わまのミュージカルな毎日

主にミュージカルの観劇記を綴っています。リスクマネージャーとしての提言も少しずつ書いています。

新・三国志Ⅲ~完結篇~

2003年04月13日 | 観劇記
(06年7月に整理し、掲載したものです)

2003年4月13日昼の部 新橋演舞場 1階11列上手

 スーパー歌舞伎「新・三国志Ⅲ~完結篇~」時間が許せばもう一度観たいと思いながら、劇場を出てきました。とにかく素晴らしかったのです。私自身「夢」と言う言葉がとても好きです。このシリーズは「夢見る力」そして「夢を信じれば、いつかきっと叶う」と語られています。そして、今回は「歌」がキーポイントでした。歌のもつ大きく、優しく、時に強い、その力を実感しました。
あらすじや感想をお話しする前に、プログラムに掲載されている、この作品の原案を作られた横内謙介さんの文章を紹介します
「(略)新・三国志はあくまでも娯楽大作である。(略)けれども、私たちを取り巻く世界の情勢は深刻だ。(略)芝居は世知辛いこの現実の世界を忘れる、楽しい一夜の夢であって欲しい。でも、世界が傷つき、苦しむ時に、芝居がその世界と全く無関係であり続けることは虚しく悲しいことだ。どんな時にも、何があっても、堂々と胸を張り世界に向けて上演し続けられる芝居を創りたい。(続く)」
 ここに引用した、最後の2行の心意気が板の上からバンバンと客席に伝わってきました。
 時に、私達は「平和なときであるから舞台(文化)を楽しめる。」と言いますが、本当は、「どんな時でも、何があっても」文化を守り、楽しむことこそが大切なのではないかと思います。そして、その思いが平和な世界を生み出すのではないでしょうか。
 4時間近い舞台、そして人物が入り乱れるので、あらすじは難しいのですが、一言で言ってしまえば、三国志の完結なのですから、時代は魏・蜀・呉の争う時代の末、そして普が天下統一をなすまでの話です。
詳しいあらすじとともに感想を書くつもりでしたが、なかなか時間も取れません。が、今の思いを書いておきたくて、この舞台を観ていない方にはわかりにくいと思いますが、現実のこととも重なりますので、ご理解いただければと思います。

 今、私達は大きな歴史の曲がり角にいると思います。どの方向へ曲がっていくのか、そして曲がろうとするのかは私達が決めることです。大きなうねりの中で、一個人が出来ることは本当に小さなことですが、その小さなことが本当はとても大きな歴史を作っていくのです。そして、歴史は勝手に伝わるものではなく、伝えていくべきものであることを忘れてはならないと思います。
 三国志の時代、平和を求めるために戦うというパラドックスの中にあった英雄達。この英雄を描いてきた「新・三国志」、どういう結末になるのだろうと思っていました。そこに現れたのは、武器を置き、文化を守った英雄でした。

 紆余曲折の末、魏の将軍であった謳凌(オウリョウ・市川猿之助さん)は、蜀の宰相であった孔明が残した書物や、孔明の育てた人達を助けることになった。しかし、魏は降伏した蜀のすべてを焼き尽くそうとしていた。追っ手は、謳凌一行にまで及び、ついに書物は焼かれてしまう。謳凌は孔明の教えを受け、それぞれの分野の研究をしている人々の命を助けるために、青龍偃月刀(セイリュウエンゲツトウ)という魔力のある太刀を捨てる。
 武器を捨てよう。そして、もう一度考えようではないか。魏の兵士たちよ、今殺そうとしている人に何の恨みがあるというのか?そして、今君たちに命令しているのは、本当に命令されるに値する人間なのか?君たちにも愛する家族、故郷がある。ここで争いをやめて、帰ろうではないか。さあ、武器を捨てて・・・と言うような事を、謳凌は深い傷を負いながらも言います。
 この場面は、クライマックスです。ここに辿り着くまでにはいろいろなことがあります。本当にこの場面が生きるように、いろいろな伏線が張り巡らされていることに驚き、そして、その伏線となった場面が走馬灯のように頭の中を駆け巡ります。
 さらに、現実に起きていることがオーバーラップしてくるのです。
 「平和のために戦う」ということは、本当に美しい響きがあります。しかし、戦うということは、犠牲になる人、もっと言えば死人が出るのです。残された人はその後どうなるのでしょう。嘆き、悲しみ、そして恨みを持つことでしょう。その恨みは新たな争いの種になってしまうのです。
 謳凌はもともと魏の将軍でしたから、この場面での魏の兵は、以前は自分の部下であったわけです。その部下に歌を歌うように言います。それは「長相思(チャンシャンスー・永久にそなたを愛す)」という歌で、最初の場面でも歌われます。孔明ゆかりの曲と言うことで、魏の副将の郭淮(カクワイ・市川猿十郎さん)はこの歌を嫌っていました。郭淮は自分の家族も家も村も焼き尽くされてしまっていたのでした。しかし、この歌に託された家族や故郷を思う気持ちを郭淮も持っているだろうと、謳凌は最後の力を振り絞り、命乞いをするのでした。郭淮は「家族もいない、帰るところもない。私は恨みだけで今まで生きた来た。」と言い放ちます。歌い続ける兵士。歌を止めようとする郭淮。しかし、歌声はどんどん大きくなり、ついに郭淮は泣き出してしまいます。見つめれば悲しさに出会う、そのことを恐れ心の奥底に隠し、鬼の心になっていた郭淮の心に、「長相思」は光を当てたのです。

 蜀の人々は一命を取りとめます。何もなくなってしまったけれど、人は生き、文化を伝えることは出来るのです。
 三国の戦乱は終わり「晋」と言う国が出来ました。これは、魏の皇帝を裏切った司馬一族が作った国です。つまり、最後のほうの戦いは魏の軍隊は魏のためではなく、司馬一族のために戦っていたわけです。
 戦争が現実に起こっているこの時、舞台で語られる矛盾は、現実の矛盾です。
 勝っても、負けても、犠牲者は出ます。それ自体許されることではありません。が、その戦いを指揮命令する人が本当にそうするべき立場の人でないとしたら、悲劇はますます大きくなります。
 イラク対米英他連合軍の戦争。本当の意味の勝利はない戦いだと思いますが、軍事力では連合軍の圧勝でしょう。しかし、連合軍側にも犠牲者は出ています。指揮官は彼らの家族や友人に対し何をしてくれるのでしょうか。
 そして、この完結編は、武器を置くことによって、争いは終わります。それこそが、本当の平和です。
 イラク攻撃の理由は「大量破壊兵器を廃棄させる」だったわけです。しかし、よく考えてみれば、アメリカのほうが大量破壊兵器をたくさん持っているわけです。その兵器が独裁者のもとにあるから危険は増しているとか理由をつけていますが、あれば危険に決まっています。
 その危険な兵器が使われるとどうなるか、日本は一番良く知っているわけです。使うということでなくても、存在するだけで本当に大きな危険のある兵器をすべての国が廃棄してこそ、平和はやってくると思います。

 戦争は起こってしまうと歯止めが効かなくなってしまいます。
 この舞台では、戦争という狂気の状態を「長相思」という歌が救い、平常心になり思考することが出来るようになるのです。
 これは現実に起こって欲しいことです。
 しかし、起こってはくれず、逆のことが起こりました。
 アメリカでも戦争が起こるまでは反戦活動も盛んだったようです。しかし、いざ戦闘状態となると、反戦を明言した俳優が映画の出演から下ろされたり、反戦の曲をCDにしようとしたら、製作会社からストップがかかったりしたようです。民主主義の大原則、言論の自由は一体どこに言ったのでしょう。民主主義の手本たるアメリカで起こるべきことなのでしょうか?こんなアメリカの民主主義を押し付けられそうなイラクの行く末はどうなることでしょう。
 ここで、もう一度横内謙介さんの「どんな時にも、何があっても、堂々と胸を張り世界に向けて上演し続けられる芝居を創りたい。」という言葉をかみ締めたいと思います。創り手の気持ちを受け手である私達がきちんと受け止め、行動することが大切になるわけです。受け手がしっかりしなければ、どんなに良いものを創り出してくださっても、受け手に来ない前に潰れてしまうのです。
 横内さんの「どんな時にも」というのは、戦争ということを念頭に置かれた言葉だとは思いますが、私はちょっと違う方向から考えてみたくなっています。
 というのは、残念ながら本当に戦争になったら、正面から反戦を語ることなんて出来なくなってしまうのです。それは、さっき書いた現在のアメリカでの動きからもわかりますし、歴史がそれを教えてくれています。だから、とにかく「戦争を起こさない」ということしかないわけです。日本にいると「平和ボケ」になっていると言われます。私もそうだと思います。だから「どんな時にも」というのは、堕落してしまいそうな平和の時にもともと考えなければならないと思います。本当に「どんな時にも」心に響く作品を作って欲しいと思います。そして、観客はその創り手の考えをしっかりと受け取っていかなければならないと思うのです。
 今、この苦しむ世界情勢に重ね合わせるから、感動した作品ではなく、いつ観ても感動する「新・三国志」に出会えたことを感謝し、創り手の熱意をしっかりと受け取ることが出来るように、いろいろ勉強していこう、と新たな決意をしたのでした。
 ここで、一応終わりです。が、この「新・三国志」の舞台はあまりにも魅力的で、紹介したいことが山とあるのです。そのいくつかを紹介します。場面の順とかになっていないので、わかりにくいと思いますが・・・
 歌の力に魅せられ、ミュージカルにはまっている私にとって、今回の歌が話しの中心にあるということはとても嬉しかったのです。

 見所は随所にあって、火、水、セットともうその迫力は言葉になりません。
 演出が素晴らしいのですが、一番気に入ったのは、春琴の琴を聴く謳凌が心を開いていくところでした。本当は雪の季節なのですが、琴の音に謳凌の心には、満開の桃の花が見えるのです。それが舞台にも現れてきます。そして、数日後、十数年弾かなかった琴を謳凌も久しぶりに弾くのです。そのときの鏡の使い方が素晴らしい。パートⅡを観劇した人は、ここである場面を思い出したはずです。本当に心憎い演出でした。
 鏡はいろいろなところで使われていて、魏の幼帝を補佐していて、謳凌の良き理解者であった皇太后静華が自殺する場面は、鏡の効果でその悲しみが倍増でした。演じられている笑三郎さんの凛とした美しさがより一層引き立っていました。
 大好きな右近さんもステキでした。貫禄もついて、これからがますます楽しみです。それにしても、本当に手の動きがきれいなんですよね。その美しさにぞくぞくしてしまうのです。ちょっと、いえ、かなり変なファンかもしれない(爆)。
 笑也さんの声の美しさに、女として嫉妬さえ覚えます。彼がいなければこのスーパー歌舞伎も成り立ち得なかったと思いますが、あの台詞回しの素晴らしさは、歌舞伎の歴史流しといえども、そうそうは輩出されないと思います。


 さて、演出の素晴らしさと、豪華さの魅力を存分に味わい、恒例の宙乗り。しかし、ここで度肝を抜かれました。聞いてはいたのですが、ここまでとは・・・
 会場全体に、桃の花びらが降るのです。それも、すごい量の!!!舞台だけじゃなくて、客席すべてに降りしきる桃の花びら。夢を見ているのではないかと思うのです。
 桃源郷を探しに行きたくなります。
 私は、降りしきる花びらの中で、桃源郷は探し求めるものではなく、自分で作るべきものなのではないかと思いました。
 本当は、もっとたくさんの素晴らしいメッセージが詰まった作品だったので、すべてをお話したかったのですが、拙い文章ですのでなかなか出来ませんでした。再演があるかはわかりませんが、もし、ありましたら、是非是非お出かけ頂きたい作品です。再演があることと、そのときは、今より平和であることを祈りながら筆をおきたいと思います。
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