わまのミュージカルな毎日

主にミュージカルの観劇記を綴っています。リスクマネージャーとしての提言も少しずつ書いています。

元禄忠臣蔵

2006年11月12日 | 観劇記
06年11月12日昼の部
国立劇場大劇場  3列目センター

国立劇場で10月から3ヶ月かけて通し上演をしている「元禄忠臣蔵」の第2部を観てきました。
「伏見撞木町」「御浜御殿綱豊卿」「南部坂雪の別れ」の全4幕10場。

あらすじは、あまりにも有名なので省略します。
「仮名手本忠臣蔵」の何段目かを歌舞伎座で観ることは多かったのですが、「元禄忠臣蔵」は初めて観たような気がします。
昭和9年に真山青果氏が書き下ろした作品だそうです。
内容は、大きく違わないものと思います。また、映画やドラマでも見ていますので、知識は豊富です。

印象として、歌舞伎というより、ストレート・プレーに近い感じです。見得を切るような演出は少なく、言葉は歌舞伎言葉ですが、独特の節回しは殆どありません。スピード感には欠けるものの、人物の掘り下げ方はその素晴らしい言葉の中にちりばめられ、台詞のあとにたくさんの拍手が起こるという不思議な状況でした。
歌舞伎の独特の所作や台詞回しに違和感のある方も、このような作品から歌舞伎の世界へ入られるとよいのではないかと思います。

「忠臣蔵」は、誰もがその結末を知りながら観ているという世にも不思議なお話です。そして、現在の私達では理解しがたいような、「主君の敵をとる」という美学を主題としています。それなのに、いまだにドラマが新たに作られたり、こうして、上演されたりするのでしょうか?

今回、じっくり一部ではありますが、通しを観て、「主君の敵をとる」という美学に共感は出来なくとも、「自分の理想を追い求める」と置き換えると登場人物の気持ちに共感できるのです。そして、みんな理想を求めているのに、理想を実現できないでいるのです。その苦しみ、悲しみはどの時代にも、どんな人にも通じるものがあるのです。

特にのちに第六代将軍になる徳川綱豊と、赤穂浪士の富森助右衛門のやりとりは迫力がありました。身分を越えて、自分の考えを真っ向からぶつける力強さ、そして、心の底に流れる二人の共通する思い、本当に胸が熱くなりました。

台詞の組み立て方が素晴らしいですね。立場の違う人間が、別の場面で同じ台詞を言うのです。観客には、その2人がもし出会ったら、どんなに分かり合えただろうと感じることが出来ます。想像が膨らみます。
結果はわかっているのに、もっと良い結果があったのではないか、出来ることはなかったのか、などなど考えさせられることが一杯です。
そして、その考えは、多分、作品の中の出来事にとどまらず、現実の私達の身の回りに起きていることにも波及するのです。「理想を実現するために」今出来ることは何だろうかと。
その考えに至るような台詞を聞くと、拍手したくなるのでしょう。

「台詞」に拍手はストレート・プレーでは考えられないことです。タイミングからすると「歌」でも歌の途中、かもしれません。それでも、拍手が起こる。如何に、その台詞が生きた言葉になって観客に届いているかがわかります。もっと言えば、観客が登場人物になって板の上に立っているような錯覚に陥っている、という感じです。


話しは少しかわりますが・・・
先日、「絵画を見るために5年間ヨーロッパに住んだ」という体験談がラジオから流れてきました。よく聞いていなかったのですがひとつだけ印象に残った話しがありました。キャスターが「なぜ5年間と区切ったのですか?」と。「新鮮さ、感受性の豊かさを失いたくなかった。それは5年が限度かと。」

しばらく、この「5年」という文字が頭から離れませんでした。
私は、たくさんの舞台を観るようになって6年。感受性が失われても不思議はないのだと思い始めたのです。確かに、その兆候はあります。以前から、この感受性の欠如は私の最も恐れるところだったのです。このままではいけない。なにがいけないのか私以外の人にはわからないかもしれませんが、何かに取り付かれたように、自分で自分が許せなくなっていました。

しかし、今日、「忠臣蔵」を観て、本当に心からいろいろなことを感じることが出来ました。
やはり、伝統に裏打ちされた芸のそろった舞台は、どんな斬新で奇抜な舞台よりも、私の心に新鮮に届くのです。
また、気持ちを新たに、観劇を続けて行きたいと思います!

恩師

2006年11月11日 | 雑記
今日は恩師と3年ぶりにお目にかかりました。
仕事のこともあって、時々電話では話をしていたのですが、よく考えるとお目にかかるのは何と3年ぶり。なんと不忠なことでしょう。まあ、お互い忙しいことはよいことだという私の勝手な甘えでいつもお許し頂いています。

私は、自分の人生を大きく変えた3人の方に出会ってきました。勿論、お三方とも私の人生を良い方向へと導いて下さった方たちです。

そのお一人が、この恩師です。

私は、机に向かっているなら、ランニングしていたい、という勉強嫌いの体育会系の人間です。が、人生は皮肉なもので大学を卒業してもなお学問に励む道を私に勧める人達がいました。
仕方なしに、わが母校の大学院に進もうと希望を出したのですが、成績が悪く推薦をとれませんでした。その上、大学時代の指導教授は東京大学への栄転が決まり、私を指導することは、私が東大の大学院に行かない限り無理、という状況にありました。まだまだ、大学院での研究が、まるで徒弟制度のような教授と大学院生の関係にあるころでしたから、勉強が出来るだけではなく、指導教授に指導の意思がなければ大学院への進学は不可能だったのです。母校の私の専門の教授は研究者を何人もかかえていて、これ以上の指導は無理とのことでした。
私は、仕方なく他大学の大学院にチャレンジしました。その頃は、多くの大学院で秋と春に試験がありました。私も、秋にいくつか受けましたが、玉砕。
やはり、人生甘くないと思い知ったのでした。

しかし、ある日、「○○大学の××と言いますが・・・」と受験した大学院の教授から電話があったのです。
自慢になりますが・・・「君の書いた答案(専攻科目)は素晴らしい出来だった。英語もよかったので、○○(専攻以外の科目)をもう少しがんばって春にもう一度挑戦してみなさい。」とのことだったのです。(当時の大学院の試験は、英語は長文の和訳、他の科目は「何々について述べよ。」というひたすら時間のある限り文章を書きまくる、という試験でした。)
諦めかけていた大学院への挑戦へ、また、がんばることになりました。
そして、その後、この恩師のとなる教授のもと、研究は勿論のこと、人間の生き方やお付き合いの仕方をいろいろと指導して頂きました。
といっても、ただ、飲んでいただけなのですが(笑)。
しかし、今思うと、そこで、人の輪が広がり、たくさんの社会勉強をしたのです。

大学院でお世話になっただけなのに、大学に在学すれば同期であった仲間にも温かく迎えられ、後輩とも楽しいゼミ合宿やなぜかスキー合宿にも行きました。

恩師ももう82歳。まだまだお元気です。でも、お歳はお歳です。
私は、恩師から受けた恩をご本人にお返しすることは不可能だと思います。ですから、その恩を私が次の世代に与えていかなければと思い始めています。

先生、今度は院生仲間で飲み会企画しますからね。楽しみにしていて下さ~~~い。

・・・今もって不思議なのは・・・
大学のゼミ試験は先輩が「飲めるか?」と質問するそうです。でも大学院の試験ではそんなことは聞かれませんでした。私の顔に、「少々嗜みます」って書いてあったのかな。いつか聞いてみたいです(笑)。

伝えること、そして、伝わること

2006年11月07日 | 雑記
この文章を書こうと思ったのは、11月1日に世界初演と銘打って帝国劇場で開幕した「マリー・アントワネット」の舞台を初日に観劇し、劇場での観客の反応に触れ、その後のネット上での反応に触れ、考えさせられることがたくさんあったからです。
私も初日の観劇記で、奥歯に物の挟まったような意見を書いてしまいました。が、私が読ませて頂いたネット上の感想は、ほぼ似たような感想でした。
この俳優さんのファンなら絶賛だろう・・・と訪問した掲示板やブログでも殆どが批判的な意見で占められていました。
ショックでした。

私は本体のHPを作るきっかけとなった「太平洋序曲」に出会い、ミュージカルの楽しさは勿論、世の中に舞台を送り出すまでの制作側の大変さも感じました。その後、この作品に携わられたキャスト・スタッフの方々の活躍を応援し続ける中で、喜びも多かったのですが、それ以上に悔しさも多かったように思います。「観客をバカにしているの?」と思う低俗な作品やキャストの実力と役柄が全くあっていない作品、などなどいろいろな作品に出会ってきました。しかし、どの作品もたくさんの人が、たくさんの時間をかけ、大切に生み出していることも痛いほどわかっているのです。それでもなお文句をつけるのは、舞台芸術が、中でもミュージカルがこの日本で多くの人から愛されることを強く強く願い続けているからです。
この後、相当厳しい意見を書き綴ると思いますが、「ミュージカルを愛しているか?」という質問に、胸を張って「愛している」と応える私わーきんぐまざーが書いていることをどうぞ忘れずに、お読み頂けますよう、お願い申し上げます。

東宝ミュージカル「マリー・アントワネット」(以下「MA」)は、その規模、そして制作の経緯から言って、日本から世界に発信するミュージカルであるということに私は異論はありません。ですから、産むまでにいろいろな国の方たちの助けがあったとしても、育てるのは日本の観客だと思っています。
たくさんの舞台を観ている皆様はお分かりのことと思いますが、舞台は毎日変化します。また、変化ではなく大きな変更もされていくのです。それは、観客の反応を見て、演出家も考えるでしょうし、役者もいろいろ意見を出していくのだと思います。
まして、再演ともなれば、脚本の書き換えもあります。
「太平洋序曲」の時にも、あまりにも多くの女性から批判があった場面を再演では大きく変更しています。観客が舞台を育てた結果だと私は思っています。

と、ここまで書いて、私も「MA」は「これが初日です」と言うには、あまりにもお粗末だったという気持ちであることが、はっきりしてきました。
東宝は今流行の「サプライズ」を狙ったのだと思いますが、それでよかったのでしょうか?やはりこれだけの大作であれば少なくとも一週間はプレビュー公演をし、少し休みを取って修正をして、本当の開幕とするべきだったのではないかと思います。
しかし、もう幕は開いてしまいました。幕を開けたまま、変更を繰り返すしかないと思います。それでは、あまりにもキャストの皆様に負担がかかりすぎるので、難しいかもしれません。

と、偉そうに書いていますが、さらに偉そうに言います。
「MA」は修正が可能だと思います。
私が絶対修正不可能だと思うミュージカルの舞台は、音楽がひどい、プリンシパルのミス・キャストがはなはだしい、話しの展開に無理がある、です。

「MA」の音楽は結構心に残っていて、ふっとしたときにメロディが浮かんできます。リプライズされていく内に、心にしっくりと来る曲が多いのは、素晴らしいと思いました。
「MA」にはキャスティングは素晴らしいと思います。悲しいことに、今まで観劇したミュージカルの殆どは、プリンシパルに歌えない方が混じっていて、感動しきれないことが多かったのです。しかし、「MA」はその点は何の問題もありませんでした。
そして、逆説のようになりますが、キャスティングの素晴らしさが仇にもなっています。つまり、私も含め、多くの初日やその後数日中の観客は、「このキャストが出演するから」という観客が多いので、ついつい自分の注目するキャストを注視し、全体を見切れないのだと思います。これは、初日観劇の私の大きな反省点です。が、とにかくキャストは素晴らしいのです。ただ、カリオストロ、ボーマルシェ、オルレアン公は一つにまとめた方がよかったのではと感じました。「エリザ」のルッキニーや「太平洋序曲」のナレーターも時々場面の一役を演じていって狂言回しを成功させているのです。登場人物を分けるよりまとめる、これが舞台成功の一歩という話しをアメリカでドラマターグ(新作のミュージカルを作るにあたって、脚本家に客観的なアドバイスをするポジションの人)の方に聞いたことがありますが、それを実感しました。
話しの大筋は史実ですから、アントワネットとフェルセンのハッピー・エンドなどという思いもよらない方向には行きません。その点は歴史物のよい点だと思います。
問題は、どう伝えるかです。

「どう伝えるか」。
壮大な議論を尽くしても、結論が出ないような気がするのですが、今まで言いたくても言えなかったことを思い切って言ってみます。
勿論、「好み」と言ってしまえば、それまでことなのですが、敢えて悪足掻きをしてみます。
今回演出の栗山民也さんがこの作品を通して伝えたいことは「「自由とは何か」、そして、「人は何故争うのか」、この2つの普遍的な問いかけに対する答え」だったと思うのです。まあ、答えは難しいと思うので、少なくとも問いかけを認識させることと、考えていらっしゃると思います。
私もこの作品の原作やこの時代の歴史上の出来事に触れて、この「MA」という舞台の成功は栗山さんが考えていらっしゃることが伝われば間違いないと思っていました。
しかし、伝えるためのエピソードの取り上げ方が、私が重要だと思うことと大きくずれていると感じています。と言ってしまうと脚本にもかかわるので言い過ぎかもしれませんので、強弱の付け方、と思って頂いてもいいかもしれません。
今回と同じように原作があってミュージカル化した(音楽の付いている劇という位置づけかもしれませんが)「クリスマス・ボックス」のときにも私は、栗山さんとはものの見方が全然違うのだ、と思いました。
その後、何作か栗山さんが関係した作品を観ていますが、その思いはよりはっきりしていくばかりでした。
でも、「MA」は原作のレベルが他の作品とは違うから、きっと素晴らしい作品になると信じていました。
栗山さんは、新国立劇場で宮本亜門さんに実験的な演出での「太平洋序曲」上演を許可して下さった方です。ミュージカル公演も初めてのことでした。そのことからしても、栗山さんはミュージカルを大切にして下さっていると感じていました。ですから、作品そのものの内容が素晴らしければ、魅力的な舞台演出で私を楽しませて下さると期待していました。
その期待は本当に残念ながら裏切られました。
確かに「好み」と言ってしまえばそれまでです。
金輪際、栗山さんの関係した作品を観ないという選択肢が私にはあります。何しろ、ただの一観客ですから。
でも、この「MA」はそういう思いで見捨てることは私にはできません。なぜなら、日本のミュージカルの将来がかかっている作品なのですから。
ですから、私は、どんな謗りを受けることも覚悟で、敢えてこのブログという公開の場で、意見を書いています。また、公開であれば、私がこの作品の関係者に悪意を持っていたり、また、特別な思いを持っているから書いた意見ではないことをお分かり頂けると思うからです。

これから書くことは、もし、プレビュー公演があって、それを観たあと制作側からコメントを求められたら、私はこう答えただろう、という内容と考えて頂ければいいと思います。ですので、公演間近で変更できそうな事柄に絞っています。
そして、再度申し上げますが、私は栗山さんが製作発表で話されていることやプログラムに書かれていることを全面的に支持しています。心地よいだけの舞台や面白い舞台である必要はないと思います。しかし、一度観て作り手の意図が伝わる、理解できるか、同調するかは別の問題ですが、少なくとも伝わる舞台である必要があると考えて、この文章を書いています。

まず、すぐにでも変更して欲しいのは、カーテンコールです。
アントワネットを寝転がしたままにし、その後涼風さんとして立ち上がらせるのは、絶対にやめていただきたいです。エンディングの後、暗転し、キャストを全員下げるべきです。そして、カーテンコールはカーテンコールとしてやって欲しいです。
勿論、アントワネットは一番豪華な衣装でカーテンコールに登場すべきです。
以前、島田歌穂さん主演の「葉っぱのフレディ」を観劇したとき、最初のシーズンは今回のアントワネットと同じく、役として死んでしまったまま、カーテンコールで起こされるパターンでした。舞台は素晴らしかったのに、何とも心の整理がつかないまま劇場をあとにしました。次のシーズンでは、エンディングのあと一旦暗転し、キャストが順番に出てくるカーテンコールでした。本当に印象が違うのです。ほんの数分のことですが、観客はその間にいろいろ考えているのです。作品のこと、キャストのこと、自分自身のことを。その数分が観客にとって作品と対話する上でいかに貴重な時間であるかは、ただの一観客でなければわからないことかもしれません。
今の時代に生きる私達はアントワネットを「悲劇のヒロイン」として捉えつつも、何か「夢」のような憧れもいだいていると思います。私達が生きる現実はとても厳しいのです。そしてさらに「MA」という作品の重いテーマを舞台の進行とともに考えてきた観客に、美しいものを見せて、夢を感じさせ、明日への希望を持たせるのも演出家の大切な役目のはずです。
そしてその美しさや豪華さの中に、虚しさや寂しさを感じるのが日本人であると私は思います。より、栗山さんの伝えたいことが、心に残ると思います。

衣装に関連して、すぐに直していただきたいし、実現可能ではないかと思えるのが、マルグリットのアントワネットを世話するようになってからの衣装です。
プログラムのクンツェさんとリーヴァイさんの挨拶文の中に、アントワネットとマルグリッドを二つの星になぞらえて、前者は徐々に沈んでいき、後者は昇っていく、そして「いつかは二つの星が同じ高さに並ぶ。その時、2人は互いに学び合うのだ。」とあります。ですから、マルグリッドの衣装や髪型をもう少し小奇麗なもの、特に色を明るいものにすれば、高さが同じで、学び合うということが明確になると思います。舞台は、台詞(歌詞)も大切ですが、視覚的な情報量の方が勝ることも明白な事実だと思いますので、是非、検討して頂きたいと思います。

以上の点は、数日で変更可能かもしれませんが、これ以降はとても難しいと思います。脚本自体に変更を加えなければならないからです。でも、本当はとても重要なことだと思っていますので、書いておきます。

キャストの皆様のがんばりだけでは、つまり演じ方によってのみでは、どうにもならない不明確さがこの作品にはあるのです。

最後の盛り上がるはずの「自由」と言う曲の歌詞がプログラムにあるのですが、文字で読んでも難しいです。先日の初日のコメントでカリオストロの歌詞が聞き取れないといいましたが、聞き取れないのではなく、こんな日本語聞いてわかるわけがないと思いました。「夢の中 たゆたえ」が極め付けですが、その前後も日本語として何を意味しているのかわかりません。カリオストロの歌詞だけではなく、この歌詞で最後を締めくくるのは無理なのではないでしょうか?ポーマルシェの「逃げろ」やマルグリッドの「愛が生む」という歌詞は作品のどの部分を受けているのか、さっぱりわかりません。そもそも「自由」という言葉は歌の中に入るととても聞き取り難い音だと思います。「じゆう」ではなく「じゆうを」にすると聞きやすいですね。他の単語のみの部分も助詞をつけるとぐっと聞きやすくなるはずです。が、旋律に乗るかどうかまでは一度しか聞いていないのでわかりません。
ある程度は、歌い手(アンサンブルも含め)の成長も待たなければならないのかもしれません。プレビューがないことの難しさを実感します。
何はともあれ、訳詞をもう一度見直して欲しいと思います。

さらに、私が耳を疑ったのはマルグリッドの台詞です。自分が扇動しても動かない女達がオルレアン公のお金に飛びついて、ヴェルサイユへの行進をするときに、「お金をもらってはいけない。」というような台詞と、その行進の結果対峙した国王一家に襲い掛かろうとした群集に「より良い世界を目指すなら、殺すなんていけない」という台詞です。事前の報道からするとマルグリッドは革命の遂行者として、革命の正義、つまり暴力を認める人間として描かれているのではないかと思っていたからです。この二つの台詞は、アニエスが言うべき台詞なのではないでしょうか?
百歩譲って、マルグリットはアニエスの教えを身につけていたことにしましょう。しかし、国王一家を目の前にして「より良い世界を目指すなら、殺すなんていけない」と言ったことのある人間を過激な革命の推進者の集まりであるジャコバン党の同意で、アントワネットの世話役、つまり監視役に付かせると思いますか?矛盾しています。マルグリットのキャラクターがこのままでは作品自体が破綻してしまうと思えるのです。
革命、特にこのフランス革命では殺戮が繰り返されました。むごいとしか言いようのない毎日が続いたそうです。それを率先したのがマルグリッドだったのに、アントワネットの世話をするうちに、同じ人間同士殺しあうのはおかしいと考えるようになった、という展開ではないのでしょうか?
革命の正義なのですから、マルグリッドは決して悪役として描かれているわけではないのです。しかし、人を殺すことも正義であると主張する役を、若い新妻さんや笹本さんに演じさせるのに、何か不都合があったのかと邪推してしまうほど、マルグリッドがお人よしに描かれているのです。
ちなみに、原作ではマルグリットは考えが変わるわけでもなく、アントワネットが亡くなったとき、「すべてが終わった」と感じた、となっているだけです。ですので、私は原作にこだわっているわけではなく、今までの制作側の説明から、先程のマルグリット像を描いていたわけです。しかし、あまりにもかけ離れたマルグリッドが舞台に現れたので、それでは、勝ち取った自由の虚しさが観客に伝わるはずがないと驚いたのです。

そして、この舞台はとても断片的な事柄が、織り込まれています。その一つ一つだけで別の作品を作ることが出来そうなほどです。そこを繋いだり、ぶつけ合ったりするのが狂言回しの役目だと考えています。
私の大好きな「太平洋序曲」もこの断片的の事柄の羅列でした。が、国本武春さんの素晴らしい狂言回し(勿論脚本が素晴らしいのですが)、平易に言えば、場面の説明や登場人物の解説で、その断片が繋がって行ったのです。
しかし、「MA」では2人も狂言回しがいるのに、肝心の時に何も説明がないのです。
アントワネットが軽薄な女から、王妃の威厳をもった女性になったのはなぜか?
ルイ16世の最期はどんな風だったのか?
舞台を観るときに、想像力を研ぎ澄ませることは必要です。しかし、上の二点は観客が制作者の意図を知るためには、必要な点だと思います。ほんの一言、印象的な台詞が欲しいのです。

ルイ・ジョゼフの死の扱い方を変えるべきです。なぜ国王夫妻が見守る中で亡くなったとしないのでしょう。国王や王妃である前に一人の人間としての悲しみがあることを前面に出した方が、その直後のロベスピエールの冷酷な言葉が引き立つと思います。自由を求めながら、他人の心の自由を踏みにじる革命の愚かしさを観客は強く感じると思います。そしてさらにロベスピエールが国王夫妻の監視役に送り込むマルグリットのキャラクターも明確化すると思えるのですが。

このあたりまでは、もしかしたら全体を修正するのではなく、キャストの台詞のいくつかと動きの変更で、制作側が考えている作品の意図「「自由とは何か」、そして、「人は何故争うのか」。この2つの普遍的な問いかけ(への答え)」を観客にもう少し的確に伝えることができるようになると思います。
しかしながら、マルグリットのキャラクターについては、日本側が何らかの理由で変更したのではなく、クンツェさんの脚本に大元があると考えると、変更は殆ど不可能だと思えるのです。そうなると、この作品はやはり魅力的とは言えない、と私の中では決めるしかないと感じるのですが・・・

以上が、もし、プレビュー公演があって、私がそれを観たあと制作側からコメントを求められたら、こう答えただろう、という内容です。


ここまで書いたので、ついでに、書きます。
「伝えるためのエピソードの取り上げ方が、私が重要だと思うことと大きくずれていると感じています。」と書きましたので、これについて触れたいと思います。
一番は「首飾り事件」の取り上げ方です。この事件はとても複雑で、この舞台での説明で初めてこの事件を知る人には理解できるはずがありません。事件の内容はどうでもいいのです。だれが無罪になろうと、有罪になろうと、歴史の歯車の中では何の影響もありませんでした。この事件が起こったのは、アントワネットが宝石好き、つまり浪費家であったことに端を発しているのです。貴族も民衆も、事件の事実なんてよくわからないわけですから、アントワネットはやはり浪費家だった、というその事実だけが一人歩きし、アントワネットこそが民衆を苦しめているという風評が広がったのです。
現代の事件も同じようなものです。ライブドア事件や村上ファンド事件は相当な専門知識がなければ、彼らの行動の何が問題で、何が犯罪の対象となるのかなど理解できないのです。が、一般の人は堀江さんや村上さんは悪いことをした、という印象だけは持っているのです。
観客にとっても、事実はどうでもいいのです。この事件によってアントワネットの人気は落ち、憎まれる対象になった、それこそが重要なのです。
だから、「首飾り事件」をこの舞台のように取り上げる必要はないと思います。
その時間があったら、如何にこの時代が狂気に満ちていたかを描いたほうがよかったと思います。この舞台ではギロチンにかけられる現場を観客が目撃するのはアントワネットだけですが、毎日毎日十数名の人がギロチンに掛けられていたのです。それも些細な罪で。
ギロチンというものがなければ、ここまでの処刑者は出なかったのではないかと思ってしまいます。命の重さを忘れて殺すことができる方法を生み出した時代背景に思いを馳せなければならないと思います。
それは、現代の核拡散問題やマンガ・映画・アニメで話題沸騰の「デス・ノート(Death Note)」にも共通する背景があるのです。
私達が直面している問題の解決方法が歴史の中にあるのかもしれないという思いをかき立てる場面こそを作るべきではなかったでしょうか?

演じる側も観る側もだいたい3時間ぐらいが体力の限界だと思います。ですから、舞台はそのぐらいに縮める作業がどうしても必要になってきます。泣く泣く削った場面がきっとあると思います。しかし、時間を延ばさず場面を盛り込む方法はあります。
それは、舞台を分割して使う方法です。そして、帝劇のように広ければそれはとても効果的なはずです。そして、この作品のように対立するものがたくさんある場合、それはますます舞台の印象を強くするはずです。
アントワネットがドレスに靴そして宝石を買っているときに、ルイ16世が鍛冶工房にいる様子を出してもいいでしょう。あるいは、マルグリット達娼婦が仕事をしている場面でもいいではないですか。
国王一家が幽閉されつつも家族として団欒する幸せを感じているときに、国民議会(三部会が閉鎖され国民議会へと変質していく)が国王夫妻の今後を議論している場面を描くことが出来ます。
対立する場面をうまく使えば、本編は歌や芝居をして、片方は視覚だけでもいいわけです。そして、ミュージカルなのですから、歌での掛け合いをすれば、もっともっといい場面になるはずです。
また、せっかく二重盆を作っているのですから、外の盆と内の盆に対立する関係の人たちを乗せて動かす方法だってあるのではないでしょうか?

栗山さんは、ひとつひとつの場面を大切に描くという演出がお好きで、それはそれで味のある舞台になると思います。しかし、その手法は歴史劇のような作品ではなく、日常の生活を扱う作品に合っているのだと私は思います。

栗山さんの普段の言動を私はとても支持しています。それなのに、いざ舞台を通してその考え方に触れると、何を伝えたいのかまるでわからない状態に陥ってしまうのです。とてもとてもとっても不思議です。やはり、好みの問題なのでしょう。

本当に、いろいろなことを書いてしまいました。
作り出す苦労も知らない、一観客として、お気楽な意見と言われても当然だと思います。ちょっと舞台をたくさん観ているからといって傲慢な意見だと思われる方もいらっしゃるでしょう。
しかし、舞台は観客があってこそ、です。
そして、観客は舞台を育てなければならないはずです。

長々と書き綴りましたが、この文章を書くに当たって、掲示板の書き込みを含むたくさんのHP、ブログを拝見し、参考にさせて頂きました。その数があまりに膨大でお一人お一人にご報告することが出来ません。恐縮ではございますが、ここでお礼を述べさせていただき、ご報告とさせていただきます。ありがとうございました。

心に響くメロディ、斬新な舞台装置、美しい衣装の数々、そして、そして、実力と魅力溢れるキャストの皆様。これらがそろっているのです!制作側がたくさんの意見を聞き、少しでもよい方向へ修正して下さるなら、かならずやミュージカル「マリー・アントワネット」は日本から世界へ大きく羽ばたくと確信しています。

本当に長々とお付き合い頂き、ありがとうございました。

マリー・アントワネット

2006年11月01日 | 観劇記
初日!観劇してきました。
感想を書くつもりなのですが、少々酔っ払っていまして・・・と自覚しているので多分酔いはさめつつあるのですが、どう考えても二人で飲むお酒の量ではなかったような・・・反省しています。でも、そのおかげで各分野の演劇話に花が咲きました。

気を引き締めて本題の「マリー・アントワネット」についてです。
初日を帝国劇場で観て来ました。下手の結構後ろだったのですが、(コンタクトレンズをしてですが)私の視力がこんなによいとはびっくりしました。それほど、自分が注目しているキャストの皆様の演技が素晴らしかったと言うことだと思います。

が、作品として、舞台として、どうであったか・・・
私は、たとえ多くの人が素晴らしいと言っても、自分の中でだめとなればだめなのです。そして逆もあります。
しかし、この「マリー・アントワネット」は自分の中で決められないのです。勿論、初日であることを考慮しても、です。
もしかしたら、二度観たらすごくしっくりするかもしれないと思う場面がたくさんあるのです。それは、その場面が後の場面の前振りになっているからで、そういうところがとても多いのです。また、ある程度、遠藤周作さんの原作や「ベルばら」、そしてあの時代の歴史を知っていればより楽しめるのではないかという気もするのです。
初日は、キャストも観客も探りあいのようなところがありますので、これからを楽しみにしたいと思います。

ただ、残念と言えばショー・ストップするようなナンバーが主役にないという点でしょうか。

あらすじは、史実ですので書きません。遠藤氏の原作にも添っています。
そこでキャストへの感想を少しずつ。役名については、東宝のHPなどをご覧下さい。感想に混じって、舞台の内容にも踏み込みますので、知りたくない方はここで読み終わりとして下さい。

涼風さん。
一幕のわがままさに、ちょっと引きましたが、二幕は本当に素晴らしかったです。タイトル・ロールとはこういう演技を言うのだと思いました。歌も、いつもと変わらず安定していました。初日でここまで落ち着いて歌えるのであれば、今後はますます期待してしまいます。

石川さん。
ルイ16世をこういう風に演じられるのは、石川さんしかいないと思いました。とても情けないのですが、やはり王であることを漂わせる素晴らしい演技でした。
先程、ショー・ストップの曲がないといいましたが、「もしも鍛冶屋なら」は素晴らしいナンバーでした。私は絶対王制の王も時代の被害者であると思っています。その思いが共感できるナンバーでした。

井上さん。
実は、子供の頃からへそ曲がりだったので、私は「ベルばら」の中でフェルセンがとても好きでした。まあ、当初は彼の存在の本当の意味はわからなかったのですが、カッコよかったのです。優柔不断でもありますが、一人の人間、男であるとか女であるとかに関係なく、ここまで愛せるのかというその設定に心惹かれていたのだと思います。
そして、この舞台のフェルセンもまさに私が惹かれる愛を貫きます。井上さんは、その愛を歌い上げ、演技でマリー・アントワネットを包み込んでいました。素晴らしいフェルセンであったと思います。フェルセンの歌うナンバーはどれもステキです。

山路さん、山口さん。
と併記したわけですが、歌はそれなりでした。が、最後の肝心の場面で、山口さんの歌詞が聞き取れず、ものすごく残念でした。キー・ワードを歌っていると思いますので。
2人必要だったのか。どちらかに絞った方が、舞台としてはしまったと私は思いました。

新妻さん。
涼風さんと逆で、一幕はとてもいいです。が、二幕はどうでしょうか。心の動きが表現しきれていないと思いました。緊張していたのかと思いますが、マルグリットが一つの面しか見ていないときに思ったこと、そして視野が広がったときに感じたことが違うのだということをもう少し明確にして欲しいですね。歌は安定していますが、まだまだ感情を、マルグリットという人間の成長を入れ込みながら歌うには至っていないと感じました。

土居さん。
いつも、どの舞台も素晴らしい歌と演技で私を魅了して下さる方です。とても安心して舞台を拝見できる女優であると思っています。しかし、今日はさすがの土居さんも緊張のご様子。新妻さんの緊張が伝染したのではという感じでした。もっともっと歌に感情を入れることの出来る方ですので、今後に期待したいです。

春風さん、林さん、tekkanさん。
見せ所はあります。が、ちょっと勿体無い感じです。感情を乗せるとか、そういう場面はありません。
林さんはロアン大司教も演じられるのですが、この役柄が関連する「首飾り事件」の取り上げ方は難しいです。遠藤氏の原作には相当の分量がこの事件に割かれています。ここを割愛するのはヨーロッパではとても重大な事件だったので、説明なしでも「首飾り事件」の一言ですむからではないかと思いました。そして、この事件の後ロアン大司教が無罪を勝ち取ることにものすごい意味があるのですが、舞台だけではなかなか理解しがたい部分だと思うのです。まあ、この話しだけで映画も出来るぐらいですから、本当に難しいのです。

こんな感じでしょうか?
やはり内容に結構踏み込んでしまいました。

これで、終わりではありませんよ。やはり、「太平洋序曲」のメンバーは私にとって特別な思いがあります。製作発表参加にチャレンジしたのも、佐山さんや広田さんのご活躍を楽しみにしていたからです。

広田さん。
べメールという宝石商では、あまり歌はありませんが存在感はあります。その前に、オルレアン公の舞踏会での台詞も広田さんだったと思います。
話しをもどしてべメールですが、首飾り事件の中心人物なのですから、事件が発覚したときにもう一押しあってもよいのではと思いました。事実はどうであれ、あの事件でアントワネットは地獄へおちていくのですから。
最後の方で、エベールという新聞記者を演じられます。アントワネットがある卑劣な行為をしたと糾弾し、彼女を断頭台へと送るのです。革命派にとってはすごいいい情報ですが、あまりにむごい内容です。広田さんの口からは聞きたくなかったかも・・・。まあ、役の上のことですから、仕方ないのです。こちらは、迫力満点でした。本当に狂気を感じさせて下さいます。

佐山さん。
本当に久しぶりの帝劇へのご登場です。ギヨタン博士を演じることはわかっていました。が、最初にこの帝劇で響いた歌声は違いました。貧しい民衆の一人として「もう無くすものはない」でした。7、8人で歌われる歌ですが、「あっ、佐山さんの声」とすぐにわかりました。やはり佐山さんのお声が入ってくると、歌に厚みが増します。実は、お姿より、声に先に反応したので、ファンとしてはちょっと失格かも・・・。でも、暗い場面でしたから、仕方なかったことにしておきたいと思います。その後も、この杖をついた老人として演じる場面が続きます。相変わらず、きめ細かい演技で、暗い中でもひきつけられていました。
そして、ギヨタン博士。MA公式ブログのインタビューで、「ちょっと変わった場面」とおっしゃっていたので、楽しみというか、ちょっと怖いというか、待ちきれない思いでした。
そして、ついにその場面がやってきました。
確かに、変わっています!!!ルイ16世の石川さんとギヨタン博士の佐山さんのとてもとても不思議な世界です。
この場面は、あとあとのギロチンやルイ16世の歌の伏線となっていくのです。ですから、リピートすると何だかとても心に残る場面になっていくのではないかと感じました。が、一度しか観劇しない観客のためには、この場面は、ラパン夫人の刑の後に入れ込んだ方が印象的だと思ったのです。そうした方が鞭打ちより(この時代はもっと残酷な刑がありました)ギロチンが人道的であるという、狂気がさらに伝わったのではないでしょうか。
佐山さんは最後に、アントワネットの裁判の場面で裁判官の声を担当なさいます。素晴らしい歌声です。劇場の後ろの方から聞こえてきますので、臨場感溢れます。

少し書くつもりが、書き出したらこんなに書き綴ってしまいました。
ということは、いろいろ感じることがある舞台だったということなのです。また、少し時間を空けて、観劇する予定です。