福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

昨日の夜は 数冊のノートに貼ってた地図を見て・・・・うーんうーん

2015年10月03日 08時56分28秒 | 子どもがいるとバタバタね?!だけど頑張るまちまなび・まちあるき
昨日の夜は、結局 いままで書きためてきたノートをひらいて、うーんうーんと言って 終わってしまいました・・・・


張宝高さんの流れは
もともと 反側藩鎮だった平盧軍節度使に 
唐の中央側?!が・・・・・気を使って?!配慮して?!政治的に?!(・・・・・どれが よりぴったりな表現?!)新羅や渤海との交易に関する優位を
お渡ししてたとこが はじまりなのかなぁと思っているんですが。


でも、新羅坊の おっきーいとこは 楚州・・・・・・。
ここは 違う藩鎮なんですよね。
南方からやってきた海外のモノ、江南の塩や米といったモノを 長安へ運ぶ中継点の揚州も、平盧軍節度使ではなくて。
どちらも淮南節度使。


“唐”として 大きくくくって見ちゃうと、あんまり気にしなくていいとこかもしれないけど

藩鎮の自立や 両税法のことを考えたり、
新羅から唐へ戻った張宝高さん派の人々の動向も おさえておかなきゃなのかなーと思ったりもあって
人とモノの流れって、830年代の10年と 840年代の10年、唐の中で どうなってたのかなぁ~、どう変わったのかなぁ~と
どうしても気になっちゃうんですよね~。

ここらのことが、日本史・中国史・朝鮮史 あわせて ドーンとまとまっている本に 出逢えたら早いんだろうけど・・・・
探しあてきらーん

あー、やっぱり仏教弾圧の確認が大事になってくるのかなぁ?
仏教弾圧で 人口の移動ってあったのかなぁ???
交易に関わる観音信仰があったようだから、観音信仰もあわせて確認したほうがいいのかな。

生産性の向上も もう 確認しておいた方がいいところだろうなー。

ひとまず、明州までは、大運河を使えば モノの移動は 楚州や揚州からも そこまで苦じゃなさそう・・・?!というのは ちょっと確認しました。


もうすこし 地図を見ながら うーんうーん 迷いそうです・・・・・・・