2007年4月7日マチネ 帝国劇場
M列サブセンター
「マリー・アントワネット」(以下、MA)の東宝曰く凱旋公演に4月7日マチネ、行って来ました。
MA公式ブログでも、この07年帝劇公演ではいろいろ変更があると書いてありましたように、いろいろ変更がありました。
私が前回最後にMAを観劇したのは、06年12月10日です。その後の変更については、友人や噂では聞いていましたが、自分の目で確認したのは、この日が初めてでした。
私が前回MAについて書いたのは
「伝えること、そして、伝わること」でした。そのなかで、
『まず、すぐにでも変更して欲しいのは、カーテンコールです。
アントワネットを寝転がしたままにし、その後涼風さんとして立ち上がらせるのは、絶対にやめていただきたいです。エンディングの後、暗転し、キャストを全員下げるべきです。そして、カーテンコールはカーテンコールとしてやって欲しいです。
勿論、アントワネットは一番豪華な衣装でカーテンコールに登場すべきです。』
と書いていましたが、この私の望みは叶いました。(一番豪華なドレスではありませんが)
終わりよければすべてよし、は甘いというお考えの方もいらっしゃるとは思いますが、舞台でも映画でも、カーテンコールを含めた最後の場面は、私にとってはとても印象深いものなので、この変更だけでも07年帝劇公演を観てよかったと思いました。
勿論、ラストへ至る過程も、いろいろ変化していました。
今の私の気持ちは「また、観に行ってみようかな」です。
06年帝劇公演のときは、今だから正直言いますが、持っていたチケットを破り捨ててしまおうかと本気で思っていましたから、もの凄い違いです。
勿論、変更はラストだけではありません。
全体に、「なんでそういう展開になるの?」という思いが減りました。
単なる慣れでは?とも思いましたが、06年帝劇公演は都合3回行ったものの、慣れるどころか観れば観るほど、矛盾が気になり、嫌悪感さえ感じる始末でした。
ブログに何度か書いていましたが、この作品に限らず、舞台に対する気持ちがすっかり萎えてしまうほどの衝撃だったのです。
快晴とは行きませんが、これから晴れるかもしれないという期待を持てる舞台にはなっていました。
すべてを網羅することは出来ないと思いますし、私の記憶違い、また、以前の公演中にすでに変更があったものなどもあるかと思います。どうぞ、誤りがありましたら、ご容赦下さい。また、お知らせ頂けるときちんと訂正したいと思います。
(以下、内容に踏み込んでいますので、ご了承の上、お読み下さい。また、キャストのお名前は、役名を書いた際か、単独で最初にお名前を書いた際に、フルネームを記しています。)
まず、キャストの変更は、私にとって、作品に好印象を与えることになりました。
オルレアン公の鈴木綜馬さんは、他の作品でもたくさん拝見していますが、高嶋政宏さんに比べるとアクが薄い方という印象でした。ですから、このオルレアン公はちょっと重荷かと予想していました。が、そこはさすが鈴木さん、きっちりと悪役を悪役として、本当に悪に徹して演じられていました。ルイ16世(石川禅さん)との対比がわかりやすくなったように感じました。高嶋さんが演じられたときは、この役も狂言回しという印象でしたが、鈴木さんは、一登場人物としての印象が強いです。
そして、フェルセンの今拓哉さん。
正直、相当、贔屓目の感想だとわかっていますが、とても素敵です。井上芳雄さんのフェルセンもとても好きでしたが、今さんにはかなわないです。
今さんの舞台も相当観ていますが、愛を語る役は初めて???
大人の包容力でマリー・アントワネット(涼風真世さん)を支えているという感じがたまらなくいいです。ただ一途の思いではなく、マリー・アントワネットの置かれている立場をとてもよくわかった上で、支えていこう、愛していこう、という感じがにじみ出ています。
まあ、年の功でしょうかね。
低音が聞き取りにくいという難点はありますが、歌詞を大切に歌って下さるので許してしまいましょう。
フェルセンの一番の変更点は、「なぜあなたは王妃なのか」を歌った後の、長い台詞がほぼカットされたことです。すっきりしました。歌で、散々、王妃である女性を愛した苦しみを語った後、同じことを台詞で言うなんてしつこい!と思っていましたので、本当にすっきりしました。
実は、台詞がなくなってすっきりまとまったのは、マルグリット(新妻聖子さん)とアニエス(土居裕子さん)の関係だと私は感じました。細かいところの記憶はないのですが、アニエスがマルグリットに説教のように言っていた台詞がカットされたように思いました。そのおかげで、アニエスの「人間に対する尊重」ということがマルグリットに伝わっているのかもという印象が強くなりました。マルグリットが考えている、という演技が見えました。「目は口ほどにものを言う」といったところでしょうか。マルグリットと一緒に、観客も考える間を与えられたと思います。
その集大成が、最後のアントワネットのギロチンの場面に現れます。
私の記憶では、この場面でアニエスがマルグリットに「アントワネットをかばうようなことを言ったら危ない」というような台詞で忠告するのですが、それがばっさり切られていました。そして、「人間には様々な顔がある」という台詞が入りました。遠藤周作氏の原作に、画家のダヴィッドがアントワネットのギロチンを待つ群集を観察し、様々な表情をしている様子を描くという場面があるのです。たった一ページほどの記述ですが、私にとってはとても印象的でした。眺める事象は一つでも、それを眺める人々の心は千差万別であることがとてもよく表れていたからです。舞台には、それがなく、一つの事象は一つの感情しか生み出さないような押し付けがあったのです。それが、アニエスの一言でガラッとかわりました。神に仕えるアニエスも心ゆれ、革命を信じたマルグリットも心ゆれた、でも、それが人間なのだという、幅が出てきました。そしてさらに、マルグリットの「あの女の最後を見ておきたい」という台詞がとても印象的になりました。その印象も観客にその意味をどうとるかの自由を与えてくれたと思いました。ただの復讐心の満足でもいいし、自戒の念でもいいし、それが混じったものでもいいです。一方的な押し付けの舞台から、観客が自分の思いを巡らす自由を持つことのできる舞台へと変わったとこのときはっきり感じました。
全体を通して、マルグリットとアニエスの一体感が増した感じがしました。二つの役で普通の一人の人間の心の揺れを表現していると感じられるようになりました。
そうそう、マルグリットの父親がオーストリア人という台詞もなくなっていました。これも遠藤先生の原作に忠実になってよかったと思います。
こうして考えると、06年初演には観客を混乱させる不必要な台詞があまりにも多かったことがはっきりしてきます。
オルレアン公が芝居の筋に乗ってきて、マルグリットとアニエスの一体感が増し、良くなったと感じる一方で、ますます、ボーマルシェ(山路和弘さん)とカリオストロ(山口祐一郎さん)の二人による狂言回しが必要なのかという思いが強まりました。もっと、メインのキャストの歌を含めた芝居で、作品を創った方が充実するはずだと強く感じました。
カリオストロの新曲「ILLUSION~或いはは希望~」は、ルイ16世がギロチンになった後に挿入されました。内容は、自分の手でもこの歴史の流れを止められない、と言うものです。最初の歌を受けているので、内容としては入ってきて良かったと思います。
また、ラスト・ナンバー「自由」のカリオストロの歌詞は全く変わりました。新曲と似たような内容になっていました。「歴史は繰り返す」という歌詞が入りましたので、この作品が現在と繋がった気がします。
しかし、カリオストロが歴史をつむぎだしているという感じはどうしてもわかりません。カリオストロの登場によって、あまりにも、舞台の進行がぶつ切りになったと感じる箇所が多いのです。もっと言えば、違う方向に観客を導こうとしているのかとさえ思えることがあります。
カリオストロはクンツェ氏がこの作品の中心人物として描いたわけですから(プログラム、雑誌等のインタビューに書いてあります)、この舞台にこの役が必要ないのではと感じる続ける限り、私はこの作品を心から楽しめることはないのかもしれません。
実は、06年の帝劇初日から、不思議に思いつつ、いつも疲れ果てて、考えがまとまらずに観ていた場面がありました。それは、二幕のラスト近く、アントワネットがマルグリットを通じてフェルセンに渡す手紙です。
この手紙の内容をめぐって、3人の思いが本当はどうだったのかがいつも不思議だったのです。フェルセンはアニエスが読むことに同意したのですから、自分へのラブ・レターであると信じていたはずです。その直後の「なぜあなたは王妃なのか」からすると、そうでなかったことにショックを受けつつも、アントワネットの王妃たろうとするところに感銘を受けていると思っていました。が、アントワネットは???でした。国王が処刑されたのはこの手紙のせいかとマルグリットに尋ねました。私としては、もうびっくりでした。それほどの結果になることが予想できた重要な手紙をマルグリットに渡しますか?
今回は、国王うんぬんはなくて、マルグリットがまだ持っていること、でもアントワネットには返さないと。そして、返せないが、その代わりにファルセンを連れてきたという流れになっていました。マルグリットが、大人になったなぁと思いましたね。
私の???もなくなりました。
内容ではなくて、裁判の場面で肝心なことを歌っているマルグリットの歌詞が聞き取れないという音響の悪さも直っていました。ここで、マルグリットの歌詞が聞き取れないとラスト・ナンバーの自由へも繋がりませんから、音響さん頼みますよ!!!となっていたのでした。
アントワネットの孤独感が表に出る演技が多くなり、愚かさが少し消された感じがしました。
ラストのギロチンの場面でも、ギロチンに歩いて向かうところで、兵士に突き飛ばされても、一回は踏みとどまり、次で転ぶという演出になっていました。これだけで、アントワネットに対する印象がまるで違います。王妃としての誇りを感じることが出来ました。これも、より遠藤先生の原作に描かれたアントワネット像に近づいた感じがして嬉しく思いました。
他にも、いろいろあると思いますが、私が、矛盾していると強く感じていて、今回改善された場面が印象的でしたので、それについて書いてみました。
変な誤解を招くような無駄な台詞はまだまだあるように感じます。「君は気付いた、人を尊ぶことの大切さを」という宣伝文句を多くの観客が感じるには至っていないと思います。もっとアンサンブルが歌いつなぐ歌ははっきり歌詞を伝えて欲しいです。何人もで歌わないでソロで繋げばと思うこともしばしばです。前方の座席での見切れが多い演出や舞台装置も改善されてはいません。
それでも、06年に感じていた舞台への嫌悪感や、喪失感は本当に薄れました。もしかしたら、多くの観客が素晴らしいと感じる舞台に変化していくかもしれない希望の光が見えてきたように思います。
大きな変更があったわけではないと思うのですが、印象が変わった場面もありました。「もしも」や「なんというセレモニー」の後半の暗い部分です。
「なんというセレモニー」は首飾り事件の反響の大きさ、アントワネットへの取り巻き達の心の変化が凄く伝わってきました。
「もしも」は歌う人数が増えたのかと思いますが、アンサンブルのまとまりの賜物でしょうか。鈴木さんや今さんのお声もいいですしね。佐山陽規さんも加わったから?などと思っていますが、前からだったのでしょうか?次の場面がソロなので、参加していないと勝手に決めていたのかもしれません。(一事が万事ですから、結局は、書いている変更点も、私の思い込みが相当あるかと思います。間違いがありましたら、どうぞ、お許し下さい。)どちらにしても、曲はいいけれど取ってつけたような場面だと感じていたのが、心情を伝えている歌に変化したように感じました。
本当に、良くなってきていてよかったです。ほっとしました。
別に関係者でも何でもありませんが、これほどのキャストが揃っていて、あまりにも勿体ない舞台でしたから・・・そして、応援している佐山陽規さん、広田勇二さん、今拓哉さんが活躍する舞台なのですから!!!
しかしですね、この07年帝劇バージョンが初演であって欲しかったです。一回しか観ていない多くの観客に「矛盾した脚本」と言われてしまうなんて、ハンドルを取り付けないクルマを売ったのと同じことです。遠藤周作氏原作の「王妃マリー・アントワネット」という素晴らしい設計図があったのです。矛盾していたら、原作に解決策がいくらでもあったはずです。どうして、制作スタッフが誰も気づかなかったのでしょう?そして、06年初演も2ヶ月やっていたのです。その間に直そうと思えば、直すことが出来た場面や音響はいくらでもあったはずです。なぜ、直さなかったのか?
日本の舞台制作の悪い面を垣間見た気がしました。
次回、こういう大作のオリジナルを創るときは、絶対プレビューをやるべきです。それなら、観客も寛大です。06年初演の舞台程度でもチケットを破り捨てようか!とはなりません(苦笑)。制作側も聞く耳をもっと持ったはずです。
花粉症からも開放されつつあります。
春風に誘われて、銀ブラしがてら、また、帝劇に行ってみようかな。
私の秘かな楽しみは、カーテンコールの並び・・・今さん、佐山さん、広田さん・・・
わかった風にいろいろ言ってみても、結局は、そこへ(「太平洋序曲」の思い出へ)帰りたくなってしまうわーきんぐまざーなのです。
でも、前進あるのみ!!!「マリー・アントワネット」がますます充実した舞台作品となることを楽しみに、帝劇に行きますね。
追伸
9日に脱字の訂正と多少変更をしました。
14日にまた観劇しましたので、この記事への訂正に気づきました。お詫びと訂正を
14日の記事に書きました。