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わまのミュージカルな毎日

主にミュージカルの観劇記を綴っています。リスクマネージャーとしての提言も少しずつ書いています。

テイクフライト

2007年12月02日 | 観劇記
テイクフライト
2007年12月2日マチネ   東京国際フォーラム・Cホール  
1階実質4列目センター

宮本亜門氏演出、ジョン・ワイドマン氏脚本、出演者に治田敦さん、今拓哉さん、岡田誠さん、と「太平洋序曲」関係者が多くいらっしゃるにもかかわらず、プレビューにも初日にも観劇せず、やっと今日出かけてみました。
事前の宣伝文句に「太平洋序曲」の文字を多く見ますので、この作品をこよなく愛する私にとってはこの「テイクフライト」も素晴らしい作品となることを期待しています。しかし、約一年前、やはり世界初演の作品の初日に観劇し、本当に、本当に、本当にいろいろなことがあったので、今回は敢えて開幕して少し経ってからの観劇を予定しました。
この計画が良かったのか、作品自体が良かったのか、はたまた私が寛大になったのか?!?!?
後日、「世界初演」についてはじっくり語りたいと思っていますので、今日は少し触れる程度で、作品への感想を書きたいと思います。

この作品は過去の事実がベースになっていますので、結末を書いても大丈夫だと思いますが、知りたくない方は読まないで下さい。
と言っても、思い切り「あらすじ」(荒い筋)です。
ライト兄弟は有人飛行の夢を追い、砂漠で試行錯誤を重ねる。一度は諦め家に戻るが、また、挑戦を始める。
リンドバーグは人類初の大西洋横断飛行に挑戦している。その最中に、リンドバーグの飛行機との出会いや挑戦にいたるまでの苦労が語られていく。そして、最後はパリに降り立ち、人々の歓声に迎えられる。
アメリアは女性初の大西洋横断飛行をしたとして大いに人気を博すが、同乗していただけということに疑問を感じ、自ら操縦桿を握り大西洋を飛行することを、パットナムと結婚することと引き換えに実行する。そして、彼女は飛行士として自立するが、最後の飛行にすると夫と約束した世界一周飛行の途中で消息を断つ。

この3つの話が平行して進みます。

ラストは、ライト兄弟のグライダーがテイクフライトする、というところで終わります。


私は、リンドバーグの大西洋横断が描かれた「翼よ、あれがパリの灯だ」という映画を見ています。ライト兄弟の簡単な伝記も読んでいます。アメリアのことは今回初めて知りました。
が、もし、どの登場人物も知らなかったら・・・何が何だかわからないお話だと思います。
このモザイク模様のようなお話の進み方は、「太平洋序曲」によく似ています。ですので、私はとても好きです。が、やはり「太平洋序曲」も歴史を知っているから、あちこちに話が飛んでも話が理解できていたのだと思います。そして、ナレーターという交通整理をしてくれる役がとてもしっかりしていたのが、今回とはかなり違う点ではないかと思います。

ワイドマン氏の脚本から受ける印象は、やはり彼は「アメリカ人」だという点でしょうか。アメリカ人なら誰でも知っているということが前提になっているのです。ですから、日本で上演するなら、もう少し丁寧に最初に登場人物の偉業を説明しないと、作品で言いたいことが分からないような気がします。アメリカは飛行機が移動の中心ですし、宇宙飛行にしても日本に比べればとても身近なはずです。アメリカ人は私たち日本人に比べて登場人物をいつも身近に感じているのではないかと思います。

音楽については・・・う~~~ん、私の好みではないですね。ミュージカルにしては管楽器が強過ぎます。不協和音が続き過ぎだと思います。やはり、不協和音は「ここぞ」という場面で使って欲しいのです。
作曲と言わず「音楽」と言いましたが、音楽には、旋律、編曲、歌も入ると歌詞、そして歌い手も含め演奏と幅広くなります。どれかが改善されるとぐっと良くなったりもしますので、敢えて作曲とは言いませんでした。というのも、音楽監督と指揮をしていらっしゃるアベル氏の音作りが私はちょっと苦手なのです。以前、同じホールで「キャンディード」を観劇しました。初演のときはフル・オーケストラで佐渡裕さんの指揮でした。再演時は今回のアベル氏でした。再演では、オケの編成が変わったのかもしれないので、比較するのはよくないかもしれませんが、軽やかな反面、ちょっと金属的な音色過ぎるのでは?と思ったものです。
飛行機という非常に金属的な話題に、金属的な音。合致しているのかもしれませんが、描かれるのは人間の心なのです。もう少し、温かみのある音が響くといいのになぁ、という場面がありました。
温かみのある音に、もう少し歌い手が音楽に馴染めば、今不協和音の連続という場面も、落ち着きが出てくるかもしれません。

作品全体として、一幕がつまらないです。この倦怠感がいつまで続くのかという感じです。
その上、私の観ていた回では最初のころ池田成志さんのマイクが入ったり、入らなかったり・・・私は前の方ですから聞こえますが、もう少し後ろは・・・お話に入り込めない観客が相当いたと思います。
リンドバーグが操縦を習う場面なんかで、もっと飛行機を飛ばせたりしたら、メリハリがつくのにと思いました。
その場面ばかりでなく、飛行機の話なのに、そして、操縦の場面もあるのに、飛行機が飛んでいるという印象がとても薄いのです。

二幕は話が煮詰まることもあり、テンポがよくなります。
が、とても残念な場面があります。これも「太平洋序曲」の外国司令官が続々日本にやってきて条約を結ぶ場面と似ているので比べてしまうのですが・・・。リンドバーグの前に、大西洋横断飛行に挑戦して失敗する人達の話が、ショーのように繰り広げられるのです。出演者総出で、「死」を笑い飛ばしてしまうというブラック・ジョークの極め付けみたいな場面なのです。絶対、楽しくて、一番盛り上がる場面にしなければならないはずなのですが・・・。台詞も歌詞も聞き取れません。オケがもっと引くか、歌詞を詰め込ませ過ぎないか、視覚的な工夫をするか。観ながら、「勿体ない!!!」と絶叫してしまいました(心の中でですよ、笑)。

公演回数が進むうちに、自然と改善される点も多いと思います。
しかし、この作品は何を伝えたかったのだろうか?と振り返ったとき、何も残っていないのです。
アメリアが女性として自立し、結婚しても自分を見失わなかった点でしょうか?でも、現実として、そういう女性が殆どになった今、あまり重視される点ではありません。母親が夫から暴力を受けている場面がシルエットのように出ますが、アメリアの結婚観の裏づけには印象が薄過ぎます。
報道に翻弄される時の人についてかと思うと、リンドバーグの大西洋横断成功後の苦悩が描かれていないので、そうでもないらしいです。それに、アメリアがリンドバーグに「ずっと飛び続けて」と忠告する場面が、あまりにも不自然です。私は、アメリアがリンドバーグに感謝を伝えるために登場したのかと思いました。あの場面は、この作品の中で一番不自然な場面だと思いました。
ラストがライト兄弟のフライトですから、彼らの偉業を見直そうというのかとも思うのですが・・・何かピンときません。
「大空を飛ぶ夢」という問いかけから始まるのですから、劇場を出るときに、登場人物の誰かに共感して「自分も夢のためにがんばろう」となるといいなぁと思います。

俳優の皆様のご活躍については、また、後日。

今の日本の演劇のシステムでは、プレビューが機能しないとか、ロングランが出来ないとか、「世界初演」の作品を育てていくことが出来ない環境にあることは私もよくわかっています。
ですので、先程も書いたように、また、細かいことは今後じっくり書きたいと思っています。それでも、やはり厳しいことを言えば、このチケット代、これまでの宣伝には疑問を持ちます。
その一方で、キャストの皆様は、舞台で本当に素晴らしい動きをして下さいました。その姿を拝見しに、劇場へ足を運んで、本当に良かったと思っています。

ウーマン・イン・ホワイト

2007年11月21日 | 観劇記
2007年11月21日マチネ公演
青山劇場 2階最前列センター

青山劇場の2階は初めて行きました。思った以上に舞台から遠かったです。ただし、最前列でしたので、舞台には結構入り込めました。

この作品は「謎解き」ですので、あらすじはほんのさわりだけ。結末が分かってはつまらないですからね。

19世紀半ばのイギリスの片田舎。真夜中の線路。ロンドンからやってきた絵画教師・ハートライト(別所哲也さん)は、列車のトラブルで途中から歩いて来た。闇夜で「誰かいませんか?」と叫ぶと、幽霊のような白いドレスの女(山本カナコさん)を見る。
ハートライトがやってきたのはフェアリー家。そこに住むのは、異父姉妹の姉のマリアン(笹本玲奈さん)と妹ローラ(神田沙也加さん)。ローラの父が大富豪だったので、二人は何不自由なく暮らしている。マリアンは明るく振舞っているが、ローラの影のように生きている。
ふたりに絵を教えるハートライト、彼を慕う姉妹は、やがて三角関係に。その関係は、マリアンがローラと相思相愛のハートライトに彼女はパーシヴァル卿(石川禅さん)と婚約中だと告げることで、終わりを迎える。傷心のままハートライトはロンドンに戻る。
ローラは父親の遺言どおり結婚するが、パーシヴァル卿はローラの財産目当ての貴族であり、暴力もふるうことがわかる。マリアンはローラに良かれと思って勧めたこの結婚が、結果的にローラも自分をも苦しめていることを知る。そして彼女はローラを守るため、パーシヴァル卿とその右腕フォスコ伯爵(上條恒彦さん)に闘いを挑む。

これが、大体一幕のあらすじです。この間に白いドレスの女が謎めいたことを言います。そして、二幕では闘いが始まります。いろいろどんでん返しがあります。さて、結末はいかに!!!


感想です。
お話は面白いです。いくつか疑問は残るのですが、ミステリー好きの私にはとても面白かったですね。
音楽としては、まあ、宣伝ほどではないとしても、様々な場面で使われる不協和音が印象的でした。

俳優の皆様への感想です。
マリアン役の笹本さんは、突然に成長した感じがしました。「マリー・アントワネット」以来ですが、子供の頃から見ているので、突然「大人」になった感じでした。正直、今まではあまりその演技も歌声も私にとっては魅力あるとは思えなかったのです。とにかく、硬い。もう少し肩の力を抜いて発声すれば役柄が膨らむのにと思ったことが何度あったでしょう。人間は必ず裏と表を自分の中に抱えています。演劇では役柄によっては極端な面だけが描かれますが、多くの場合、主役級の役では、ちゃんと裏と表が描かれているはずなのです。それなのに、どちらかだけしか演じ切れていなかったように思います。が、今回のローラは、控えめなところと勇気のあるところがとてもよく描かれていましたし、ハートライトへの複雑な思いもとてもよく表現できていたと思います。歌い方も少し変わったように思えました。演技もとても丸みが出てきて、立ち振る舞いがとても綺麗でした。とてもよく声が出ていて、ミュージカル女優、というのがぴったりになってきたなぁと思いました。
元気一杯の女の子から、自分を見つめる女性になりつつあると感じました。

ローラ役の神田沙也加さんもがんばっていました。が、ちょっと歌が不安定でした。「イントゥ・ザ・ウッズ」のあかずきんちゃん役で、ソンドハイム氏の難曲を自分のものにして歌っていたので、期待していたのですが・・・。でも、演技はよかったと思います。

笹本さんと神田さんのバランスはとても良かったですね。作品の中の実生活では(話がややこしいですが、笑)ローラが主役なわけですが、作品ではマリアンが主役なので、バランスがとても大切だと思いました。

ハートライト役の別所さん。始めの方と後の方で活躍します。別所さんの舞台は一昨年末の「34丁目の奇跡」以来でした。別所さんは歌よりは演技の方だと思っていましたが、舞台を観るたびに歌もとても良くなっているような気がします。いつも、もう少し声の強さのコントロールが出来たら、もっともっと歌における表現の幅が出で来るのになぁと思っていましたが、今回はとても良くなっていたと思います。

パーシヴァル郷の石川さん。う~~~ん、いいなぁ。本当にいいです。役自体はひどい男です。でも、石川さんの魅力を堪能できます。特に最後・・・。いいですよ。これ以上言ってしまうと、結末が分かってしまうので、気になる方は劇場へどうぞ(笑)。

フォスコ伯爵の上條恒彦さん。相変わらず、味のある演技に歌です。謎の紳士ですね。紳士とはいえない振る舞いも多いですが、何となくイギリス人が描くイタリア人の典型という感じなのでしょうね。マリアンに思いを寄せます。というか、素晴らしい一人の女として見ているのでしょう。ローラの影として生きるマリアンに「それでいいのか?」と問うのです。明るく演じて、謎がますます深くなる。本当に不思議です。好演、いえ怪演かもしれません(笑)。

謎の白いドレスの女の山本カナコさんも、歌に演技に大活躍でした。新感線の方だそうですが、謎めいた感じがとても良かったです。どうなるの、どうなるの、と観客の気持ちをぐいぐい引っ張っていました。

光枝明彦さんはローラの叔父で後見人という役柄。味のある歌を聞かせて下さいます。ローラの育ての親なので、いろいろな苦労が・・・。その苦労とは・・・こちらも劇場でどうぞ。

最初と最後に鉄道員として越智則英さんが歌われるのですが、それがまた謎めいていまして、他の謎が解けた後も、この謎は解けず・・・これは原作を読まないと解決しそうにないので、読んでみようかと思っています。

落ち着いた雰囲気のミュージカルでした。私は、元気に踊りまわる舞台よりは、こういう落ち着いた舞台が好きですね。
この観劇記を読んで、すっきりしない方は、劇場に行って謎が解ければすっきりしますので、青山劇場までどうぞ。12月2日までです。

森は生きている

2007年08月02日 | 観劇記
森は生きている
2007年08月02日  シアター1010 1階6列下手側

ライズプロデュース制作の「森は生きている」の初日に行ってきました。
この作品の舞台はとても多いので、どんな演出か、どこに重きを置いているか、そして舞台装置がどんなか、に注目してしまいます。
でも、ついつい何の役に注目するかで、結構見え方がちがっているような気がします。まあ、このお話は後ほどゆっくりと。

あらすじ。
有名なサムエル・マルシャーク原作の「森は生きている」のお話そのままですので、短くまとめます。
意地悪な継母と実娘にいじめられている娘は自然が好きで森に親しんでいる。一方この国のわがままな女王は「マツユキ草で新年のお祝いを」と考え、真冬にもかかわらず「マツユキ草を持ってきたものには金貨を与える」とおふれを出す。継母たちは吹雪の中、娘を森に行かせてしまう。娘は森で新年を迎える準備をしている十二月の精たちに助けられ、マツユキ草をもらう。マツユキ草を見た女王は喜ぶが、自分も咲いているところへ行きたいと森へ行く。自然の厳しさに触れた女王は、自分のわがままに気づくのだった。

感想です。
作品自体とても好きですので、観終わるとすがすがしい気持ちになります。
舞台としても、初日、しかも子供たちもたくさん出演するにもかかわらず出来上がっているなぁと感じました。その子供たちから、若手、そしてベテラン勢と配役もバランス良く、また、歌、芝居、ダンスもミュージカルらしい割合で配されていて、楽しい舞台でした。

舞台装置も白で統一され、照明の色で季節感を出していました。大掛かりではなくても、舞台を自由に与える大道具の配置もいいなぁと思いました。

オープニングとラストに沢木順さん(作品中では老兵役)が現代とこの作品のつながりをメッセージソングとして歌うのですが、これがとても良かったです。

ダンスには子供たちが加わっているためか、とても軽やかで、明るくて、ミュージカルはこうでなくてはと思いました。振付は名倉加代子さん。名倉先生らしい、体のバネを存分に使って表現するダンスは自然の力強さを感じさせて下さいました。

ミュージカルですので、音楽にも注目するわけですが、私は子供の頃から林光さんの「十二月の歌」を聞いて歌って育った世代ですので、このイメージを払拭するのは本当に大変なのです。焚き火をしながら歌う歌は「たきび」の歌でしたから。それほど慣れ親しんでいるメロディを超える音楽に出会うのは無理だと思っています。ですから、この作品の場合、あまり音楽に重きをおいて観ていないのです。

今回の舞台の前に「森は生きている」を観たのは、無名塾制作の舞台でした。その舞台では「娘」に重きがあったように思いますが、今回はどちらかというと「女王」が主役に思えました。子供たちの出演が多いので、観客にも可愛いお客様が一杯。「女王」の成長とともに客席の子供たちも成長して欲しいので、客層を考えたとてもよい演出だと思いました。場面的に両役の配分は、無名塾の舞台とあまり差がないのに感じ方が違うなんておもしろいなぁと思いました。

娘役の石川由依さんはとても美しい歌声でした。健気な感じもいいのですが、もう少し柔らかさが演技にあればなぁと思いました。楽しげな時の歩き方がもっと弾んでいると、絶望の方ももっと生きてくるのにと思いました。

女王役の黒木マリナさんは、「セーラームーン」の舞台でセーラームーンを演じているのを数年前に観ています。で、「森は生きている」の配役で「女王に黒木マリナさん」と見たとき、ううう、ぴったり過ぎる!と私は正直思いました。その期待通り、本当にイメージ通りの女王様でしたね。わがままどうしようもない小娘なんですけど、どこか憎めなくて・・・女優さんだったら一度はやってみたい役ではないかと思います。難しい役ですからね。

娘も女王も同じように両親の愛を知らず、心が凍てつくことがあるという共通の思いを前面に出した演出に、とても共感しました。周りから理解されない子供が、大人から見ると問題行動を起こしていて、それが社会問題にもなったりしている現在に、何か解決の光を見たような気がしました。
そして、最後に女王が「私、人に頼む方法を教えてもらっていないもの」と言うような事を言いますが、今の子供たちの問題行動の責任は結局大人にあるのだと思います。
挨拶、感謝の言葉をもっと大人が発していかなくては!!!

ちょっと、話がそれてしまいました。
舞台の感想です。
この作品の影の主役は、継母とその実娘(義姉)です。今回は、継母が後藤英樹さん、義姉が及川健さんという配役でした。バレエの「シンデレラ」でも意地悪な継母たちを男性がやることが多いし、こういうキャラクターは男性の方が出しやすいのかもしれませんね。
女王以上にわがままで、高圧的で、ほんと嫌な奴で、たくさん笑わせて頂きました。
悪役が「楽しい」という印象になって残る舞台は、大抵、印象深いのです。本当に楽しかったです。

十二月の精たちもとてもステキでした。衣装がステキなのもありますが、自然の豊かさを醸し出すような立ち姿、動き、歌声でした。

女王様の教育家係、博士役は佐山陽規さんでした。無名塾のときは1月の精でした。今回は12月の精(あぜち守さん)の方が、十二月の精のリーダーという感じでした。このあたりも演出によって変わるところなのかと思いました。
話は戻って、博士です。わがままな女王を持て余し気味で、「すまじきものは宮仕えなり」の言葉通りの様子です。でも、楽しい歌もありますね。また、森へ行くことが決まって、自然の恐ろしさを知ることになる、という歌はとても短いフレーズなのですが、不思議と心に残りました。なんというか、自然の大きさを感じさせて下さったからでしょうか。でも、またすぐ別の展開になり・・・(笑)。本当に、いろいろ楽しませて頂きました。
やはり、こういう風に、お芝居の中で台詞として歌い、場面をどんどん展開させていく役をなさると、佐山さんの魅力が全開!とつくづく思いました。

ファンとしてはいろいろ思うことがあるわけで・・・正直、ここしばらくのストレスがやっと解消したというか、何というか・・・まあまあ、この話はやめておきます。語りだすと長くなるので(苦笑)。

というように、正直言って、佐山さんといっしょに活躍する役の方に、私はどうしても印象が強くなってしまうので、この舞台は「女王」中心なのでは、となってしまうわけです。本当に、いろいろ言っている割にはいい加減なものです、ハイ。

充実した舞台でしたが、もし、一つ物足りないとすれば、女王たちを懲らしめるために、十二月の精達が季節をどんどん進めるときの展開でしょうか。もう少しめりはりがないと、女王たちの苦しさ、つまり自然の厳しさの印象がちょっと弱いように思いました。

この作品の大きなメッセージである自然の大切さは勿論、現代の私たちが忘れがちな様々なメッセージを、素晴らしいキャストの皆様が、観客にしっかりと伝えて下さいました。
6公演しかやらないので、本当に勿体ないという思いです。

子供から大人まで楽しめますし、いろいろな楽しみ方がある舞台だと思います。もし、お時間がありましたら是非ご覧になって頂きたいです。(シアター1010で8月5日まで)

Welcome to Jubilee Ⅳ

2007年07月14日 | 観劇記
Welcome to Jubilee Ⅳ
07年7月14日マチネ ブディスト・ホール(築地本願寺内)

神崎順さんが企画し、活躍するレビューです。今年で4回目だそうです。

レビューとは・・・と話し出すと長くなりますので、サラッと。
私は、宝塚のレビューがとても好きでした(最近、あまり観ないので、敢えて過去形です)。たくさんの歌を知ったのもこのレビューのおかげです。今、こんなに舞台を観るようになったのも、多分、この時の好印象のおかげです。そして、いろいろ機会があって、たくさんの国のレビューも観て来ました。言葉はわからなくても、本当に楽しかったことを覚えています。

さて、神崎さんが出演なさる舞台はいろいろ観ていますが、主催のこのシリーズは初見です。以前、青山劇場で観劇したレビュー「Mr. Pinstripe」でのご活躍を拝見し、レビューで神崎さんをまた拝見してみたいと思っていました。
本当に、楽しかったです。きらびやかで、ゴージャスで、もう、あっという間の1時間50分でした。台風が近づく、雨の中行ったわけですが、すっかり心は青空、という感じでした。

出演者は
神崎順・治田敦・畠山眞葵・津田英佑・芽映はるか・舵一晴・波輝一夢・美勇士・宮澤明子・北山里奈・福島カツシゲ・空ゆきこ・佐々木誠・速水翔・後藤藍・杉山奈央・清水敦子・徳山多永子
の皆さんでした。(敬称を略させて頂きました)


治田敦さんのコメディアン精神もシリアスな「美女と野獣」も堪能しました。

久々に拝見した津田英祐さんは、やはり大きな舞台で活躍している俳優さんだなぁと思いました。立ち姿が本当にいいですね。

佐々木誠さんはすごく切れのあるダンスを見せて頂きました。もう少しじっくりダンスを見たかったなぁと思っています。

いや、本当に楽しかったです。
が、最後にちょっと一言。いや二言かな・・・

レビューをするなら、舞台の天井がもう少し高い会場がいいなぁと思いました。どうしても動きが左右しかなくて、単調になってしまいますから。

もう一つは、ダンスでストーリーを物語る場面が欲しいなぁと思いました。勿論、歌も入っていいのですが、主はダンス、という場面ですね。短いのはありましたけれど、もう少しじっくりとあるといいなぁと思いました。観客がいろいろ想像しながら、ダンスを堪能する場面です。まあ、オチは喜劇でもいいのですが、ちょっと大人の時間っていう気がして、私は好きですね。

盛りだくさんの今回のような舞台も楽しいのですが、やはり回数やっていくのなら、テーマがあった方が長く続くのではと思います。「愛・夢・希望」がテーマなら、それを具体化したパフォーマンスを中核に持ってきつつ、ゲストみたいな位置づけの出演者のミニ・オンステージをつけるとか・・・はたまた、いろんな夢(妄想も含め)を表現する回、いろんな愛を表現する回(大人の雰囲気過ぎるか?)、などというようにした方が、観客の印象には残る、また観てみたいという循環になると思うのですが・・・まあ、あくまでも私の好みです・・・
さらに、あくまでも、私の好みですが、レビューとも言える舞台の印象をお話します。「サクラ大戦歌謡ショー」も、テーマがはっきりしていた回の方が印象に残りました。「マッスル・ミュージカル」も一つの大きな流れがあって、それぞれの場面(パフォーマンス)がある作品になってからの方が、見応えがあると感じました。
盛りだくさん過ぎると、最新情報に流されていって、近い過去もどんどん忘れてしまうのです。

(それって私の記憶力が悪くなっただけ?せめて、「舞台観過ぎ!」ってつっこんで欲しいです~~~ぅ。)

レビューというのは、楽しいだけ、みたいなところがあって、あまり時間や心に余裕の今の日本の社会では受け入れられないのかもしれません。でも、多くの人が機会があれば観てみたいと思っている舞台なのではないかと思います。数年前「マツケン・サンバ」が流行ったりしたのも、人々の心にあったそういう思いが叶ったからではないでしょうか。
素晴らしい、ダンサーや歌手がたくさんいる日本なのですから、レビューを上演する機会が増えることを願っています。

ミュージカル蝶々さん

2007年06月17日 | 観劇記
ミュージカル蝶々さん
07年6月17日
シアター1010 1階15列目ほぼセンター

あらすじ
コレル夫人(剣幸さん)はプッチーニの描いた「蝶々夫人」の中の蝶々さんが本来の姿ではなく、異国趣味と東洋蔑視で変えられてしまったことに心を痛めているので、本当の話をしたい。そう言って幕が開きます。
アービン宣教師(戸井勝海さん)と妻のコレル夫人は長崎に赴任してきた。母に死に別れ、間もなく女郎宿に売られていく蝶々さん(島田歌穂さん)がコレル夫人にお手伝さんとして働かせて欲しいと頼みにやってくる。コレル夫人は手は足りていると断ってしまうが、蝶々さんのことがなんとなく気になっていた。お祭りの日に笛を吹く蝶々さんと再会。蝶々さんがコレル夫人に笛を、コレル夫人が蝶々さんに英語を教えることになった。
蝶々さんの辛くとも前向きに生きる姿に周りの人は心惹かれる。書生の木原(山本匠馬さん)もその一人だった。ある日、蝶々さんがコレル夫人に身の上話をしているのを聞き、驚く。なぜなら、武士であった蝶々さんの父を、殺した集団の一人が自分の父だったからだ。「敵を討て」という木原に、蝶々さんは「過去のこと」と言い、木原を許す。
アメリカの海軍士官と結婚する女郎たちが多かった。蝶々さんも見初められ結婚することに。幸せ一杯の蝶々さん。コレル夫人も喜ぶが、不安もあった。しかし、あまりに幸せそうな蝶々さんに言い出すことが出来ない。
いつ戻ってくるとわからないまま艦船は長崎を後にする。
蝶々さんは子供を産む。ますます不安になるコレル夫人は、蝶々さんの相手が未婚であったかを調べると、アメリカで結婚していたことがわかる。不安的中である。
艦船が再び、長崎へやってきた。しかし、蝶々さんの夫は家にやってこない。やってきたのは妻のケイト夫人(小野妃香里さん)であった。子供を引き取る、と申し出た。拒む蝶々夫人。
ケイト夫人は「夫は、蝶々さんは人形のようだったと言っていたのに、こんなにしっかりした女性だとは・・・」と言ってしまう。
蝶々さんは、「自分が誰のおもちゃでもなかったという証明をしなくては」と自害してしまう。

ちょっと雑なあらすじです。すみません。心に残るとてもステキな台詞がたくさんあったのですが、やはり一回の観劇ではなかなか覚え切れません。

感想です。
舞台の構成、音楽は本当に素晴らしいと思いました。
キャストも実力派揃いですから、当然の満足度かとも思いますが、舞台づくりの妙を感じました。
例えば、本来向き合ってやりとりしている会話であるにもかかわらず、互いに正面を向いて会話をしていたり、一人は相手を見ているのに一人は正面を向いていたりします。二人の距離感や気持ちのすれ違いを視覚から感じ取ることが出来るので、不自然には感じないのです。かえって、一人が台詞を発したときに、もう一人がどうその言葉を受け取っているかが良くわかるので、舞台に引き込まれる感じがしました。

セットの変更がなくても、アンサンブルの方たちのご活躍で、場面にいろいろ変化があり、とても楽しめました。振付もとてもおしゃれで、すっきりしていて、上品だなぁと思いました。後で振付はどなた?と見たら麻咲梨乃さんだったんですね。いつもながらに、舞台を盛り上げ、主役の感情を観客に伝える助けをそっとして下さっていると感じました。

キャストでは、コレル夫人の剣さんが本当にステキでした。包み込むような優しさが溢れていました。日本人と西洋人がかかわる舞台では演じ手はすべて日本人ですからその違いを表現するのが難しいというか、違いがわかり難いことが多いのですが、剣さんは立ち姿や声のかけ方などで、西洋人の雰囲気をとてもはっきりと表現していたと思います。
また、主役の島田さんとの声の質そのものの違いもとても良かったと思います。
時々、主演の方たちの声質が似ていて、歌い合うときにどのキャストが歌っているのかわからなくて、観客が混乱することがあります。混乱するということは、舞台に入り込めないわけで、結局は「つまらない」となってしまうのです。キャストの実力とは別に、キャスティングの時には、声質のバランスもとても大切なんだと感じました。

島田さんも、健気で、かわいらしい蝶々さんを演じて下さったのですが、やはり、「どうして自害?」という思いを払拭することは難しいようです。これについては、また後で話します。

戸井さんは相変わらず説得力のある歌唱で、普段は意識しない私の心の底の方にある思いに問いかけて下さいました。

山本さんもすごく良かったです。蝶々さんに憧れというか、好意を抱いていたのに、敵だったことを知ったときの悩み方、蝶々さんがアメリカ海軍士官と結婚してしまうときの悩み方、痛いほど気持ちが伝わりました。
蝶々さんが木原をどう思っているかは描かれていないのですが、もう少し絡みがあったら、自害する気持ちをもう少し理解できたかもしれないなぁ・・・かなり妄想が広がっているでしょうか(苦笑)。

本当にいい舞台でした。
でも、蝶々さんが自害することにどうして納得出来ません。時代が違う、と言ってしまえばそれまでですが・・・
私は、どの時代でも、自害が美徳だとしたのではない、と思っている人間なので、余計にそう思うのかもしれません。なんとなくですが、いわゆる戦時教育として武士道が捻じ曲げられて利用されたときに、「自害は美徳」とされてしまったのではないかと思うのです。そしてまた、自殺を厳禁しているキリスト教の国々に驚きをもって伝わって行っただけなのではないかと思うのです。
私は、「ミス・サイゴン」の結末も好きではないし、欧米諸国の東洋蔑視としか思えないので、頭にさえ来ます。それでも、蝶々さんよりは、キムが死を選ぶ気持ちの方がまだ理解できるのです。子供の将来を思う母の気持ちに少し共感できるからです。しかし、蝶々さんは自分が自分であるための死のような気がするのです。勿論、人間として自分を大切にすることはわかりますが、なにかが違うと思うのです。

コレル夫人が、日本人は貧しい暮らしをしていても躾が素晴らしい、とか、蝶々さんが、母の教えを守る、とか、今の日本人が忘れかけている、日本人が大切にしてきたことを思い出させてくれる、とてもステキなお話が展開されていくのに、最後でがっかりなのです。

蝶々さんが、貧しく、苦しい生活をしてきて、幸せを手にして、でも、それが儚く消えていく悲しさで自害するという運びならもう少し納得できたかもしれません。でも、それを感じるには、貧しく、苦しい生活の部分の描き方が弱いように思えるのです。
それに、こういう展開では「自分が誰のおもちゃでもなかったという証明」にはなり得ませんね。
どのような味付けをしてみても、現代の日本人が(特に、女性が)この結末に共感するのは難しいように思いました。

アイ・ラブ・坊っちゃん

2007年06月09日 | 観劇記
07年6月9日マチネ 東京芸術劇場・中ホール  1階15列目あたりのかなり下手寄り

音楽座ミュージカルの「アイ・ラブ・坊っちゃん」を観ました。

あらすじは、夏目漱石作「坊っちゃん」と、その創作に当たっている漱石自身の日常や回想が平行して描かれるということにさせて下さい。

実は、私は「坊っちゃん」をきちんと読んだことがありません。あらすじは知っているのですが。また、漱石の作品も殆どを読んでいるのに「坊っちゃん」と「吾輩は猫である」の代表作だけ、読んでいないのです。なぜなのか、自分でも不思議です???

さて、感想ですが、ただ一言「楽しかった」です。
いや~~~、本当に楽しい舞台でした。お話も楽しいし、構成が素晴らしいです。音楽座の作品の中でも、一、二を競う人気作品となっていくと思います。
なんだか、ここにミュージカルの真髄あり、という感じがしました。
ミュージカルの自由さが存分に生かされていました。
また、和洋折衷の時代背景も影響していますが、ミュージカルが日本の文化に溶け込んでいると思えました。
本当に、素晴らしい作品です。

私が行った公演はDVDの収録日でした。まあ、こういう日は全体に役者さんも固くなったり、がんばり過ぎたりするというのはわかっていますが・・・

一番がっかりだったのは、坊っちゃん役の吉田朋弘さんですね。「泣かないで」の好演が印象的だったので、ちょっと期待し過ぎたのかもしれませんが、声が響かないのです。ダンスはとてもキビキビしていて、坊っちゃんらしいのですが、歌や台詞になると力が入りすぎて声を響かせることが出来ていませんでした。当然聞き取れないわけですから、細かい部分は誤解したまま舞台が進んでいってしまいました。まあ、あとでつじつまは合ったのですが。
これからも、活躍を期待しているので、調子の悪いときの乗り切り方みたいなことも勉強して頂きたいと思います。

漱石の妻、鏡子を演じた秋本なみ子さんは、二幕はいいなぁと思ったのですが、一幕は相当???でした。漱石の妻のはずが、娘?あるいは年の離れた後妻?という印象でした。もう少し、落ち着いた雰囲気が欲しいですね。

とこのお二人は残念マークみたいになったのですか、他のキャストはもう「素晴らしい」を連発してしまいたくなるほど。
まさに、坊っちゃんが名付けた「あだな」の人間が、そこで生きているという印象でした。
山嵐の安中淳也さんは特筆すべきでしょう。吉田さんの調子がいまひとつという感じでしたので、山嵐が主役?という印象になっていました。

そして、以前の音楽座でも漱石を演じていたという松橋登さんは最高でした。本当の漱石かと思ってしまうほど、演じているというのではなく、漱石として生きていると感じました。私の場合、「坊っちゃん」ではない他の作品をも創作した漱石として、松橋さんの作り出される漱石を見ていたのかも知れませんが、あの作品もこの作品も書くであろう漱石がそこにいる、と思えたのです。脚本自体も、いろいろな作品の創作のもとになりそうなエピソードを織り交ぜていたのかもしれません。

さて、音楽座に参加なさってから、ご活躍の幅が広がっている広田勇二さんですが、今回は前の舞台から間もない上に、少々体調を崩されたこともあり、当初予定されていた役ではなく、小使いさんという役を担当されました。ファンとしては勿論残念な気持ちもありますが、舞台に立って下さっていることだけで嬉しいのです。役も、台詞こそありませんが、鐘をならして登場すると舞台の雰囲気を変えて下さいました。緊迫した場面が、ほんわりとするのです。でも、やり過ぎるとぶち壊しですから、微妙なバランスが要求される役柄でした。歌声も楽しめました。

音楽座ミュージカルは「音楽」座、というわりに、ダンスが多いなぁと感じていました。私としてはもう少しじっくり演技だけでみせてもいいのにと感じることも度々ありました。が、今回は、本当に演技・歌・踊りのバランスがとれていて、よかったと思います。
東京での公演が一週間と短く、一度しか行かれませんでした。また、近々東京での公演を期待したいです。

MA笹本マルグリット楽公演

2007年05月30日 | 観劇記
もう日付が変わってしまいましたが、29日に「マリー・アントワネット」を観ました。私の観劇としては千秋楽です。

なぜかこの作品付き合うことになってしまい、いろいろ、本当にいろいろなことを考えさせられました。
いつか、時間があったら具体的に書いてみたいとは思っていますが、どうなるでしょう(苦笑)。

今日(昨日)は笹本さんの楽でしたので、少々お祭り騒ぎの感もありました。
でも、とてもいい舞台でした。
学生の団体のそばで見ていましたが、皆さん真剣に舞台を観ていましたし、きっと、舞台を観るというのは、受身ではなくて、板の上の俳優さんとの感情のキャッチボールなんだと感じたくれたことでしょう。

舞台は、本当に、劇場にいるすべての人が作り上げるものだと思います。
今日、たくさんの拍手を聞きながら、しみじみそう思いました。

ジキル&ハイド

2007年04月19日 | 観劇記
07年4月19日マチネ  日生劇場  一階中程下手寄り

この公演で鹿賀丈史さんのジキル・ハイド役は見納めということで、どんな熱い舞台になっているかとても楽しみにしていきました。
私は、日本初演01年、再演は03年を観劇しています。04年は観ませんでした。

舞台は原作とは違うところが多いのです。
あらすじは・・・
医師のヘンリー・ジキル(鹿賀丈史さん)は、精神を病んでいる父を治療するための薬の人体実験の許可をえるため病院の最高理事会に臨んだ。婚約者エマ(鈴木蘭々さん)の父ダンヴァース卿(浜畑賢吉さん)、そして友人であり、顧問弁護士のアターソン(戸井勝海さん)から死神よりも危険な理論だと忠告されていたが、ジキルは自信を持っていた。二人の忠告どおり、理事会のメンバーは、ジキルの要求を却下した。
 その夜、ダンヴァース卿邸では、ジキルとエマの婚約パーティが開かれた。理事会メンバーのひとり、ストライド(宮川浩さん)はエマに思いを寄せていることもあって、結婚を考え直すように迫るが、エマはきっぱりと断る。
 アターソンはジキルに「息抜きが必要」と言って、パブに連れて行く。そこには、娼婦ルーシー(マルシアさん)がいた。ルーシーが「自分で試してみて。」とジキルを誘う。ジキルは彼女の言葉に、「何も他人の人体で実験しなくても、自分自身の体で試せばいいのだ」という解決策を見出す。
ジキルは、自分の研究室で自ら開発した薬を服用。ほどなく体に異変が起こる。ジキルの心と体は、エドワード・ハイドに変わった。
 ハイドはジキルの意識の外で生き、理事会のメンバーを次々に殺してしまう。
 ジキルはエマやアターソンとも会おうとはしなかった。ある日、ルーシーの体の傷を治療した彼は、加害者がハイドであることを知り、愕然とする。
エマとの結婚式が近づく中、ジキルは、ハイドを消し去ろうと次々と薬を飲むが上手く行かなかった。アターソンにすべてを打ち明けた彼は、ルーシーの身を案じ、「ロンドンからすぐに立ち去るように」との手紙を託したが、ハイドがルーシーを殺してしまう。
 何とか、ハイドを消し去り、ジキルはエマとの結婚式の日を無事迎えるが・・・
 突然に、ハイドが現れ、ストライドを殺してしまう。そして、エマにまで迫る。アターソンは、エマを守るために銃口をハイドに向ける。倒れたジキルにエマは「苦しかったでしょう、ゆっくりお休みなさい。」と話しかける。

こんな感じでしょうか。

正直、日本初演を観たとき、鹿賀さんとマルシアさんの歌謡ショーだと思いました。楽曲が素晴らしいので、それでも決してつまらないというわけではなかったのですが、ストーリー性は感じませんでした。
しかし、このファイナル公演を観て、人間の心の動きがとても良くわかって、お芝居の部分を深く感じることが出来ました。

ストライドがジキルと対立しているということが、初っ端の理事会の場面でとても良くわかるのが良かったです。宮川さんは嫌われ役に徹していたと思います。ここが印象に残ると、婚約パーティ、結婚式のジキル、エマ、ストライドの関係がとてもよくわかるのです。

そして、エマの鈴木さんが歴代のエマの中で突出して、ジキルへの思いを、しっかりと観客に伝えてくれたと思います。立ち姿がとにかく美しいのです。ジキルもストライドも(多分、アターソンも)惹きつけられる女性ですから、聖母マリア的であって欲しいです。本当に、優しいエマを演じて下さいました。

アターソンも各公演キャストが変わった役だと思います。戸井さんはいつも注目している俳優さんですが、ちょっと物足りなかったですね。鹿賀さんとのバランスからすると、もう少し大柄な方がいいように思います。娼婦のところに遊びに連れて行く豪快さが感じられないのです。

ジキルの執事役の丸山博一さんは最高です。この方がいらっしゃらなかったら、この舞台は成り立たなかったと思います。まさに舞台が落ち着くというたたずまいで、要所を締めてくださいます。ジキルが届けられた薬を受け取るところを、心配そうに見つめる場面などは、演出の妙もあるのだと思いますが、その後の展開をいろいろ考えさせる布石として、印象深かったです。

マルシアさんは歌はいいのですが・・・台詞になると、本当にがっかりしてしまいます。もう少し、日本語をしっかり話して欲しいと思います。ご本人も気になさるからか、余計にぎこちないのです。台詞も歌の延長のつもりで、自然に語って欲しいと思います。

アンサンブルは、初演から歌の素晴らしさで舞台を盛り上げて下さっていたのですが、今回はますます引き締まった感じがしました。
何度も観ている友人曰く、あまり演出は変わっていない、とのことですが、アンサンブルで「事件」を歌ったりするときに、ストライドやアターソンも参加していたのでしょうか?歌っている間もお芝居がいろいろ進行しているので、「歌だけ」という印象の舞台が一変しました。アンサンブルの方たちの盛り上げが、この舞台を「歌謡ショー」から「ミュージカル」へと昇華させたという印象でした。

せっかく昇華した舞台という印象でしたが、ファイナル公演ということなので残念です。
また、鹿賀さん以上にジキルとハイドを演じ分けられる俳優さんを迎えて再演が重ねられることを楽しみにしています。



蛇足ですが・・・
この舞台を観劇したのは、帝劇で「マリー・アントワネット」を何度も観劇している間のことでした。06年版より07年版は納得いく舞台になっているとは思ってはいても、不満は山のようにありました。が、この「ジキル&ハイド」が6年をかけ4回の上演を行って、あの素晴らしい楽曲が活きる舞台になったのだ、と思ったときに、「マリー・アントワネット」の舞台に対してとても優しい気持ちになれたのです。07年版であそこまで変わったのだから、まだまだ変わっていくだろう。その行く末を見届けたいなぁ。と。

しかし、ジキハイ初演から6年ですか・・・長かったような、早かったような。
MAがこれから6年やったら・・・そう言えば、エリザも6年ぐらいやっていたなぁ。
この6年と同じぐらい、これからの6年もいろいろあるのかなぁ・・・

変な、物思いに耽る私です。

続・MA  お詫びと感想追記

2007年04月14日 | 観劇記
マリー・アントワネット  07年4月14日マチネ  帝国劇場1階E列センター

7日の記事に書いたとおり、また、行ってしまいました。
15分前に着いて当日券を買ったので、ちょっと前過ぎると思ったものの、そのまま買ってしまいました。当日券でこの席?と思ったものの、回りはすべて埋まっていました。たまたま一席空いていたようです。しかし、「マリー・アントワネット」(以下、MA)は、1階ならI列より後ろをお勧めします。

7日の記事を修正しようかとも思ったのですが、このように別に書き足して、お詫びすべきところはしたいと考えました。

『(アニエスの)マルグリットの父親がオーストリア人という台詞もなくなっていました。』
と書きましたが、残っていました。申し訳ございません。ない方がいいと思っていたので、聞き逃したのかもしれません。

また、同じくアニエスの台詞に関してです。
『そして、「人間には様々な顔がある」という台詞が入りました。』と書きましたが、「ここには人間の顔がない」というような台詞でした。これは、06年の帝劇公演にもあったように思います。ただ、印象として、台詞が少なくなったので、人間の顔を眺めてのこの台詞が印象深かったのだと思います。

細かい台詞に関しても、違うのはわかったのですが、似たような内容ですし、私にはそういう内容で伝わったということにさせて下さい。


さて、ここからは7日の記事に書かなかったことや、今日発見したことを書いてみたいと思います。

日本経済新聞が初演時は相当な批判をしていましたが、この帝劇公演を褒めていましたね。
私も、良くなったとは思いますが、そんなに甘くないです!
が、観に行きたくなる・・・矛盾しているかも(苦笑)。

06年帝劇公演で私が激しく作品を嫌悪したのは、遠藤周作氏の原作にある、また、遠藤氏の作品に共通する「愛」がまるで感じられなかったからです。遠藤氏の哀しくも優しいまなざしで登場人物を描いている作風が、どこを探してもありませんでした。
MA開幕の数ヶ月前に同じ遠藤氏の原作をミュージカル化した音楽座の「泣かないで」(私が、棄てた女)を観ていました。原作がそのまま、本当にそのまま脚本になったような舞台でした。遠藤氏が伝えたかったであろうことが、文章を読む以上に、深く伝わる舞台だったのです。
MAも同じように作れば、奇を衒(てら)うことなど必要ないと思っていました。まして、あれだけのキャスト陣です。方向性さえ示せば彼らが作り上げていってくれると思っていました。
そして、MAの原作に書かれているマリー・アントワネットのキーワードは「エレガンス」です。遠藤氏は何度も、何度も繰り返し、そして、最後の最後にもこの言葉を出しています。
哀しくも優しいまなざしの「愛」と「エレガンス」が原作の主題なのに・・・
MAにはどちらもない。あるのは「さげすみ」と「暴力」のみ。

歴史上の人物には、後世の人間がいろいろな評価をします。それは、時の権力者の横暴であったり、時代の求めるものの違いであったりだと感じています。また、私自身もこの人物のこの面は尊敬するが、この面は軽蔑する、と人間はいろいろな面を持っていると理解しています。
ですから、舞台でマリー・アントワネットがどう描かれようと、それはそれです。が、MAには遠藤氏の原作があるのですから、それは尊重されるべきだと思ったのです。そもそも、それを尊重できないのなら、この作品の制作に関わるべきではないと思います。
06年帝劇公演は、どこをどう観ても聴いても、遠藤氏の主題が見当たりませんでした。
私が、この原作の主題だと感じていることを、この作品の主要な創り手たちは感じていないのだろうとしか思えなかったのです。
ここに、大きな感じ方の違いがあるとすれば、決して、舞台は私の好みにはなり得ません。

07年帝劇公演には、随所に哀しくも優しいまなざしの「愛」と「エレガンス」が見出せるようになって来ました。ですから、もう少し、私の好み(より原作に近いはずと思いますが)に近づく舞台に変化し続ける可能性を見出したのです。

7日と今日で、二人のマルグリットを観ることが出来ました。二人とも「いけいけ」マルグリットから、考える「マルグリット」になっていましたので、演出が変わったのだと確信しました。
私が一番納得いかない、洗濯の場面から、ヴェルサイユへの行進も、まあ許そうという気持ちになっています。
マルグリットがオルレアン公から先導するように言われても、マルグリットは立ち去ろうとします。が、お金には釣られるのはおかしいと思いながらも、革命成就のためには仕方ないと先導する様子が演技になっていました。
そして、勢いよく宮殿に突入した彼女ら(男も混じっているが)だが、いざ、国王と王妃の前では、おとなしくというか、畏敬の念を抱いた様子になっていました。これが、多分、有名な王妃のバルコニーでの礼なのだと思います。
しかし、7日にはあまり感じられない変化でしたので、もっとはっきりとした演出にしなければ、一見の観客には伝わらないかもしれません。

このことや、7日の記事にも書いたこともあわせて、私の好みというか、原作の伝えたかった舞台に近づいてきたと感じています。


しかし、まだまだ勿体ないというか、???があります。

ぶった切りの舞台と思える場面に「パリ情報」があります。実は、場面として私は結構好きなのですが、あまりに唐突な場面です。
よく歌詞を聴くと、辛辣な時代の流れを歌っているので、面白いと思うのですが、キャストや音楽のおかげで、観客は大混乱だと思います。かく言う私も初日は???かける10ぐらいの思いでした。
一幕でアントワネットに仕えていた3人が登場するので、観客は、王家側の擁護だと思い込んでしまうはずです。そこへきて、フランス革命はある程度知っていても、ジロンド党だのジャコバン党だの、サン・キュロットだの言われてますます混乱。
その上、音楽がバカに明るい能天気なものですから、「命が惜しけりゃ」と歌っていても、聞き逃してしまうのです。
この3人がまず時流に乗ってアントワネットから離れたことを伝えたら、もっと入り込みやすいと思うのです。本当に伝えたいのは、革命がとても不安定で、勢力争いがひどいことなわけです。深く関わっていない一般市民でも、ちょっとしたことでギロチン行きとなる不条理を伝えたいのだと思います。ちなみに一日何百人もの人間がギロチンにかかったという記録がありますので、それこそ情報にのり遅れたら命取りだったのです。
この「命が惜しけりゃ」ぐらいが、短調系に転調していたら、もう少し観客の印象が違ったと思えるのですが・・・。それは無理でしょうから、そこの歌詞をもっともっと重く歌ってみるぐらいしか、この場面の真意を伝える手立てはなさそうです。
面白い場面だけに、本当に勿体ないです。

ラストの「自由」は不協和音で終わると聞いていましたが、なんだか綺麗なハーモニーにしか聞こえません。やっと、「自由」の意味を本気で考えようという舞台に変わりつつあるのに、この「自由」で満足しているようでがっかりなのです。
もし、もう少し舞台が暴力ではなくて愛で人間を救うという方向に傾いて、ラストの「自由」なら今の旋律でもおかしくないと思います。
私が不協和音に慣れすぎて、不協和音を美しいと感じてしまっているのでしょうか?

舞台の良し悪しは、結局は「好み」でしかないと思います。
しかし、「伝えたいことが伝わっているか」は「好み」以前の話だと私は考えています。
その考えに立って、またまた、いろいろ語ってしまいました。

そして、ギャーギャー言いながらもまた観に行くんだろうな・・・(苦笑)。

マリー・アントワネット

2007年04月07日 | 観劇記
2007年4月7日マチネ  帝国劇場
M列サブセンター

「マリー・アントワネット」(以下、MA)の東宝曰く凱旋公演に4月7日マチネ、行って来ました。
MA公式ブログでも、この07年帝劇公演ではいろいろ変更があると書いてありましたように、いろいろ変更がありました。
私が前回最後にMAを観劇したのは、06年12月10日です。その後の変更については、友人や噂では聞いていましたが、自分の目で確認したのは、この日が初めてでした。

私が前回MAについて書いたのは「伝えること、そして、伝わること」でした。そのなかで、
『まず、すぐにでも変更して欲しいのは、カーテンコールです。
アントワネットを寝転がしたままにし、その後涼風さんとして立ち上がらせるのは、絶対にやめていただきたいです。エンディングの後、暗転し、キャストを全員下げるべきです。そして、カーテンコールはカーテンコールとしてやって欲しいです。
勿論、アントワネットは一番豪華な衣装でカーテンコールに登場すべきです。』
と書いていましたが、この私の望みは叶いました。(一番豪華なドレスではありませんが)
終わりよければすべてよし、は甘いというお考えの方もいらっしゃるとは思いますが、舞台でも映画でも、カーテンコールを含めた最後の場面は、私にとってはとても印象深いものなので、この変更だけでも07年帝劇公演を観てよかったと思いました。
勿論、ラストへ至る過程も、いろいろ変化していました。
今の私の気持ちは「また、観に行ってみようかな」です。

06年帝劇公演のときは、今だから正直言いますが、持っていたチケットを破り捨ててしまおうかと本気で思っていましたから、もの凄い違いです。

勿論、変更はラストだけではありません。
全体に、「なんでそういう展開になるの?」という思いが減りました。
単なる慣れでは?とも思いましたが、06年帝劇公演は都合3回行ったものの、慣れるどころか観れば観るほど、矛盾が気になり、嫌悪感さえ感じる始末でした。
ブログに何度か書いていましたが、この作品に限らず、舞台に対する気持ちがすっかり萎えてしまうほどの衝撃だったのです。
快晴とは行きませんが、これから晴れるかもしれないという期待を持てる舞台にはなっていました。

すべてを網羅することは出来ないと思いますし、私の記憶違い、また、以前の公演中にすでに変更があったものなどもあるかと思います。どうぞ、誤りがありましたら、ご容赦下さい。また、お知らせ頂けるときちんと訂正したいと思います。

(以下、内容に踏み込んでいますので、ご了承の上、お読み下さい。また、キャストのお名前は、役名を書いた際か、単独で最初にお名前を書いた際に、フルネームを記しています。)

まず、キャストの変更は、私にとって、作品に好印象を与えることになりました。

オルレアン公の鈴木綜馬さんは、他の作品でもたくさん拝見していますが、高嶋政宏さんに比べるとアクが薄い方という印象でした。ですから、このオルレアン公はちょっと重荷かと予想していました。が、そこはさすが鈴木さん、きっちりと悪役を悪役として、本当に悪に徹して演じられていました。ルイ16世(石川禅さん)との対比がわかりやすくなったように感じました。高嶋さんが演じられたときは、この役も狂言回しという印象でしたが、鈴木さんは、一登場人物としての印象が強いです。

そして、フェルセンの今拓哉さん。
正直、相当、贔屓目の感想だとわかっていますが、とても素敵です。井上芳雄さんのフェルセンもとても好きでしたが、今さんにはかなわないです。
今さんの舞台も相当観ていますが、愛を語る役は初めて???
大人の包容力でマリー・アントワネット(涼風真世さん)を支えているという感じがたまらなくいいです。ただ一途の思いではなく、マリー・アントワネットの置かれている立場をとてもよくわかった上で、支えていこう、愛していこう、という感じがにじみ出ています。
まあ、年の功でしょうかね。
低音が聞き取りにくいという難点はありますが、歌詞を大切に歌って下さるので許してしまいましょう。
フェルセンの一番の変更点は、「なぜあなたは王妃なのか」を歌った後の、長い台詞がほぼカットされたことです。すっきりしました。歌で、散々、王妃である女性を愛した苦しみを語った後、同じことを台詞で言うなんてしつこい!と思っていましたので、本当にすっきりしました。

実は、台詞がなくなってすっきりまとまったのは、マルグリット(新妻聖子さん)とアニエス(土居裕子さん)の関係だと私は感じました。細かいところの記憶はないのですが、アニエスがマルグリットに説教のように言っていた台詞がカットされたように思いました。そのおかげで、アニエスの「人間に対する尊重」ということがマルグリットに伝わっているのかもという印象が強くなりました。マルグリットが考えている、という演技が見えました。「目は口ほどにものを言う」といったところでしょうか。マルグリットと一緒に、観客も考える間を与えられたと思います。
その集大成が、最後のアントワネットのギロチンの場面に現れます。
私の記憶では、この場面でアニエスがマルグリットに「アントワネットをかばうようなことを言ったら危ない」というような台詞で忠告するのですが、それがばっさり切られていました。そして、「人間には様々な顔がある」という台詞が入りました。遠藤周作氏の原作に、画家のダヴィッドがアントワネットのギロチンを待つ群集を観察し、様々な表情をしている様子を描くという場面があるのです。たった一ページほどの記述ですが、私にとってはとても印象的でした。眺める事象は一つでも、それを眺める人々の心は千差万別であることがとてもよく表れていたからです。舞台には、それがなく、一つの事象は一つの感情しか生み出さないような押し付けがあったのです。それが、アニエスの一言でガラッとかわりました。神に仕えるアニエスも心ゆれ、革命を信じたマルグリットも心ゆれた、でも、それが人間なのだという、幅が出てきました。そしてさらに、マルグリットの「あの女の最後を見ておきたい」という台詞がとても印象的になりました。その印象も観客にその意味をどうとるかの自由を与えてくれたと思いました。ただの復讐心の満足でもいいし、自戒の念でもいいし、それが混じったものでもいいです。一方的な押し付けの舞台から、観客が自分の思いを巡らす自由を持つことのできる舞台へと変わったとこのときはっきり感じました。
全体を通して、マルグリットとアニエスの一体感が増した感じがしました。二つの役で普通の一人の人間の心の揺れを表現していると感じられるようになりました。
そうそう、マルグリットの父親がオーストリア人という台詞もなくなっていました。これも遠藤先生の原作に忠実になってよかったと思います。
こうして考えると、06年初演には観客を混乱させる不必要な台詞があまりにも多かったことがはっきりしてきます。

オルレアン公が芝居の筋に乗ってきて、マルグリットとアニエスの一体感が増し、良くなったと感じる一方で、ますます、ボーマルシェ(山路和弘さん)とカリオストロ(山口祐一郎さん)の二人による狂言回しが必要なのかという思いが強まりました。もっと、メインのキャストの歌を含めた芝居で、作品を創った方が充実するはずだと強く感じました。

カリオストロの新曲「ILLUSION~或いはは希望~」は、ルイ16世がギロチンになった後に挿入されました。内容は、自分の手でもこの歴史の流れを止められない、と言うものです。最初の歌を受けているので、内容としては入ってきて良かったと思います。
また、ラスト・ナンバー「自由」のカリオストロの歌詞は全く変わりました。新曲と似たような内容になっていました。「歴史は繰り返す」という歌詞が入りましたので、この作品が現在と繋がった気がします。
しかし、カリオストロが歴史をつむぎだしているという感じはどうしてもわかりません。カリオストロの登場によって、あまりにも、舞台の進行がぶつ切りになったと感じる箇所が多いのです。もっと言えば、違う方向に観客を導こうとしているのかとさえ思えることがあります。
カリオストロはクンツェ氏がこの作品の中心人物として描いたわけですから(プログラム、雑誌等のインタビューに書いてあります)、この舞台にこの役が必要ないのではと感じる続ける限り、私はこの作品を心から楽しめることはないのかもしれません。

実は、06年の帝劇初日から、不思議に思いつつ、いつも疲れ果てて、考えがまとまらずに観ていた場面がありました。それは、二幕のラスト近く、アントワネットがマルグリットを通じてフェルセンに渡す手紙です。
この手紙の内容をめぐって、3人の思いが本当はどうだったのかがいつも不思議だったのです。フェルセンはアニエスが読むことに同意したのですから、自分へのラブ・レターであると信じていたはずです。その直後の「なぜあなたは王妃なのか」からすると、そうでなかったことにショックを受けつつも、アントワネットの王妃たろうとするところに感銘を受けていると思っていました。が、アントワネットは???でした。国王が処刑されたのはこの手紙のせいかとマルグリットに尋ねました。私としては、もうびっくりでした。それほどの結果になることが予想できた重要な手紙をマルグリットに渡しますか?
今回は、国王うんぬんはなくて、マルグリットがまだ持っていること、でもアントワネットには返さないと。そして、返せないが、その代わりにファルセンを連れてきたという流れになっていました。マルグリットが、大人になったなぁと思いましたね。
私の???もなくなりました。

内容ではなくて、裁判の場面で肝心なことを歌っているマルグリットの歌詞が聞き取れないという音響の悪さも直っていました。ここで、マルグリットの歌詞が聞き取れないとラスト・ナンバーの自由へも繋がりませんから、音響さん頼みますよ!!!となっていたのでした。

アントワネットの孤独感が表に出る演技が多くなり、愚かさが少し消された感じがしました。
ラストのギロチンの場面でも、ギロチンに歩いて向かうところで、兵士に突き飛ばされても、一回は踏みとどまり、次で転ぶという演出になっていました。これだけで、アントワネットに対する印象がまるで違います。王妃としての誇りを感じることが出来ました。これも、より遠藤先生の原作に描かれたアントワネット像に近づいた感じがして嬉しく思いました。

他にも、いろいろあると思いますが、私が、矛盾していると強く感じていて、今回改善された場面が印象的でしたので、それについて書いてみました。
変な誤解を招くような無駄な台詞はまだまだあるように感じます。「君は気付いた、人を尊ぶことの大切さを」という宣伝文句を多くの観客が感じるには至っていないと思います。もっとアンサンブルが歌いつなぐ歌ははっきり歌詞を伝えて欲しいです。何人もで歌わないでソロで繋げばと思うこともしばしばです。前方の座席での見切れが多い演出や舞台装置も改善されてはいません。
それでも、06年に感じていた舞台への嫌悪感や、喪失感は本当に薄れました。もしかしたら、多くの観客が素晴らしいと感じる舞台に変化していくかもしれない希望の光が見えてきたように思います。

大きな変更があったわけではないと思うのですが、印象が変わった場面もありました。「もしも」や「なんというセレモニー」の後半の暗い部分です。
「なんというセレモニー」は首飾り事件の反響の大きさ、アントワネットへの取り巻き達の心の変化が凄く伝わってきました。
「もしも」は歌う人数が増えたのかと思いますが、アンサンブルのまとまりの賜物でしょうか。鈴木さんや今さんのお声もいいですしね。佐山陽規さんも加わったから?などと思っていますが、前からだったのでしょうか?次の場面がソロなので、参加していないと勝手に決めていたのかもしれません。(一事が万事ですから、結局は、書いている変更点も、私の思い込みが相当あるかと思います。間違いがありましたら、どうぞ、お許し下さい。)どちらにしても、曲はいいけれど取ってつけたような場面だと感じていたのが、心情を伝えている歌に変化したように感じました。

本当に、良くなってきていてよかったです。ほっとしました。
別に関係者でも何でもありませんが、これほどのキャストが揃っていて、あまりにも勿体ない舞台でしたから・・・そして、応援している佐山陽規さん、広田勇二さん、今拓哉さんが活躍する舞台なのですから!!!

しかしですね、この07年帝劇バージョンが初演であって欲しかったです。一回しか観ていない多くの観客に「矛盾した脚本」と言われてしまうなんて、ハンドルを取り付けないクルマを売ったのと同じことです。遠藤周作氏原作の「王妃マリー・アントワネット」という素晴らしい設計図があったのです。矛盾していたら、原作に解決策がいくらでもあったはずです。どうして、制作スタッフが誰も気づかなかったのでしょう?そして、06年初演も2ヶ月やっていたのです。その間に直そうと思えば、直すことが出来た場面や音響はいくらでもあったはずです。なぜ、直さなかったのか?
日本の舞台制作の悪い面を垣間見た気がしました。
次回、こういう大作のオリジナルを創るときは、絶対プレビューをやるべきです。それなら、観客も寛大です。06年初演の舞台程度でもチケットを破り捨てようか!とはなりません(苦笑)。制作側も聞く耳をもっと持ったはずです。

花粉症からも開放されつつあります。
春風に誘われて、銀ブラしがてら、また、帝劇に行ってみようかな。
私の秘かな楽しみは、カーテンコールの並び・・・今さん、佐山さん、広田さん・・・
わかった風にいろいろ言ってみても、結局は、そこへ(「太平洋序曲」の思い出へ)帰りたくなってしまうわーきんぐまざーなのです。
でも、前進あるのみ!!!「マリー・アントワネット」がますます充実した舞台作品となることを楽しみに、帝劇に行きますね。


追伸
9日に脱字の訂正と多少変更をしました。

14日にまた観劇しましたので、この記事への訂正に気づきました。お詫びと訂正を14日の記事に書きました。

サイド・バイ・サイド・バイ・ソンドハイム

2007年03月18日 | 観劇記
2007年03月18日午後1時   ミノトール2

 昨年9月にも観ました「サイド・バイ・サイド・バイ・ソンドハイム」の再演を観てきました。

出演者:池田紳一さん、さけもとあきらさん、やまぐちあきこさん、河合篤子さん
ビアノ:井福小枝子さん

 そのときにも観劇記を書いたつもりでいましたが、ブログにアップしていませんでした。いろいろ思うことがあったためと思われます。

 ソンドハイム氏の音楽は、全体として、聞き流せない心地よさにその特徴があると私は思っています。ここのところ流行している「癒し」の音楽は耳から入ってきて体をすり抜ける感じがします。体の力が抜けるので、確かに「癒し」には良いと思いますが、私は音楽としては勿体ないような気がしています。音楽は心に残ってこそという気持ちがどうしても私にはあるのです。

 「聞き流せない心地よさ」と言ってみましたが、もっといえば、ザラザラした心地よさですね。ところが、そのザラザラがゴツゴツではまずいんじゃないかと、ソンドハイム氏の音楽を聴くときよく思うのです。

 演奏者側になると、心地よいハーモニーではないし、変な転調はあるし、音域は広いし、相当ご苦労があるのだろうと、私のようなお気楽な聞き手でも予想がつきます。しかしながら、この「SSS」は出演人数も少ないですから、精鋭で作る舞台でなければならないと思います。また、私もそれを当然として会場へ出掛けているのです。

 こういう話は、良くなったから出来る話なのですね。先程「いろいろ思うことがあった」のは、まさにこのことでした。
 前回、昨年9月の際に、どれほどの準備期間があったのかわかりません。私が聞いた限りでは、ソンドハイム氏の楽曲の難しさからすると、少し準備が足りなかったのでは、という感じでした。
 さけもとさんはどんな難曲も平然とこなされてしまうので、あまりそれを感じてはいませんでした。池田さんも雰囲気でそれなりにこなされているように感じました。河合さんはきっちりと、そして美しい色気でかなりこなされていたと思います。が、やまぐちさんにはかなり?でした。「ウエストサイド物語」の『あんなおとこ』はとてもよかったと記憶していますが、他の曲は他の3人の方からすると、音程自体がとても不安定でした。ゴツゴツしてしまっていました。ご自分が得意となさる音域ではしっかり歌えるのに、少しでもそれを出てしまうと不安定になってしまうのかな?と思いました。微妙なハーモニーも求められるナンバーも多いので、少しイライラする場面があったのは確かです。
 本当に、申し訳ないのですが、やまぐちさんはそういう歌い手さんかな・・・と私の記憶には残ってしまいました、その時点では。

 それから、約半年。やまぐちさんの歌声を聞いて、「あれ、全然違う!」と思いました。「カンパニー」の『過ぎ行く人々』でその思いを確信しました。この曲はとても早口で、不安定な旋律の繰り返しで、多分その繰り返しが微妙に変化していくのです。まさに「ザラザラ」の典型の曲です。正確な音程、美しい歌詞は勿論のこと、その歌にこめられたメッセージも伝わってきました。その後の、『バディーズ・ブルース』もすごく楽しめましたし、『ブロードウェイ・ベイビー』では圧倒されました。『心揺れている』は私がとても好きな曲だけに、前回はとてもがっかりしたのですが、今回は惚れ惚れしました。
 しかし、こんなに変わるなんて、どんな努力をなさったのでしょう?かなり緻密な声のコントロールをなさっているなと感じながら聞いていました。一曲一曲どころか一フレーズずつ、どう歌うのかをきっちり突き詰めて練習なさったのでしょうか。
 ソンドハイム氏の曲の難しさが、やまぐちさんを悩ませたのだと思いますが、それをほぼ完璧にこなされたやまぐちさんはすごいなぁ、と思います。是非、これからもその美声、豊かな声量で、私たち観客を楽しませていただきたいと思います。

 私も大いに反省です。歌い手の力量をある程度は見抜けると思っていましたが、努力しても無駄な力量なのか、努力、あるいは、時間をかければ可能性がある力量なのか、全く見抜けませんでした。しかし、どこに違いがあるのでしょうか?なんだかミュージカルに何度も挑戦する歌の下手な役者に出会うたびに、「誰か、はっきり言えばいいのに」と思ってしまいます。でも、もう少し時間をかければ・・・なのでしょうか?基礎が違うのだと私は思いますが、どうなんでしょうか。

 作品としても、今回の方がハーモニーの美しさも楽しめ、よかったと思います。

 が、私の伺った回は、ちょっと河合さんの早口の冴えがちょっとなかったですね。以前、ソンドハイム氏の歌はちょっとでも気を抜いたら総崩れになる、と聞いたことがあります。持ち直していらしたので、河合さんは曲にかなりなじんでいらっしゃるのだとは思いますが、もう少し緊張感があってもいいのではと思います。もしかしたら、緊張し過ぎ、もあったのかも知れませんが、前回の「冴え」の印象が強かっただけに今回は残念でした。しかし、ライトナンバーの『私は生きている』には本当にぐっと来ました。
 昨年末から、正直、舞台への情熱、これは私が使う言葉ではないですね・・・ええ、観劇への情熱、こちらのほうですね、この情熱がわかなくなってしまっている私にとって、こういう舞台(歌詞は映画ですが)へ、人生をかけている人の心に触れることは、とても辛く、怖く、また、申し訳ない、と複雑な感情がうごめく厳しい時間です。河合さんの『私は生きている』は、私の閉ざされた心を少し開いて下さったようでもあります。

 相変わらず、厳しすぎるぞ、と言われそうですが、感じたままを書いてみました。

 しかし、さけもとさんはミスしませんね。本当に憎らしいぐらいです(笑)。別に粗探しのために聞いているわけではないので、楽しめればそれでいいのですが!
 今年が明けてからライヴ、「スウィーニー・トッド」、そして「SSS」とさけもとさんの舞台が続きました。ライヴなどは公演中でしたが、歌詞を覚え切れなかった、ぐらいで、ミスらしいミスもなく歌われていました。本当に、歌の神様がそこにいる、という感じです。

 同じ曲を聴いても、そのときの聞き手の感情によって、その曲はいろいろな顔を見せてくれます。そして、その変化の可能性がとても大きいのがソンドハイム氏の曲のような気が私はするのです。ですから、何度聞いても飽きることがありません。
また、「SSS」の再演も楽しみです。が、これはソンドハイム氏の初期の作品からの曲なので、「SSSパート2」とかが出来ると面白いと思っています。ちょっと曲想も変わってきていますし。まあ、どの曲を選ぶかで相当苦労しそうです。だって素晴らしい曲が多すぎるから!

それでは、また。お読み頂き、ありがとうございました。

スウィーニー・トッド

2007年01月27日 | 観劇記
プチ引越しなのに片付きません。思いもよらない仕事も入ったりして、ちょっとバテ気味。
その上、まあ当日券で、と考えていた「スウィーニー・トッド」は当日券はかなり少ないと聞き、突然チケット探しに奔走。大変でしたが、お芝居のことなら結構がんばれてしまうので不思議です。

さて、本題ですが、一言で言ってしまえば、相当努力して観に行った甲斐は十分あった、ということでしょうか。

20071月27日マチネ  日生劇場2階二列目かなり上手寄り。

感想のみです。

かなりの部分の曲を知っていたこともあり、また、ソンドハイムさんの曲が好きなので、ああこう来たか、とリプライズの妙に惹かれまくっていました。

話自体は、残酷です。でも、「イントゥ・ザ・ウッズ」よりは私の好みでした。結構この2作品の曲も似ていると感じました。
残酷ではあるのですが、亜門さん流の味付けで、軽やかに、時に楽しくさえありました。
キャストも熱演でした。そして、アンサンブルの皆様の活躍が、舞台の厚みを倍、いえ何倍にもしていました。
あれだけ複雑な旋律を美しく奏でて下さるのですから、うっとりと聞き入っていました。
ソンドハイムさん独特の手法なのか、手紙を書いているときに、内容を書いている本人以外が歌う場面がありました。何人かが歌いつないだと思いますが、中心は越智さんだったと思います。感情がすごく入ったという歌い方ではないのに、トッドの心情がすごく伝わってきました。越智さんの歌も素晴らしいのですが、こういう手法をとるソンドハイムさんはやっぱり天才だと思ってしまいます。

プリンシパルの何人かに対して歌について不満もあります。が、我慢できる範囲内でした。
ただ、私はアンソニーの城田さんにもっと明るさや希望をお願いしたいですね。長身なのに、それを活かしきれていないとも感じました。もっともっと若さまるごと、はずんでいる感じがほしいです。トッドの対極に生きる人間なのですから、もっと明るくないと作品が暗くなり過ぎです。

そうは言っても、本当に人物がきちんと描かれているので、自分とは相容れない人物(一番は判事です)でも「こんな人もいるんだ」と思えました。一緒にフリート街で生きている感じさえしました。

なんだか、とても久しぶりに充実したミュージカルを観た気がします。
そして、つくづく私はソンドハイムさんの音楽が好きなんだなぁと思いました。

では、今日はこのあたりで。また、落ち着いたら書き足します。

お知らせ

2007年01月18日 | 観劇記
今日は、さけもとあきらさんのライヴに行きました。詳細はまたいずれ。
その場で、昨年9月に開催された「サイド・バイ・サイド・バイ・ソンドハイム」が3月18・19日にミノトール2(新宿)で再演されるという話題が出ていましたので、お知らせいたします。

まだ、HP本体の更新ができる環境にないため、この場でお知らせいたしました。

私自身、とても好きな舞台というか、コンサートというか、不思議なこの「SSS」が大好きです。前回見損ねてしまった方は是非是非!前回観た方も、また、是非ソンドハイム様の世界にどっぷりと浸かってくださいね。

元禄忠臣蔵

2006年11月12日 | 観劇記
06年11月12日昼の部
国立劇場大劇場  3列目センター

国立劇場で10月から3ヶ月かけて通し上演をしている「元禄忠臣蔵」の第2部を観てきました。
「伏見撞木町」「御浜御殿綱豊卿」「南部坂雪の別れ」の全4幕10場。

あらすじは、あまりにも有名なので省略します。
「仮名手本忠臣蔵」の何段目かを歌舞伎座で観ることは多かったのですが、「元禄忠臣蔵」は初めて観たような気がします。
昭和9年に真山青果氏が書き下ろした作品だそうです。
内容は、大きく違わないものと思います。また、映画やドラマでも見ていますので、知識は豊富です。

印象として、歌舞伎というより、ストレート・プレーに近い感じです。見得を切るような演出は少なく、言葉は歌舞伎言葉ですが、独特の節回しは殆どありません。スピード感には欠けるものの、人物の掘り下げ方はその素晴らしい言葉の中にちりばめられ、台詞のあとにたくさんの拍手が起こるという不思議な状況でした。
歌舞伎の独特の所作や台詞回しに違和感のある方も、このような作品から歌舞伎の世界へ入られるとよいのではないかと思います。

「忠臣蔵」は、誰もがその結末を知りながら観ているという世にも不思議なお話です。そして、現在の私達では理解しがたいような、「主君の敵をとる」という美学を主題としています。それなのに、いまだにドラマが新たに作られたり、こうして、上演されたりするのでしょうか?

今回、じっくり一部ではありますが、通しを観て、「主君の敵をとる」という美学に共感は出来なくとも、「自分の理想を追い求める」と置き換えると登場人物の気持ちに共感できるのです。そして、みんな理想を求めているのに、理想を実現できないでいるのです。その苦しみ、悲しみはどの時代にも、どんな人にも通じるものがあるのです。

特にのちに第六代将軍になる徳川綱豊と、赤穂浪士の富森助右衛門のやりとりは迫力がありました。身分を越えて、自分の考えを真っ向からぶつける力強さ、そして、心の底に流れる二人の共通する思い、本当に胸が熱くなりました。

台詞の組み立て方が素晴らしいですね。立場の違う人間が、別の場面で同じ台詞を言うのです。観客には、その2人がもし出会ったら、どんなに分かり合えただろうと感じることが出来ます。想像が膨らみます。
結果はわかっているのに、もっと良い結果があったのではないか、出来ることはなかったのか、などなど考えさせられることが一杯です。
そして、その考えは、多分、作品の中の出来事にとどまらず、現実の私達の身の回りに起きていることにも波及するのです。「理想を実現するために」今出来ることは何だろうかと。
その考えに至るような台詞を聞くと、拍手したくなるのでしょう。

「台詞」に拍手はストレート・プレーでは考えられないことです。タイミングからすると「歌」でも歌の途中、かもしれません。それでも、拍手が起こる。如何に、その台詞が生きた言葉になって観客に届いているかがわかります。もっと言えば、観客が登場人物になって板の上に立っているような錯覚に陥っている、という感じです。


話しは少しかわりますが・・・
先日、「絵画を見るために5年間ヨーロッパに住んだ」という体験談がラジオから流れてきました。よく聞いていなかったのですがひとつだけ印象に残った話しがありました。キャスターが「なぜ5年間と区切ったのですか?」と。「新鮮さ、感受性の豊かさを失いたくなかった。それは5年が限度かと。」

しばらく、この「5年」という文字が頭から離れませんでした。
私は、たくさんの舞台を観るようになって6年。感受性が失われても不思議はないのだと思い始めたのです。確かに、その兆候はあります。以前から、この感受性の欠如は私の最も恐れるところだったのです。このままではいけない。なにがいけないのか私以外の人にはわからないかもしれませんが、何かに取り付かれたように、自分で自分が許せなくなっていました。

しかし、今日、「忠臣蔵」を観て、本当に心からいろいろなことを感じることが出来ました。
やはり、伝統に裏打ちされた芸のそろった舞台は、どんな斬新で奇抜な舞台よりも、私の心に新鮮に届くのです。
また、気持ちを新たに、観劇を続けて行きたいと思います!

マリー・アントワネット

2006年11月01日 | 観劇記
初日!観劇してきました。
感想を書くつもりなのですが、少々酔っ払っていまして・・・と自覚しているので多分酔いはさめつつあるのですが、どう考えても二人で飲むお酒の量ではなかったような・・・反省しています。でも、そのおかげで各分野の演劇話に花が咲きました。

気を引き締めて本題の「マリー・アントワネット」についてです。
初日を帝国劇場で観て来ました。下手の結構後ろだったのですが、(コンタクトレンズをしてですが)私の視力がこんなによいとはびっくりしました。それほど、自分が注目しているキャストの皆様の演技が素晴らしかったと言うことだと思います。

が、作品として、舞台として、どうであったか・・・
私は、たとえ多くの人が素晴らしいと言っても、自分の中でだめとなればだめなのです。そして逆もあります。
しかし、この「マリー・アントワネット」は自分の中で決められないのです。勿論、初日であることを考慮しても、です。
もしかしたら、二度観たらすごくしっくりするかもしれないと思う場面がたくさんあるのです。それは、その場面が後の場面の前振りになっているからで、そういうところがとても多いのです。また、ある程度、遠藤周作さんの原作や「ベルばら」、そしてあの時代の歴史を知っていればより楽しめるのではないかという気もするのです。
初日は、キャストも観客も探りあいのようなところがありますので、これからを楽しみにしたいと思います。

ただ、残念と言えばショー・ストップするようなナンバーが主役にないという点でしょうか。

あらすじは、史実ですので書きません。遠藤氏の原作にも添っています。
そこでキャストへの感想を少しずつ。役名については、東宝のHPなどをご覧下さい。感想に混じって、舞台の内容にも踏み込みますので、知りたくない方はここで読み終わりとして下さい。

涼風さん。
一幕のわがままさに、ちょっと引きましたが、二幕は本当に素晴らしかったです。タイトル・ロールとはこういう演技を言うのだと思いました。歌も、いつもと変わらず安定していました。初日でここまで落ち着いて歌えるのであれば、今後はますます期待してしまいます。

石川さん。
ルイ16世をこういう風に演じられるのは、石川さんしかいないと思いました。とても情けないのですが、やはり王であることを漂わせる素晴らしい演技でした。
先程、ショー・ストップの曲がないといいましたが、「もしも鍛冶屋なら」は素晴らしいナンバーでした。私は絶対王制の王も時代の被害者であると思っています。その思いが共感できるナンバーでした。

井上さん。
実は、子供の頃からへそ曲がりだったので、私は「ベルばら」の中でフェルセンがとても好きでした。まあ、当初は彼の存在の本当の意味はわからなかったのですが、カッコよかったのです。優柔不断でもありますが、一人の人間、男であるとか女であるとかに関係なく、ここまで愛せるのかというその設定に心惹かれていたのだと思います。
そして、この舞台のフェルセンもまさに私が惹かれる愛を貫きます。井上さんは、その愛を歌い上げ、演技でマリー・アントワネットを包み込んでいました。素晴らしいフェルセンであったと思います。フェルセンの歌うナンバーはどれもステキです。

山路さん、山口さん。
と併記したわけですが、歌はそれなりでした。が、最後の肝心の場面で、山口さんの歌詞が聞き取れず、ものすごく残念でした。キー・ワードを歌っていると思いますので。
2人必要だったのか。どちらかに絞った方が、舞台としてはしまったと私は思いました。

新妻さん。
涼風さんと逆で、一幕はとてもいいです。が、二幕はどうでしょうか。心の動きが表現しきれていないと思いました。緊張していたのかと思いますが、マルグリットが一つの面しか見ていないときに思ったこと、そして視野が広がったときに感じたことが違うのだということをもう少し明確にして欲しいですね。歌は安定していますが、まだまだ感情を、マルグリットという人間の成長を入れ込みながら歌うには至っていないと感じました。

土居さん。
いつも、どの舞台も素晴らしい歌と演技で私を魅了して下さる方です。とても安心して舞台を拝見できる女優であると思っています。しかし、今日はさすがの土居さんも緊張のご様子。新妻さんの緊張が伝染したのではという感じでした。もっともっと歌に感情を入れることの出来る方ですので、今後に期待したいです。

春風さん、林さん、tekkanさん。
見せ所はあります。が、ちょっと勿体無い感じです。感情を乗せるとか、そういう場面はありません。
林さんはロアン大司教も演じられるのですが、この役柄が関連する「首飾り事件」の取り上げ方は難しいです。遠藤氏の原作には相当の分量がこの事件に割かれています。ここを割愛するのはヨーロッパではとても重大な事件だったので、説明なしでも「首飾り事件」の一言ですむからではないかと思いました。そして、この事件の後ロアン大司教が無罪を勝ち取ることにものすごい意味があるのですが、舞台だけではなかなか理解しがたい部分だと思うのです。まあ、この話しだけで映画も出来るぐらいですから、本当に難しいのです。

こんな感じでしょうか?
やはり内容に結構踏み込んでしまいました。

これで、終わりではありませんよ。やはり、「太平洋序曲」のメンバーは私にとって特別な思いがあります。製作発表参加にチャレンジしたのも、佐山さんや広田さんのご活躍を楽しみにしていたからです。

広田さん。
べメールという宝石商では、あまり歌はありませんが存在感はあります。その前に、オルレアン公の舞踏会での台詞も広田さんだったと思います。
話しをもどしてべメールですが、首飾り事件の中心人物なのですから、事件が発覚したときにもう一押しあってもよいのではと思いました。事実はどうであれ、あの事件でアントワネットは地獄へおちていくのですから。
最後の方で、エベールという新聞記者を演じられます。アントワネットがある卑劣な行為をしたと糾弾し、彼女を断頭台へと送るのです。革命派にとってはすごいいい情報ですが、あまりにむごい内容です。広田さんの口からは聞きたくなかったかも・・・。まあ、役の上のことですから、仕方ないのです。こちらは、迫力満点でした。本当に狂気を感じさせて下さいます。

佐山さん。
本当に久しぶりの帝劇へのご登場です。ギヨタン博士を演じることはわかっていました。が、最初にこの帝劇で響いた歌声は違いました。貧しい民衆の一人として「もう無くすものはない」でした。7、8人で歌われる歌ですが、「あっ、佐山さんの声」とすぐにわかりました。やはり佐山さんのお声が入ってくると、歌に厚みが増します。実は、お姿より、声に先に反応したので、ファンとしてはちょっと失格かも・・・。でも、暗い場面でしたから、仕方なかったことにしておきたいと思います。その後も、この杖をついた老人として演じる場面が続きます。相変わらず、きめ細かい演技で、暗い中でもひきつけられていました。
そして、ギヨタン博士。MA公式ブログのインタビューで、「ちょっと変わった場面」とおっしゃっていたので、楽しみというか、ちょっと怖いというか、待ちきれない思いでした。
そして、ついにその場面がやってきました。
確かに、変わっています!!!ルイ16世の石川さんとギヨタン博士の佐山さんのとてもとても不思議な世界です。
この場面は、あとあとのギロチンやルイ16世の歌の伏線となっていくのです。ですから、リピートすると何だかとても心に残る場面になっていくのではないかと感じました。が、一度しか観劇しない観客のためには、この場面は、ラパン夫人の刑の後に入れ込んだ方が印象的だと思ったのです。そうした方が鞭打ちより(この時代はもっと残酷な刑がありました)ギロチンが人道的であるという、狂気がさらに伝わったのではないでしょうか。
佐山さんは最後に、アントワネットの裁判の場面で裁判官の声を担当なさいます。素晴らしい歌声です。劇場の後ろの方から聞こえてきますので、臨場感溢れます。

少し書くつもりが、書き出したらこんなに書き綴ってしまいました。
ということは、いろいろ感じることがある舞台だったということなのです。また、少し時間を空けて、観劇する予定です。