない。
さいたま市教育委員会の案内板によれば、近くに旧跡涙橋、
高札場跡、北沢本陣跡、内蔵本陣跡、山崎本陣跡などが
あったようであるが、その場所についての
案内板は設置されていない。

中山道に戻って進むとデパート高島屋があるが、
ここが昔、北沢本陣跡といわれる。
JR大宮駅を左に見て進む。
その先、すずらん通りの先に内倉本陣が、また
住吉通り先に、山崎本陣があったとされるが、
今は跡形もない。

さらに進むと国道16号線と交差する。ここを右折し、
最初の道を左折すると東光寺がある。
今は、曹洞宗の禅寺 大宮山東光寺である。

平安時代の末、関東に赴いた紀伊の国那智山の裕慶が、
「熊野の光明を東国に輝かす」と開山したお寺。
この言葉の光と東を採って、東光寺とした。
元々は、氷川神社の東方、黒塚にあったが、
江戸時代徳川家光の時、当地に移された。
          (さいたま市教育委員会)
(東光寺門前)
(東光寺本堂)

ここで旧中山道の古道と合流のしるしとなる
氷川神社裏参道の石碑ー「官幣大社 氷川神社」を
右に見て、JRのガードを潜り、中山道を進む。

右側に郵便局を見て、信号を直進すると、
レストランがあり、その駐車場に石碑の道しるべがあるという。
「大山 御岳山 よの 引又 かわ越道」 とあるらしい。
残念ながら見落としてしまった。

さらに進み、保健センター入り口交差点を左折すると、
「石上神社(いそのかみじんじゃ)」の石塔と鳥居が見える。まだ真新しい。

江戸時代の中山道の絵図にも掲載されている古い神社。
今では死語になりつつある病気の疱瘡(ほうそう)。
それを治す神様を祭っている。
昔は医学が発達していなかったので、ホウソウの伝染は
恐れられ、村人は他村でホウソウが発生すると、
村内に伝播しないようにと祀った神様。
(さいたま市教育委員会)
(疫病は神頼みの石上神社)

中山道を進むと、右側歩道上に馬頭観音と小さな地蔵像がある。
さらに進むと、新幹線・国道17号に交差するが、
その手前50mほど左手に「東大成の庚申塔」がある。
入り口に赤い鳥居。お堂と鳥居の間に大きな金木犀が植えてある。
丁度訪ねた時に金木犀は満開で、良い香りを発散させていた。
お堂の中には、高さ1.42mもある庚申塔があるが、
猿田彦が彫られている。

云うまでも無い、街道を行き来する旅人を守る神様である。
(馬頭観音)
(地蔵像)
(東大成の庚申塔)

しばらく歩くと、高崎線宮原駅が左に見える。
この先から上尾宿に入っていく。

6日目は、宮原駅から帰る事にする。
時計を見たらPM16:40であった。
万歩計は2万歩あった。一歩が60センチであるから、
今日は12キロ歩いたことになる。

思えば日本橋をスタートしたのが3月27日であったが、
その後は暑かったり、雨だったり、のっぴきならぬ私用で、
中山道を歩くことが出来なかったため、六日目はもう秋になっていた。







武蔵一ノ宮 氷川神社(旧中山道を歩く 34)

2005年05月09日 20時47分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(桜「ウコン」2005.Apr.25.撮影)

(武蔵一ノ宮 氷川神社)
左にスーパーアリーナ、さいたま新都心駅を見ながら歩くと、
右側に氷川神社の赤い鳥居と「武蔵一ノ宮」の石塔が見える。
氷川神社参道の入り口で、これより約2キロは鬱蒼とした
ケヤキやクスノキの並木が続く。
旧中山道は左へ行くが、かってはこの参道が本来の中山道であった。
参道のほうは、今では古中山道と呼んでいるらしい。
(氷川神社入り口の武蔵国一宮の石碑)

(奥に見えるのは旧中山道の古道「一の鳥居」)

氷川神社は、出雲の国の簸(ひ)の川(かわ)(氷川)の杵築(きつき)大社(出雲大社)を
招いたものとされる。朝廷により権威付けられた式内社であり、
武蔵国の一ノ宮として伝統と格式を誇っている。

一宮といえば
「武蔵一ノ宮」「尾張一ノ宮」「上総一ノ宮」「常陸一ノ宮」など
全国に一ノ宮がある。

諸国において由緒深い神社、または信仰厚い神社が
勢力を得て、自ずから神社の階級的序列が出来、
その首位にあるものが一ノ宮とされ、
公認されるに至ったもののようである。
だから、時には「一ノ宮」と「二ノ宮」が代わるようなことが
時代時代によって起きた事もあるようだ。
その「武蔵一ノ宮」の「氷川神社」は全国に270社余あるという。

氷川神社は今から2000年以上前、
孝昭天皇三年に創建されたと社伝に残ると言う。
日本武尊が東征のおり、当社に祈願したと言われる。
治承4年(1180)源頼朝が社殿を再興し、以後
時の権力者による祈願、庇護、信仰が続く。
江戸時代には、寺領三百石を寄進されていた。
(さいたま市教育委員会)
(神楽殿の向こう側にあるのが、氷川神社の本殿)

ここでは旧中山道の古道(氷川神社表参道)を歩いてみる。
「武蔵一ノ宮」の石碑のすぐ後ろにある「一の鳥居」をくぐると、
古色蒼然としたケヤキやクスノキに覆われた参道が、
見渡す限り続いている。
中央は自動車道になっており、歩道は並木道の根元を避けながら歩くことになる。

すぐ左手に稲荷神社がある。赤い鳥居に奉納者の名前がでかでかと書いてある。
案内看板には「楢姫稲荷」とあるが、どんな姫を祀ったのか知らない。
鳥居の左側に享保7年(1722)建立の碑があり、
「是より宮まで18丁」としるされている。
並木道に、氷川神社、「一丁、二丁、三丁・・・」と間隔をあけて石碑が立っている。

やがて右側に庚申神社がある。街道沿いにたくさん見かける
庚申塔が小さな小屋に安置されている。
(楢姫稲荷)
(庚申神社)

さらに進むと左側に埼玉県合同庁舎があり、
周りは公園になっており、蒸気機関車と共に
大宮市を築いた「白井助七」の碑がある。

「大宮」の地名は、大宮に古くから鎮座する
氷川神社に由来すると言われている。
江戸時代に書かれた書物には、大宮と言う名前
(文字通り「大きな神社」)は大きな神社が立っていると
いうことで付けられたと記されています。
平安時代(794~1185)までに集落が神社周辺や
参道沿いに出来ました。
この集落が現在の大宮市の発祥なのです。
(さいたま市教育委員会)

その大宮に、東北本線が開通するや、
「白井助七」誘致により停車場が開設され、
以来鉄道の街として鉄道と共に発展してきた。
明治28年大宮町長となった「白井助七」よって、
現在の大宮市が築かれたといえます。
大宮市発展の歴史を象徴するものとして、
蒸気機関車と白井助七の碑を造り
功績を永く顕彰する。
(昭和45年  大宮市長)
(白井助七翁の碑)

参道はやがて「二の鳥居」に出るが、並木の大木が
繁っており鳥居は両脚しか見えない。
ここからは参道は石畳となり歩道となる。
車道は並木の外側に追い出される。
(二の鳥居)

(ケヤキの表参道)

(三の鳥居)

しばらく常夜灯とケヤキ並木が続き、「三の鳥居」が見える。
その奥が氷川神社である。
鳥居をくぐるとすぐ右側に能舞台があり、
その左手に「額殿」がある。
江戸時代に出来たこの額殿は、あまりにも古いため
地震があった時は、すぐに外へ出るよう大きく看板が出ている。
百年以上も前から、奉納者の額が掲げられており、
古いものはすでに墨書が消えてしまっている。

確認できる古い額は、皇紀2506年とあるが、
2600年が昭和15年(1940)であるから、
160年前のものだ。
(能舞台)

(江戸時代の額殿)

この額殿を右に見て進むと朱塗りの太鼓橋があり、
奥に神楽殿、その向こうに本殿が見える。
由緒ある神殿らしく荘厳であるが、明治神宮や
伊勢神宮ほど形式張っていない感じがするところが良い。

太鼓橋の手前を左折すると、裏参道へ出る。
形ばかりの裏参道、実はこれこそ旧中山道の
古道を思わせる道の広さである。
自動車一台通れれば良い道幅だ。
出たところに赤い鳥居があり、武蔵一ノ宮の石碑もある。
(太鼓橋)
(神楽殿より本殿を望む)
(裏参道の鳥居、左側が裏参道通り)
(裏参道通りの看板)

脇に現代の自動車道があるので、この道に沿って
左方に出ると旧中山道に到る。
裏参道通りであるが信号に出たところに、
「官幣大社 氷川神社」の石碑がある。
(官幣大社の石碑)

ここで旧中山道と合流し、旧中山道の古道は終わる。





お女郎地蔵と火の玉不動(旧中山道を歩く 33)

2005年05月04日 20時44分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(桜「一葉」2005.Apr.25.荒川土手で撮影)

(お女郎地蔵と火の玉不動)
日本橋を後に旧中山道を歩いて、六日目(2004年10月11日)
長いインターバルの後に、浦和宿からスタート。
出発が遅れPM13:40与野駅を出発。

旧中山道浦和宿と大宮宿の、間の宿のしるしという
(一里塚と一里塚の間に作られた半里塚の跡)
大きなケヤキの古木を右に見ながら中山道を進む。

すぐ立派なケヤキ並木の道路となり、
同時にケヤキ並木の外側に雲突くようなビル群が
目に付く。
(ケヤキ並木の旧中山道)

(さいたま新都心のビル群)

さいたま新都心。
平成13年(2001)浦和、大宮、与野の三市が合併。
「さいたま市」が誕生した。
旧大宮市がその中心になろうとしている。

このケヤキ並木の中ほど、右側の歩道上、
高台(たかだい)橋(ばし)の手前に「お女郎地蔵」と「火の玉不動」が
小さな屋根の下に並んで建っている。

さいたま市教育委員会によれば、
(昔、大宮宿の旅籠 柳屋には、千鳥、都鳥という
女郎姉妹がいた。二人は親に捨てられ、宿場の人に拾われ
育てられたが、養い親が長の患いで先立ち、借金だけが残った。
その借金の返済のために二人の姉妹は、柳屋に身を沈めた。

美しい姉妹は街道筋の評判になり、男冥利には、
一夜の仮寝の床を共にしたいと思わぬものはなかったという。
そんな中、宿場の材木屋の若旦那と千鳥が恋仲になり、
末は夫婦にと約束を交わしたが、不運にも時の大盗賊、
神道徳次郎が見初め、身請けするという話になった。
柳屋の主人は、材木屋の若旦那のことを知っていたので、
一日のばしに返事を延ばすと、悪党の徳次郎は、
嫌がらせを散々したあげく、宿に火をつけると脅した。
千鳥はこれを知って、主家に迷惑は掛けられず、と言って
徳次郎の言いなりにもなれず、思い余って高台橋から身投げした。
以来、高台橋付近で人魂が飛ぶようになり、
近所の人が哀れんで地蔵像お建てた。
これを「お女郎地蔵」という。

「火の玉不動」
その頃、高台橋付近に火の玉が飛ぶのを付近の人が見かけた。
これは神道徳次郎に見初められ、橋から身投げした女郎
「千鳥」の霊魂だと言われたが、正体を突き止めようと
一人の男が、ある夜、松の木陰に隠れて火の玉に切りつけた。
「キャー」と声がして消えてしまった。暗闇を見据えると、
ものすごい形相をした男が立っていた。
「何者」と質すと「オレは不動明王だ」と言う。
「それなら剣を持っているはずだ」といえば
「剣は今お前が切り落としてしまった」と言って消えた。
翌日、高台橋へ行ってみると、石の不動様が怖い顔をして立っていたが、
なるほど剣を持っていなかった。
そのことがあって、この不動様を「火の玉不動」と呼ぶようになったと言われる。
高台橋付近には、昔刑場があり、大盗賊の神道徳次郎も御用になった末、
刑場の露と消えたと伝えられる。)
                 (さいたま市教育委員会)
(右がお女郎地蔵、左が火の玉不動)

(お女郎地蔵)

(欠けて見にくくなった火の玉不動)

街道を歩いていると、いろんな伝説に出会えて楽しい。




浦和宿の一本杉(旧中山道を歩く 32)

2005年04月30日 09時43分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(浦和宿の看板)

(浦和宿の一本杉)
調神社(つきじんじゃ)から約300mも歩くと浦和宿の石碑が歩道上にある。
浦和駅に近く道路上には沢山の人が歩いている。

県庁通りをまたいで進むと左側に古い立派な山門がみえる。
真言宗の古刹、宝珠山 玉蔵院の総欅造りの門である。
ここには、平安末期の地蔵菩薩立像があり、地蔵信仰の寺として
古い歴史を持っている。江戸時代には奈良の長谷寺の移転地であり、
本山の修行を終えた者が、命により住職となって移る寺で、
由緒あるお寺であった。
(浦和宿の石碑)

(宝珠山玉蔵院の山門)

(浦和市文化財となっている玉蔵院地蔵堂)

ボクが訪ねた時は、春の陽射しに囲まれて、
境内には、沢山の親子連れや若い男女が添いあって、
楽しい時間を送っていた。

中山道に沿って進むと、左手歩道上に婦人がうずくまっている
銅像がある。
歩道上に銅像があるのも珍しいが、
有名人の像でなく、平和の象徴でもなく、
ごく普通の婦人の像がしかも膝を折ってたたずむ姿に
驚かされる。

地面にかぼちゃを置いて、左手にナスのような野菜さげている。
その脇に「市場通り」とあり、近隣農家の野菜などが
販売された姿のようである。
(農産物を商う婦人の像)

その先に常盤公園があり、ここは御殿山といわれ徳川氏の
御殿が置かれ、鷹狩や各支城間の往来の時の休憩・宿泊所であった。
その先左側に、慈恵稲荷の鳥居があり、その手前に
「浦和宿二・七市場」の案内板が立っている。

一ヶ月の二・七のつく日にちに市が立つことを指し、
日常雑貨、衣類、野菜類の売買で賑わったようである。
このように月に六回定期的に開かれる市を「六齋市」という。
この形態は昭和初期まで続き、蕨(一・六)鳩ヶ谷(三・八)
与野(四・九)大宮(五・十)として賑わったという。
             (浦和市教育委員会)
(常盤公園)
(浦和宿二・七市場跡の石碑)

道はやがて、JRの陸橋(浦和橋)を渡り、ひたすら歩く。
左側を注意しながら行くと、歩道橋の下に「廓信寺」の石塔と
鎌倉時代の阿弥陀如来坐像の説明板があり、
その奥に廓信寺がある。すこし見つけにくいので注意しよう
境内には樹齢約300年という、幹周り2.46mの
カヤの木がある。
また敵討ちで討たれた讃岐丸亀藩の浪人のお墓があるという。
             (浦和市教育委員会)
お墓を見渡したが、それらしきお墓は見当たらなかった。
敵討ちに遭った浪人では、よほどのことが無い限り、
見捨てられてしまうのが人情というもの。
何時の時代も弱いものは見限られてしまうのだろうか?
(廓信寺の標柱)
(廓信寺の阿弥陀様でカヤの木はこの近くに生えていた)

その600m先の歩道上に一本の杉の木と「一本杉」とかかれた
石碑があるが、石塔の文字が車道に向かって記入されているので
見落としがちというより、素通りしてしまう。
この一本杉の付近で前述の讃岐丸亀藩の浪人が敵討ちにあったとされる。
なぜその一本杉が残っているのか不思議である。

話によれば敵討ちは文久4年(1864)と
時代は最近であり、武家時代も終わりの頃の話として、
敵討ちが珍しかったからに違いない。
(何代目かよく分からないが小さな一本杉と石碑)

道はJR「与野駅」入り口に差し掛かる。
道路の右側に一本の大きなケヤキがある。
一里塚と一里塚の間にある半里塚の跡といわれる。
(半里塚のケヤキ)

もう少し進めば、旧大宮市に到着するが、
中山道四日目の旅はここで打ち切り、
JR京浜東北線「与野駅」で帰る。





蕨宿から浦和宿へ(旧中山道を歩く 31)

2005年04月25日 09時42分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(枝垂桜2005.Apr.撮影)

(蕨宿から浦和宿へ)
中山道へ戻り進むと国道17号と交差する。
手前左側に交番がある。ここで蕨宿(わらびじゅく)は終わる。
(旧中山道蕨宿の京都側入り口)

旧中山道に沿って歩くと道は右の方に緩やかに曲り、
浦和市に入る。
外環高速道路の手前右側に辻一里塚公園がある。
一里塚跡の石碑を右に見ながら進むと、
六辻水辺公園に突き当たる。右折すると17号に交差する。
さらに進むと、すぐ先の左上に中山道の案内表示板が
あるので案内に沿って左折する。浦和駅方面である。
(一里塚公園)

(六辻水辺公園)

(中山道の案内看板)

やがて道は登り坂になるが、ここが焼米坂である。
横断歩道橋の下に石碑が建っている。
元は浦和坂といったが、この辺りで焼き米が売られ、
それが名物になったので名前がついたといわれる。
旅人はこのあたりでお腹が空いたのであろうか?
坂道を見て、ちょっと一服したかったのであろうか?
道の行く手には、結構な上り坂が見える。
(焼き米坂)

しばらくするとケヤキやムクノキの林に囲まれた
「調(つき)神社」が見えてくる。
この神社は、平安時代朝廷が作成した「延喜式神名帳」に
書かれた古い歴史と格式を誇る。
昔、朝廷に納める調物(みつぎもの)を集める所であったので、
「調(つき)神社」と名づけられたという。
          (浦和市教育委員会)
神社でありながら鳥居がないのは、荷物の出し入れを
自由にするためと言われる。
また、「調(つき)」が「月」をイメージし、
「月」→「うさぎ」が連想されたのか、普通は神社には
狛犬がつき物であるが、ここでは代わりに兎が置かれている。
普通、水盤なども龍の口から水が吐き出されるのに対し、
ここでは、うさぎの口から水が流れ出ている。
(調神社の扁額)

(神社の神殿)

(月に因んで、狛犬ならぬウサギが一対並んでいる)

(水は龍などが吐くが、ここではウサギの口から水が・・・)




三学院(旧中山道を歩く 30)

2005年04月20日 09時40分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(桜「フクロクジュ」2005.Apr.15.荒川土手で撮影)

(三学院)

蕨城址を後に旧中山道に戻る。
三学院(真言宗智山派のお寺)に入る道がある。

三学院は金亀山極楽寺という。
(格式ある三学院の山門より)

本尊は平安時代後期の作といわれる木造十一面観音像である。
天正19年(1591)には徳川家康から寺領二十石を寄進する
朱印状を与えられた、関東七ヶ寺の役寺として格式が高い。
                 (蕨市教育委員会)
蕨本陣家、岡田氏の菩提寺で、仁王門と本堂など立派な寺院であるので、寄り道をしたい。

(三学院の入り口)

(京都にありそうな荘厳さを持つ三学院本堂)

(三学院の境内)

参道中央の山門前の右側に馬頭観音塔がある。
塔身正面に梵字で「ナム・カャグリーバ」
(南無・馬頭観世音)と陰刻されている。
銘文から、江戸後期寛政12年(1800)
2月に蕨宿の馬持講中により、宿場の安全を願って
造られたものという。(蕨市教育委員会)
(梵字の馬頭観音)

山門をくぐって右側の一角に「子育て地蔵」
「六地蔵」「目疾(めやみ)地蔵」が安置されている。

「子育て地蔵」は元禄元年(1695)三学院住職が
中心となって造立された身の丈七尺(2.4m)の
見上げるほど大きな地蔵尊で、火伏・子育・開運を
願う人々に、現在も信仰されている。

その手前左側に「六地蔵」が安置されている。
基礎の上に蓮台と地蔵菩薩が丸彫りにしてあり、
蕨市内最古・最大の六地蔵。

六地蔵とは、
地蔵菩薩が六道(天・人・修羅・畜生・餓鬼・地獄)に
分身し、人々を救済する姿を現している。
(蕨市教育委員会)

(子育て地蔵)

(六地蔵)
(目疾地蔵)

ボクが訪ねた4月10日には、この六地蔵が誰に貰ったのか
寒さ避けの赤いマフラーをしていたのが可愛らしく、
季節の暖かさと共に、ふんわりとした暖かさを振りまいていた。

(赤いマフラー暖かそうな地蔵さん)

六地蔵の手前に「目疾(めやみ)地蔵」が安置されている。
万治元年(1658)念仏講を結んだ人々が、「この世」と
「あの世」の安楽を願って造立したもの。
地蔵菩薩立像と舟形光背彫り上げており、高さ1.9mの
大きな地蔵尊である。
「目疾(めやみ)地蔵」として、地蔵尊の目に味噌を
塗ると目の病気が治る、あるいは目の病気にかからないと
言われており、訪ねた時には片目(左目)に赤い味噌が
塗ってあった。どなたかお祈りをされたに違いない。

(目の廻りに味噌が残った地蔵さん)

境内に入ると、広場の右手に「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」が見える。
「宝篋印塔」は、宝篋印陀羅尼経を納めるための塔で、
後には、供養塔、墓碑塔として建てられました。
三学院には二基並んで建っているが、
江戸時代中期 寛政9年(1797)に、
蕨宿の町田氏により造立されたもの。
三学院住職が銘文を書き、江戸霊岸島の石工
栗屋勘兵衛が製作した。
切石積基壇に基壇をすえ、塔身には金剛界四仏の種子、
基壇の各側面には唐獅子が刻まれ、笠には風鐸(風鈴)を
つるした青銅製の金具が残されている。
(蕨市教育委員会)
「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」

その「宝篋印塔」の左手は墓地になっている。
一番手前に、蕨宿本陣家の岡田氏代々の墓がずらっと並んでいる。
代々本陣を勤めた「加兵衛家」と「五郎兵衛家」、
脇本陣を勤めた「新蔵家」などのものがあるので、
丹念に見ることをお勧めする。
お墓は「蕨宿関係墓石群」の看板(蕨市教育委員会作成の)があって判りやすい。
(本陣家 岡田氏の墓)


青春賦(旧中山道を歩く 29)

2005年04月16日 09時36分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65
(コブシ、2005.Apr.07.撮影。北の丸公園にて)

青春賦 (旧中山道を歩いて五日目 Apr.10.’04.)

蕨市立民族歴史資料館で頂いた資料(歴史散歩案内)を基に、
史跡などを見学してみたい。

頂いた資料によれば、
南北朝時代に足利将軍の一門の渋川氏が築いた蕨城があった。
永禄10年(1567年)上総の国三舟山合戦で、
里見氏に破れ戦死した渋川公とその戦死を悲しみ
群馬県の榛名湖に入水した夫人を祀ったお墓がある
お寺(宝樹院)を訪ねたい。

渋川公夫妻の250年忌を記し文化13年(1816年)に
子孫が造立したお墓がある。
寺の本堂脇の木陰にひっそりと夫婦の墓が建っている。

寄り添うように立っているお墓を見ると、
生前の仲の良さが感じられ、微笑ましい。
ボクたち夫婦もかく在りたいと願うばかりである。

(宝珠院)

(本堂左横に寄り添うように立っている夫妻のお墓)

元来た道を戻り、蕨城址へ。ここは和楽備神社に隣接している。
場所は蕨市役所の裏手に当たる。

和楽備神社は戦国時代に渋川公が八幡大神を祀ったもので、
神社名については土地の名前「わらび」としたが
「蕨」一字では重みに欠けたので、万葉仮名を用いて
「和楽備神社」としたという。

境内の水屋には、大型の水盤がある。
これは安山岩製の大型の水盤で、寛永寺旧在とも言われている。
この水盤の特徴は、大型で四隅を入隅式とするところにある。
こうした大型水盤は江戸時代初期に限られ、しかも大名家墓所や
格式のある社寺に見られる程度。
また入隅式は徳川家ゆかりの場合が多いようである
           (蕨市教育委員会)
(和楽備神社。左側に水盤がある)

(水盤の角の切れ込みが入隅式と云い徳川家ゆかりの格式あるもの)

和楽備神社の隣が蕨城址で、蕨城址は小公園になっており、
ここを挟んで市役所がある。

この蕨城は大永4年(1524)に北条氏綱により攻撃され
破壊され、江戸時代には家康が御殿をおいた。
城址の遺構は僅かに堀が残されているだけ。
大正14年埼玉県指定史跡。  (蕨市教育委員会)

(蕨城址の碑)

この城址跡の小公園に、ボクの好きなサムエル・ウルマンの詩
「青春賦」の石碑が英文と日本語で紹介されている。

  (青春)  

青春とは人生のある期間を言うのではなく、
心の持ち方を言う。
たくましい意志と、ゆたかな創造力、
炎える情熱、弱気を退ける勇気、
安易を振り捨てる冒険心、
こういう様相を青春という。

年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うとき初めて老いが来る。

―途中省略―

十六歳であろうと六十歳であろうと、
人は信念と共に若く  疑惑と共に老いる。
人は自信と共に若く  恐怖と共に老いる。
希望ある限り若く   失望と共に老いる。

頭を上げ希望の波をとらえる限り、
八十歳であろうと青春であり続けることが出来る。

サミュエル・ウルマン

この分ではボクは何時までも青春であり続ける。

(ここでは英文の碑を紹介しておく)

石碑に書かれた文章を下記に紹介しておく、

Youth  (Samuel Ullman)

Youth is not a time of life; 
it is a state of mind;
 it is not a matter of rosy cheeks red lips and supple knees; 
it is a matter of the will a quality of the imagination a vigor of the emotions; 
it is the freshness of the deep springs of life.

Youth means a temperamental predominance of courage 
over timidity of the appetite for adventure over love of ease. 
This often exists in a man of sixty more than a boy of twenty. 
Nobody grows old merely by a number of years. 
We grow old by deserting our ideals.

Years may wrinkle the skin but to give up enthusiasm wrinkles the soul. 
Worry fear self-distrust bows the heart and turns the spirit back to dust.

Whether sixty or sixteen there is in every human being’s heart the love of wonder the unfailing child-like appetite what’s next and the joy of the game of living. In the center of your heart and my heart there is a wireless station; 
so long as it receives messages of beauty hope cheer courage and power from men and from the infinite so long are you young.

When the aerials are down and your spirit is covered with snows of cynicism and the ice of pessimism then you are grown old even at twenty but as long as your aerials are up to catch the waves of optimism there is hope you may die young at eighty.


蕨(わらび)宿 (旧中山道を歩く 28)

2005年04月11日 09時34分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

蕨宿 (わらびじゅく)

「中山道蕨宿」石碑の右側に旧街道の入り口がある。
道路はよく整備されており、歴史街道を想わせる佇まいである。
進むと郵便局があり、道路に面して高札場の型をした
掲示板があるので良く見よう。

(中山道蕨宿の石碑)

掲示板には、
旧中山道の案内地図と史跡が記されているので
およそ頭に入れておくと便利である。
地図によれば、旧中山道の中央付近に
蕨本陣と蕨市立歴史民族資料館があることが解かる。

道路のマンホールには、中山道(武州)蕨宿の文字と
菅笠に道中合羽の旅人をあしらったデザインになっている。
また、歩道には中山道69次の浮世絵をタイルにして
埋め込んである。
(道中合羽の旅人を描くマンホール)

(浮世絵のタイル、大宮宿のもの69次分ある)

(本庄宿のタイル)

一枚づつ、見て歩くと時間がいくらあっても足りない。
そのうちの何枚かを紹介しておく。
また、商店も歴史を思わせる店構えとなっており、
看板は常夜灯の形にして、昔を偲ばせる。
400年前にタイム・スリップしたような気分になる。
蕨市立歴史民族資料館は是非見学したい。
その隣に復元された蕨本陣岡田家の門構えがある。

(常夜灯の形をした看板)

(旧道の並木をイメージした道路つくり)

(蕨宿本陣を再現したもの)

歴史資料館には、本陣内部を復元した部屋が
展示されており、当時の旅人の旅の心得なども、
興味は尽きない。
蕨宿史跡の資料(歴史散歩案内)を係りの人にお願いすれば、
無料で分けて頂けるから、申し出てみよう。

(旧街道のイメージに合った建物の一例。あちこちに沢山見受けられる)


戸田橋から蕨宿まで(旧中山道を歩く 27)

2005年04月07日 09時33分00秒 | 2.武州(埼玉県)の旧中山道を歩く(27~65

(戸田橋から蕨宿まで)’04.04.07.

戸田橋を渡った荒川の対岸の戸田市には、
舟渡し場所を示す案内板がある。

橋を渡り終わったところに、埼玉県の交番があり、
その右脇に土手を下りる階段がある。
道なりに歩くと左側に「水神社」がある。
境内にある「水神宮」の碑には、寛政8年(1796)の
銘があり、荒川の岸辺に住む人たちの氏神様であった。
(水神社)

その先の車道を登って、今来た方角へ戻ると、
「中山道戸田渡船場所」の石碑と
「戸田の渡し」の案内看板がある。

案内によれば、
(中山道は慶長7年(1602年)
街道として設置されましたが、江戸防衛の意味で
橋は架けられなかった。人々はここを越えるのに
渡しに頼らざるを得なかった。
これが「戸田の渡し」です。)
渡船場の管理は下戸田村が行っており、
天保13年には、十三艘の船があり、
組頭(渡船場の支配人)一人、船頭8人、
小揚人足31人が居ました。
―途中省略―
明治八年 木橋が出来上がり、「戸田の渡し」は
廃止になりました。
       (戸田市教育委員会)

(戸田の渡船場跡の碑)

来た道を戻り「水神社」の前を通り越して、
最初の道を右折すると、右側を入ったところに
いかにも古めかしい赤い色のお堂が見えます。
「地蔵堂」です。

戸田市内では最古の木造建造物という。
建築技術はお堂の大きさからは、
不似合いなほどの木組みを使用しての建築技法は、
注目すべき点が多い建造物とされている。
お堂の軒下の半鐘は1713年の銘が、
また境内の庚申塔には享保13年(1731)の
銘が刻まれている。
(戸田市教育委員会)
(地蔵堂)

古い板碑もあると記されているが、
境内を見回したところ見当たらない。
「地蔵堂」の脇の砂利道を行くと広い通りに出る。
左折して菖蒲川の川岸橋を渡る。

(菖蒲川)

戸田市内の旧中山道は見当たらない。
なお進み交差点に出たら左折する。
国道17号に出る手前を右折し、
これを旧中山道に見立て進む。

すこし先に行くと、右側がケヤキ並木となり、
よく整備された通りとなる。
「下前公団通り」とある。
ケヤキ並木の終わりに信号があり、
正面が川口信用金庫、その左手にポケット公園があり、
公園の左奥に旧中山道について案内がある。 

(ケヤキ並木)

(道標)

案内によれば、戸田市内の旧中山道の大部分は失われており、
僅かこの公園から17号線までの80mが残るのみで、
蕨までは17号と一緒になっているとのこと。

(公園にある案内看板、戸田の渡しから蕨宿までの旧中山道の地図を示す)

ひたすら17号を歩き、17号が左手に折れる地点の正面、
道路の真ん中に、「中山道蕨宿」の石碑がある。
ここから蕨宿である。