わまのミュージカルな毎日

主にミュージカルの観劇記を綴っています。リスクマネージャーとしての提言も少しずつ書いています。

原慎一郎さん

2007年04月21日 | 俳優情報
原慎一郎さんは、08年1月5日-1月29日日生劇場に於いて「ペテン師と詐欺師」にご出演の予定です。

(以下、敬称は略させていただきます)
脚本  ジェフリー・レーン
作詞・作曲  デビッド・ヤズベック
演出  宮田慶子
翻訳  常田慶子
訳詞  森雪之丞

主なキャスト
鹿賀丈史 市村正親 ソニン 愛華みれ 香寿たつき 鶴見辰吾

ジキル&ハイド

2007年04月19日 | 観劇記
07年4月19日マチネ  日生劇場  一階中程下手寄り

この公演で鹿賀丈史さんのジキル・ハイド役は見納めということで、どんな熱い舞台になっているかとても楽しみにしていきました。
私は、日本初演01年、再演は03年を観劇しています。04年は観ませんでした。

舞台は原作とは違うところが多いのです。
あらすじは・・・
医師のヘンリー・ジキル(鹿賀丈史さん)は、精神を病んでいる父を治療するための薬の人体実験の許可をえるため病院の最高理事会に臨んだ。婚約者エマ(鈴木蘭々さん)の父ダンヴァース卿(浜畑賢吉さん)、そして友人であり、顧問弁護士のアターソン(戸井勝海さん)から死神よりも危険な理論だと忠告されていたが、ジキルは自信を持っていた。二人の忠告どおり、理事会のメンバーは、ジキルの要求を却下した。
 その夜、ダンヴァース卿邸では、ジキルとエマの婚約パーティが開かれた。理事会メンバーのひとり、ストライド(宮川浩さん)はエマに思いを寄せていることもあって、結婚を考え直すように迫るが、エマはきっぱりと断る。
 アターソンはジキルに「息抜きが必要」と言って、パブに連れて行く。そこには、娼婦ルーシー(マルシアさん)がいた。ルーシーが「自分で試してみて。」とジキルを誘う。ジキルは彼女の言葉に、「何も他人の人体で実験しなくても、自分自身の体で試せばいいのだ」という解決策を見出す。
ジキルは、自分の研究室で自ら開発した薬を服用。ほどなく体に異変が起こる。ジキルの心と体は、エドワード・ハイドに変わった。
 ハイドはジキルの意識の外で生き、理事会のメンバーを次々に殺してしまう。
 ジキルはエマやアターソンとも会おうとはしなかった。ある日、ルーシーの体の傷を治療した彼は、加害者がハイドであることを知り、愕然とする。
エマとの結婚式が近づく中、ジキルは、ハイドを消し去ろうと次々と薬を飲むが上手く行かなかった。アターソンにすべてを打ち明けた彼は、ルーシーの身を案じ、「ロンドンからすぐに立ち去るように」との手紙を託したが、ハイドがルーシーを殺してしまう。
 何とか、ハイドを消し去り、ジキルはエマとの結婚式の日を無事迎えるが・・・
 突然に、ハイドが現れ、ストライドを殺してしまう。そして、エマにまで迫る。アターソンは、エマを守るために銃口をハイドに向ける。倒れたジキルにエマは「苦しかったでしょう、ゆっくりお休みなさい。」と話しかける。

こんな感じでしょうか。

正直、日本初演を観たとき、鹿賀さんとマルシアさんの歌謡ショーだと思いました。楽曲が素晴らしいので、それでも決してつまらないというわけではなかったのですが、ストーリー性は感じませんでした。
しかし、このファイナル公演を観て、人間の心の動きがとても良くわかって、お芝居の部分を深く感じることが出来ました。

ストライドがジキルと対立しているということが、初っ端の理事会の場面でとても良くわかるのが良かったです。宮川さんは嫌われ役に徹していたと思います。ここが印象に残ると、婚約パーティ、結婚式のジキル、エマ、ストライドの関係がとてもよくわかるのです。

そして、エマの鈴木さんが歴代のエマの中で突出して、ジキルへの思いを、しっかりと観客に伝えてくれたと思います。立ち姿がとにかく美しいのです。ジキルもストライドも(多分、アターソンも)惹きつけられる女性ですから、聖母マリア的であって欲しいです。本当に、優しいエマを演じて下さいました。

アターソンも各公演キャストが変わった役だと思います。戸井さんはいつも注目している俳優さんですが、ちょっと物足りなかったですね。鹿賀さんとのバランスからすると、もう少し大柄な方がいいように思います。娼婦のところに遊びに連れて行く豪快さが感じられないのです。

ジキルの執事役の丸山博一さんは最高です。この方がいらっしゃらなかったら、この舞台は成り立たなかったと思います。まさに舞台が落ち着くというたたずまいで、要所を締めてくださいます。ジキルが届けられた薬を受け取るところを、心配そうに見つめる場面などは、演出の妙もあるのだと思いますが、その後の展開をいろいろ考えさせる布石として、印象深かったです。

マルシアさんは歌はいいのですが・・・台詞になると、本当にがっかりしてしまいます。もう少し、日本語をしっかり話して欲しいと思います。ご本人も気になさるからか、余計にぎこちないのです。台詞も歌の延長のつもりで、自然に語って欲しいと思います。

アンサンブルは、初演から歌の素晴らしさで舞台を盛り上げて下さっていたのですが、今回はますます引き締まった感じがしました。
何度も観ている友人曰く、あまり演出は変わっていない、とのことですが、アンサンブルで「事件」を歌ったりするときに、ストライドやアターソンも参加していたのでしょうか?歌っている間もお芝居がいろいろ進行しているので、「歌だけ」という印象の舞台が一変しました。アンサンブルの方たちの盛り上げが、この舞台を「歌謡ショー」から「ミュージカル」へと昇華させたという印象でした。

せっかく昇華した舞台という印象でしたが、ファイナル公演ということなので残念です。
また、鹿賀さん以上にジキルとハイドを演じ分けられる俳優さんを迎えて再演が重ねられることを楽しみにしています。



蛇足ですが・・・
この舞台を観劇したのは、帝劇で「マリー・アントワネット」を何度も観劇している間のことでした。06年版より07年版は納得いく舞台になっているとは思ってはいても、不満は山のようにありました。が、この「ジキル&ハイド」が6年をかけ4回の上演を行って、あの素晴らしい楽曲が活きる舞台になったのだ、と思ったときに、「マリー・アントワネット」の舞台に対してとても優しい気持ちになれたのです。07年版であそこまで変わったのだから、まだまだ変わっていくだろう。その行く末を見届けたいなぁ。と。

しかし、ジキハイ初演から6年ですか・・・長かったような、早かったような。
MAがこれから6年やったら・・・そう言えば、エリザも6年ぐらいやっていたなぁ。
この6年と同じぐらい、これからの6年もいろいろあるのかなぁ・・・

変な、物思いに耽る私です。

さけもとさん、齋藤さん

2007年04月18日 | 俳優情報
さけもとあきらさん・齋藤桐人さんは07年10月9日-11月12日帝国劇場に於いて「イーストウィックの魔女たち」にご出演の予定です。

(以下、敬称は略させていただきます)
演出 山田和也
脚本・作詞 ジョン・デンプセイ
作曲 ダナ・P・ロウ
編曲 ウィリアム・デイヴィッド・ブローン

主なキャスト
ダリル・ヴァン・ホーン  陣内孝則
ジェーン・スマート  涼風真世
スーキー・ルージュモント  森公美子
アレクサンドラ・スポフォード  マルシア
フェリシア・ガブリエル  大浦みずき
クライド・ガブリエル  安原義人
ジェニファー・ガブリエル(ダブルキャスト) 黒木マリナ/皆本麻帆
マイケル・スポフォード  中川賢
フィデル  及川健
少女  小此木麻里

衝撃的な?松井るみさん(「太平洋序曲」の舞台装置を担当されていました)の舞台装置もお楽しみ下さい。

詳細は東宝

日本初演時の私の観劇記はこちらです。大いにネタバレしていますので、ご了承の上お読み下さい。
博多座での公演もありましたが、帝劇では4年ぶりの再演になるわけですね。

お知らせ

2007年04月17日 | 雑記
「『太平洋序曲』を愛するページ」のトップページに応援している俳優の皆様が出演予定の公演を紹介してきましたが、今後は、このブログでも紹介しようと思います。
カテゴリーの「情報」をクリックしてみて下さい。

続・MA  お詫びと感想追記

2007年04月14日 | 観劇記
マリー・アントワネット  07年4月14日マチネ  帝国劇場1階E列センター

7日の記事に書いたとおり、また、行ってしまいました。
15分前に着いて当日券を買ったので、ちょっと前過ぎると思ったものの、そのまま買ってしまいました。当日券でこの席?と思ったものの、回りはすべて埋まっていました。たまたま一席空いていたようです。しかし、「マリー・アントワネット」(以下、MA)は、1階ならI列より後ろをお勧めします。

7日の記事を修正しようかとも思ったのですが、このように別に書き足して、お詫びすべきところはしたいと考えました。

『(アニエスの)マルグリットの父親がオーストリア人という台詞もなくなっていました。』
と書きましたが、残っていました。申し訳ございません。ない方がいいと思っていたので、聞き逃したのかもしれません。

また、同じくアニエスの台詞に関してです。
『そして、「人間には様々な顔がある」という台詞が入りました。』と書きましたが、「ここには人間の顔がない」というような台詞でした。これは、06年の帝劇公演にもあったように思います。ただ、印象として、台詞が少なくなったので、人間の顔を眺めてのこの台詞が印象深かったのだと思います。

細かい台詞に関しても、違うのはわかったのですが、似たような内容ですし、私にはそういう内容で伝わったということにさせて下さい。


さて、ここからは7日の記事に書かなかったことや、今日発見したことを書いてみたいと思います。

日本経済新聞が初演時は相当な批判をしていましたが、この帝劇公演を褒めていましたね。
私も、良くなったとは思いますが、そんなに甘くないです!
が、観に行きたくなる・・・矛盾しているかも(苦笑)。

06年帝劇公演で私が激しく作品を嫌悪したのは、遠藤周作氏の原作にある、また、遠藤氏の作品に共通する「愛」がまるで感じられなかったからです。遠藤氏の哀しくも優しいまなざしで登場人物を描いている作風が、どこを探してもありませんでした。
MA開幕の数ヶ月前に同じ遠藤氏の原作をミュージカル化した音楽座の「泣かないで」(私が、棄てた女)を観ていました。原作がそのまま、本当にそのまま脚本になったような舞台でした。遠藤氏が伝えたかったであろうことが、文章を読む以上に、深く伝わる舞台だったのです。
MAも同じように作れば、奇を衒(てら)うことなど必要ないと思っていました。まして、あれだけのキャスト陣です。方向性さえ示せば彼らが作り上げていってくれると思っていました。
そして、MAの原作に書かれているマリー・アントワネットのキーワードは「エレガンス」です。遠藤氏は何度も、何度も繰り返し、そして、最後の最後にもこの言葉を出しています。
哀しくも優しいまなざしの「愛」と「エレガンス」が原作の主題なのに・・・
MAにはどちらもない。あるのは「さげすみ」と「暴力」のみ。

歴史上の人物には、後世の人間がいろいろな評価をします。それは、時の権力者の横暴であったり、時代の求めるものの違いであったりだと感じています。また、私自身もこの人物のこの面は尊敬するが、この面は軽蔑する、と人間はいろいろな面を持っていると理解しています。
ですから、舞台でマリー・アントワネットがどう描かれようと、それはそれです。が、MAには遠藤氏の原作があるのですから、それは尊重されるべきだと思ったのです。そもそも、それを尊重できないのなら、この作品の制作に関わるべきではないと思います。
06年帝劇公演は、どこをどう観ても聴いても、遠藤氏の主題が見当たりませんでした。
私が、この原作の主題だと感じていることを、この作品の主要な創り手たちは感じていないのだろうとしか思えなかったのです。
ここに、大きな感じ方の違いがあるとすれば、決して、舞台は私の好みにはなり得ません。

07年帝劇公演には、随所に哀しくも優しいまなざしの「愛」と「エレガンス」が見出せるようになって来ました。ですから、もう少し、私の好み(より原作に近いはずと思いますが)に近づく舞台に変化し続ける可能性を見出したのです。

7日と今日で、二人のマルグリットを観ることが出来ました。二人とも「いけいけ」マルグリットから、考える「マルグリット」になっていましたので、演出が変わったのだと確信しました。
私が一番納得いかない、洗濯の場面から、ヴェルサイユへの行進も、まあ許そうという気持ちになっています。
マルグリットがオルレアン公から先導するように言われても、マルグリットは立ち去ろうとします。が、お金には釣られるのはおかしいと思いながらも、革命成就のためには仕方ないと先導する様子が演技になっていました。
そして、勢いよく宮殿に突入した彼女ら(男も混じっているが)だが、いざ、国王と王妃の前では、おとなしくというか、畏敬の念を抱いた様子になっていました。これが、多分、有名な王妃のバルコニーでの礼なのだと思います。
しかし、7日にはあまり感じられない変化でしたので、もっとはっきりとした演出にしなければ、一見の観客には伝わらないかもしれません。

このことや、7日の記事にも書いたこともあわせて、私の好みというか、原作の伝えたかった舞台に近づいてきたと感じています。


しかし、まだまだ勿体ないというか、???があります。

ぶった切りの舞台と思える場面に「パリ情報」があります。実は、場面として私は結構好きなのですが、あまりに唐突な場面です。
よく歌詞を聴くと、辛辣な時代の流れを歌っているので、面白いと思うのですが、キャストや音楽のおかげで、観客は大混乱だと思います。かく言う私も初日は???かける10ぐらいの思いでした。
一幕でアントワネットに仕えていた3人が登場するので、観客は、王家側の擁護だと思い込んでしまうはずです。そこへきて、フランス革命はある程度知っていても、ジロンド党だのジャコバン党だの、サン・キュロットだの言われてますます混乱。
その上、音楽がバカに明るい能天気なものですから、「命が惜しけりゃ」と歌っていても、聞き逃してしまうのです。
この3人がまず時流に乗ってアントワネットから離れたことを伝えたら、もっと入り込みやすいと思うのです。本当に伝えたいのは、革命がとても不安定で、勢力争いがひどいことなわけです。深く関わっていない一般市民でも、ちょっとしたことでギロチン行きとなる不条理を伝えたいのだと思います。ちなみに一日何百人もの人間がギロチンにかかったという記録がありますので、それこそ情報にのり遅れたら命取りだったのです。
この「命が惜しけりゃ」ぐらいが、短調系に転調していたら、もう少し観客の印象が違ったと思えるのですが・・・。それは無理でしょうから、そこの歌詞をもっともっと重く歌ってみるぐらいしか、この場面の真意を伝える手立てはなさそうです。
面白い場面だけに、本当に勿体ないです。

ラストの「自由」は不協和音で終わると聞いていましたが、なんだか綺麗なハーモニーにしか聞こえません。やっと、「自由」の意味を本気で考えようという舞台に変わりつつあるのに、この「自由」で満足しているようでがっかりなのです。
もし、もう少し舞台が暴力ではなくて愛で人間を救うという方向に傾いて、ラストの「自由」なら今の旋律でもおかしくないと思います。
私が不協和音に慣れすぎて、不協和音を美しいと感じてしまっているのでしょうか?

舞台の良し悪しは、結局は「好み」でしかないと思います。
しかし、「伝えたいことが伝わっているか」は「好み」以前の話だと私は考えています。
その考えに立って、またまた、いろいろ語ってしまいました。

そして、ギャーギャー言いながらもまた観に行くんだろうな・・・(苦笑)。

遊び過ぎ

2007年04月08日 | 雑記
6日にVプレミア・リーグ・セミ・ファイナルを見学。
7日に帝劇で「マリー・アントワネット」観劇。
8日に歌舞伎座で「中村錦之助襲名披露公演」観劇。

いくら楽しいこととはいえ、少々疲れ気味です。

7日の記事になっている「MA」の感想というか、記録というかも、少々疲れた頭で考え、書いた文章です。
長さだけは、いつも通り充実したのですが、内容がちょっと、いえ、かなり不安です。自分が、「早く」どう変わったのかとても知りたかったので、他にもそういう方がいらっしゃるという思い込みで、書き綴りました。
今後、練り直し、書き直すこともあるかもしれません。
どうぞ、よろしくお願い致します。

マリー・アントワネット

2007年04月07日 | 観劇記
2007年4月7日マチネ  帝国劇場
M列サブセンター

「マリー・アントワネット」(以下、MA)の東宝曰く凱旋公演に4月7日マチネ、行って来ました。
MA公式ブログでも、この07年帝劇公演ではいろいろ変更があると書いてありましたように、いろいろ変更がありました。
私が前回最後にMAを観劇したのは、06年12月10日です。その後の変更については、友人や噂では聞いていましたが、自分の目で確認したのは、この日が初めてでした。

私が前回MAについて書いたのは「伝えること、そして、伝わること」でした。そのなかで、
『まず、すぐにでも変更して欲しいのは、カーテンコールです。
アントワネットを寝転がしたままにし、その後涼風さんとして立ち上がらせるのは、絶対にやめていただきたいです。エンディングの後、暗転し、キャストを全員下げるべきです。そして、カーテンコールはカーテンコールとしてやって欲しいです。
勿論、アントワネットは一番豪華な衣装でカーテンコールに登場すべきです。』
と書いていましたが、この私の望みは叶いました。(一番豪華なドレスではありませんが)
終わりよければすべてよし、は甘いというお考えの方もいらっしゃるとは思いますが、舞台でも映画でも、カーテンコールを含めた最後の場面は、私にとってはとても印象深いものなので、この変更だけでも07年帝劇公演を観てよかったと思いました。
勿論、ラストへ至る過程も、いろいろ変化していました。
今の私の気持ちは「また、観に行ってみようかな」です。

06年帝劇公演のときは、今だから正直言いますが、持っていたチケットを破り捨ててしまおうかと本気で思っていましたから、もの凄い違いです。

勿論、変更はラストだけではありません。
全体に、「なんでそういう展開になるの?」という思いが減りました。
単なる慣れでは?とも思いましたが、06年帝劇公演は都合3回行ったものの、慣れるどころか観れば観るほど、矛盾が気になり、嫌悪感さえ感じる始末でした。
ブログに何度か書いていましたが、この作品に限らず、舞台に対する気持ちがすっかり萎えてしまうほどの衝撃だったのです。
快晴とは行きませんが、これから晴れるかもしれないという期待を持てる舞台にはなっていました。

すべてを網羅することは出来ないと思いますし、私の記憶違い、また、以前の公演中にすでに変更があったものなどもあるかと思います。どうぞ、誤りがありましたら、ご容赦下さい。また、お知らせ頂けるときちんと訂正したいと思います。

(以下、内容に踏み込んでいますので、ご了承の上、お読み下さい。また、キャストのお名前は、役名を書いた際か、単独で最初にお名前を書いた際に、フルネームを記しています。)

まず、キャストの変更は、私にとって、作品に好印象を与えることになりました。

オルレアン公の鈴木綜馬さんは、他の作品でもたくさん拝見していますが、高嶋政宏さんに比べるとアクが薄い方という印象でした。ですから、このオルレアン公はちょっと重荷かと予想していました。が、そこはさすが鈴木さん、きっちりと悪役を悪役として、本当に悪に徹して演じられていました。ルイ16世(石川禅さん)との対比がわかりやすくなったように感じました。高嶋さんが演じられたときは、この役も狂言回しという印象でしたが、鈴木さんは、一登場人物としての印象が強いです。

そして、フェルセンの今拓哉さん。
正直、相当、贔屓目の感想だとわかっていますが、とても素敵です。井上芳雄さんのフェルセンもとても好きでしたが、今さんにはかなわないです。
今さんの舞台も相当観ていますが、愛を語る役は初めて???
大人の包容力でマリー・アントワネット(涼風真世さん)を支えているという感じがたまらなくいいです。ただ一途の思いではなく、マリー・アントワネットの置かれている立場をとてもよくわかった上で、支えていこう、愛していこう、という感じがにじみ出ています。
まあ、年の功でしょうかね。
低音が聞き取りにくいという難点はありますが、歌詞を大切に歌って下さるので許してしまいましょう。
フェルセンの一番の変更点は、「なぜあなたは王妃なのか」を歌った後の、長い台詞がほぼカットされたことです。すっきりしました。歌で、散々、王妃である女性を愛した苦しみを語った後、同じことを台詞で言うなんてしつこい!と思っていましたので、本当にすっきりしました。

実は、台詞がなくなってすっきりまとまったのは、マルグリット(新妻聖子さん)とアニエス(土居裕子さん)の関係だと私は感じました。細かいところの記憶はないのですが、アニエスがマルグリットに説教のように言っていた台詞がカットされたように思いました。そのおかげで、アニエスの「人間に対する尊重」ということがマルグリットに伝わっているのかもという印象が強くなりました。マルグリットが考えている、という演技が見えました。「目は口ほどにものを言う」といったところでしょうか。マルグリットと一緒に、観客も考える間を与えられたと思います。
その集大成が、最後のアントワネットのギロチンの場面に現れます。
私の記憶では、この場面でアニエスがマルグリットに「アントワネットをかばうようなことを言ったら危ない」というような台詞で忠告するのですが、それがばっさり切られていました。そして、「人間には様々な顔がある」という台詞が入りました。遠藤周作氏の原作に、画家のダヴィッドがアントワネットのギロチンを待つ群集を観察し、様々な表情をしている様子を描くという場面があるのです。たった一ページほどの記述ですが、私にとってはとても印象的でした。眺める事象は一つでも、それを眺める人々の心は千差万別であることがとてもよく表れていたからです。舞台には、それがなく、一つの事象は一つの感情しか生み出さないような押し付けがあったのです。それが、アニエスの一言でガラッとかわりました。神に仕えるアニエスも心ゆれ、革命を信じたマルグリットも心ゆれた、でも、それが人間なのだという、幅が出てきました。そしてさらに、マルグリットの「あの女の最後を見ておきたい」という台詞がとても印象的になりました。その印象も観客にその意味をどうとるかの自由を与えてくれたと思いました。ただの復讐心の満足でもいいし、自戒の念でもいいし、それが混じったものでもいいです。一方的な押し付けの舞台から、観客が自分の思いを巡らす自由を持つことのできる舞台へと変わったとこのときはっきり感じました。
全体を通して、マルグリットとアニエスの一体感が増した感じがしました。二つの役で普通の一人の人間の心の揺れを表現していると感じられるようになりました。
そうそう、マルグリットの父親がオーストリア人という台詞もなくなっていました。これも遠藤先生の原作に忠実になってよかったと思います。
こうして考えると、06年初演には観客を混乱させる不必要な台詞があまりにも多かったことがはっきりしてきます。

オルレアン公が芝居の筋に乗ってきて、マルグリットとアニエスの一体感が増し、良くなったと感じる一方で、ますます、ボーマルシェ(山路和弘さん)とカリオストロ(山口祐一郎さん)の二人による狂言回しが必要なのかという思いが強まりました。もっと、メインのキャストの歌を含めた芝居で、作品を創った方が充実するはずだと強く感じました。

カリオストロの新曲「ILLUSION~或いはは希望~」は、ルイ16世がギロチンになった後に挿入されました。内容は、自分の手でもこの歴史の流れを止められない、と言うものです。最初の歌を受けているので、内容としては入ってきて良かったと思います。
また、ラスト・ナンバー「自由」のカリオストロの歌詞は全く変わりました。新曲と似たような内容になっていました。「歴史は繰り返す」という歌詞が入りましたので、この作品が現在と繋がった気がします。
しかし、カリオストロが歴史をつむぎだしているという感じはどうしてもわかりません。カリオストロの登場によって、あまりにも、舞台の進行がぶつ切りになったと感じる箇所が多いのです。もっと言えば、違う方向に観客を導こうとしているのかとさえ思えることがあります。
カリオストロはクンツェ氏がこの作品の中心人物として描いたわけですから(プログラム、雑誌等のインタビューに書いてあります)、この舞台にこの役が必要ないのではと感じる続ける限り、私はこの作品を心から楽しめることはないのかもしれません。

実は、06年の帝劇初日から、不思議に思いつつ、いつも疲れ果てて、考えがまとまらずに観ていた場面がありました。それは、二幕のラスト近く、アントワネットがマルグリットを通じてフェルセンに渡す手紙です。
この手紙の内容をめぐって、3人の思いが本当はどうだったのかがいつも不思議だったのです。フェルセンはアニエスが読むことに同意したのですから、自分へのラブ・レターであると信じていたはずです。その直後の「なぜあなたは王妃なのか」からすると、そうでなかったことにショックを受けつつも、アントワネットの王妃たろうとするところに感銘を受けていると思っていました。が、アントワネットは???でした。国王が処刑されたのはこの手紙のせいかとマルグリットに尋ねました。私としては、もうびっくりでした。それほどの結果になることが予想できた重要な手紙をマルグリットに渡しますか?
今回は、国王うんぬんはなくて、マルグリットがまだ持っていること、でもアントワネットには返さないと。そして、返せないが、その代わりにファルセンを連れてきたという流れになっていました。マルグリットが、大人になったなぁと思いましたね。
私の???もなくなりました。

内容ではなくて、裁判の場面で肝心なことを歌っているマルグリットの歌詞が聞き取れないという音響の悪さも直っていました。ここで、マルグリットの歌詞が聞き取れないとラスト・ナンバーの自由へも繋がりませんから、音響さん頼みますよ!!!となっていたのでした。

アントワネットの孤独感が表に出る演技が多くなり、愚かさが少し消された感じがしました。
ラストのギロチンの場面でも、ギロチンに歩いて向かうところで、兵士に突き飛ばされても、一回は踏みとどまり、次で転ぶという演出になっていました。これだけで、アントワネットに対する印象がまるで違います。王妃としての誇りを感じることが出来ました。これも、より遠藤先生の原作に描かれたアントワネット像に近づいた感じがして嬉しく思いました。

他にも、いろいろあると思いますが、私が、矛盾していると強く感じていて、今回改善された場面が印象的でしたので、それについて書いてみました。
変な誤解を招くような無駄な台詞はまだまだあるように感じます。「君は気付いた、人を尊ぶことの大切さを」という宣伝文句を多くの観客が感じるには至っていないと思います。もっとアンサンブルが歌いつなぐ歌ははっきり歌詞を伝えて欲しいです。何人もで歌わないでソロで繋げばと思うこともしばしばです。前方の座席での見切れが多い演出や舞台装置も改善されてはいません。
それでも、06年に感じていた舞台への嫌悪感や、喪失感は本当に薄れました。もしかしたら、多くの観客が素晴らしいと感じる舞台に変化していくかもしれない希望の光が見えてきたように思います。

大きな変更があったわけではないと思うのですが、印象が変わった場面もありました。「もしも」や「なんというセレモニー」の後半の暗い部分です。
「なんというセレモニー」は首飾り事件の反響の大きさ、アントワネットへの取り巻き達の心の変化が凄く伝わってきました。
「もしも」は歌う人数が増えたのかと思いますが、アンサンブルのまとまりの賜物でしょうか。鈴木さんや今さんのお声もいいですしね。佐山陽規さんも加わったから?などと思っていますが、前からだったのでしょうか?次の場面がソロなので、参加していないと勝手に決めていたのかもしれません。(一事が万事ですから、結局は、書いている変更点も、私の思い込みが相当あるかと思います。間違いがありましたら、どうぞ、お許し下さい。)どちらにしても、曲はいいけれど取ってつけたような場面だと感じていたのが、心情を伝えている歌に変化したように感じました。

本当に、良くなってきていてよかったです。ほっとしました。
別に関係者でも何でもありませんが、これほどのキャストが揃っていて、あまりにも勿体ない舞台でしたから・・・そして、応援している佐山陽規さん、広田勇二さん、今拓哉さんが活躍する舞台なのですから!!!

しかしですね、この07年帝劇バージョンが初演であって欲しかったです。一回しか観ていない多くの観客に「矛盾した脚本」と言われてしまうなんて、ハンドルを取り付けないクルマを売ったのと同じことです。遠藤周作氏原作の「王妃マリー・アントワネット」という素晴らしい設計図があったのです。矛盾していたら、原作に解決策がいくらでもあったはずです。どうして、制作スタッフが誰も気づかなかったのでしょう?そして、06年初演も2ヶ月やっていたのです。その間に直そうと思えば、直すことが出来た場面や音響はいくらでもあったはずです。なぜ、直さなかったのか?
日本の舞台制作の悪い面を垣間見た気がしました。
次回、こういう大作のオリジナルを創るときは、絶対プレビューをやるべきです。それなら、観客も寛大です。06年初演の舞台程度でもチケットを破り捨てようか!とはなりません(苦笑)。制作側も聞く耳をもっと持ったはずです。

花粉症からも開放されつつあります。
春風に誘われて、銀ブラしがてら、また、帝劇に行ってみようかな。
私の秘かな楽しみは、カーテンコールの並び・・・今さん、佐山さん、広田さん・・・
わかった風にいろいろ言ってみても、結局は、そこへ(「太平洋序曲」の思い出へ)帰りたくなってしまうわーきんぐまざーなのです。
でも、前進あるのみ!!!「マリー・アントワネット」がますます充実した舞台作品となることを楽しみに、帝劇に行きますね。


追伸
9日に脱字の訂正と多少変更をしました。

14日にまた観劇しましたので、この記事への訂正に気づきました。お詫びと訂正を14日の記事に書きました。