(桜「ウコン」2005.Apr.25.撮影)
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(武蔵一ノ宮 氷川神社)
左にスーパーアリーナ、さいたま新都心駅を見ながら歩くと、
右側に氷川神社の赤い鳥居と「武蔵一ノ宮」の石塔が見える。
氷川神社参道の入り口で、これより約2キロは鬱蒼とした
ケヤキやクスノキの並木が続く。
旧中山道は左へ行くが、かってはこの参道が本来の中山道であった。
参道のほうは、今では古中山道と呼んでいるらしい。
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(氷川神社入り口の武蔵国一宮の石碑)
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(奥に見えるのは旧中山道の古道「一の鳥居」)
氷川神社は、出雲の国の簸(ひ)の川(かわ)(氷川)の杵築(きつき)大社(出雲大社)を
招いたものとされる。朝廷により権威付けられた式内社であり、
武蔵国の一ノ宮として伝統と格式を誇っている。
一宮といえば
「武蔵一ノ宮」「尾張一ノ宮」「上総一ノ宮」「常陸一ノ宮」など
全国に一ノ宮がある。
諸国において由緒深い神社、または信仰厚い神社が
勢力を得て、自ずから神社の階級的序列が出来、
その首位にあるものが一ノ宮とされ、
公認されるに至ったもののようである。
だから、時には「一ノ宮」と「二ノ宮」が代わるようなことが
時代時代によって起きた事もあるようだ。
その「武蔵一ノ宮」の「氷川神社」は全国に270社余あるという。
氷川神社は今から2000年以上前、
孝昭天皇三年に創建されたと社伝に残ると言う。
日本武尊が東征のおり、当社に祈願したと言われる。
治承4年(1180)源頼朝が社殿を再興し、以後
時の権力者による祈願、庇護、信仰が続く。
江戸時代には、寺領三百石を寄進されていた。
(さいたま市教育委員会)
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(神楽殿の向こう側にあるのが、氷川神社の本殿)
ここでは旧中山道の古道(氷川神社表参道)を歩いてみる。
「武蔵一ノ宮」の石碑のすぐ後ろにある「一の鳥居」をくぐると、
古色蒼然としたケヤキやクスノキに覆われた参道が、
見渡す限り続いている。
中央は自動車道になっており、歩道は並木道の根元を避けながら歩くことになる。
すぐ左手に稲荷神社がある。赤い鳥居に奉納者の名前がでかでかと書いてある。
案内看板には「楢姫稲荷」とあるが、どんな姫を祀ったのか知らない。
鳥居の左側に享保7年(1722)建立の碑があり、
「是より宮まで18丁」としるされている。
並木道に、氷川神社、「一丁、二丁、三丁・・・」と間隔をあけて石碑が立っている。
やがて右側に庚申神社がある。街道沿いにたくさん見かける
庚申塔が小さな小屋に安置されている。
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(楢姫稲荷)
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(庚申神社)
さらに進むと左側に埼玉県合同庁舎があり、
周りは公園になっており、蒸気機関車と共に
大宮市を築いた「白井助七」の碑がある。
「大宮」の地名は、大宮に古くから鎮座する
氷川神社に由来すると言われている。
江戸時代に書かれた書物には、大宮と言う名前
(文字通り「大きな神社」)は大きな神社が立っていると
いうことで付けられたと記されています。
平安時代(794~1185)までに集落が神社周辺や
参道沿いに出来ました。
この集落が現在の大宮市の発祥なのです。
(さいたま市教育委員会)
その大宮に、東北本線が開通するや、
「白井助七」誘致により停車場が開設され、
以来鉄道の街として鉄道と共に発展してきた。
明治28年大宮町長となった「白井助七」よって、
現在の大宮市が築かれたといえます。
大宮市発展の歴史を象徴するものとして、
蒸気機関車と白井助七の碑を造り
功績を永く顕彰する。
(昭和45年 大宮市長)
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(白井助七翁の碑)
参道はやがて「二の鳥居」に出るが、並木の大木が
繁っており鳥居は両脚しか見えない。
ここからは参道は石畳となり歩道となる。
車道は並木の外側に追い出される。
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(二の鳥居)
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(ケヤキの表参道)
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(三の鳥居)
しばらく常夜灯とケヤキ並木が続き、「三の鳥居」が見える。
その奥が氷川神社である。
鳥居をくぐるとすぐ右側に能舞台があり、
その左手に「額殿」がある。
江戸時代に出来たこの額殿は、あまりにも古いため
地震があった時は、すぐに外へ出るよう大きく看板が出ている。
百年以上も前から、奉納者の額が掲げられており、
古いものはすでに墨書が消えてしまっている。
確認できる古い額は、皇紀2506年とあるが、
2600年が昭和15年(1940)であるから、
160年前のものだ。
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(能舞台)
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(江戸時代の額殿)
この額殿を右に見て進むと朱塗りの太鼓橋があり、
奥に神楽殿、その向こうに本殿が見える。
由緒ある神殿らしく荘厳であるが、明治神宮や
伊勢神宮ほど形式張っていない感じがするところが良い。
太鼓橋の手前を左折すると、裏参道へ出る。
形ばかりの裏参道、実はこれこそ旧中山道の
古道を思わせる道の広さである。
自動車一台通れれば良い道幅だ。
出たところに赤い鳥居があり、武蔵一ノ宮の石碑もある。
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(太鼓橋)
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(神楽殿より本殿を望む)
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(裏参道の鳥居、左側が裏参道通り)
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(裏参道通りの看板)
脇に現代の自動車道があるので、この道に沿って
左方に出ると旧中山道に到る。
裏参道通りであるが信号に出たところに、
「官幣大社 氷川神社」の石碑がある。
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(官幣大社の石碑)
ここで旧中山道と合流し、旧中山道の古道は終わる。
松並木や 日光街道の杉並木は有名だけれど ケヤキ並木は初めて知りました。