福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

ああ、10キロ越えおちび 片手抱っこで すじちがえ。

2015年10月29日 14時04分19秒 | 子どもがいるとバタバタね?!だけど頑張るまちまなび・まちあるき
・・・・黙々と 数冊並べて 円仁さんと在唐新羅人のみなさんのつながりを ノートに書き留めています。



・・・・・・・・・・・昨日、調子に乗り過ぎ・・・・・・・・・・・夜中の2時。





子育てには 体力も大事なのに、寝ないと 体力なくなりますー!!!!!



ということをやった翌日、はい、今日。


抱っこで背中というか ほぼ腕・・・・・・・・・



ぴりっ。



・・・・・・・・・その嫌な感じはぁぁ・・・・・・・・・・・・


片手抱っこで10キロ越え、買い物荷物もありつつの帰路には注意しましょう、な状態です。



このまま 40肩に 突入しないでぇぇぇたんなる筋違えで おわってぇぇぇ


久しぶりの、片手で&1本指打ちブログです。

というわけで、今日はとにかく、小休止・・・・いい感じに進んでいたのにー!

ノートへの書き写し 円仁さんと 在唐新羅人のみなさんとのことという切り口で 再開

2015年10月26日 23時42分49秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(2013年ママになってから)
ノートへのまとめ作業、再開。


ひとまず 円仁さんの838年から847年の 唐でのいろいろを 書き写すことにしました。

そうすれば、在唐新羅人と言われる人たちの、そのころのネットワークも 書き写せるだろうと思って。






・・・・・・・・・・・改めて、書き写してみると、いやぁ、揚州につく前の、着岸地点での大変さって・・・・・・

波と潮に、もう 本当に大変な目にあってる~?!



揚州自体は すごく栄えている都市で、“買う”役目を果たすには とても良い場所だったかとは思うのですが、
いやぁ・・・・
それよりもっと下流の、着岸地だったとこの様子って・・・大きな蚊?!嵐?!じめじめとした気候?!
いやぁ・・・・大変だったでしょうねぇ・・・・・



それに比べると、明州は 着岸しやすい港だったのかなー???


先々、確認してみたいと思います。




さて、ノートへのまとめ作業を 再開します!!!

明日の日中は おちびと ちょっと出かねなくちゃならないようなので・・・・
うーん、ひとりでまわす こそだての日々も いろいろ重なると大変ですが、でも、まぁ・・・・やりこなします~。

夜中の読書で 入力間違い発見・・育児ヘトヘトから切り替えのための読書、いきた!

2015年10月24日 08時33分29秒 | 子どもがいるとバタバタね?!だけど頑張るまちまなび・まちあるき
おちび ギャン泣きで、ええ、もう、やっぱり予想通り大変だった 通院でした。


インフルエンザ1回目と 便秘の処置と 両方になっちゃったからなぁ・・・・・・・・・・・


ママも もう へとへと・・・・・。


疲れすぎて、抱っこしすぎで 肩こりひどくって、夜中、起きてしまうほど。


・・・・・・そこから、かるーく、読書して、切り替えて 寝たんですけどね


地図に貼り付けた、張詠さんの役職まちがいに気づけてよかったです。

あ~~~・・・・


838年時点では
新羅通事押衙・登州軍事押衙・勾当新羅使押衙
 など・・・なんですね

確認していたはずだったのに、845~847のを、そのまま838年の枠にも入れちゃってました


ああああああ~~~~~


修正できたので、よかったです


さぁ、そろそろ パパとおちびが 帰ってくるかなぁ~~~~。


昨日の帰り道で、本当は 今日の朝ごはんなどの買い物をするつもりだったのに、全くできなくて、帰ってきちゃってたんで

バス→徒歩通院なので・・・・・・・・・・・・帰るだけで もういっぱいいっぱいでした



今日は ご機嫌よく 過ごせたらいいなぁ~~~~!!!!!!

819年から847年まで 地図に反映させた 人とモノの動きを 改めて見て・・・

2015年10月22日 23時37分40秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(2013年ママになってから)
昨日 綺麗にまとめなおした地図は・・・

お昼のうちに B4に拡大コピーして、ノートにぺたりと貼りました。

122倍になったから、より見やすくなって よかったです


こうやって まとめなおしてみると、
円仁さんは、張宝高さんが ノリに乗っていた頃に 唐に行ってるんだなとわかります。
838年から839年といったら
清海鎮大使になってから もう10年ほど経ってる頃だから
そりゃぁ もう、唐(山東あたりから揚州くらいまでは確実に)でも新羅でも おおっきな影響力をつけていますよね


張宝高さんが活躍していたころの人とモノの動きについては
“兵馬使兼大唐売物使”の肩書を持つ、崔暈さんの役目についても、おさえていたほうがいいんだろうなーと 思っています。

唐から新羅へ向かう、神武王を慰問し、王の称号を与える冊立使とみられる遣新羅使が唐から派遣された際に、
唐の船ではなく、
“張大使交易船”を利用したというのも、見落としてはならないところですよね。

その、もう、半年後・・・?くらいには、神武王は亡くなり、文聖王になって、ゴタゴタいろいろ・・・になるわけではあるけれど・・・


円仁さんが唐国内での仏教弾圧の影響を受け、日本に戻るとなった845年では、
崔暈さんは もう“自分の船を持っていなかったと思われる”ということが書いてあったので

やっぱり 張宝高さんが いろいろあってなくなったあとは、崔暈さんは 唐-新羅-日本のあいだの交易に かかわれなくなったんでしょうかね・・・・。

張宝高さん配下ということでは、
平盧軍節度同十将 兼 登州諸軍事押衙という役職にのぼりつめてた張詠さんも いろいろビミョウだったのかなぁ??



うーん、そのあたりの内容をまとめて、5冊目のノートを終えたいわ~~!!!!!


・・・・・・・・・でも、明日は おちびギャン泣き確実の、小児科行きがあり・・・・・・・
母の気も 絶対そがれるので、今日は ひとまず、このへんまでの振り返りのみで





819年から847年・・人のうごき、役職の変化、見やすく まとめなおしました

2015年10月22日 01時07分44秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(2013年ママになってから)
昨日の 手書きで書き入れた地図は

正直いって、非常に 見にくかったので・・・・

おちびが お昼寝している間に、コレ↓を打って


おちびが 夜 寝付いた後に ペタペタ貼ってみました。


819年の平盧軍節度使李師道の反乱から、847年の円仁さん唐から日本へ戻るまでの、結構長いとしつきが反映された地図になりました

いくつかの本を参考にして年号と役職とをあわせて打ったので
どの人が どういう動きをしてたのか、
いくつかの節目節目を経て、どういうふうに立場が変わっているのか
パッと見て 確認しやすくなって よかったーと思っています


改めて まとめてみると
明州あたりは 遣唐使の南路だから、急に840年代にクローズアップされたというよりかは
前々から 日本との行き来には なじみがある場だったんだよねーだとか、
819年に日本に着いて、唐の平盧軍節度使李師道の反乱を伝えたのは、越州の唐人だったんだなーとか、
越州の唐人も、819年時点で“新羅人の船に乗って来たる”なんだー、あ、だから舟山群島の確認が大事なんだーとかとか・・・
藩鎮は違うけれど、
でも、大運河を使えば 楚州、揚州、明州は、行き来は結構 やりやすかったかもねーとかとかとか・・・
いろいろ「あ、そっかー」という気づきがあります


ひとまず、この地図をまとめたことで、
842年を節目として、鴻臚館での交易が変わった、ということについての ノートへのまとめ作業、
ちょっとしやすくなったような気がします

文章を追いかけてるだけでは、ちょっと 頭のなかが混乱してたんですよね

よーし、明日以降も なんらか頑張ろう~!!!!

・・・・・おちび次第ですが