06年11月12日昼の部
国立劇場大劇場 3列目センター
国立劇場で10月から3ヶ月かけて通し上演をしている「元禄忠臣蔵」の第2部を観てきました。
「伏見撞木町」「御浜御殿綱豊卿」「南部坂雪の別れ」の全4幕10場。
あらすじは、あまりにも有名なので省略します。
「仮名手本忠臣蔵」の何段目かを歌舞伎座で観ることは多かったのですが、「元禄忠臣蔵」は初めて観たような気がします。
昭和9年に真山青果氏が書き下ろした作品だそうです。
内容は、大きく違わないものと思います。また、映画やドラマでも見ていますので、知識は豊富です。
印象として、歌舞伎というより、ストレート・プレーに近い感じです。見得を切るような演出は少なく、言葉は歌舞伎言葉ですが、独特の節回しは殆どありません。スピード感には欠けるものの、人物の掘り下げ方はその素晴らしい言葉の中にちりばめられ、台詞のあとにたくさんの拍手が起こるという不思議な状況でした。
歌舞伎の独特の所作や台詞回しに違和感のある方も、このような作品から歌舞伎の世界へ入られるとよいのではないかと思います。
「忠臣蔵」は、誰もがその結末を知りながら観ているという世にも不思議なお話です。そして、現在の私達では理解しがたいような、「主君の敵をとる」という美学を主題としています。それなのに、いまだにドラマが新たに作られたり、こうして、上演されたりするのでしょうか?
今回、じっくり一部ではありますが、通しを観て、「主君の敵をとる」という美学に共感は出来なくとも、「自分の理想を追い求める」と置き換えると登場人物の気持ちに共感できるのです。そして、みんな理想を求めているのに、理想を実現できないでいるのです。その苦しみ、悲しみはどの時代にも、どんな人にも通じるものがあるのです。
特にのちに第六代将軍になる徳川綱豊と、赤穂浪士の富森助右衛門のやりとりは迫力がありました。身分を越えて、自分の考えを真っ向からぶつける力強さ、そして、心の底に流れる二人の共通する思い、本当に胸が熱くなりました。
台詞の組み立て方が素晴らしいですね。立場の違う人間が、別の場面で同じ台詞を言うのです。観客には、その2人がもし出会ったら、どんなに分かり合えただろうと感じることが出来ます。想像が膨らみます。
結果はわかっているのに、もっと良い結果があったのではないか、出来ることはなかったのか、などなど考えさせられることが一杯です。
そして、その考えは、多分、作品の中の出来事にとどまらず、現実の私達の身の回りに起きていることにも波及するのです。「理想を実現するために」今出来ることは何だろうかと。
その考えに至るような台詞を聞くと、拍手したくなるのでしょう。
「台詞」に拍手はストレート・プレーでは考えられないことです。タイミングからすると「歌」でも歌の途中、かもしれません。それでも、拍手が起こる。如何に、その台詞が生きた言葉になって観客に届いているかがわかります。もっと言えば、観客が登場人物になって板の上に立っているような錯覚に陥っている、という感じです。
話しは少しかわりますが・・・
先日、「絵画を見るために5年間ヨーロッパに住んだ」という体験談がラジオから流れてきました。よく聞いていなかったのですがひとつだけ印象に残った話しがありました。キャスターが「なぜ5年間と区切ったのですか?」と。「新鮮さ、感受性の豊かさを失いたくなかった。それは5年が限度かと。」
しばらく、この「5年」という文字が頭から離れませんでした。
私は、たくさんの舞台を観るようになって6年。感受性が失われても不思議はないのだと思い始めたのです。確かに、その兆候はあります。以前から、この感受性の欠如は私の最も恐れるところだったのです。このままではいけない。なにがいけないのか私以外の人にはわからないかもしれませんが、何かに取り付かれたように、自分で自分が許せなくなっていました。
しかし、今日、「忠臣蔵」を観て、本当に心からいろいろなことを感じることが出来ました。
やはり、伝統に裏打ちされた芸のそろった舞台は、どんな斬新で奇抜な舞台よりも、私の心に新鮮に届くのです。
また、気持ちを新たに、観劇を続けて行きたいと思います!
国立劇場大劇場 3列目センター
国立劇場で10月から3ヶ月かけて通し上演をしている「元禄忠臣蔵」の第2部を観てきました。
「伏見撞木町」「御浜御殿綱豊卿」「南部坂雪の別れ」の全4幕10場。
あらすじは、あまりにも有名なので省略します。
「仮名手本忠臣蔵」の何段目かを歌舞伎座で観ることは多かったのですが、「元禄忠臣蔵」は初めて観たような気がします。
昭和9年に真山青果氏が書き下ろした作品だそうです。
内容は、大きく違わないものと思います。また、映画やドラマでも見ていますので、知識は豊富です。
印象として、歌舞伎というより、ストレート・プレーに近い感じです。見得を切るような演出は少なく、言葉は歌舞伎言葉ですが、独特の節回しは殆どありません。スピード感には欠けるものの、人物の掘り下げ方はその素晴らしい言葉の中にちりばめられ、台詞のあとにたくさんの拍手が起こるという不思議な状況でした。
歌舞伎の独特の所作や台詞回しに違和感のある方も、このような作品から歌舞伎の世界へ入られるとよいのではないかと思います。
「忠臣蔵」は、誰もがその結末を知りながら観ているという世にも不思議なお話です。そして、現在の私達では理解しがたいような、「主君の敵をとる」という美学を主題としています。それなのに、いまだにドラマが新たに作られたり、こうして、上演されたりするのでしょうか?
今回、じっくり一部ではありますが、通しを観て、「主君の敵をとる」という美学に共感は出来なくとも、「自分の理想を追い求める」と置き換えると登場人物の気持ちに共感できるのです。そして、みんな理想を求めているのに、理想を実現できないでいるのです。その苦しみ、悲しみはどの時代にも、どんな人にも通じるものがあるのです。
特にのちに第六代将軍になる徳川綱豊と、赤穂浪士の富森助右衛門のやりとりは迫力がありました。身分を越えて、自分の考えを真っ向からぶつける力強さ、そして、心の底に流れる二人の共通する思い、本当に胸が熱くなりました。
台詞の組み立て方が素晴らしいですね。立場の違う人間が、別の場面で同じ台詞を言うのです。観客には、その2人がもし出会ったら、どんなに分かり合えただろうと感じることが出来ます。想像が膨らみます。
結果はわかっているのに、もっと良い結果があったのではないか、出来ることはなかったのか、などなど考えさせられることが一杯です。
そして、その考えは、多分、作品の中の出来事にとどまらず、現実の私達の身の回りに起きていることにも波及するのです。「理想を実現するために」今出来ることは何だろうかと。
その考えに至るような台詞を聞くと、拍手したくなるのでしょう。
「台詞」に拍手はストレート・プレーでは考えられないことです。タイミングからすると「歌」でも歌の途中、かもしれません。それでも、拍手が起こる。如何に、その台詞が生きた言葉になって観客に届いているかがわかります。もっと言えば、観客が登場人物になって板の上に立っているような錯覚に陥っている、という感じです。
話しは少しかわりますが・・・
先日、「絵画を見るために5年間ヨーロッパに住んだ」という体験談がラジオから流れてきました。よく聞いていなかったのですがひとつだけ印象に残った話しがありました。キャスターが「なぜ5年間と区切ったのですか?」と。「新鮮さ、感受性の豊かさを失いたくなかった。それは5年が限度かと。」
しばらく、この「5年」という文字が頭から離れませんでした。
私は、たくさんの舞台を観るようになって6年。感受性が失われても不思議はないのだと思い始めたのです。確かに、その兆候はあります。以前から、この感受性の欠如は私の最も恐れるところだったのです。このままではいけない。なにがいけないのか私以外の人にはわからないかもしれませんが、何かに取り付かれたように、自分で自分が許せなくなっていました。
しかし、今日、「忠臣蔵」を観て、本当に心からいろいろなことを感じることが出来ました。
やはり、伝統に裏打ちされた芸のそろった舞台は、どんな斬新で奇抜な舞台よりも、私の心に新鮮に届くのです。
また、気持ちを新たに、観劇を続けて行きたいと思います!