マリー・アントワネット 07年4月14日マチネ 帝国劇場1階E列センター
7日の記事に書いたとおり、また、行ってしまいました。
15分前に着いて当日券を買ったので、ちょっと前過ぎると思ったものの、そのまま買ってしまいました。当日券でこの席?と思ったものの、回りはすべて埋まっていました。たまたま一席空いていたようです。しかし、「マリー・アントワネット」(以下、MA)は、1階ならI列より後ろをお勧めします。
7日の記事を修正しようかとも思ったのですが、このように別に書き足して、お詫びすべきところはしたいと考えました。
『(アニエスの)マルグリットの父親がオーストリア人という台詞もなくなっていました。』
と書きましたが、残っていました。申し訳ございません。ない方がいいと思っていたので、聞き逃したのかもしれません。
また、同じくアニエスの台詞に関してです。
『そして、「人間には様々な顔がある」という台詞が入りました。』と書きましたが、「ここには人間の顔がない」というような台詞でした。これは、06年の帝劇公演にもあったように思います。ただ、印象として、台詞が少なくなったので、人間の顔を眺めてのこの台詞が印象深かったのだと思います。
細かい台詞に関しても、違うのはわかったのですが、似たような内容ですし、私にはそういう内容で伝わったということにさせて下さい。
さて、ここからは7日の記事に書かなかったことや、今日発見したことを書いてみたいと思います。
日本経済新聞が初演時は相当な批判をしていましたが、この帝劇公演を褒めていましたね。
私も、良くなったとは思いますが、そんなに甘くないです!
が、観に行きたくなる・・・矛盾しているかも(苦笑)。
06年帝劇公演で私が激しく作品を嫌悪したのは、遠藤周作氏の原作にある、また、遠藤氏の作品に共通する「愛」がまるで感じられなかったからです。遠藤氏の哀しくも優しいまなざしで登場人物を描いている作風が、どこを探してもありませんでした。
MA開幕の数ヶ月前に同じ遠藤氏の原作をミュージカル化した音楽座の「泣かないで」(私が、棄てた女)を観ていました。原作がそのまま、本当にそのまま脚本になったような舞台でした。遠藤氏が伝えたかったであろうことが、文章を読む以上に、深く伝わる舞台だったのです。
MAも同じように作れば、奇を衒(てら)うことなど必要ないと思っていました。まして、あれだけのキャスト陣です。方向性さえ示せば彼らが作り上げていってくれると思っていました。
そして、MAの原作に書かれているマリー・アントワネットのキーワードは「エレガンス」です。遠藤氏は何度も、何度も繰り返し、そして、最後の最後にもこの言葉を出しています。
哀しくも優しいまなざしの「愛」と「エレガンス」が原作の主題なのに・・・
MAにはどちらもない。あるのは「さげすみ」と「暴力」のみ。
歴史上の人物には、後世の人間がいろいろな評価をします。それは、時の権力者の横暴であったり、時代の求めるものの違いであったりだと感じています。また、私自身もこの人物のこの面は尊敬するが、この面は軽蔑する、と人間はいろいろな面を持っていると理解しています。
ですから、舞台でマリー・アントワネットがどう描かれようと、それはそれです。が、MAには遠藤氏の原作があるのですから、それは尊重されるべきだと思ったのです。そもそも、それを尊重できないのなら、この作品の制作に関わるべきではないと思います。
06年帝劇公演は、どこをどう観ても聴いても、遠藤氏の主題が見当たりませんでした。
私が、この原作の主題だと感じていることを、この作品の主要な創り手たちは感じていないのだろうとしか思えなかったのです。
ここに、大きな感じ方の違いがあるとすれば、決して、舞台は私の好みにはなり得ません。
07年帝劇公演には、随所に哀しくも優しいまなざしの「愛」と「エレガンス」が見出せるようになって来ました。ですから、もう少し、私の好み(より原作に近いはずと思いますが)に近づく舞台に変化し続ける可能性を見出したのです。
7日と今日で、二人のマルグリットを観ることが出来ました。二人とも「いけいけ」マルグリットから、考える「マルグリット」になっていましたので、演出が変わったのだと確信しました。
私が一番納得いかない、洗濯の場面から、ヴェルサイユへの行進も、まあ許そうという気持ちになっています。
マルグリットがオルレアン公から先導するように言われても、マルグリットは立ち去ろうとします。が、お金には釣られるのはおかしいと思いながらも、革命成就のためには仕方ないと先導する様子が演技になっていました。
そして、勢いよく宮殿に突入した彼女ら(男も混じっているが)だが、いざ、国王と王妃の前では、おとなしくというか、畏敬の念を抱いた様子になっていました。これが、多分、有名な王妃のバルコニーでの礼なのだと思います。
しかし、7日にはあまり感じられない変化でしたので、もっとはっきりとした演出にしなければ、一見の観客には伝わらないかもしれません。
このことや、7日の記事にも書いたこともあわせて、私の好みというか、原作の伝えたかった舞台に近づいてきたと感じています。
しかし、まだまだ勿体ないというか、???があります。
ぶった切りの舞台と思える場面に「パリ情報」があります。実は、場面として私は結構好きなのですが、あまりに唐突な場面です。
よく歌詞を聴くと、辛辣な時代の流れを歌っているので、面白いと思うのですが、キャストや音楽のおかげで、観客は大混乱だと思います。かく言う私も初日は???かける10ぐらいの思いでした。
一幕でアントワネットに仕えていた3人が登場するので、観客は、王家側の擁護だと思い込んでしまうはずです。そこへきて、フランス革命はある程度知っていても、ジロンド党だのジャコバン党だの、サン・キュロットだの言われてますます混乱。
その上、音楽がバカに明るい能天気なものですから、「命が惜しけりゃ」と歌っていても、聞き逃してしまうのです。
この3人がまず時流に乗ってアントワネットから離れたことを伝えたら、もっと入り込みやすいと思うのです。本当に伝えたいのは、革命がとても不安定で、勢力争いがひどいことなわけです。深く関わっていない一般市民でも、ちょっとしたことでギロチン行きとなる不条理を伝えたいのだと思います。ちなみに一日何百人もの人間がギロチンにかかったという記録がありますので、それこそ情報にのり遅れたら命取りだったのです。
この「命が惜しけりゃ」ぐらいが、短調系に転調していたら、もう少し観客の印象が違ったと思えるのですが・・・。それは無理でしょうから、そこの歌詞をもっともっと重く歌ってみるぐらいしか、この場面の真意を伝える手立てはなさそうです。
面白い場面だけに、本当に勿体ないです。
ラストの「自由」は不協和音で終わると聞いていましたが、なんだか綺麗なハーモニーにしか聞こえません。やっと、「自由」の意味を本気で考えようという舞台に変わりつつあるのに、この「自由」で満足しているようでがっかりなのです。
もし、もう少し舞台が暴力ではなくて愛で人間を救うという方向に傾いて、ラストの「自由」なら今の旋律でもおかしくないと思います。
私が不協和音に慣れすぎて、不協和音を美しいと感じてしまっているのでしょうか?
舞台の良し悪しは、結局は「好み」でしかないと思います。
しかし、「伝えたいことが伝わっているか」は「好み」以前の話だと私は考えています。
その考えに立って、またまた、いろいろ語ってしまいました。
そして、ギャーギャー言いながらもまた観に行くんだろうな・・・(苦笑)。
7日の記事に書いたとおり、また、行ってしまいました。
15分前に着いて当日券を買ったので、ちょっと前過ぎると思ったものの、そのまま買ってしまいました。当日券でこの席?と思ったものの、回りはすべて埋まっていました。たまたま一席空いていたようです。しかし、「マリー・アントワネット」(以下、MA)は、1階ならI列より後ろをお勧めします。
7日の記事を修正しようかとも思ったのですが、このように別に書き足して、お詫びすべきところはしたいと考えました。
『(アニエスの)マルグリットの父親がオーストリア人という台詞もなくなっていました。』
と書きましたが、残っていました。申し訳ございません。ない方がいいと思っていたので、聞き逃したのかもしれません。
また、同じくアニエスの台詞に関してです。
『そして、「人間には様々な顔がある」という台詞が入りました。』と書きましたが、「ここには人間の顔がない」というような台詞でした。これは、06年の帝劇公演にもあったように思います。ただ、印象として、台詞が少なくなったので、人間の顔を眺めてのこの台詞が印象深かったのだと思います。
細かい台詞に関しても、違うのはわかったのですが、似たような内容ですし、私にはそういう内容で伝わったということにさせて下さい。
さて、ここからは7日の記事に書かなかったことや、今日発見したことを書いてみたいと思います。
日本経済新聞が初演時は相当な批判をしていましたが、この帝劇公演を褒めていましたね。
私も、良くなったとは思いますが、そんなに甘くないです!
が、観に行きたくなる・・・矛盾しているかも(苦笑)。
06年帝劇公演で私が激しく作品を嫌悪したのは、遠藤周作氏の原作にある、また、遠藤氏の作品に共通する「愛」がまるで感じられなかったからです。遠藤氏の哀しくも優しいまなざしで登場人物を描いている作風が、どこを探してもありませんでした。
MA開幕の数ヶ月前に同じ遠藤氏の原作をミュージカル化した音楽座の「泣かないで」(私が、棄てた女)を観ていました。原作がそのまま、本当にそのまま脚本になったような舞台でした。遠藤氏が伝えたかったであろうことが、文章を読む以上に、深く伝わる舞台だったのです。
MAも同じように作れば、奇を衒(てら)うことなど必要ないと思っていました。まして、あれだけのキャスト陣です。方向性さえ示せば彼らが作り上げていってくれると思っていました。
そして、MAの原作に書かれているマリー・アントワネットのキーワードは「エレガンス」です。遠藤氏は何度も、何度も繰り返し、そして、最後の最後にもこの言葉を出しています。
哀しくも優しいまなざしの「愛」と「エレガンス」が原作の主題なのに・・・
MAにはどちらもない。あるのは「さげすみ」と「暴力」のみ。
歴史上の人物には、後世の人間がいろいろな評価をします。それは、時の権力者の横暴であったり、時代の求めるものの違いであったりだと感じています。また、私自身もこの人物のこの面は尊敬するが、この面は軽蔑する、と人間はいろいろな面を持っていると理解しています。
ですから、舞台でマリー・アントワネットがどう描かれようと、それはそれです。が、MAには遠藤氏の原作があるのですから、それは尊重されるべきだと思ったのです。そもそも、それを尊重できないのなら、この作品の制作に関わるべきではないと思います。
06年帝劇公演は、どこをどう観ても聴いても、遠藤氏の主題が見当たりませんでした。
私が、この原作の主題だと感じていることを、この作品の主要な創り手たちは感じていないのだろうとしか思えなかったのです。
ここに、大きな感じ方の違いがあるとすれば、決して、舞台は私の好みにはなり得ません。
07年帝劇公演には、随所に哀しくも優しいまなざしの「愛」と「エレガンス」が見出せるようになって来ました。ですから、もう少し、私の好み(より原作に近いはずと思いますが)に近づく舞台に変化し続ける可能性を見出したのです。
7日と今日で、二人のマルグリットを観ることが出来ました。二人とも「いけいけ」マルグリットから、考える「マルグリット」になっていましたので、演出が変わったのだと確信しました。
私が一番納得いかない、洗濯の場面から、ヴェルサイユへの行進も、まあ許そうという気持ちになっています。
マルグリットがオルレアン公から先導するように言われても、マルグリットは立ち去ろうとします。が、お金には釣られるのはおかしいと思いながらも、革命成就のためには仕方ないと先導する様子が演技になっていました。
そして、勢いよく宮殿に突入した彼女ら(男も混じっているが)だが、いざ、国王と王妃の前では、おとなしくというか、畏敬の念を抱いた様子になっていました。これが、多分、有名な王妃のバルコニーでの礼なのだと思います。
しかし、7日にはあまり感じられない変化でしたので、もっとはっきりとした演出にしなければ、一見の観客には伝わらないかもしれません。
このことや、7日の記事にも書いたこともあわせて、私の好みというか、原作の伝えたかった舞台に近づいてきたと感じています。
しかし、まだまだ勿体ないというか、???があります。
ぶった切りの舞台と思える場面に「パリ情報」があります。実は、場面として私は結構好きなのですが、あまりに唐突な場面です。
よく歌詞を聴くと、辛辣な時代の流れを歌っているので、面白いと思うのですが、キャストや音楽のおかげで、観客は大混乱だと思います。かく言う私も初日は???かける10ぐらいの思いでした。
一幕でアントワネットに仕えていた3人が登場するので、観客は、王家側の擁護だと思い込んでしまうはずです。そこへきて、フランス革命はある程度知っていても、ジロンド党だのジャコバン党だの、サン・キュロットだの言われてますます混乱。
その上、音楽がバカに明るい能天気なものですから、「命が惜しけりゃ」と歌っていても、聞き逃してしまうのです。
この3人がまず時流に乗ってアントワネットから離れたことを伝えたら、もっと入り込みやすいと思うのです。本当に伝えたいのは、革命がとても不安定で、勢力争いがひどいことなわけです。深く関わっていない一般市民でも、ちょっとしたことでギロチン行きとなる不条理を伝えたいのだと思います。ちなみに一日何百人もの人間がギロチンにかかったという記録がありますので、それこそ情報にのり遅れたら命取りだったのです。
この「命が惜しけりゃ」ぐらいが、短調系に転調していたら、もう少し観客の印象が違ったと思えるのですが・・・。それは無理でしょうから、そこの歌詞をもっともっと重く歌ってみるぐらいしか、この場面の真意を伝える手立てはなさそうです。
面白い場面だけに、本当に勿体ないです。
ラストの「自由」は不協和音で終わると聞いていましたが、なんだか綺麗なハーモニーにしか聞こえません。やっと、「自由」の意味を本気で考えようという舞台に変わりつつあるのに、この「自由」で満足しているようでがっかりなのです。
もし、もう少し舞台が暴力ではなくて愛で人間を救うという方向に傾いて、ラストの「自由」なら今の旋律でもおかしくないと思います。
私が不協和音に慣れすぎて、不協和音を美しいと感じてしまっているのでしょうか?
舞台の良し悪しは、結局は「好み」でしかないと思います。
しかし、「伝えたいことが伝わっているか」は「好み」以前の話だと私は考えています。
その考えに立って、またまた、いろいろ語ってしまいました。
そして、ギャーギャー言いながらもまた観に行くんだろうな・・・(苦笑)。
7日のマチネですが、確かにアニエスの台詞ありませんでした。私も「ウィーンから」は無くなったんだ、と思っていたのですが、ソワレではあったので、おそらく(すごく珍しいと思いますが)土居さんの台詞抜けだと思います。ですので、お詫びされることはありませんよ!(^^)
帝劇初演は観ておりませんが、わーきんぐまざーさんのM.A.考読ませていただいて「なるほど・・」と深く納得させていただきました!1回の観劇で伝わらないところも勿体ないですよね・・。
でも、私の耳もまだちゃんと機能していると確認できて、ほっとしました(笑)。
wieさん、コメントありがとうございました。
しつこいようですが、私はあの台詞がない方がしっくり来たのです。
皆様はいかがでしょうか?
私のブログで
ここの記事を紹介させていただきました。
紹介記事は
http://blog.livedoor.jp/zero_ijin/archives/53831946.html
です。
よろしくお願いいたします。
私の記事を紹介して頂きありがとうございます。
まだ、舞台をご覧になっていらっしゃらないのでしたら、是非帝劇へお運び下さい。