2週間もの間、ブログも更新せず
あれやこれやと雑事に追われ
気付けばもう年の瀬。
ちょい身体もしんどくて、久々に覗いたあちこちの
お気に入りブログやサイトも全部読み終えるのは
困難なほどに様変わりしてた。
メディアは飯島愛さんの死に、詮索と同情とが渦巻く
報道をしているようだが、ネットでも同じような
反応なのだろうか。
読もうとは思わないけれど。
私は彼女の周囲の人たちと距離を置いた私生活に、
何となく自分に近いものを感じる。
誰にも踏み込まれたくない部分を持っていたいという・・。
周囲の人たちが好きなのは事実だし、一人でもこの世から
居なくなったら寂しくて悲しくて堪らないけれど、
それとは全く違う、誰とも共有しない「個」の感覚で
居られる空間が必要なのだ。
「自分だけの時間を持つ」ことは、自分には必要不可欠で
それは「孤独」とは違い、自ら求めて得るものなのだ。
だから
彼女の死を「孤独死」などと呼ぶのは失礼ではないかと思う。
1人暮らしの人が、たまたま自分の部屋で死んだという
誰にでも起こりうることだったと。
これからの「結婚しない」「できない」時代の人たちにも
特別なことではないはずだから。