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わまのミュージカルな毎日

主にミュージカルの観劇記を綴っています。リスクマネージャーとしての提言も少しずつ書いています。

そして誰もいなくなった

2003年11月04日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年11月4日ソワレ シアター・アプル8列目かなり下手

アガサ・クリスティーの名作中の名作と言える小説の舞台です。あまりに有名なお話しと思っていましたが、推理小説が好きではない方はご存じないようですね。劇場でも、「誰が犯人?」「このあとどうなるの?」との声が聞こえていましたので、さらっとですがあらすじを書きます。 全3幕、3時間弱の舞台です。

 ある年の夏8月8日に8人の客が島の邸宅に招かれる。迎えたのは召使の老夫婦。島には10人。招待したはずのオーエン夫妻はやってこない。初日の夕食後、レコードに吹き込まれた声によって10人が過去に犯した罪が暴かれる。人々は弁明する。そして、突然、マーストンが死ぬ。翌朝、ロジャース夫人が死んでいることがわかる。残った8人は、二人の死が他殺か否か迷いながら、その死が壁にかけられた「10人のインディアン」の歌詞によく似ていることに気づく。その後次々と人々が死んでいく。最後に、ロンバード、ヴェラが残る。ヴェラはロンバードの持っていた銃を奪い取り、ロンバードを殺す。で、ここから舞台と原作は違います。
 原作は、ヴェラは自殺してしまうのです。というか自殺に導かれます。そして、真犯人の手紙がロンドン警視庁に届いて、真相が解き明かされるのです。
 舞台は、真犯人の元判事ウォーグレイヴがヴェラに真相を話し、ヴェラは呆然としてウォーグレイヴの言うままに、自殺しようとする。そのとき一発の銃声がしてウォーグレイヴが倒れる。そう、ロンバードは死んでいなかったのです。そして、ハッピーエンドとなります。

 配役と簡単な感想を。
山口祐一郎さんがロンバード。二幕最後の「レクイエム」。心に染み入る歌でした。髪型をもう少し考えて欲しいと思いました。

匠ひびきさんがヴェラ。しっかりした女性として描かれているので、所作はとてもきびきびしていてよかったと思います。が、もう少し目と声でも演技をしていって欲しいのです。ちょっと堅かったかな?

沢田亜矢子さんがエミリー・ブレント。独身の老婦人で、潔癖症。罪の意識に皆が迷う中、一人「自分は正しい」と言い張る役。ちょっと嫌な役ですが、とてもさらりとこなしていらっしゃいました。

天田俊明さんがヴォーグレイヴ元判事。勿論私はこの人が犯人だと知っているわけですが、 全然犯人らしくない。長年の判事の貫禄、冷静さが伺えて素晴らしかったです。犯人らしくないからこの作品が面白いんですよね。

今さんはまたあとで。

金田賢一さんがアームストロング医師。何人もの人がこの人物が犯人ではと思うには、ちょっと線が細い気がしました。一度の過ちがあったとはいえ、大成功している医者の風格がもう少し欲しかったかな。

長谷川哲夫さんがマッケンジー退役将軍。自分の妻が不倫していた相手を殺してしまったとしきりに反省する。そして、生きる望みを捨ててしまう役です。3人目の犠牲者なのですが、とても印象に残ります。沢田さんの役と対照的です。

中島ゆたかさんがロジャース夫人。テレビの印象が強いのか、この役にはちょっと合わない印象でした。もっと控えめな印象を原作では持っていましたので。ただ、舞台はラストも違うし、最初の方に死んでしまう役には、原作の数倍のインパクトを与えるような台詞があるようでした。

井上高志さんはブロア元刑事。最後の方まで生き残る役。そのしたたかさが伝わる素晴らしい演技でした。舞台を引き締めていました。が、台詞の言い直しがこの日は目立ちました。
三上直也さんはロジャース。召使役です。妻をなくしたあとの廃人のようになってしまう演技はまあよかったのですが、殺され方が斧で切られるですから、あそこまで弱々しいと、なんだか犯人にあまりにも憎悪が行ってしまうような気がしました。

野本博さんはナラコットという船頭です。最初の方に登場しますが、殺されないです。 この作品の面白さは、事件がおこっている間は誰が犯人なのか全然わからないという点にあります。が、犯人のヴォーグレイヴ元判事はそれを臭わせることを言います。そして、私はこの台詞が好きです。 ブレント婦人が自分の行動は間違っていなかったと言い張り、死んでしまったのは「天罰が下ったのよ。神の裁きです。」というようなことを言います。それに対し元判事は「神はその裁きを人間の手に委ねたのではないだろうか。」と応えるのです。 長年の判事生活で、法律上有罪ではないけれど、道徳的には許されない行為の多さを見てきたのだと思います。勿論、この元判事は異常性格も手伝ってこの犯罪を計画するわけですが、自分の胸に手をあてて、罪を犯していないか、問い直さなければならなくなる作品です。 「オリエント急行殺人事件」と対をなすような作品ですよね。本当にアガサ・クリスティ作品は何度も読みたくなる魅力がたくさん詰まっています。

そして、舞台では、犯人探しは目的ではないと思うんですよね。自分が殺人犯に疑われている。殺されるかもしれない。という極限状態で、人間はその本性をあらわしたり、人間関係の別の面を見つけたりするのです。私は、それが楽しくて推理物の舞台を観ています。 ですから、今回で言えば、長谷川さんや沢田さんの演技は心に残りました。
そして、もう一人心に残った方と言えば、今拓哉さんですね。 今さんに惹かれて観劇したわけですから、まあ、こういう感想かとも思いますが、時には期待はずれだったりもするので・・・

マーストン役と聞いて、「最初に死んでしまう!」と悲しい気持ちになっていました。原作を何度も読んでいるから、また、今さんがなさった役だからということもあるのですが、このマーストンというのはとても重要な役なんですよね。 まあ、色男ですぐ若く美しい女に声をかける、道徳心のない軽い人物として書かれているわけですが、まあ、ここまでかっこいいなら許してしまえます。ロンバードとヴェラは最初からかなり意気投合していたようで、二人だけで舟に乗ってやってくるのです。マーストンは後からやってきますが、ヴェラをすぐに気に入ります。「10人のインディアン」の歌をロンバードがピアノで弾き語り始め、ヴェラも仲良く歌っているところに割り込んで入ってきて、歌います。そして、ヴェラが踊り始めると、マーストンが相手を務めます。ロンバードは寂しそうにピアノを弾き続けています。時々相手が男になっていたりと、とても楽しい雰囲気がここで出来上がっていました。今さんの笑顔が本当に光っていました。そして、マーストンは子供を二人ひき殺した罪を暴かれるわけですが、「あれは事故だった。運が悪かったんだよ、俺は」と言い切ります。他人が「運が悪かったのは子供たちでは?」と言われ、「まあ、そういうこともいえるな。」というような答えしかないのです。 レコードからの告発に皆が動揺し、「一刻も早くこの島から出よう」とパニックになっているのに、「俺はそうは思わない。犯人を捜してからだ。」と声高らかに言い放ち、ウィスキーを飲む。ちょっと咳き込んでそのまま死んでしまいます。 その様子を見ていた人は、「自殺」と考えます。が、こんな人間が自殺をするだろうか?と迷うわけです。殺人の始まりなのか、それとも偶然なのか。人々の心を不安に陥れるのは、今さんの演技、つまりマーストンの明るく、世界は自分のためにあるという態度に掛っているのです。今さんは、本当にそんな感じでマーストンとして生きていらっしゃったと思います。本当に印象的でした。
犯人は、人々の心理状態を先回りして読み取って、殺人の順番も決めているわけです。最初の意外な死、の効果は犯人にとっても、舞台の運びにとってもとても重要だと思います。 というわけで、短い出番か・・・、そして、何だか好きになれない役柄だなぁ、と思いつつ出かけたのですが、何だか今さんの演技力を思い知った舞台となりました。

レ・ミゼラブル

2003年09月14日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年9月14日マチネ 帝国劇場8列目下手

 「新生レ・ミゼラブル」を観劇してきました。
 「遅~~~~~い」と笑われそうですが、いろいろありまして・・・

 実は、(以前掲示板に書きましたが)7月10日のプレビューに行きました。が、一幕で帰ってしまったのです。自分の体調があまり良くなかったこともありましたが、それをおしてまで観るほどの舞台ではないと感じてしまったからです。

 そして改めて、上記の日に観劇したわけですが、作品には感動しましたが、舞台には感動できませんでした。どうしても前回バージョンを重ね合わせてしまうのです。

 一番のお目当てだった、今ジャベールは、とても素敵でした。やはり、プレビュー初日は今さんと言えども緊張して、無駄な動きが多かったのだと思いました。

 7月10日も一幕のみとはいえ、全キャストが登場しますし、私が一番のこの舞台で大切だと思っている、一幕のラストは観ています。
 その、「ワン・デイ・モア」がどちらの日もあまりにもひど過ぎました。はっきり言って、何の曲なのかわからないほどばらばらの歌声。隊列のひ弱さ。9月14日に至っては、吉野アンジョが逆の足になってしまうという有様。
 この場面は、全員が舞台に登場する唯一の場面。このカンパニーの力がわかるといっても過言ではありません。そして、とても難しい場面であることもわかっています。が、何の曲かわからないほどの乱れは、プロとしてあまりにも情けないのではないでしょうか。

 吉野圭吾さんのことを厳しく言ってしまったようですが、私は、吉野さんをとても買っています。「モーツァルト」の時は大絶賛でした。美しい立ち姿はアンジョルラスそのものです。が、この役は高音もさることながら、低音がしっかりしていないといけないのです。
 この作品で一番有名で、もっとも印象深い歌、その歌い出しは他の高音を響かせる歌と違い、低い音で始まります。「たたかうもののうたがきこえるか・・・」
 吉野さんは、とても上手くこの部分を切り抜けたと思います。が、印象に残らないのです。ここが印象に残らないと、ラストの歌詞違いの同メロディの高揚感がまるでありません。このあとコンブアェールやフイィも同じメロディを歌いますよ。でも、アンジョルラスが優しくも、力強く歌うことに意義があるのです。

 フォンテーヌはマルシアさんでした。彼女の声も、張りがあり美しいのですが、フォンテーヌの幸薄い、はかなげな美しさを表現してはいません。

 テナルディェ夫妻は三遊亭亜郎さんと瀬戸内美八さん。演技が求められる役であるにも関わらず、歌うことで必死。笑うはずの宿屋の場面で、とても疲れてしまいました。

 上では、プリンシパルの方たちについて書きましたが、この舞台はアンサンブルが主役です。長短あるにしても、全員にソロがあり、見せ場もあります。が、その役として生きていないのです。

 例えば、宿屋の場面で、お金持ちの旅人が二人やってきます。一人は少し用心深いのですが、もう一人は本当に金持ちらしいのです。というのは、前回バージョンでの感想。今回は、「金持ち」と言われなければ、金持ちに見えない。
 ほとんどか、こういう感じなのです。

 確かに、短縮するために表現する時間も短くなり、キャストの皆様が苦労なさっているのもわかります。が、もっともっとその役に、そして、この時代に生きていかなければならないと思います。

 勿論、今拓哉さんをはじめ素晴らしい歌、演技をみせて下さった方もいらっしゃいます。が、とにかくこれが本当に、真剣に、オーディションをした結果起用されたキャストなのか、と思ってしまいました。役者さんの実力うんぬんではなく、選んだ側に多大なる責任があると思います。
 もともと楽譜にある音を出せないキャストを起用するなど、ミュージカル(特に、この作品のように絡みが多いと、音を変えられない。)ではあって欲しくないことです。
 全キャスト入れ替えにも疑問が残ります。短縮して、どうしても舞台が平坦になるなら、なおのこと作品を知り尽くしているキャストが半分は残って、作品の中での役としての生き方を伝えるべきだったのではないでしょうか?
  
 新キャストの起用、複数キャストの起用で、多くの人がこの素晴らしい作品に携わることが出来るのは素晴らしいことだと思います。しかし、とても厳しい言い方ではありますが、それは創る側の都合であり、観客不在の舞台制作だったのではないでしょうか?
 
 今回の観劇記は、今までの中で一番辛口の文章だったもしれません。が、この「レ・ミゼラブル」という作品を大切に思い、21世紀もずっと上演し続けていって欲しい作品だと考えればこそなのです。

サタデー・ナイト・フィーバー

2003年08月06日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年8月06日マチネ 新宿コマ劇場4列目センター

ジョン・トラボルタ主演の映画「サタデー・ナイト・フィーバー」の舞台化です。
 
 あら筋
舞台は、ブルックリン・ベイブリッジ地区。
トニー(大澄賢也さん)は、土曜日の夜にフェイシスの仲間とオデッセー2001で踊ることだけが楽しみという生活をしていた。
今年のダンス・コンテストが近づく中、昨年のダンス・キングとなった時のパートナーのアネット(シルビア・グラフさん)は、今年もトニーと組みたがっていた。トニーは自分に夢中すぎるアネットとは上手くいかないと思っていた。そして、大人びたダンスの上手いステファニー(純名りささん)と出会い、組むことになった。
その一方で、思うように行かない事もあった。仕事を解雇されたり、一家の期待を一身に浴びていた兄(安崎求さん)が神父を辞めてしまったり、フェイシスの仲間ボビーC(美勇士さん)が恋人を妊娠させてしまったり、仲間の一人が喧嘩で大怪我をしたり・・・ しかし、トニーはコンテストで優勝する。それなのに、「身びいきの判定だ。」と言って、優勝を2位となったプエルトリコ系のカップルに譲ってしまう。
そして、ボビーCが事故で死んでしまう。
大人になるときだと思い始めたトニーは、ステファニーを追うようにマンハッタンで生活しようと決意するのだった。

こんな感じでしょうか。
私も、映画を観ているのですが、ほとんど話は記憶に残っていませんでした。あのトラボルタの歩き方しか覚えていなかったんですね(笑)。

この観劇記は「ちょっとだけ辛口」と言っているのに、この頃「かなり辛口」になってしまっていて反省しています。が、今回も辛口です。
舞台が出来上がるまでには、長い月日がかかり、そして多くの人達が心を込めて作り上げていることはわかってはいるのですが、その前後により良い舞台を観てしまうと、この舞台ももう少しがんばれたんじゃないだろうか、と・・・で、つい辛口になってしまいます。

こんなことを言ってはいけないかもしれないのですが、キャストを見て、ダンスを楽しむミュージカル、と割り切って出かけたのです。私は、やはり歌や芝居中心の方が好きなのですが、ある面ダンス・ミュージカルにあまり歌や芝居を期待しても無意味だとも思っています。踊る場面を堪能しようという思いでした。

ビージーズの聞きなれた音楽。心踊るメロディーですよね。このメロディーにどんなダンスを付けてくださるのか?
トラボルタ・ダンスはありえないと思っていましたが、ヒップ・ホップ系のダンスってこんなに切れのない、ごちゃごちゃしたダンスだったかナァ、という感想です。

舞台設定として、踊っているのは、まだ10代の若い子。それも、楽しみで踊っているわけですから、まあ、リアリティを追求したというのであれば、これもありかと思います。が、舞台というのは現実と夢をごちゃ混ぜにしなければならないわけで、もっともっとダンス・シーンは迫力があって欲しかったです。
ダンスに関しては、全体のレベルの低さ、振り付けの単調さ、そして、人数の多さと何だか救われない感じでした。
そして、何よりも一番盛り上がるはずの「ダンス・コンテスト」の場面が短いし、あまりにも拙いダンスでこれがコンテスト???という感じでした。

歌や芝居の面は、期待していなかったので、まあ、こんなものかと思いましたが、一幕の無意味なダンスをもう少しカットして、この頃の時代背景、家庭環境を語れば、トニーが優勝を譲ってしまうことや、ステファニーとの関係もわかりやすくなったのではないかと思いました。

全体の感想は厳しいのですが、とても嬉しい出会いもありました。でも、それが余計に、「他の人ももっとがんばれるのでは・・・」という思いとなったような気もします。

その出会いとは・・・
トニーの仲間に、フェイシス4人組がいるのですが、そのお一人の西村直人さんに私の目は釘付けでした!!!
何度か西村さんの舞台は拝見しているのですが、全然風貌が違うので、「このダンスの上手い人は誰???」状態でした。フェイシスの一人と言えば・・・もしかしたら西村さん?と謎が解けたわけです。西村さんはダンスがお得意だとは聞いていたのですが、今まで、こんなに踊りまくる舞台を拝見したことがなかったり、ダンサーの中ではまあ普通に見えると思っていたりしたので、それが逆だったことにも驚きながら、いろいろ考えてしまったのです。(で、上のような感想になってしまったような気もします。)
ファイシスはいつもグループなので、他の人の動き(ダンスだけではなく、演技も)と、嫌でも比較してしまいます。
実は、西村さんの扮するジョーイは、とても血の気が多くて、悪餓鬼です。母親としては一番なって欲しくないタイプの息子です(笑)。でも、何だか共感してしまって・・・
人生のうちには、こういう時期もあるんだろうナァ、なんて思ってしまったわけです。
トニーはプレイ・ボーイのようでも、とても奥手で、真面目なところがあるんですよね。それを引き立たせているのがこのジョーイの悪餓鬼ぶりだったのです。私は、この西村ジョーイの悪さのおかげで、トニーがステファニーに一歩引いたところで幕となるところも、何となく納得したのでした。
ダンスでは主役を食ってしまうほどなのに、演技の面では、主役の主役たる面を浮き立たせるという西村さんに感動しました。
これはもう私の思い込みかもしれませんが、西村さんのダンスは、ダンスにもちゃんと意味があると感じられたのです。そう考えると、もう少し他のキャストも意味のあるダンスをして下されば、引き締まった舞台になったと思うのです。いくら西村さんががんばっても、あの大掛かりなカンパニーを引っ張るのは限界があると思います。

と言うわけで、すっかり西村直人さんファンになってしまった私です。
勿論、私の観劇の一番の動機は、治田敦さんがご出演なさるからだったのですが・・・ まあ、予想はしていたものの、ご活躍の場が少なくて、悲しかったのですが、トニーの一面を印象付ける、とてもいい場面を作って下さったと思います。
治田さんと同じく、あまりに勿体無い初風さん、安崎さんの起用。ダンスを削って、もう少し家庭や社会を描いて欲しかったですね。

以下は余談ですが、なぜトニーは優勝を譲り、ステファニーとは友達で幕なのか?の私の解釈を・・・
ただ、単にトニーが奥手という気もしますが・・・という無責任なことは言わないで、ちゃんと考えました。

実は、この物語はとてもアメリカ社会の根深い問題を語っているのです。 一つは、人種問題です。アメリカ、特にNYは人種の坩堝です。平等を建前とはしていますが、なかなか現実はそうは行きません。トニーたちのイタリア系もあまり優遇されているとは言い難いのです。それ以上に冷遇されているのが、プエルトリコの人々です。 この舞台でも、ちゃんとそこが語られていますよね。トニーが優勝を譲ると言う前に。 コンテスト前夜、ファイシスが喧嘩するところです。フェイシスの怪我をした仲間の敵討ちとプエルトリコ人と喧嘩したあとに、彼が「俺を怪我させたのは、プエルトリコの奴だったか、わからないんだ・・・」と言うのです。そう、西村ジョーイがプエルトリコの奴って決め付けちゃうんですよね。この事件が、トニーの心には重く圧し掛かっているわけです。

もう一つは、宗教の話です。トニーの兄とボビーCによって語られるわけです。兄が宗教に「真実が見出せない」と言って挫折します。それと、ボビーCが恋人を妊娠させたので結婚しなくてはならない、ということが重なっているように思えます。そして、最後にボビーCは自殺してしまう。(といっても、カトリックは自殺を認めないので、事故死か?)本来人を救うための宗教なのに、その教え、つまり堕胎を許さない、ということがボビーCを苦しめ、死へと追い込んでしまうわけです。それが、宗教のあるべき姿なのか・・・と兄は言いませんが、いろいろな矛盾にぶち当たり、その一つが堕胎のことだったのかもしれません。今でも、アメリカの選挙戦となればこの「堕胎」のことは必ず賛否を表明して戦うぐらいですから、アメリカ社会にとってとてつもなく大きな問題なわけです。 トニーは、一家のはみ出し者と言われていますが、神父を輩出する家庭の空気をしっかりと持っています。他のファイシスの仲間と違い、ある一線は守っているわけです。そういうトニーであるからこそ、本来住む世界が違うであろう(たぶんイタリア系ではない)ステファニーとは、兄の見出せなかった「真実」を語り合い、分かち合う「友達」であろうとするのではないかと思うのです。

ちょっとカッコよく考えすぎかな(笑)。とにかく、とてもとても暗いお話なんですよね。
それだからこそ、華やかなダンス・シーンが似合っているわけです。そのダンス・シーンが華やかであればあるほど、素晴らしくあればあるほど、その裏にある厳しい現実も見えるし、また、その現実を超える勇気も出てくるのだと思います。
暗い方を踏まえないで、明るい方を組み立てても上手くいかないのではないでしょうか。どうして、土曜日の夜、こんなに踊りまくるのか???もう少し考えて舞台構成をしたら、素晴らしいダンス・シーンが作られたのではと思います。
しつこいようですが、西村さんのダンスや演技にはそういう物語がちゃんと見えたんですよね。思い込みだけかナァ?!?!?

藤本隆宏&広田勇二 ライヴ2003

2003年08月03日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

藤本隆宏&広田勇二 ライヴ2003~Keep Dreaming On~
2003年8月3日 六本木PIT INN

広田さんのライヴがある!!!

実は、この喜びの裏に一月ほど前に観劇した「FAME」の敵討ち(?)の思いがあったのです。なんとも過激な言葉になってしまいましたが、広田さんのお姿にお会いするのに、「歌」に触れられなかった私は、かなりの欲求不満であったわけです。いえ、勿論、演技も台詞もみんなステキなんですけど、やっぱり歌って欲しいんですよ!

「太平洋序曲」以来の広田さんの歌・・・そして、遅い梅雨明けの後にやってきた夏の暑さに、浮かれているのか、うなされているのかわからないまま私は「六本木PIT INN」へ。

バンドの演奏が始まります。この曲は・・・そう「ジキル&ハイド」の「This is the moment」。藤本さんが登場なさり、歌いだされました。そして、途中から広田さんも登場なさり、あの美しい歌を歌い上げてくださったのです。
いや~~~、私はこの曲自体が好きですし、広田さんの歌声がまた素晴らしくて、もうこの一曲で今日来た甲斐があったナァ、と感激していました。

藤本さんは、白の綿シャツにブルーのGパン、時々サングラスをかけるというファッションでした。
広田さんは、黒ともグレーとも見える比較的ぴったりしたカラーのフラットなシャツに、黒皮パンツ、そして髪は「FAME」の時と同じく金髪でした。
藤本さんは、本当に大きい方ですよね。何をやっても決まってしまうカッコよさ。爽やかな笑顔がとても素敵です。

「Ruote66」「Imagine」「Season of Love」など英語での歌もありました。

「上向いて歩こう」は会場の皆で歌う、という趣向でした。このあたりで、ちょっと堅かった藤本さん、広田さん、観客が一体になれた感じがしました。私もそうですが、どうしても普段離れた位置から舞台を観ていますから、ライヴのように近いと、観客もなぜか緊張してしまうんですよね。
「上を向いてあるこう」は私自身とてもいろいろな思い出詰まった歌です。そして、いろいろなアレンジで聞きます。もとの楽曲の素晴らしさゆえか、どんな料理方でもその旨味は消えることもなく、そして、藤本さんと広田さんの「前向きに行こう」という思いとで、また新しい「上を向いて歩こう」に出会いました。

リズム感のあるライヴにふさわしい曲の中で、「Life is just a Bowlof Cherries」は藤本さんの芝居心がふんだん楽しめました。

そして、広田さんの「ブイ・ドイ」(日本語で)!!!!!
最初の「This is the moment」でもう帰っても悔いないと思いましたが、帰らなくてよかっですよ(笑)。どうして、こんなに歌に説得力があるのかと思ってしまいます。もう、歌詞のひとつひとつが心に響いてきて、こみ上げる涙を抑えられないのです。
一緒に行った友人に、「泣いてたでしょ」と言われて、ちょっと悔しかったのですが何を隠そうその友人も「私も泣いちゃったよぉ。」と。

藤本さんと、広田さんのやりとりもとても楽しかったです。 とても、真面目なお話もありました。このライヴの副題が「Keep Dreaming On」だったわけですが、これに関連して「夢は?」はとの問いに、広田さんは「ずっと舞台に立ち続けること」と応えられていました。
ラストはこの副題と同じ名称の曲でした。

アンコールでは楽しく盛り上がり、あっという間の一時間半でした。でも、3時間の舞台に負けない、充実した時間でした。
広田さんの歌声をここまで堪能した私は、もう元気百倍です。
だからって、帰りに「レ・ミゼラブル」のチケットを買うことはなかったような気もしましたが、買ってしまいました。
でもね、そのチケットを買いながら、「過ぎた日に乾杯」の場面まで観ても、広田フイィにはお会いできないんだよナァと、妙に寂しい感じがしていました。

広田さんの魅力は何だろうといろいろ考えます。まずは「歌」ですよね。高い音域でも、その高さを感じさせない、温かみのある歌声なのです。そして、歌の中での表現力の素晴らしさでしょうか。歌に色が付いているという感じです。
さらに、舞台の上での真摯な姿勢でしょうか。どの役者さんも舞台に対する真摯な姿勢を感じますが、広田さんの場合ちょっと雰囲気が違うんですよね。これを言葉にするのは難しいのですが、2003年版「レ・ミッズ」の学生たちを見て、広田さんの舞台に対する姿勢が私にとってどんなに魅力的であるかを悟ったのでした。
こんな言葉でそれを伝えられない気もしますが・・・静かな、そして、落ち着いたたたずまいの広田さんなのですが、真の強さ、内に秘めた情熱が、その場面場面をしっかりと締めているのです。
そんな広田さんの魅力がフルに発揮されるような舞台にまた出会いたいと思います。

とにもかくにも次の舞台も楽しみにしたいと思います。そして、また、こんな素敵なライヴをやって頂きたいナァと思っています。

ちょっと、はしゃいだ観劇記になってしまいましたが、梅雨が明けたのと同様、本当にここしばらくの憂さが一気に晴れ、幸せ一杯になったということで!!!

天翔ける風に

2003年06月25日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年6月25日マチネ 東京芸術劇場・中ホール最前列センター

あらすじ
 江戸時代末期、世の中は腐敗しきっていた。
 女でありながら塾生となっていた三条英(香寿たつきさん)は、「一人の悪人を殺してでも万の善人を救う」という思想のもとに、殺人を犯してしまう。思想を正しいと思いながらも、犯してしまった罪に悩む英。
 英の家族も苦労のしどうしであった。英の妹、智(伊東恵里さん)は、姉のために、そしてお金のために、愛のない結婚を受け入れようとしていた。
 英の親友、本当は坂本竜馬である才谷(畠中洋さん)は、無血革命のために奔走していた。そんな中でも、英の異変に気づき、「ひとつの命は、何万の志と引き換えにすることなど出来ない。死んでもいい人間などと出会ったことがないからだ。」と言い、英に自首させる。
 獄中で、恩赦を待つ英。そして、新しい時代に、才谷との新しい人生を歩もうとするのだが、才谷は帰らぬ人となっていた。

 簡単ですが、こんなお話でしょうか。

 初演は観たいと思いながら、チケットが取れず断念。今回も、あきらめムードだったのですが、さけもとあきらさんがご出演とのことで、突然パワーアップでチケット・ゲット。しかし、その思いが強過ぎたのか、最前列で観ることになってしまったのです。
 ご覧になった方はご存知だと思いますが、開幕前に「前説」がこざいまして、オケボックスと最前列の間の通路に、役者さんが立たれ、いろいろ解説してくださるわけです。 ところが、この日私は仕事が長引き、劇場入りが開幕5分前。駅からダッシュしていたため水もしたたるいい女状態でした。その上、よくチケットの場所を見ていなかったので、最前列などということは夢にも思わず、「席がない」という焦り・・・そして、私の席が最前列にぽっかり空いていることに気づき、呆然としてしまいました。座って荷物を置き、暑いんだけど扇ぐに扇げず・・・女優さんに、「大丈夫ですか?」と言われる始末。なんだか、とってもテンションの高いまま開幕と相成ったわけです。

 そして、舞台もテンションが高いんですよ。確かに、テンポも良く、迫力溢れる舞台でした。少し、引く場面があってもよいのではと思うほどでした。もう少し、後ろで観劇すれば、丁度よいぐらいだったかも知れませんが・・・
 
 もう一つ、気になったのは、ほとんどの役者さんの台詞回しが、怒鳴っている、と聞こえたことでした。テンションが高く、叩き込んでいくような台詞が多いのでそうなってしまうのかもしれませんが、ずっと続くと聞いているほうが疲れてしまうのです。

 そんなテンションの中、とても静かなのですが、真の強さを感じさせてくださったのが、智を演じられた伊東恵里さんでした。説得力のある歌声、動きの美しさ、とても心惹かれました。

 その智と婚約しているのですが、身勝手な男、溜水を演じるのが福井貴一さん。悪役ですが、最後に智に拒絶され自殺するという智とは逆の見かけばかりの強さを、リアルに演じ切って下さいました。

 坂本竜馬こと才谷の畠中洋さん。最初は、なんだか頼りない人だナァ。英の強さを見習えば、というような感じなのですが、竜馬であることがわかってからの凛々しさへのステップだったのかと、感動しました。
 竜馬の死を知らずに、幸せを夢見る英・・・という幕切れなのですが、その余りにも切ない幕切れに、英の笑顔の明るさが印象的なのです。それは、竜馬の「ひとつの命は・・・」という名台詞の印象が観客に大きければ大きいほど、より伝わってきます。畠中さんの素晴らしい演技に胸を打たれました。

 さけもとあきらさんのご活躍といえば、何と言ってもお坊さんですね。英が人を殺したことを悔やむのだけれど、絶対にばれないとも思っているわけです。その心の葛藤が起こっているときに、お坊さんが静かに通っていくのです。まあ、被害者の亡霊のような存在ですね。英を見ているわけでもないのに、すごくプレッシャーをかけているお坊さん。摩訶不思議な存在の役でした。
 他は、もうそれこそこんな香盤、誰が作ったのだろうというほどの忙しさで舞台を縦横無尽に暴れ(?)まわっていらっしゃいました。踊りも、旗振りも、とても美しくきびきびとしていました。

 そう言えば、二幕の始めのほうで、とても深刻な場面として設定された中で、旗振りをしたと思うのです。その振り手の数名がとても楽しそうにやっていらしたのが気になりました。やっていること自体の楽しさはわかりますが、アンサンブルも作品を作っているのですから、場面に合わせた表情を作っていただきたいと思いました。勿論、さけもとさんはすっごく怖い顔をなさっていました。だから、余計にそうではない人が気になったわけです。

 これは、前に書きましたが、「怒鳴る台詞が多すぎる」はさけもとさんにも当てはまっていて、強い声というよりは、かすれて落ち着きのない台詞がいくつかあったのは残念でした。ただ、さけもとさんのいつもの明瞭な台詞回しから思うと、そういう風に台詞を言うようにという指示があったのかナァ、という気もしています。しかし、もしそうだとすると、もっと問題かもしれませんね。怒鳴るというのと、怒りを表に出して、伝えるということは別のことだと思いますので。

 野田秀樹さんの「贋作・罪と罰」を下地にしたこの舞台。本当に今というときに、考えなければならない内容が詰め込まれていました。 「ひとつの命は、何万の志と引き換えにすることなど出来ない。死んでもいい人間などと出会ったことがないからだ。」 この言葉の重さを、ニュースを聞くだび思ってしまう日々が、いつか消えることを祈っています。

ヘッダ・ガブラー

2003年05月31日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年5月31日マチネ R’sアートコート

 イプセンの原作、チラシの予告からすると、かなり重い話であろうと予想していました。そして、「すべてのセリフをメロディーに載せて朗唱するレシタティーボ・オペラのスタイルにした野心作」ともありましたので、どんな旋律が響くのか楽しみでもありました。

 主人公ヘッダ(徳垣友子さん)は学者でとてもまじめなユンゲル(さけもとあきらさん)と結婚。半年におよぶ新婚旅行から帰ってきたばかりテスマン夫妻の新居に思いもかけない人たちがやってくる。

 ユンゲルはまもなく教授となるはずだったので、結婚し、新居を買うという冒険もしていた。ところが、そこへ昔の好敵手そして恋敵でもあるエイトラート(岩田元さん)が再登場。ユンゲルと教授職を競うということになった。しかし、エイトラートにはお酒にまつわる暗い過去があり、それを支え仕事の手助けをしていたのがエルヴレット夫人であった。このエルヴレット夫人はヘッダの学生時代の友人。ユンゲルとも知り合いだった。そして、暗い結婚生活から飛び出してエイトラートといっしょに生活しているのだった。

 ヘッダは身分も高く、美しかった。思い通りにならないことはなかったかもしれない。しかし、不条理は次々と起こる。エイトラートが落とした原稿をユンゲルが拾ってくる。ユンゲルはエイトラートに返そうとするが、ヘッダはユンゲルが留守の間に焼いてしまう。その事実を知ったユンゲルはヘッダが自分を愛していてくれたことに感激してしまう。ところが、その原稿がなくなったことがショックでエイトラートが死んでしまう。ユンゲルは心を痛める。そこへエルヴレッド夫人がメモ程度ならあると言ってくる。ユンゲルは彼女といっしょにエイトラートの原稿を整え出版にこぎつけようとする。

 隠していたはずのブラック判事(大須賀ひでき)との関係も夫に知れていたことがわかり、ヘッダは一人ぼっちに。そしてついには自殺してしまう。

 こんなストーリーでしょうか。その場面場面で登場人物が本当は何を考えているのかわからないセリフがたくさんあり、それが次の場面でわかるという感じでした。ミステリータッチで話にはどんどん引き込まれていきました。

 そして、人間の生き方をいろいろと考えさせられました。こういう話の感想を書くのは本当に難しいです。どうしても観劇しているときからある登場人物に自分を投影してしまうことが多いですから。別の登場人物の立場になれば、こういう解釈もありとなりますしね。

 最初に書きましたとおり、「重い話」「メロディーに載せたセリフ」ということで、どんな旋律が、セリフの本当の意味をえぐり取るように私たちの耳を、心を振るわせてくれるのか楽しみでした。

 残念ながら、私にはちょっと物足りませんでした。とても心地よいからです。そして、セリフだけというのがとても多かったのです。ここも旋律をつけたら、という部分もとても多かったですね。作曲はいしむらむつみさんと和田真奈美さんということで、やはり同じ日本人。あまり裏切れないかもしれないなぁと思って聞いていました。

 ずこくショックなセリフもたくさんあって、人間の複雑さを感じるのですが、あまりにも音楽が美しくて、人間のどろどろとした部分が美しく昇華してしまう感じすらしました。「こうだ」と言い切るセリフが少ないだけに、観客にどちらとも受け取る自由を与える旋律ではありましたが、もう少し方向性があってもよかったのではとも思いました。

 ちょっと抽象的な話になりましたので、私の大好きなさけもとさんの役でお話しましょう。あらすじの中で「隠していたはずのブラック判事(大須賀ひでき)との関係も夫に知れていたことがわかり」と書きましたが、はっきりユンゲルがこういうセリフはありませんでした。ただ「判事さんが夜毎相手をして下さる。」というようなセリフなのです。

さけもとさんの演じられたユンゲル・テスマン。本当にお人よしで、自分には高根の花であったヘッダと結婚したことに満足し、完璧にヘッダに尻に敷かれているのです。当然、さけもとさんの歌われる歌はとても美しいメロディ。毒にも薬にもならないような人物であることを印象付けてくれます。しかし、ヘッダからの愛、もしたとえそれが見せかけであろうと、その愛がある形になった後でも、学者としての本当の心を持って亡き友の遺作を完成させようとする。それも、ヘッダを屋敷に残してある女性と仕事をしようというのです。そうそう、ヘッダは身ごもってもいます。

そんなユンゲルがヘッダに対して言う「判事さんが夜毎相手をして下さる。」が、美しい旋律でいいのかなぁと思うのです。そして、もしかしたら、この劇中一番厚い仮面をかぶっていたのはユンゲルだったのではと思うとき、彼の歌う歌の旋律がもう少し美しさを裏切るものであってもよかったのではないかと思ったのです。

もしかしたら、深読みし過ぎの感想かもしれません。ついつい、さけもとさんが演じられると、裏がある・・・と思ってしまう私の悪癖かもしれません。でも、とても優しいユンゲル、十分に素敵でした。

あらすじの中に出てこなかったのですが、ユンゲルの育ての母である伯母ユリナースを演じられた松岡美希さん。この役こそ、なんの裏切りもない美しい心の象徴なのだと思いますが、そのものでした。優しく、包み込むような歌声にうっとりしていました。

ブラック判事の大須賀ひできさん。ご縁があり、今年になってこれで3作品拝見しました。大須賀さん、とても美しいお声をお持ちなんですよね。でも、今回は結構悪役。凄みのある声で歌い、台詞を言われ、悪役を楽しんでいらっしゃったように思いました。が、最後の方、ヘッダを半分脅迫し、我が物にしておこうというあたりで、いつもの美しいお声になってしまわれたのがちょっと残念でした。

決して楽しいとは言えない作品ですが、さすが実力派6名のキャストに支えられ、作品の意味を考えるいい機会を得ました。

原作を読んでみてから、もう一度観劇してみたいと思います。

オケピ!

2003年04月17日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年4月17日マチネ 青山劇場1階15列目ぐらいの上手

「オケピ!」やっと観ました。

初演は観ていません。そして、再演ですとかなりの予備知識有りで観劇するのですが、ここ数日のかなりの忙しさに雑誌は買っても写真を見ておしまい。長い上演時間に耐えられるかも不安でしたが、直前に浅草から表参道までひと時の休息があり、眠気は大丈夫そうでした。

あらすじは、ミュージカルが上演されているオーケストラ・ピットの中で起きるさまざまな出来事についてです。多くの方が観劇されていると思うので、詳細については省略。

感想というのは千差万別。それを前提に読んで下さいね。こういう伏線を張るということは、かなりの辛口ということですね(笑)。そして、数日前に観た「新・三国志」があまりに素晴らしかったので・・・

楽しかったのは楽しかったのですが、長過ぎるのです。長いのは時間ではありません。歌舞伎を観る人間にとって、3時間20分は長くはありません。問題は長く感じるかどうかです。

この作品は暴露物です。私はこういう裏の世界を描くなら、本当にその世界を愛している人達によって創られるべきだと思っています。

三谷さんの喜劇を楽しみにされていた方たちは、この舞台も楽しかったと思います。しかし、ちょっと違うんじゃない?と思っていました。私もコメディは大好きです。この前の「ミー&マイガール」なんかこんな愉しい作品があったのか!と思いました。でも、その楽しさは「オケピ」とは異質です。

この作品には、音楽に憧れ、オケピにいることの幸せを感じるパーカッションが一日だけの代役で参加する設定になっています。彼の想像していたオケピの中と、現実はあまりに違いすぎるのです。それは世の中ほとんどすべてのことに当てはまる、悲しい現象です。
 そして、トランペッターはミュージカルが大嫌い。ミュージカルの変なところを歌います。でも、生活があるからオケピに参加するわけですね。

もう一つの話の展開に、恋愛があります。こちらも注目すべき内容ですが、あまりにもありえそうにない話の展開で、ただただ笑うだけでした。

現実の悲しさ、厳しさを救う場面があるのですが、それがあまりにもあっさりしていて、全然「救い」になっていないのです。「M20」はオケピの全員が愛する曲、と言う設定ですが、それが私には伝わってきませんでした。
 そのとき、う~~~ん、この作品を作り上げている人達と私は音楽やミュージカルに対する気持ちが全然違うのではないかと思いました。
 こうなると、作品の粗ばかり目に付いてしまいます。一つ一つのエピソードは面白くても、芯がなくてはただ長いだけの作品になってしまうのです。

まあ、粗を言い出したのでさらに・・・(苦笑)。

音楽が非常に単調。
 それに輪をかけるのか、演出も単調。セットをシンプルにするなら、演出、照明でもっと楽しませて欲しいのです。同じように事件が起き、そのことについて歌う。ライトはその人の顔の辺りだけを照らしている。ピットの中の狭くて暗い感じをイメージしたようですけれど、内容が明るすぎて、照明を暗くしても、舞台が黒でも、全然あの本当のピットの狭さや暗さは感じられませんでした。

こういうミュージカルを茶化す作品であればこそ、もっともっとミュージカルを知り尽くしている俳優を登用してやってもらいたいと思います。

舞台の台詞(歌詞)にも出てくるし、またプログラムを読んでもいろいろ書いてありますが、「突然歌うミュージカルの奇妙さ」は、作り手の責任だと私は思います。この作品自体、とても不自然。歌わなくても本当に芝居が成り立ってしまうのです。歌はいらないから、先に進めて・・・と思ってしまうのです。音楽の旋律自体に感情や情景を表現する力があることをもっとわかって作って欲しいのです。台詞もくどいのに、歌詞はさらにくどい。それも同じようなことを並べているのです。だから、長くなるんですよね。台詞を100個言うより、ワンフレーズですべてが表現できるからこそ、ミュージカルがあるわけですから。

ちょっと話がずれましたが、突然歌い出す、に注目します。日本で上演されたミュージカルで、話題になった作品のうち「歌」だけで綴られるミュージカルが多いことに気がつかれていますでしょうか?最初から最後まで殆どが歌なので、突然歌い出す、という違和感がないのです。まあ、この形式だと、あまり複雑な話は作れませんけど、こういうミュージカルに出会うと、日本のミュージカルも凄い、と感動しきりです。

が、芝居の部分が多くなると、なんで歌うの???とがっかりすることもあります。曲の責任も、演出の責任もありますが、歌い手の責任はかなりあります。台詞回しと歌う時の声があまりにも違いすぎるのです。今回も白井さんに対してすごく感じました。こうなると、まさに「突然歌う」と言う印象が強くなるわけです。全部が歌ですと、演じ手は歌う声で通しますから、台詞の声との差を感じないわけです。

何度も言って恐縮ですが、音楽と台詞の絡みを計算していない作品の上に、台詞と歌とを繋いで演じられないキャストとなると、ミュージカルにはなりえません。
 「ミュージカルを愛するすべての人と、そうでもないすべての人へ。」という副題みたいなものが付いていましたが、そうでもない人に、ますますミュージカルって変、という印象になってしまったのではと思います。
 ミュージカルを初めて観る方も多かったと思うのです。だからこそ、作品に多少の難があっても、ミュージカルを知り尽くした人達の手がもっと加われば、もう少し軌道修正されたんではないかと思います。

ここでもう一つ是非伝えておきたいことがあります。よく言うことなので、また言っていると思われるかもしれませんが・・・(笑)。

私がここで敢えて「ミュージカルを知り尽くした人」と言っていて、「歌が上手い人」とは言っていないことに注目して頂きたいのです。

上手い歌を聴きたいなら、オペラを観劇するべきだと思います。ミュージカルでの歌はその役柄のキャラクターやその時の心情を映し出す手段ですから、必ずしも上手い歌とはなりえません。例えば、酔っぱらっているのに、朗々と歌い上げるはずもありません。音程をはずすのも、その時の状況として要求されることだと思います。ちゃらんぽらんな役柄なら、やはり歌もちゃらんぽらんが似合うではありませんか。

が、いろいろ見聞きした結果、私が感じているのは、本当にきちんと台詞として歌を歌い上げられる人が、役柄や状況に応じて、なんだかいい加減に歌っている(と、観客に思わせる、というのが本当のところ)のと、本当に歌えないから適当になっているとでは、伝わるものがまるで違うと言うことです。

そして、歌わない役柄でも、歌える役者がやるか、やらないかで、その舞台全体の音楽の流れが違ってきます。歌えない役者が登場すると、ただの台詞でも、音楽を止めてしまうのです。歌える役者は普通の台詞が、音に乗り、リズムに乗り、音楽の流れの中で役を演じていくのです。

偉そうなこと言ってと嘲笑されるのは覚悟の上です。私がここまで言うのは、「オケピ!」と言う作品は、ミュージカルの批判もしているわけでしょ。本当はここまで日本のオリジナルで出来るのにやらないのはおかしい、って作り上げなければ、作品の中で批判したことがそのままこの作品に返って来てしまうではありませんか。反骨精神で創るべき作品にしては、あまりにもお粗末だったんではないか、ということで思い切り辛口になってしまいました。

ここまで言ったから、もうひとつだけ。
 いろいろ裏話が出て、そんな現実を楽しみましたが、そこまで言うなら矛盾しているって思ったことを一つ。
 厳しい批評が雑誌に出て、大先生(女優らしい)が怒ったとあったけど、今の日本じゃそんな批評はまず出ませんね。相変わらず、ひどい舞台に、がらがらの客席。それでも批評は「最高の舞台」。オケピの面々が大先生に思い知らせてやる!ってした方が、もっと皮肉でよかったんでは・・・

さらについでに言わせて貰えば、初演のときから「長かった」というこの作品への感想は多かったはず。それを本当の時間の長さを言っていると思っていたのでしょうか?日本人の奥ゆかしさ、批評の奥の奥に隠された真実はちゃんと読まなきゃ、日本に住んでいるのですから!

このまま終わらせると、私も悲しいので。

岡田誠さんを楽しみに行ったわけですが、やはり素晴らしい歌声でした。あの歌詞をあそこまで歌い上げて下さる岡田さんに脱帽でした。そして、ちょこちょこ台詞も入っているわけですが、歌とのつなぎの上手さと言ったら・・・この岡田さんの歌は2幕の頭なので、もう散々「なんだ、この作品は」みたいな感じになっていましたから、岡田さんの歌を聞きながら、「そうよ、ミュージカルはこうじゃなくちゃ」と叫びたくなりました。曲が少々悪かろうと、歌詞がくどかろうが、歌い手の腕一つで、歌に新しい命が吹き込まれる、と実感しました。

布施明さんも楽しみでしたが、「It‘s My Life」はいただけませんでした。「オーボエ奏者の特別な一日」は良かったです。涙が勝手に流れていました。歌の力って凄いですね。でもね、このあとの話が本当に余計だと思うんです。せっかくの演奏を娘さんが聞かなかった、って設定にしたでしょ。これこそ蛇足ですよ。

岡田さんも役のために太った体をスリムに戻すのが大変だと思いますが、この作品の贅肉も落とすのは大変でしょうね。内容の楽しさは満点ですけどね。何か芯のない作品でした。とにかく、三谷さんの作品だからと「オケピ!」を観てみたという皆様が、これがミュージカルだと信じてしまうことがないことを、祈っています。

新・三国志Ⅲ~完結篇~

2003年04月13日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年4月13日昼の部 新橋演舞場 1階11列上手

 スーパー歌舞伎「新・三国志Ⅲ~完結篇~」時間が許せばもう一度観たいと思いながら、劇場を出てきました。とにかく素晴らしかったのです。私自身「夢」と言う言葉がとても好きです。このシリーズは「夢見る力」そして「夢を信じれば、いつかきっと叶う」と語られています。そして、今回は「歌」がキーポイントでした。歌のもつ大きく、優しく、時に強い、その力を実感しました。
あらすじや感想をお話しする前に、プログラムに掲載されている、この作品の原案を作られた横内謙介さんの文章を紹介します
「(略)新・三国志はあくまでも娯楽大作である。(略)けれども、私たちを取り巻く世界の情勢は深刻だ。(略)芝居は世知辛いこの現実の世界を忘れる、楽しい一夜の夢であって欲しい。でも、世界が傷つき、苦しむ時に、芝居がその世界と全く無関係であり続けることは虚しく悲しいことだ。どんな時にも、何があっても、堂々と胸を張り世界に向けて上演し続けられる芝居を創りたい。(続く)」
 ここに引用した、最後の2行の心意気が板の上からバンバンと客席に伝わってきました。
 時に、私達は「平和なときであるから舞台(文化)を楽しめる。」と言いますが、本当は、「どんな時でも、何があっても」文化を守り、楽しむことこそが大切なのではないかと思います。そして、その思いが平和な世界を生み出すのではないでしょうか。
 4時間近い舞台、そして人物が入り乱れるので、あらすじは難しいのですが、一言で言ってしまえば、三国志の完結なのですから、時代は魏・蜀・呉の争う時代の末、そして普が天下統一をなすまでの話です。
詳しいあらすじとともに感想を書くつもりでしたが、なかなか時間も取れません。が、今の思いを書いておきたくて、この舞台を観ていない方にはわかりにくいと思いますが、現実のこととも重なりますので、ご理解いただければと思います。

 今、私達は大きな歴史の曲がり角にいると思います。どの方向へ曲がっていくのか、そして曲がろうとするのかは私達が決めることです。大きなうねりの中で、一個人が出来ることは本当に小さなことですが、その小さなことが本当はとても大きな歴史を作っていくのです。そして、歴史は勝手に伝わるものではなく、伝えていくべきものであることを忘れてはならないと思います。
 三国志の時代、平和を求めるために戦うというパラドックスの中にあった英雄達。この英雄を描いてきた「新・三国志」、どういう結末になるのだろうと思っていました。そこに現れたのは、武器を置き、文化を守った英雄でした。

 紆余曲折の末、魏の将軍であった謳凌(オウリョウ・市川猿之助さん)は、蜀の宰相であった孔明が残した書物や、孔明の育てた人達を助けることになった。しかし、魏は降伏した蜀のすべてを焼き尽くそうとしていた。追っ手は、謳凌一行にまで及び、ついに書物は焼かれてしまう。謳凌は孔明の教えを受け、それぞれの分野の研究をしている人々の命を助けるために、青龍偃月刀(セイリュウエンゲツトウ)という魔力のある太刀を捨てる。
 武器を捨てよう。そして、もう一度考えようではないか。魏の兵士たちよ、今殺そうとしている人に何の恨みがあるというのか?そして、今君たちに命令しているのは、本当に命令されるに値する人間なのか?君たちにも愛する家族、故郷がある。ここで争いをやめて、帰ろうではないか。さあ、武器を捨てて・・・と言うような事を、謳凌は深い傷を負いながらも言います。
 この場面は、クライマックスです。ここに辿り着くまでにはいろいろなことがあります。本当にこの場面が生きるように、いろいろな伏線が張り巡らされていることに驚き、そして、その伏線となった場面が走馬灯のように頭の中を駆け巡ります。
 さらに、現実に起きていることがオーバーラップしてくるのです。
 「平和のために戦う」ということは、本当に美しい響きがあります。しかし、戦うということは、犠牲になる人、もっと言えば死人が出るのです。残された人はその後どうなるのでしょう。嘆き、悲しみ、そして恨みを持つことでしょう。その恨みは新たな争いの種になってしまうのです。
 謳凌はもともと魏の将軍でしたから、この場面での魏の兵は、以前は自分の部下であったわけです。その部下に歌を歌うように言います。それは「長相思(チャンシャンスー・永久にそなたを愛す)」という歌で、最初の場面でも歌われます。孔明ゆかりの曲と言うことで、魏の副将の郭淮(カクワイ・市川猿十郎さん)はこの歌を嫌っていました。郭淮は自分の家族も家も村も焼き尽くされてしまっていたのでした。しかし、この歌に託された家族や故郷を思う気持ちを郭淮も持っているだろうと、謳凌は最後の力を振り絞り、命乞いをするのでした。郭淮は「家族もいない、帰るところもない。私は恨みだけで今まで生きた来た。」と言い放ちます。歌い続ける兵士。歌を止めようとする郭淮。しかし、歌声はどんどん大きくなり、ついに郭淮は泣き出してしまいます。見つめれば悲しさに出会う、そのことを恐れ心の奥底に隠し、鬼の心になっていた郭淮の心に、「長相思」は光を当てたのです。

 蜀の人々は一命を取りとめます。何もなくなってしまったけれど、人は生き、文化を伝えることは出来るのです。
 三国の戦乱は終わり「晋」と言う国が出来ました。これは、魏の皇帝を裏切った司馬一族が作った国です。つまり、最後のほうの戦いは魏の軍隊は魏のためではなく、司馬一族のために戦っていたわけです。
 戦争が現実に起こっているこの時、舞台で語られる矛盾は、現実の矛盾です。
 勝っても、負けても、犠牲者は出ます。それ自体許されることではありません。が、その戦いを指揮命令する人が本当にそうするべき立場の人でないとしたら、悲劇はますます大きくなります。
 イラク対米英他連合軍の戦争。本当の意味の勝利はない戦いだと思いますが、軍事力では連合軍の圧勝でしょう。しかし、連合軍側にも犠牲者は出ています。指揮官は彼らの家族や友人に対し何をしてくれるのでしょうか。
 そして、この完結編は、武器を置くことによって、争いは終わります。それこそが、本当の平和です。
 イラク攻撃の理由は「大量破壊兵器を廃棄させる」だったわけです。しかし、よく考えてみれば、アメリカのほうが大量破壊兵器をたくさん持っているわけです。その兵器が独裁者のもとにあるから危険は増しているとか理由をつけていますが、あれば危険に決まっています。
 その危険な兵器が使われるとどうなるか、日本は一番良く知っているわけです。使うということでなくても、存在するだけで本当に大きな危険のある兵器をすべての国が廃棄してこそ、平和はやってくると思います。

 戦争は起こってしまうと歯止めが効かなくなってしまいます。
 この舞台では、戦争という狂気の状態を「長相思」という歌が救い、平常心になり思考することが出来るようになるのです。
 これは現実に起こって欲しいことです。
 しかし、起こってはくれず、逆のことが起こりました。
 アメリカでも戦争が起こるまでは反戦活動も盛んだったようです。しかし、いざ戦闘状態となると、反戦を明言した俳優が映画の出演から下ろされたり、反戦の曲をCDにしようとしたら、製作会社からストップがかかったりしたようです。民主主義の大原則、言論の自由は一体どこに言ったのでしょう。民主主義の手本たるアメリカで起こるべきことなのでしょうか?こんなアメリカの民主主義を押し付けられそうなイラクの行く末はどうなることでしょう。
 ここで、もう一度横内謙介さんの「どんな時にも、何があっても、堂々と胸を張り世界に向けて上演し続けられる芝居を創りたい。」という言葉をかみ締めたいと思います。創り手の気持ちを受け手である私達がきちんと受け止め、行動することが大切になるわけです。受け手がしっかりしなければ、どんなに良いものを創り出してくださっても、受け手に来ない前に潰れてしまうのです。
 横内さんの「どんな時にも」というのは、戦争ということを念頭に置かれた言葉だとは思いますが、私はちょっと違う方向から考えてみたくなっています。
 というのは、残念ながら本当に戦争になったら、正面から反戦を語ることなんて出来なくなってしまうのです。それは、さっき書いた現在のアメリカでの動きからもわかりますし、歴史がそれを教えてくれています。だから、とにかく「戦争を起こさない」ということしかないわけです。日本にいると「平和ボケ」になっていると言われます。私もそうだと思います。だから「どんな時にも」というのは、堕落してしまいそうな平和の時にもともと考えなければならないと思います。本当に「どんな時にも」心に響く作品を作って欲しいと思います。そして、観客はその創り手の考えをしっかりと受け取っていかなければならないと思うのです。
 今、この苦しむ世界情勢に重ね合わせるから、感動した作品ではなく、いつ観ても感動する「新・三国志」に出会えたことを感謝し、創り手の熱意をしっかりと受け取ることが出来るように、いろいろ勉強していこう、と新たな決意をしたのでした。
 ここで、一応終わりです。が、この「新・三国志」の舞台はあまりにも魅力的で、紹介したいことが山とあるのです。そのいくつかを紹介します。場面の順とかになっていないので、わかりにくいと思いますが・・・
 歌の力に魅せられ、ミュージカルにはまっている私にとって、今回の歌が話しの中心にあるということはとても嬉しかったのです。

 見所は随所にあって、火、水、セットともうその迫力は言葉になりません。
 演出が素晴らしいのですが、一番気に入ったのは、春琴の琴を聴く謳凌が心を開いていくところでした。本当は雪の季節なのですが、琴の音に謳凌の心には、満開の桃の花が見えるのです。それが舞台にも現れてきます。そして、数日後、十数年弾かなかった琴を謳凌も久しぶりに弾くのです。そのときの鏡の使い方が素晴らしい。パートⅡを観劇した人は、ここである場面を思い出したはずです。本当に心憎い演出でした。
 鏡はいろいろなところで使われていて、魏の幼帝を補佐していて、謳凌の良き理解者であった皇太后静華が自殺する場面は、鏡の効果でその悲しみが倍増でした。演じられている笑三郎さんの凛とした美しさがより一層引き立っていました。
 大好きな右近さんもステキでした。貫禄もついて、これからがますます楽しみです。それにしても、本当に手の動きがきれいなんですよね。その美しさにぞくぞくしてしまうのです。ちょっと、いえ、かなり変なファンかもしれない(爆)。
 笑也さんの声の美しさに、女として嫉妬さえ覚えます。彼がいなければこのスーパー歌舞伎も成り立ち得なかったと思いますが、あの台詞回しの素晴らしさは、歌舞伎の歴史流しといえども、そうそうは輩出されないと思います。


 さて、演出の素晴らしさと、豪華さの魅力を存分に味わい、恒例の宙乗り。しかし、ここで度肝を抜かれました。聞いてはいたのですが、ここまでとは・・・
 会場全体に、桃の花びらが降るのです。それも、すごい量の!!!舞台だけじゃなくて、客席すべてに降りしきる桃の花びら。夢を見ているのではないかと思うのです。
 桃源郷を探しに行きたくなります。
 私は、降りしきる花びらの中で、桃源郷は探し求めるものではなく、自分で作るべきものなのではないかと思いました。
 本当は、もっとたくさんの素晴らしいメッセージが詰まった作品だったので、すべてをお話したかったのですが、拙い文章ですのでなかなか出来ませんでした。再演があるかはわかりませんが、もし、ありましたら、是非是非お出かけ頂きたい作品です。再演があることと、そのときは、今より平和であることを祈りながら筆をおきたいと思います。

フレディ~少年フレディの物語~

2003年03月21日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年3月21日ソワレ アート・スフィア7列目センター

2000年夏の初演から回を重ね、「フレディ~少年フレディの物語~」(以前は「葉っぱのフレディ」という題名)は、100回公演となり、私もこの記念の公演を観劇しました。そこで気合を入れて感想を書こう!と思ったのですが、この作品はあまりにも素晴らしく、感想を言葉にするのが本当に難しいのです。 なぜ、難しいのかと考えていましたら、先日、音楽を紹介する小冊子を読んで、はっとしました。
 「文字はどうしても音楽に勝てない。つまり、文字は考えるもので、音楽は感じるものであるということ。」
 まさに、「フレディ」というミュージカルは、「感じる」作品だと思います。
 そんな作品に対して、文字で、それも下手な文章で感想を書くことにどれほどの意味があるのかと思いつつ、ミュージカルは一応「歌詞、台詞」という文字の部分もあるので、「感じる」だけではなく、少しは考える余地もあるかと感想を書いてみたいと思います。

 あらすじです。
 10歳の少年フレディは原因不明の病気になり病院に入院する。フレディより年上(15歳ぐらい)で、先に入院していたダニエルと仲良くなる。ダニエルはカエデの絵を描きながら、季節の移り変わりを見つめ、フレディにもそのことを語ってくれます。フレディのパパもママも心配しながら、フレディの回復を祈ります。フレディの友達クレアもアルフレッドも退院を心待ちにします。しかし、フレディはカエデの葉が枯れる冬、クリスマスを迎え、死と向かい合うことになってしまいます。
 以上です。

 私は、この作品に、2回目の公演だった01年春、今回と同じアートスフィアで出会いました。昨年の春にも観劇しました。この3回の観劇でキャストが少しずつ変わりましたが、主役の島田歌穂さんが変わらないこと、そして作品のすばらしさが大きいので、どの舞台も完成度の点では、他の作品の追随を許さないという感じがします。
 そして、少しずついろいろなことを変え、さらに良い作品になるようにカンパニーがいつも前向きであることに、頭が下がる思いがします。

 変わったことは、以下のようなことです。
 第一は、題名ですね。「葉っぱのフレディ」から「フレディ~少年フレディの物語~」に変わりました。舞台の内容が予想できる内容になりましたね。「葉っぱのフレディ」だと絵本のイメージが強すぎて、葉っぱしか出てこないような感じですから。この絵本もすごくいいですから、是非一家に一冊!

 第二は、歌詞が少し変わりました。「もう一人の僕」というところが「もう一人のフレディ」になっていました。「フレディ」を強調したいということはわかりますが、あえて変えなくても、と思いました。もうひとつメインテーマである「命の旅」が題も歌詞も「命の詩(うた)」になりました。ミュージカルだし、歌を口ずさむという点では、「詩」というほうがいいですね。

 もうひとつは、演出がかわりました。といっても、これは私の記憶もあやふやですし、いつも感激してしまうということは、どれもいいということなんでしょうね。 間違いなく演出が変わっているのは「イブのこもりうた」の場面です。この歌は、フレディの病状がかなり重く、クリスマスも病院で迎えなければならないという悲しい場面での歌です。イブは世界の人々が心優しく過ごせるようにと歌うのです。フレディの話ではありますが、この作品が地球上の生命あるものすべてに思いを馳せていると感じる場面です。この歌は、パパ(佐山陽規さん)、ママ(友里倖子さん)、アルフレッド(杉江真)さん、クレア(史桜さん)の四人が美しいハーモニーを聞かせて下さるのです。そして、今回は、サークル席というのか、中二階の最前列に二人ずつ立たれて、歌うという演出になっていました。私は、一階席ほぼ中央に座っていたので、これぞ「ステレオ」というか、降り注ぐ歌声に心地よさを満喫させて頂きました。

 変わらないというか、これがあるからこの作品が好きという点を少しお話します。
 脚本がいいですよね。子どもが観劇するということを想定しているのでしょう。前半はコミカルでフレディはいたずらばかりします。また、子どもたちの大好きなゲーム、それも最新のゲームを取り上げます。フレディとダニエルの会話に登場する攻略本はまさに我が家に数ヶ月以内にやってきたものが登場するので、苦笑しつつも子供たちが舞台にひきつけられていくのがわかります。  フレディのいたずらに共感する子どもたち。そして、大人はパパやママの不安に共感していきます。フレディの元気な姿が段々なくなっても、「さよならは、別れの挨拶」、「変わることは普通のこと」という言葉に、「死」を受け入れるフレディを、子どもも大人も応援したくなります。そして、「死」を思うより、「生」を見つめなおすことができるのです。そこが、この作品のとても素晴らしいところだと思います。

 この脚本にとてつもない厚みを加えるのが、音楽です。17のナンバー(内何曲かはリプライズ)が、心に深くしみ込んでいきます。
 音楽自体も素晴らしいのですが、演奏がアコースティックにこだわっている点も私は本当に好きです。島健のピアノもいいですし、他の弦楽器も効果音まで出すのですから!!!音楽と演奏の素晴らしさが、ちょっともの悲しく、心を閉じてしまいそうな話への扉をそっと開いてくれる、そんな感じがします。

  「変わらない」そして「変わる」が交錯するのがキャストです。 初演からずっと出演なさっているのは、アルフレッドの杉江真さん、クレアの史桜さん、ナースの安井千波さん、あっ、勿論フレディの島田歌穂さんも、です。 ダニエルは昨年の春から堀米聰さんになりました。パパとママは公演毎に結構変わりますね。
私としては、歌穂さんがしっかりとした色を出していらっしゃるので、キャスト変更でまるで違う印象ということはありませんでした。
 そして、昨年の春とキャストが変わったのはママの友里さんだけでした。歌声には安定感があり、ごくごく普通の母親という感じで好感が持てましたが、もう少し最初のほうは明るく振舞ってもよいのではと思いました。
 堀米さんのダニエルは、ますます磨きがかかりましたね。前半の明るさが、生きることのすばらしさや、楽しさをより伝えてくださり、ラストへ向けて、観客が悲しいだけではなく、がんばろうと思う気持ちを持てるような演技でした。
 杉江さん、史桜さんは安定しています。でも、とても新鮮なところがとても不思議です。クレアが「いつか大人の恋をしても、フレディとのことを忘れない。」と歌うときの史桜さんがとても好きです。女の子の素直な思いがいつ聞いても新鮮です。


 この作品を観劇する動機のひとつは、佐山陽規さんが出演なさるからなわけですが、普通のパパと感じつつも、とても魅力的です。そして、なぜそんな風に感じるのかを考えるのですが、言葉にすることが難しいほど感動させてくださるのです。的確な表現とは思えませんが、佐山さんの演じられているパパといっしょにフレディのことを思う時間を共有したと感じるからでしょうか。

 100回記念でしたので、歌穂さんからのご挨拶がありました。途中で言葉に詰まってしまった歌穂さん。100回の重み、イラクでの戦争が始まり、命の重さを感じての涙だったと思います。
 この作品がオリジナル・ミュージカルとして上演され続けることを期待する気持ちがこの拙い文章で伝わっているか、本当に不安になります。100回を迎えたから次は1000回ね、と語呂合わせの言うつもりはありません。心から、いろいろな年齢層に、そして全人類に観劇してもらいたいです。今すぐ見て欲しい人はあの二人です。もし、劇場で隣同士に座って観劇したら、すぐに戦争やめる気になるだろうなぁ・・・。

 記念のTシャツまで頂き、満足しきってアートスフィアを後にしました。  

レディ・ゾロ

2003年02月20日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)


2003年2月20日マチネ 赤坂ACTシアター5列目センター


午前中に終わるはずの仕事が長引いて、ぎりぎりに劇場入り。サンドイッチを食べようと売店に行くと「売切」の文字が・・・。空腹のまま観劇した舞台は私のお腹を満たしてくれたでしょうか?
 結論から言うと、空腹を忘れるときもあれば、"Hungry is angry!"となる場面もあるという忙しい舞台でした。

 あら筋です。
 18世紀末。スペインの支配が続くロス・エンジェルスでのこと。
 スペインの圧政に苦しむ市民を、ゾロが助けていた。しかし、初代ゾロは16年前に死に、今のゾロは数年前から活躍している。その2代目ゾロがある囚人を助けようとする場面から開幕。2代目ゾロが登場すると「そいつは偽者だ」と女ゾロが登場。囚人は助かるが、どちらのゾロが本物なのか?
 ルドルフ・アンジェラス(草刈正雄さん)はこの地の大金持ち。退廃的な雰囲気を装ってはいるが、彼こそが2代目ゾロだ。そこへかつての恋人で、今はスペイン総督夫人のジェシカ・トーラス(土居裕子さん)がやってくる。いわくありげな二人。ジェシカが帰っていくと、今度はさっきの女ゾロがやってくる。彼女は初代の娘タニア・ヴェガ(匠ひびきさん)で、ルドルフが父の敵だと思い、復讐のために数ヶ月前にこの地へ戻って来たのだった。

 ゾロを疎ましく思う町の警備隊であるが、なかなか捕まえられない。そんなある日、スペイン総督が現れ、2代目ゾロも女ゾロも撃ってしまうが、二人とも命は取り留める。
ドン・レイモンド・トーラス、スペイン総督はルドルフにそっくり。それもそのはず、二人は双子だったのだ。しかし、幼い頃に離れ離れになった二人は、思いもかけない運命のいたずらに翻弄されていくのだった。そして、タニアの復讐の相手はレイモンドであることがわかるが、権力と武力の前に挫折しそうになる。
 市民の助けも借り、復讐のためではなく正義のためにレイモンドと戦うゾロのタニア。
レイモンドは死ぬが、ルドルフがスペイン総督となり、この町での事件を本国政府にとりなしに行く。
 ゾロはもういない。タニアは無事なのだろうか?いや、タニアは無事のはず、そして、ゾロはいないが、その心は市民全員に受け継がれていったのだ。
 簡単ですが、以上です。

 ルドルフとレイモンドの数奇な運命を説明すると長くなりますし、これは劇中でも台詞の中に収められているのです。そして、その運命が新たな悲劇を生んでしまうのですが、これはこの後の感想の中で説明していくことにします。

主役はタニアの匠さんなのですが、草刈さんが主役か、という印象でした。

匠さんは、久しぶりの舞台だったからでしょうか、メリハリに欠けた演技でした。そして、台本がそうなっていたのかも知れませんが、女言葉と男言葉の入り混じりがとても不自然で、役に共感できない部分がありました。ゾロとタニアで使い分けるとかすれば、匠さんの演技自体ももう少し自然になったのではないかと思いました。

 今回の舞台で本当に本当に本当に凄いと思ったのは、藤本隆宏さんです。あらすじの中では登場しませんでしたが、藤本さんはスペイン総督の側近ルイス・バステス少佐を演じています。
 剣が好き、そして剣で人を殺すことに快感を持っているという、本当に嫌な奴なのです。
 ジェシカはルドルフを好きだったのですが、父親の勧めでスペイン総督の側近になっていたレイモンドと結婚してしまったのです。でも、彼女はルドルフを忘れることが出来ませんでした。その心を見抜いていたバステス少佐。そして、レイモンドによって囚われの身になっていたルドルフを助けに来たジェシカを殺してしまうのです。最後には、ルドルフと決闘して、その剣に倒れるバステス少佐です。本当にこういう結末でほっとしましまた。
 もう、本当に嫌な男なんですから。 私は、家に帰ってからプログラムをじっくり読んでいました。その中に藤本さんがバステス宛に書いたメッセージがあったのです。それは、藤本さんが描いたバステス像だと思います。そして、私もバステスに藤本さんと同じことが言いたくなりました。つまり、藤本さんは、ご自分が描いたとおりのバステスとして舞台で生き、観客の心にもそのバステスが写っていたのだと思います。これって本当に難しいと思うのです。二枚目ならやりやすいと思いますが、こんな悪役で、その上わけわからない美学を持っていて、絶対本当の友達がいない奴で・・・こんな最悪の役なのに、なんだか不思議と共感してしまうのです。

 土居さんはとても美しく、芯のあるジェシカという女性を演じて下さいました。そして、やはり歌ですよね。もう二度と会うこともなく、思い出だけに生きるけれど、とルドルフに歌います。ルドルフを助けるために行ったのに、そこでさっき言いましたようにバステスに殺されてしまうのです。「あなたのおうちの冷たいお水」というのがキーワードなのですが、こういう何気ないキーワードを観客の心に残しておける台詞術も素晴らしいですよね。

 さて、私にとっては主役となった草刈さんですが、感想をお話しする前にちょっと一言。でも、本題とはあまり関係がないので、お時間のない方は飛ばして下さい。

 ちょっと一言(長いけど!) 怪傑ゾロと言えば、私にはアラン・ドロンの映画が浮かびます。本当にカッコイイ、もうヒーロー中のヒーローでした。
 そして、草刈さんと言えば、私にとっては「かなりキザな、かっこいいお・じ・さ・ん」でした。やや年の離れた姉やそのお友達がかなりキャーキャー言っているのを眺めながら、なんであんなおじさんがいいんだろう?私もあの年齢になればわかるのだろうか?と、ず~~~と思っていました。今は、その当時の姉の年齢を遥かに超え、私も「おばさん」になっていることは事実です。そして、以前見た映画を見直してみると「おじさんや!」と思っていた俳優さんが「素敵な男性」に見えてるという事実にも気がついていました。しかし、映画の中の俳優さんは年取りませんからね。草刈さんは私と一緒に年取って下さるわけで、私がおばさんになれば、草刈さんは・・・。
 今回の舞台を拝見して、私は大いに反省いたしました。確かに、以前ほどのスタイルの良さはないかも知れませんが、本当に素敵な男性ではありませんか。「おじさん」などと思っていてはバチが当たります。草刈さんがいつまでも若々しいのか、私がただ、ただ、おばさんになったのかと考えると落ち込んでしまうので、私が成長して、本当に大人の男性を見る目が備わったんだ、と言うことにしておきたいと思います!!!
  「ちょっと一言」はこれでおしまい。 本題に戻ります。

 草刈さんの舞台で最近拝見したのは「パナマ・ハッティ」でした。このときは黒ずくめの衣装ということもありましたし、紳士という役柄でしたので、立ち姿が美しいと思いながらも存在感に欠けていました。あれ、こんなに小柄な方だったっけ?と思ったものです。
それに対して、今回の舞台では、二役をこなし、もう存在感の塊でした。これは藤本さんの素晴らしさも大いにあるのですが、ルドルフがジェシカを思いバステスと決闘するシーンは本当に美しかったです。
 草刈さんの歌は、決してお上手とはいえません。でも、台詞としてならこういう歌い方もありかなあと思いました。って、もう大いに甘口になってしまうのでした(笑)。

 私が、この舞台を観劇する動機の一番は、治田敦さんと広田勇二さんがご出演になるからだったわけです。演奏が録音であることは予想していたのですが、歌の一部が録音だとわかったとき、なるほど「ミュージカル」と銘打たず、「音楽活劇」なんだと妙に納得しつつ、せっかく治田さんや広田さんのような歌の上手い方が参加なさっているのに残念だと思いました。まあ、気を取り直して、台詞や動きを楽しむことにしました。

 広田さんは、ちょっと、いえかなりドジな町の警備隊長ビーラ(六角精二さん)の手下の一人として、警備隊員の役でご活躍でした。隊長がコミカルな役なので、それに対応したやりとりもあり、楽しい場面を作って下さいました。そして、とても立ち回りが多い上に、負けなければならないので、お怪我のないようにと思いました。
 ある一場面では、紳士としてダンスを披露して下さいました。横道にそれますが、このダンスの場面は麻咲梨乃さんらしい美しい振り付けでした。が、酒場での群舞はちょっとだれてしまうような構成でしたね。まあ、酒場ですから雑然とした感じがいいのかも知れませんが、もう少し、スペインの圧政に苦しむ市民の思いが浮き彫りになったらナァと思いました。杉浦太陽さんの演じる開拓団メンバーがとても浮いてしまったのは、勿論彼らの演技にもあると思いますが、この最初のほうの酒場での構成にとても違和感があったからなのかと感じています。

 治田さんは、謎解きのキーパーソンとしてベルナルドというアンジェラス家の執事を演じられました。本当に思慮深く、主人を愛し、そして、すべての人が幸せになって欲しいと思っているベルナルドの人間性を私にしっかりと届けてくれました。活劇ですから元気一杯の舞台なのですが、じっくりと脚本の重みを感じさせてくださるのでした。
 しかし、3点気になることがありました。
 脚本ではかなりの老け役、若くても60歳(今の時代なら70歳を超える雰囲気)を想定しているのかナァと思って観ていました。となると、もう少し足取りが重い方がいいのではと思いました。
 それから、衣装のこと。これは私の勝手なイメージですが、執事はやはり黒で、どちらかというとピチッとした服装がいいのではないかと思うのです。少なくとも上着のボタンは普通とめるよナァ・・・と、ボタンがない???
 またまた横道にそれますが、衣装は全体にとてもいいナァと思ったのですが、治田さんの衣装と、杉浦さんの衣装には納得いかなかったんですよね。杉浦さんの衣装はなんであんなに現代的なんでしょう?もっと古びた服装が良かったのではないでしょうか?これは私の偏見かも知れませんが、主役ではないけれど、注目して欲しい役の方に他の役とかけ離れた衣装を用意する舞台が妙に多いのです。注目!!!というのはわかりますが、それは役者が本来持っている魅力を逆に殺してしまうことが多いのではないかと思います。浮いてしまうだけで、自然な演技をしても、なんだか芝居が切れてしまうのです。本当に光るものを持っている人であれば、衣装の妙な手助けは不要のはずです。あくまでも役柄としての衣装作りに徹して頂きたいナァと思いました。
 話を治田さんのことに戻しますね。治田さんの歌声を最後の方で聴くことが出来て、土居さんの歌声で救われつつも、散々な歌を聴いた私の耳にはもう救世主の歌う歌でした。しかし、これは治田さんが歌うのではなくて、あくまでもベルナルドが歌っているんだよナァ。そう、多分60歳以上のおじいさんが・・・となると、美しすぎるのではないかという気もするのです。でも、本当にいいお声だわ!!!心揺れる私なのでした。

 中島かずきさんの脚本は本当に緻密ですね。あの台詞がここで活きている、という場面がたくさんありました。そのためにも、その重要な台詞が最初に出てくるときに、役者さんがどこまで自然に、でも、印象的に観客に伝えられるかが重要なのでしょうね。
土居さんの「あなたのおうちの冷たいお水」というのも印象的でしたが、もうひとつ草刈さんのスペイン総督役での「(タニアに向かって)同じ臭いがする」というのも凄く重要な台詞なんですよね。最初にこの台詞はタニアがレイモンドに会ったときに言う台詞なのです。ここで、彼はタニアが初代ゾロの娘だと気がついていたようなのです。タニアにルドルフとして近づいたレイモンドが、自分達の運命を話すのですが、最後に自分がレイモンドであることを告白し、「君とは同じ臭いがする。復讐の臭いが。」と言うのです。タニアの父を殺した理由のひとつは自分の出世のためだったが、もうひとつはレイモンドの育ての父をタニアの父が正義の名の下に殺したから、その復讐だったと言うのです。復讐の連鎖。
 中島さんはもしかしたらこの「復讐の連鎖を断ち切る」ということを一番言いたかったのではないかと思いました。
「正義」という大義名分に守られ、武力を使って人の命を奪う権利を持っている人間が本当にいるというのでしょうか?

 スピード感溢れる舞台を盛り上げたのは緊張感溢れる立ち回りだったと思います。そして、この舞台ではあまり重要視されていないようでしたが「Z」の文字を入れるほどの剣の名手ゾロ。最後の戦いはやはり、「剣」さばきを見たかったのです。

 「レディ・ゾロ」ご馳走様でした。おいしかったです!空腹に耐え、無事自宅に辿り着きました。夕食を無事お腹に収め、ほっとしながら見ているテレビ。戦いは舞台の中でのことではなく、現実の世界でも刻々と迫っているようです。いつになったら人類は「正義」の名のもとに、戦うことの愚かさを知るのでしょうか。

サイド・バイ・サイド・バイ・ソンドハイム

2002年03月23日 | 観劇記
(06年8月に整理し、掲載したものです)

02年3月23日マチネ 東京芸術劇場小ホール2

最初に謝ってしまいますね。それも二つ。
一つは、レポがこんなに遅くなってしまったこと。そして、もう一つは大事なことすら記憶が曖昧で…事実と違う可能性が大きいのです。
書込みをする時には、大きな記憶違いがあると困るので、プログラムを参考にすることが多いのです。しかし、今回は代役のことがあり、プログラムが変更されていました。観客にはもともとのプログラムとナンバーの変更が書かれた紙が配られたのですが、歌った順番はどちらともかなり違っていました。ですので、以下に書いたナンバーの歌い手についてもあっているのか不安です。そして、順番に至ってはかなりいい加減だと思います。もし、ご覧になった方がいらっしゃいましたら、訂正してくださいね。

取り敢えず、概要はお話します。
出演者は、治田敦さん、今陽子さん、吉岡小鼓音さん。語りが黒部進さん。
今陽子さんだけは、以下の文章の中で「陽子さん」と呼ばせて頂きます。理由は、お分かりですよね!

作品は、1976年に制作されています。その制作の動機は、イギリスでもっとソンドハイムさんの素晴らしさを広めたいという、俳優デビッド・カーナン氏の発案だったそうです。ですので、76年までに発表された作品が取り上げられているのです。
物語性は全くありません。作品にまつわるエピソードや、大きな筋書きを黒部さんが説明して下さり、3人の方が歌いまくって下さいました。

舞台は、二台のキーボード(演奏は井福小枝子さんと森春奈さん)、木製の椅子、というシンプルなものでした。語りは、舞台下手で行います。

オープニングは「COMEDY TONIGHT」。そして「LOVE IS IN THE AIR」。2曲とも『ローマで起こった奇妙な出来事』からです。
「COMEDY TONIGHT」は、思わず手拍子をしたくなるような、楽しい曲です。曲名をご存知なくても曲を耳にしたことがある方が多いのではないでしょうか。
2曲とも3人で歌われました。楽しい舞台になりそうな予感がここですでに生まれていました。

『カンパニー』からの曲が続きました。
「COMPANY」を三人で。とても複雑なハーモニーを美しく歌って下さいました。こういう何とも不思議なハーモニーがソンドハイムさんの大きな大きな魅力ですよね。
「THE LITTLE THING YOU DO TOGETHER」は治田さんと吉岡さんで。あんなこと、こんなこといっしょにしましょうという内容の歌。吉岡さんがとても可愛らしかったです。
「GETTING MARRIED TODAY」を陽子さんがメインで歌われました。ソンドハイムソ氏お得意の早口歌なんですよね。結婚当日の複雑な花嫁の心境を歌います。日本語にするとこうなるのか!と不思議な気がしました。それにしても、陽子さんの表現力の楽しさに引き込まれました。
「ANOTHER HUNDRED PEOPLES」吉岡さん。一人でやってきたこの町で不安はあるけれど人との出会いを大切にしたい、と歌います。寂しいような、でも前向きに生きようとする感じに共感しました。
私の大好きな「BEING ALIVE」を治田さんが歌われました。本当に、すごい声量でした。

次に、『フォーリーズ』の曲が続きます。
「BEAUTIFUL GIRLS」3人で。
「AH PAREE!」陽子さん。内容は忘れてしまいましたが、陽子さんが楽しく、迫力満点で歌われたのは記憶しています。
「BUDDY’S BLUES」治田さん。ギャグ・ソングですね。語るようなところもあって、早口でしたし、聞いている方は楽しいのですが、歌う方は大変そうな歌でした。でも、治田さんはさらりと、楽しく。高音も多いのですが、美しいお声を聞かせていただきました。
「BROADWAY BABY」吉岡さん。駆け出しの女優が自分を売り込む歌。とても色っぽく歌われていました。私としては、もう少しあっさり歌っていただきたい曲なんですけど、吉岡さんの美しさなので許してしまいます。
「YOU COULD DRIVE A PERSON CRAZY」3人で。とても楽しい歌で、ウキウキしました。三人で舞台の縁を端から端まで、歌い踊ってくださいました。

第2幕
実は、ここから数曲が大混乱。
『ANYONE CAN WHISLE』から、「EVERYBODY SAYS DON'T」を3人で歌われたと思うのです。
そして、「ANYONE CAN WHISLE」を治田さんが。しかし、何となくこれは一幕で歌われたような気もするのです???しっとりとした歌です。

『リトル・ナイト・ミュージック』から「SEND IN THE CLOWN」が紹介されたのですが、これ治田さんが歌われたんだと思うんですけど、本当に情けないほど記憶が薄くて…
実は、このレポを書くに当たって以前から知っていた曲はかなり記憶しているものの、記憶にはっきりない曲があるので、もう一度曲を聞けばいろいろ思い出せると思い、amazonのHPで試聴しまくったのですが、この曲と「WE'RE GONNA BE ALL RIGH」の2曲が聞けなかったのです。そして、この2曲のどちらかがとてもいい曲で曲自体に酔いしれていたことは分かっていたのです。ああ、思い出せないと、落胆して、ふと手にしたカーネギーホールでのコンサートのCDの歌詞カードを見て驚きました。「SEND IN THE CLOWN」があったのです。そして、よ~~~く聞いてみると確かにこれがいいなぁと思った曲だったのですけど、全然印象が違うのです。私の中で「BEING ALIVE」以上にいいなぁ、と感じていたと思うので、治田さんが歌われたのだと思います。
もし、間違っていたら本当にごめんになさい。

ここからはまた持ち直します(笑)。知っている曲ばかりになっていたので。
「A BOY LIKE THAT」は皆様よく御存知の曲ですよね。『ウエストサイド・ストリー』のなかでマリアと女友達が、歌いあう歌です。陽子さんと吉岡さんが歌われたわけですが、すごい迫力でした。吉岡さんの凛と澄んでいるけれど、説得力のある歌声が素晴らしかったです。

「YOU GETTA A GIMMICK」は『ジプシー』から。妖艶なダンスもありまして、勿論女性二人が担当するわけですが、なぜか最後に治田さんも参加。治田さんって、どうしてあんなに色っぽい目が出来るのでしょうね。服装は一応男性のままなのですが…どうせならドレスを着ていただきたかったなぁ(爆)。

最後に『フォーリーズ』から「COULD I LEAVE YOU?」を治田さんが、「LOSING MY MIND」を吉岡さんが、「I'M STILL HERE」を陽子さんが歌われました。
「COULD I LEAVE YOU?」については後で書きます。
「LOSING MY MIND」は、愛する人を切なく思う歌だと思うのですが、吉岡さんがしっとりと歌い上げてくださいました。
「I'M STILL HERE」はたぶん本当の舞台での状況は違うのでしょうけれど、陽子さんの舞台への思いもあるのかなぁという歌でした。こういう歌が本当にお似合いになりますね。

ラストに「SIDE BY SIDE BY SONDHEIM」を3人で歌われ、楽しい舞台は幕を閉じたのでした。

吉岡さんについての感想。じっくり歌を聴いたのは初めてでしょうか。本当に高音までしっかり歌うことが出来る素晴らしい方でした。とても可愛らしい方なので、やはりそういう感じの歌が私は似合うなぁと思っていました。「ウエストサイド物語」のマリア、「ジキル&ハイド」のエマなどは、ぴったりではないかと思いながら見つめておりました。
また、近々、その歌声を聞くことが出来そうですので、楽しみです。

陽子さん。久しぶりに生での歌声を堪能致しました。
さすがです。の一言です。「GETTING MARRIED TODAY」の早口も凄かったですけど、ラストの「I'M STILL HERE」は、聞かせて下さいました。あれほどの声量、素晴らしい表現力、テレビではなかなか堪能できない陽子さんの魅力にまた触れることができ、とても嬉しかったです。

治田さんについての感想。
本当に久しぶりに歌をお聞きしました(笑)。
歌手、治田敦さま、を心行くまで楽しみました。
一週間でこんなに何曲も覚えることが出来るのでしょうか???もともと御存知の曲ばかりではないでしょうし。
いろいろなタイプの歌を歌ってくださったのですが、治田さんって音域が広くて、どの音域も聞きやすいのです。ファルセットもすごく美しい響きで、うっとりしてしまいました。
中でも「COULD I LEAVE YOU?」の治田さんは凄かったのです。妻から別れを言い出されて、別れたくない夫を演じて下さいました(歌うというのにとどまっていらっしゃいませんでした)。私は、初めて聞いた曲だったのですが、曲も良いですし、治田さんの手にかかると、まるでその舞台の場面が想像できるほどだったのです。
広いお屋敷でのこと。何不自由なく他人が羨むほどの夫婦の形なのでしょう。しかし、広い屋敷はまるで牢獄、明るい別荘へ行かなければ気が晴れることもない。夫婦の関係は他人以上に冷えている。しかし、夫は妻を憎みつつも、愛しているのだろうなぁ。だから、別れてあげよう、と言ってしまう。
治田さんの歌は本当に表現が細やかなんです。是非、作品自体を観てみたいと思ってしまうのでした。思いっきり想像力を掻き立てられる治田さんの歌声でした。

最後に、ソンドハイムさんの曲について。
よく「難しい」と言われますが、このコンサートやCDのカーネギーホールでのコンサートでの曲も、美しい曲ばかりです。「難しい」のは演奏する側であって、聞いている方は難しいことはありません。まるで、現代音楽を聴くかのごとく構える方もいらっしゃるようですが、肩に力が入るように曲は一曲もありません。私も、作品自体を知らないまま、曲だけを聴いているのですが、情景、その役柄の心情がはっきりと伝わってきて、作品への興味は尽きないものとなっていきます。ソンドハイムさんの作品のテーマは「結婚(生活)」が多いそうです。『カンパニー』、『フォーリーズ』がその代表でしょうか。男女の心の行き違いや、心深くにある心情をすばらしい曲に表現していらっしゃると思います。
是非、この作品を日本で上演していただきたいなぁ、と思うのです。(『カンパニー』は再演になりますね。)

それでは、とても長くなってしまいましたが、お読み頂きありがとうございました。
コンサートをご覧になった皆様、どうぞ付け足し、訂正をよろしくお願い致します。



「大いなる反省」(ここからは当初、上の文章から数日後に公開した文章になります。)
私のあまりにいい加減な記憶には、自分でも嫌になってしまいます。そして、もう少し頭を使えば…。反省しきりのわーきんぐまざーでございます。

治田さんがソロを担当なさった曲が一曲、思い出せずに「SEND IN THE CLOWN」かなどと言ってしまったのは、大きな間違いで、「BEAUTIFUL GIRLS」(フォーリーズ)でした。本当に、ファンとしてお恥ずかしい限りです。申し訳ございませんでした。

次に、どんな歌だったかと思い出すのですが、やはり無理なのでまたまたソンドハイム・レビューのHPから、amazonへ。「フォーリーズ」のCDは4種類ほどあるのですが、どれからも「BEAUTIFUL GIRLS」を試聴できないのです。
がっかりしているところへ驚きの映像が!ソンドハイムさんのCDばかり探すので宣伝に横の方にいろいろ出てくるのですが、その一つが「SIDE BY~」だったのです。ソンドハイム・レビューにアップされているCDがソンドハイムさんの作品すべてをカバーしていると信じた私がいけなかったのですが、まさかCDがあるとは。
そう言えば、雑誌「ミュージカル」(02年5月号)で、小藤田千栄子さんが「CDを聞くと~」とおっしゃっていたのですよね。でも、1976年のCD(当時はレコード)がまだ発売されているとは!
そして、さらに全曲試聴ことが出来るではありませんか!!!勿論、「BEAUTIFUL GIRLS」も。試聴して「ダイヤモンドをあげる~~~」というような歌詞の歌であったことを思い出しました。
本当に、思い出すことが出来てよかったです。ほっとしました(笑)。
全曲試聴して、かなり舞台をはっきり思い出しました。そして、とても気に入ったので買い物かごへ入れてしまいました。amazon日本版でも買うことが出来ますから、もし、興味のある方は是非。ちなみに、このCDによると「太平洋序曲」からは「PRETTY LADY」が入っていています。女性も混じって3人で歌っているわけです。

情報化の時代なのですから、本当にもっと自力で解決しなくては、と反省しております。私のために貴重な時間を割いて、曲目の間違えを教えてくださった方に心から感謝申し上げます。

そして、最後に、ソンドハイムさんが関係した舞台の録音が本当に多く、また、その質が非常に高いことに驚かされるばかりです。いかに、ソンドハイムさんの人気が根強いかを物語っています。是非、日本でも多くの作品が紹介されていくことを望みます。

それでは、また。


カフェ・チェリーブロッサム&コンサート

2002年02月02日 | 観劇記
(06年8月に整理し、掲載したものです)

2002年2月2日 新宿文化センター・小ホール

第1部がミニミュージカル「カフェ・チェリーブロッサム」、第2部がコンサートでした。時間的には、15分の休憩を含み約2時間弱でした。

第一部「カフェ・チェリーブロッサム」
章(大須賀ひできさん)がライブを行っているカフェ・チェリーブロッサム。大学時代の恩師の通夜帰りの友人がやって来ます。順(さけもとあきらさん)、美奈(松岡美希さん)、加代(浜崎真美)の3人です。

舞台は、大学時代の友人が30歳ぐらいになって集まれば、飲みながらわいわい言いそうな話題が出て進んでいきます。

順は検事志望の美奈に自分の父親を脱税容疑で捕まえて欲しいと言います。なぜなら、父親のせいで家庭がめちゃめちゃだからと歌います。順はいろいろ職を換えているうちに、「アラビアの母」(女装しているそうです。)という占い師になったのです。その占いに加代がやってきたのですが、いろいろ悩みを聞いているうちに結婚することになったのです。しかし、こともあろうに宣誓のときに順が「やめます。」と言い、破談に!!!そのときの苦しみを加代が歌います。
結婚なんかしない方がいいのか。でも一生一人で生きた教授の死に向き合うと、やはり結婚したいなぁ、という方向の中、美奈は強いから一人で生きていけるよね、と言われ、そういわれることの辛さを美奈が歌います。美奈は、章のやりたいことをやっている章の生き方を非難します。というのもこの二人、学生時代は付き合っていたのです。その後もくっついたり離れたり…。
学生時代の思い出話に花が咲くかと思えばいろいろ暴露話が出て、大もめ。でも、結局は楽しかったということで!懐かしむ女性二人。かわっていないという男性二人。でも、本当はあるところがかわっているんですよ!!!(どこかは、ご想像下さい。大須賀さんとさけもとさんの共通点は何でしょう?!?)
楽しい一時を過ごし、友は別れ別れに。

コメディなので、話の筋より、台詞が面白いのです。まあ、こんな感じの内容ということのご報告でした。

第2部コンサート
出演者の皆さんがご自分の好きなミュージカル・ナンバーを歌われました。ミュージカル・ナンバーなのでどういう場面で歌われる歌かという説明付きでした。第1部のカフェがそのままあるので、全員がテーブルについていて、歌う方が中央に前方に出ていらっしゃるというスタイルでした。説明をしている方に横からいろいろ突っ込みが入ったり、とても楽しい雰囲気でした。

事情があり、松岡さんが歌われた「Gus」(『キャッツ』より)は聴く事が出来ませんでした。

次が、アイーダからのデュエット曲だったのですが、これも松岡さんの選曲だったようですね。「Written In the Stars」(『アイーダ』より)を松岡さんとさけもとさんのお二人で。大悲恋もののようですね。ナンバーもクライマックスで歌われるのでしょう。とても、情熱的な歌でした。松岡さんは、こういう大悲恋のお話が好きだそうです。

さけもとさんが残られてソロを。選ばれたのはソンドハイムさんの曲。「Giants In the Sky」(『イントゥ・ザ・ウッズ』より)。当然、「太平洋序曲」の話題も出ました。私としては嬉しかったです、はい。このナンバーはソンドハイムさんらしい曲でした。つまりとんでもない難曲!初めて聞いた曲でしたので間違っているかもしれませんが、歌がちょっと休止するときに変拍子するみたいですね。早口ですし。一部分は2度聴く事が出来て楽しかったです。どんどん進んでいくと、聴いている私には、やっぱり心地よい歌なのですよね。ソンドハイムさんの曲そのものも素晴らしいのでしょうけれど、表現する方の素晴らしさも引き立ちますよね。うわ~~~、早く「太平洋」が観たい!

浜崎さんが「さようなら」(『0/30』より)をソロで。これは日本語でした。とても不思議な舞台のようですね。ナンバーも背後霊が悲しんで歌う歌なのです。とても美しい、悲しいメロディーでした。

浜崎さんと大須賀さんのデュエットで「Take Me as I am」(『ジキル&ハイド』より)。ご存知とは思いますが、ジキルとエマのデュエットですよね。これも訳詞でした。聞き慣れた曲ですが、大須賀さんの優しい歌声と浜崎さんの澄んだ歌声で聞くと、また、別の印象受けました。歌い手で曲の印象も全然変わるんですよね。

大須賀さんが「Anthem」(『チェス』より)をオリジナル訳詞バージョンで歌われました。世界チェス大会の試合を前に、自らの周囲や道のりをふりかえる歌でした。とても、スケールの大きな歌でした。

ここで、今後の予定を皆さんが話されました。
さけもとさんは、次は、「太平洋序曲」だそうです。

そして、最後に全員で「Tonight」(『ウエストサイド・ストーリー』)でした。
アンコールに全員で一曲歌ってくださったのですが、題名がわからないのです。申し訳ございません。

小ホールでの公演ということもあり、とても家庭的な雰囲気でした。ということで、普段の舞台ではなかなか触れることのできない一面に触れることができました。いろいろな話が出たのですが、はっきり記憶していないことも多いので、これぐらいのご報告でお許しください。
また、思い出しましたら書きますね。
ご覧になった方の、付け足し、私の記憶違いの訂正、大歓迎です。よろしくお願い致します。

本当に、楽しい舞台でした。いつもあわただしい中での観劇が多いので慣れっこなのですが、今回は、史上最大にあわただしい観劇に挑戦した甲斐がありました(爆)。そして、私に一番良く効く薬は「観劇」なんだなぁと自覚したと一時でした。
それでは、取り敢えず、このあたりで。




付け足し(当初掲示板に書いていたので、上記の私の書き込みに対して返信があり、さらに私が返信をした部分が、以下の通りです。)

「Giants In the Sky」はさけもとさんのお声にぴったりの曲でしたね。どうやらこの「Into The Woods」という作品、春にはブロードウェイで再演の予定だそうです。楽しそうなお話なので、是非、日本でも上演してもらいたいと思っています。

さて、遅くなりましたが、少し付け足しをします。それは、第一部のミュージカルの落ちに付いてです。
この作品には、もう一人登場人物がいるのです。ウエイトレスの美樹(愛田美樹さん)。順(さけもとさん)がお店に来ると、美樹は章(大須賀さん)に紹介してと頼みます。でも、美樹に思いを寄せる章は「あいつはゲイなんだ。」というのです。順は順で章に美樹を紹介して、と言いますが章の返事は「あの子はレズなんだ。」です。

大学時代の暴露話の中にも、この章の「順はゲイなんだ。」という嘘が、順の恋愛が上手くいかなかった理由なんだというくだりが出てきます。

そして、「じゃ、また。」とカフェを出て行くとき、順は美樹に声を掛けながら、袖に入ったかと思うと、戻ってきて、「章!お前、また俺がゲイだって言っただろう。」という落ちを!

さけもとさんファンとして肝心なことを書き落としておりました。勿論、忘れていたわけではないのですが、どう織り込んで書けばいいか、迷ってしまったのです。申し訳ございませんでした。


SHOCK

2002年01月13日 | 観劇記
(06年8月に整理し、掲載したものです)

2002年1月13日マチネ 帝国劇場1階Q列センター

今年の初観劇。
舞台をご覧になっていない方も多いと思いますので、内容の説明をして、その後に感想を書いていますので、またまた、長くなってしまいました(笑)。

まずは、今さんのご活躍を中心に、簡単な舞台内容のご報告です。

堂本光一さん(コウイチ役と亡き兄の2役)が、指揮者となってオケボックスがセリあがってきます。そして、簡単な前回の舞台(MILLENNIUM SHOCK)のあらすじを説明しました。
そして、ショー(劇中という設定)が始まりますが、危険な事態が起こり、ショーの続行が難しくなるのですが、亡き兄の「Show must go on!」という意志を受けて無事やり通します。
無事、千秋楽を迎えたカンパニーの打ち上げの場面。今さんはカンパニーのマネージャー役で登場。「タク」と呼ばれていました。
タクは、コウイチの亡き兄の妻サキホ(宝塚の樹里咲穂さん)と結婚して12歳の子供がいます。サキホが亡き夫を思い出している様子を優しく見つめ、包み込むようなタク。しかし、このカンパニーがブロードウェイへの招致を受けたことを聞くと、「頂点を知ったものだけが味わう苦しみ…」と、周りの様子とは関係なく自分の世界に入ってしまいます。サキホの「あなた?」との声で我に返りますが、タクとは何者なのでしょうか?

次は京都公演。若い皆は京都までバイクで行くと言います。その途中、事故が起こり、コウイチの弟ツバサ(今井翼さん)が複雑骨折をして歩くことも困難に。カンパニーにとってはスターを失う大打撃です。
ツバサが運ばれた病院にも、一番に駆けつけているタク。(ここでの記憶があやふやなのですが、病院の前に、事故現場にも今さんは登場し、担架につきそって客席に下りていらしたと思います。)皆が集まり、公演の中止をと言いますが、コウイチは「Show must go on!」と、舞台を続けます。

京都公演という設定で、劇中劇が始まり、「新撰組」「ハムレット」が上演されます。
日本風の舞台装置に囲まれて「ハムレット」が上演されますが、御簾の向こうに、クローディアスの今さんが、度々影絵のように現われます。

そして、ついにアメリカへ旅立っていきます。しかし、この便利な時代に船で…そして、タクとサキホはなぜかいっしょに船に乗らないのです。
コウイチの夢という設定なのでしょうか、「白鯨」が上演されます。船長は今井さん。そして、船員の一人として今さんも登場。白鯨への復讐に燃える船長。白鯨に出会うことを願っているが、本当は、白鯨と死ぬことを考えているのではないのか、と堂本さんが問い掛けるのです。白鯨が現れて、モリを手渡したり、危うく海に落ちそうな船長を助けようとする今さんですが、他の船員の「ロープを切れ」の声があるのに、ロープは切りません。そして、何と最後には船長を突き落としてしまうのです…。

無事、アメリカについたカンパニーは、不思議なご婦人に迎えられます。(プログラムには「老婆」となっていますが、いくらなんでも老婆はないと思います。この大きな大きなご婦人、今さんなんですよね)。で、樹里さんも「キュート・ボーイ」という名前で、カンパニーに加わるのです。

アメリカでは3週間の旅公演がまずあるという設定らしく、その旅の感じがショーのように繰り広げられます。この間、今さんは衣装はズボンですが女装のまま。

旅公演が終わり、ついにブロードウェイに進出。大絶賛を受けた初日の打ち上げでのこと。プレスの質問に答えるところがまたまたショーのように構成され、今さんは薄紫色の長いドレスで踊るのです。盛り上がる初日の打ち上げでしたが、水をさす事件が起こるのです。コウイチの兄が作った曲なのに、「著作権があるのは私達です」という人物が現れたのです(石山毅さん)。その契約書のサインを見たサキホは、サインが誰のものかわかったのでしょう、顔色を変えます。女装したままの今さんは、その様子をばつが悪そうに見ています。結局は、正式な著作権を証明するものがあり、兄の曲をカンパニーが使い続けることができたのです。

入院していたツバサも、亡き兄の助けで踊れるほどに回復し、ニューヨークにきました。めでたし、めでたしとなるはずでたが、コウイチは自分達の周りに起こる不吉な出来事の原因をはっきりさせなければならないと考えています。

楽屋に、タクの姿でいる今さん。サキホ、ツバサ、ジュン(秋山純さん)もコウイチの来るのを待っています。この間、今さんはあの紫色のドレスをハンガーにかけるたりしているので、やはりあの婦人はタクの女装であったのだとわかります。コウイチが来ると、「打ち合わせがあるから。」と言って立ち去ろうとするタクに、「君はいつでもそうやって逃げるんだな。」と。
コウイチから、今まで起きていたこと、兄が自殺した原因を作ったことも含めすべてがタクの仕業であったことを暴かれると、今までクールだったタクの様子が一変します。
甲高い笑い声とともに、悪霊としての本性をあらわすのです。そして「頂点を見たものだけが味わう苦しみを見るのが私達の最高の楽しみなのだ…」と。「悪霊も恋はする。サキホへの愛は本物だった。」と言い残し、コウイチの兄が死んだ場所で死んでしまいます。が、悪霊ですから、本当には死にません。「私を殺せるのは、同じ悪霊。」といい、コウイチと対決しようと言います。そして、対決の場がやってきます。それが、オケボックスの真上の天井近く。人がひとり通れる位の橋のようなものが渡してあります。そこで、タクとコウイチが対決か、と思うと、サキホの子供がタクを撃つのです。タクは転落。コウイチも落ちてしまいます。
コウイチは助かりますが、タクはついに消滅してしまいます。
タクを滅ぼした、サキホの子供はやはり悪霊なのか???という疑問を残して、一応劇の部分は終わり。

ショータイムとなり、今さんも樹里さんと「エンドレス・ラブ」を歌ってくださいました。ここでは、悪霊ではないということなのですが、樹里さんに再度迫って、振られてしまうのでした(笑)。

こんなご報告でよろしいでしょうか?舞台は、とにかく盛り沢山で、今さんのご活躍中心のご報告では語りきれませんが、タクという役は、この舞台ではキー・パーソンなので、今さんに注目してお話すると、話の流れはお分かり頂けると思います。

ここからは、私の感想です。
30秒から1分の間に一回はどきどきさせる仕掛けがあるとのことでしたが、あるはあるは、本当に観ているほうも大変です。でも、演じてくださる方達はもっと大変ですよね。
今さんがドレス姿で踊る場面は、コケないかと、ずっとどきどきしておりました(爆)。もしかして、私よりずっと裾さばきがお上手?!?

冗談は、これぐらいにして、ちゃんとした感想です。
まずは、舞台全体への感想。最後の方は、完全にジャニーズファンへのサービス用ショーだったので、それはそれとして良いのですが、一応、話の筋がある方でもやや筋がつながらないというか、ちょっと前置きが不自然という点がありました。一番が、アメリカ公演で参加したボーイ・キュートと老婆の登場です。最後まで見ていると、サキホとタクの変装だったとわかるのですが、なぜ変装したのか納得いかなかったのです。
勿論、今さんの女装姿を楽しんだので、変装して頂いてよいのですが、何の必要性があって変装したのか???

そして、歌に関しても、一部録音したものを流しているのは(聞こえ方が違うので間違いないと思いますが、確認したわけではありません。)せっかくの生の舞台なのに、と残念に思いました。あれだけの曲を全部歌っていたら、体力的に続かないとは思いますが、何か工夫をして頂きたいと思います。

また、フライングが多用されるのですが、ちょっとやりすぎではないでしょうか。もう少し、ここぞというところだけで使ったほうが舞台は締まると思いました。

他にも、細かいことを言い出したら切りがないので、まあ、お祭りなのだと割り切って、楽しんで観劇して参りました。本当に、エネルギッシュで、これぞショー!と言う舞台だったと思います。

出演者の方で心に残った点。
まずは、今井翼さん。小さい身体ですが華のある方ですね。幅のある歌声もミュージカル向きだと思いました。そして、何より、台詞の間が良いです。今さんへの感想のところで詳しく書きますが、「白鯨」の場面は凄かったですね。

秋山純さん。彼も重要な役柄を担っているのですが、アドリブもぽんぽん出るし、しっかり演技をしなければならないところは締めているし、是非、舞台にどんどん立って頂きたいと思いました。

宝塚から外部出演なさった樹里咲穂さん。ダンスが素晴らしいと思ってずっと観ていたのですが、「New York!New York!」の熱唱には感動しました。何度もこの歌は聴いていますが、本当に素晴らしい歌声でした。何か、本当にニューヨークへ特別の思いがこもっているのではというぐらい、心に迫る歌声でした。そして、男役でのカッコいいこと。堂本さんと下手、上手にわかれて踊る場面などは、どこに焦点をあわせればいいのかわからないほど。これだけでも贅沢すぎる舞台でした。

堂本さんについては、もう申し上げるには及びませんね。すっかり、ミーハーモードになってしまいました。ここまで人気がある訳がよ~~~~~くわかりました。

さて、ここからは今さんについてです。
本当に楽しそうに舞台を駆け回っていらっしゃいました。特に、女装の場面!しかし、今さんに女装させるということを思いついて下さるなんて、ジャニーさんに感謝です。
お声がもともと高めですので、台詞回しは違和感がないのです。そして、動き回っているときもかなり妙なのですがそれでも女性っぽいのです。しかし、立ち止まると完璧に男性に。本当に、笑わせて頂きました。

が、今さんの魅力全開はこんなところではありません。
私が大好きなお声も、相変わらず素晴らしいのですが、本当に演技というのはここまで印象に残るのかと思いました。
それは「白鯨」の場面です。劇場の使い方としてもすごいなぁと思った場面でした。

白鯨を追い求める船長の今井さんに、傍観者として堂本さんが舞台上手に設置されている壁のようなところから、いろいろと問い掛けるのです。その二人の台詞のやり取りが素晴らしいのです。間の妙です。そして、オケボックスから、巨大な白鯨が現われます。もう、劇場が大海原になってしまった感じです。私は1階の補助席のあたりで観劇していたわけですが、それでも舞台に完璧に引きずり込まれていました。そして、半分復讐の鬼になって狂ってしまった船長の指示を、淡々と聞き入れ、指示どおり動いている今さん。そのあまりの表情のなさと、今井さんの感情の高ぶりとが、コントラストをなしてどうなってしまうのだろうという不安を観客に与えます。荒れ狂う海原、狂った船長と白鯨。その中でも氷のように冷静に動き回り、船長を助けている今さん。しかし、最後に船長を海へ突き落としてしまう今さんのあの表情!!!ゾーっとしました。
この場面は、悪霊としての今さんが、ツバサをバイクの事故におとしめた場面とも重なり、事故から立ち直る場面へとも繋がるという、とても重要な場面でもありました。
この場面で、今さんは一言も台詞を言いませんし、最後の一瞬まで、本当に表情を変えないのです。しかし、その一瞬がすべてを物語ってしまうのです!!!

さて、さらに今さんの素晴らしさが輝いた場面は、なんといってもコウイチに事故や事件がタクの仕業であること暴かれ、悪霊へ豹変する瞬間です。今さん、怖い…本当に怖かったんです。でも、そんな中、サキホへの愛は本物だったと訴えるタクの哀愁。初めて女ッ気のある役を拝見しましたが、まさかこんな複雑な心境を表現なさってくださるとは予想していなかったので、怖い悪霊、可哀相なタク、と私の受け止め方も複雑でした。

そして、最後に帝劇の天井から、オケボックスへ落ちていく悪霊。今さんって高所恐怖症でないことがよくわかりました(笑)。あんなところから落ちるなんて…考えただけでも足がすくみます。

ファンとしては、もっとたくさん歌って欲しいとか、踊って欲しいと欲が出ますが、今さんあってこその舞台だったと私は信じています。要所要所を締めて、話を進めていくわけですから、もし、今さんの印象か薄いと、謎解きの段階での面白さがないのです。今さんは、本当に印象に残りつつ、主役を引き立たせる最高の脇役を務められたと思います。

コメディあり、ロマンスあり、ホラーあり、今さんの新しい魅力大発見の楽しい楽しい舞台が、私の今年最初の観劇でした。

それでは、本当に長くなりましたが、これで。盛りだくさんの舞台だったので、整理するのが下手な私のご報告では、至らない点が多かったと思います。お読み頂きありがとうございました。