福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

遣唐使と鴻臚館とのつながりで・・・太宰府のお寺に どうしても行きたくなりました

2013年02月26日 16時50分58秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(~2012年)
ふう・・・・日曜日に まちまなび系のお出かけごとを入れて。


1か所だけ、ちょっとだけ お出かけしたんで、大丈夫だと思ったんですが。
途中、寒かったこともあって、本日 ただいま 復調確認です。




無茶はいかんなぁ、私。




さて、行き先は・・・・・太宰府です。

観世音寺およびその周辺です。




気にはなっていたんですが、でも、このタイミングでいくとは・・・というところもありました。



日曜日にお出かけした理由は、それこそその週末に「おや?」と思ったことがあって。

空海さんに関することなんですが。
『しばらくの間、九州に足止めされる悲運にあう』という記述があり、
あゆみの年表には
『806年 帰国。大宰府(福岡県太宰府市)や和泉国に滞在』とあったんですよ。


それで「太宰府市内のお寺に行きたいなぁ」と話していたところ、
おっと様から
「観世音寺は?あそこは有名だよ。光明禅寺は、季節選んで行ったほうがいいし」と教えてもらったんで、お出かけ先決定しました。

大宰府政庁跡も近かったので、うまくいけば どちらかの駐車場に車を止めて、歩いて両方いくというのもあるね、というもくろみもたてました。



ところが・・・・・。

甘かった。太宰府天満宮まで行く道路、大混雑でした。

梅も今 満開だし、天気も良かったし、九国博のボストン展も 3月半ばまでだし・・・と いろいろ重なってはいたのですが。

まーさーか、こんなに動かないとは・・・・という状況になり。

車に乗っているだけで、私の疲労感は どんどんたまっていきまして。
大宰府政庁跡と観世音寺 両方行くという案は なかったことに。

なので、大宰府政庁跡は またの機会に・・・ということにして、道路から様子を眺めてみたのですが。


石碑は車の中から 正直見えず・・・・・・・・・。
その石碑の大きさが すごい!ってところに 郷土愛を感じる何かがあるらしいのですが。
よくわかりませんでした
うーん。残念。


場所自体は、芝生の広場なのかな???子ども連れで 楽しんでいる家族の姿があったように思いました。

おっと様に聞くと
「芝生の広い広場だから、特段 すごく何かを感じるというのは そんなないと思うけどなぁ?」と。

うーん、やっぱり 芝生の広場の中に入ってみたかったなー。
石碑、明治3年か、明治13年、大正3年・・・と それぞれに古い建立のようですね。
石碑の大きさから、大宰府政庁の規模を推測し、郷土への誇りや愛を感じる・・という感覚は、
昔、わがじいちゃんや マイパパンが言っていた
「男は、自分の家の 大黒柱に使われている木の柱の在りざまに 誇りを感じるんだ」っていう感覚に近いのかな??

いやー、うちのおっと様に それはないなぁ。持ち家志向もないし、できれば集合住宅派なので。
ちなみに 私は・・・内装外装と 室内での動線重視なので、
建物の柱を重視して、そこに誇りと愛を感じるという感覚は 非常に乏しいかも


おっと、話がずれまくりましたが


結局、大宰府政庁跡と大宰府資料館は 今回も素通りしました。


観世音寺は ちゃんと行きました!


正直、渋滞で疲れ切ってはいたのですが・・・・でも、行かないで帰るのは もったいないので!!

奈良の時代から、あったんですねー。このお寺。

サラッと見て、見逃すところでしたが
「気づいてる?そこにある石臼・・・・天平時代のものみたいよ?」と言われ、
「へ?!」と 改めて見直しました。

こういう時は・・・・おっと様の 歴男っぷりも 結構役に立ちます


今の阿弥陀堂は、1688年(元禄1年)に、黒田藩主・光之と博多の豪商が再建したものらしい・・ですね。
創建当時のものは平安末期の大火事で焼失したとか?みたいです。
でも、この観世音寺に空海が滞在した、と 家にある大宰府の冊子に書いてあったので、
今回のお出かけの目的は 果たせたはず!!とおもいます。

そのあと、国宝の梵鐘を見て。

その時に
「小学生のころのスケッチ大会で、先生が この鐘はすごいんだ、国宝なんだって言われたけれど。
 正直、小学生に この良さをわかれって言われても、渋すぎてわかんないよね。
 だから、僕、本当・・・30年ぶり?もっとぶり・・?ぐらいで、観世音寺来たよ」という話を聞きました。

そうねぇ・・・小学生に このお寺の良さをというのは、ハードル高いかなぁ・・・・・。


で、最後に、宝蔵にいきました。入場料500円払って、2階に登って行きました。

いやー、すごかったです!
穴場かもしれないけれど、すごく背の高い仏像さまが何体もあって、行ってよかったです。
それぞれの仏像さまについての音声説明もあって、その説明にあわせて移動していくと とてもよかったです。

そうそう!!舞楽面も見ることが出来ました!
舞楽と伎楽とは、また違うのかな??
伎楽は奈良時代??
でも、このお面を見れたことも、わたしにとっては 嬉しかったです♪


うーん、満足♪


無茶して、よかったー・・・・・なんて ひそかに心の中で思いながら、観世音寺から帰りました。

途中、大宰府の大混雑を避けようとして道に迷って、
結果として、去年かな?おととしかな??、西鉄の駅近くで、すごいものが発掘された!という場所らしきものも確認でき、
それはそれで、ちょっとばかり 嬉しかったです。
何か復元されたものが展示されているとかいうのではなかったんですけどね。
なんか、印刷物がはられていたので、たぶん間違いはないと思うんですが。
発掘された当時は、説明会とかあったんじゃないのかな???


じゅうぶん 満足した プチお出かけだったんですけどね。



・・・・・・・・・・・・・本日、火曜日。
やっぱり無茶はいかんちゅーの。




肝心の「鴻臚館跡って・・・・あれれれ???」っていう 疑問が

この2冊の仏教ごとの説明の雑誌を読んだことで うまれて、
なんかもう、私、今 大変なんですーっていう内容のブログ、書けてないし


反省してます・・・・ええ。


今から また おとなしくして・・・・木曜には 絶対 書く!!!


いいと、いいと・・・・きっとね、大宰府政庁跡、あまりの道路混雑もあって行けなかったよっていうのも、
きっと何か、気づきを得るためのエピソードになりそうだから!

そのために。。。数日 また いろいろ 考えます~~。

2000年の歴史をもつ このまち・・・ 「本質は・・・」という話になると 難しいですね 

2013年02月21日 11時52分55秒 | 鴻臚館跡・福岡城址・舞鶴公園(歴史)
ソラリアでの展示、昨日まで・・・ということだったので、行ってきました。


城の復元模型の展示~。

黒田家ゆかりの他のお城の模型もあったようですが、そこはすっ飛ばして福岡城に限って見ました。
小学生のころに特に 各地のお城にはまったという 歴男のおっと様が一緒にいたら 怒られそうな見方でしたけどね


遠目から見て、全体のかたちを把握しようと思ったり。
今の福岡城跡を思い出して、あの部分は、当時はこんな感じだったのねーと思ったり。


例えば、この写真だと・・・


ん~?東の二の丸御殿って・・・今の・・・・・運動場あたり??とか。
小学生か中学生ぐらいの男の子たちが なんか球技やってたような気がするなーとか。

あら?梅園のあたりは、当時って なんらかの建物があった場所じゃないの?とか。


この写真だと・・・・・

あ~、今、さくらと一緒に綺麗な写真が撮れる場所って 当時もこんな感じだったんだーとか。
江戸時代当時だと 福岡城にあったのは 桜じゃなくて、松なんですっけ?
桜の植樹がはやったのは、当時は 江戸城(幕府あたり)だけ・・・・・なんですっけね????

あと・・・・この写真では・・・・

今も 当時のお城のつくり(入口といいますか、門といいますか、道のつくりといいますか)が
残っているんだなーということを 改めて確認しました。

城全体の確認ということでは、
ああ、本丸あたりって、もし建物があるなら こういう感じになるんだーというのも ちゃんと確認しました。
当時は このお城より高さを感じる建物って なかっただろうから、
海から見たとき、まちなかから見たとき、どちらの場合でも、お城の存在感・黒田家の存在感って すごかったんだろうなって思いました。


会場で 福岡城模型見学のしおりのコピーを一枚いただいて、
女性が住んでいたんだろうなーという場所(奥とか、側室の居住地っていうのも そうですかね?)を確認して。

ああ、今の、珍しい桜の木が各1本2本づつくらい植えてある 芝生の広場のところなんだー
市美術館の、最初の予定地だったところ・・・ってことかなぁ?
あの芝生の広場って、ずーっと昔、付近が海だったころの遺跡(貝塚?)も 掘れば出てくるんだっけかー?なんて思い出したり。

そうだよねー、平城の中に入るのかもしれないけど、山を切り開いた城跡だし、上り坂な感じするから、
やっぱり平らな地に近いところになるよね~~・・・
武士の世、女性の立場って、そうそう・・・ねぇ・・・っていうのもあるしねぇ・・・なんてことも思いました。


短い時間の滞在だったけれど、すごくいい勉強になったと思います。


まだまだ、まちまなびとしては、古代の 鴻臚館跡のころに重点を置いてやっているから
江戸期の福岡城跡に取り組むのは、正直 まだ先のことになるとは思うけれど・・・・いい予習になりました
復元模型を見ているのと まったく見ていないのでは、
いざ江戸期のことを まちまなびしようとしたときに、理解のスピードや深さとかが 結構違うような気がしたんですよね。



まぁ・・・・・・・・
この城復元模型を見て、江戸期の福岡城の存在って まちにとって 本当にすごかったんだろうなって思ったからこそ、
「このまちの まちまなび、難しいなー」って思ったこともあったんですけどね。



長くなりますが・・・・・・・・。



他のまちだと、ある一つの時代とか 一つの歴史の事実に力点を置いて、
〝わがまちの本質は ここにある!〟って言えちゃうかなーって思うんですよ。

でも、福岡市の場合は、そんな単純じゃないなと。


例えば・・・熊本だと、やっぱり熊本城とか、加藤家・・家じゃないなぁ・・清正公?になるんでしょうね。
鹿児島だと、幕末から明治維新あたりまででしょうか。
長崎だと、江戸から明治あたりでも、
出島での海外との接点、禁教と隠れキリシタン、信徒発見、幕末のうごき、開国と それにともなう洋館群・・・と ちょっと独特の内容になるかと思うのですが、
でも、わがまちの本質は・・というところでは、江戸~明治期あたりになるのかなと思うのです。


でも、福岡市は、そーんな簡単じゃないなぁと。

江戸時代、黒田家のもとでの まちづくりに わがまちの本質がある!といっちゃえるかというと、
そう言ってしまうと、日本最古の稲作の遺跡である 板付遺跡や
それこそ 鴻臚館の時代より古い 国宝金印の発見が発見されたことから説明されるであろう まちの在り方を
どうしたって 説明できないんですよね・・・・

鴻臚館あたりの古代の歴史が 江戸時代の歴史と比べて劣っているかといえば、
たぶんそんなことって 絶対ないんだろうなーと思うし。

ついつい太宰府天満宮の存在ばかりに 意識がいきがちになってしまうけれど、
大宰府政庁あたりからの、北部九州の重要性の歴史を考えると、
やっぱり、鴻臚館あたりの古代の歴史を持つ意味って、福岡市にとっては おもーいというか 重要なんだろうなって思うんです。


でも・・・・・・

一方では、今 いわゆる博多部と言われる場所だって、福岡藩の城下町で、
博多部の神社仏閣の再興も、福岡藩の時代に行ったことなんだから、
博多部だって、福岡藩の城下町の一部に取り込んで、
わがまちの本質は 江戸期の黒田家の城下町作りにあるって言える!っていう話も
確かに、東長寺も 福岡藩の菩提寺の1つだし・・・と思うと
うーん、そうだね、間違いではないんだよね・・・・と思う自分もいて。

うん、やっぱり、黒田家のもとでのまちづくりの意味って、きっと すごーく 大きいんですよね。


でもでも!!!
もう少し考えてみると・・・・
江戸期の最後の方って、なんか、ちょっと・・・・・アレレ?ってところもあって、
明治期の文明開化・富国強兵の時代、他のまちに比べて影が薄くなっていたのを、
なんだかんだで 盛り立てなおして、このまちが九州内で どんどん力を持つようになってきたのは、
明治期から 現代にいたるまでの、
都市づくりの立場の人たちの先見の明があったからこそなのかな、っていうことも感じるし。



だから・・・・・「いやー、難しいな、単純じゃないな」って思ったんですよね。

「わがまちの本質は・・・」ということを、福岡市で バーンと言い切っちゃうことって。

男性脳の説明でいうところの〝ワンモード〟で、
ドドーンと 一つの内容、一つの時代を追及していくことが、まちの本質を伝えることに 直結しないんだな~!って思うと
本当に難しいなぁ・・・って思います。


だてに、〝2000年の歴史を持つ〟わけじゃない!!

簡単に、無邪気に、『双子都市』で説明がつくわけじゃないんだろうなぁ・・・と思います。


『2000年の歴史を持つ このまちを知るための まちまなびの場所として、この場所に狙いを定めて、やってみよう!!』と 舞鶴公園を選んで。
古代の鴻臚館跡も 江戸の福岡城跡も 明治期以降も 戦災復興も・・・・
ほんとうに いろんな時代に その場にかかわり、活躍した人々のことを知ろうとしているからこその
「難しいなー・・・・単純じゃないなぁ・・・・」って実感なのかもしれないですけどね。

もう少し、すんなり アッサリ まちまなびに取り組める場所を 選べばよかったのかしらん???


でも、あの場所って、2000年の歴史をもつ このまちのことを知って、次の世代に伝えるためには 逃げちゃいけない場所だとも思ったんですよね。



自分で 「私がまちまなびに取り組む場所!」として 選んだトコだしなぁ・・・・

やりはじめたからには 頑張らなきゃですよねー。
「マルチモードの女性脳を生かそう」と割り切っていくかぁ


うん・・・・がんばります。

ちゃんと、いつか わが子に、はなせるようになりたいですもんね。
2000年の積み重なりを持つ このまちの歴史と、このまちの本質を。
やっぱり「おかあさん、このまち生まれじゃないし、このまちで育ってもないから、まちの歴史なんて よく知らん」と 言いたくないのです。

7世紀から 一応12世紀まで・・・各時代にわけて 手書きで年表をつくってみることにしました

2013年02月19日 18時59分43秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(~2012年)
本日の すき間時間に やっていた作業・・・・



鴻臚館跡のことを 今一度ちゃんと把握するための 年表整理といったところでしょうか?!


やっぱり手書きしないと 覚えきれないねぇ~。
パソコン入力で済まそうとすると、
私ってば どうも綺麗にまとめようってことに 途中から力点が移ってしまいがちなので
黙々と 手書きでまとめることにしました。


掘ってみてわかったことだけじゃなくて、文献に載ってたことにも触れたほうがいいんだろうなって思うけれども、
下の欄の多くには 掘ってみて出てきたもの、そしてわかったことなんかを ペタペタ貼って、記入していこうと思ってます。



先日買った雑誌の内容が、ちょっとしたことではありますが 結構今日の作業に役に立ちました。

学問僧と遣唐使の関係とか、遣唐使の航路とか。

あと、日本の仏教の各宗派のなりたちを踏まえることで、
10世紀と11世紀に 今のところ記入する内容がないということが とてもよくわかるとか・・・。

10世紀11世紀の欄については、太宰府と国が管理した貿易の在り方のことをふれることになるのかなー?

そうそう、仏教のことについて冊子をよむということでは、こちらの冊子も役に立っていて。

仏教とキリスト教で、ブッダとキリストの在り方の違いみたいなところが書いてあって。
そのブッダとキリストの在り方の違いや
日本で ごく初期に展開していった仏教と、もう少し後、鎌倉時代なんかに展開していった仏教との違いが、
今現在の まちのシンボルになり得る仏教建築物の在り方の違いにつながるのかなー??と 思ったりもしています。

この点については、武士の戦乱期から江戸期の博多・福岡の歴史をちゃんと理解しないと
きっと勘違いしてしまうところになるだろうから、
まだそこまではやらんめーって 思ってるんですけどね。

今は とにかく 鴻臚館跡あたりのまちまなびを ちゃんと自分の中で 整理できて、話せるようになることが大事!!!


あ、でも、鴻臚館跡あたりの歴史ばっかり がっつり掘り下げて、そこにだけ記憶力を使おうとは思ってませーん。

マルチモード全開の 女子脳の持ち主だから♪


明日は黒田家に関係するお城の復元模型の展示を見に、ソラリアにお出かけする予定♪

そして、あと1か月ちょいあとの、福岡城跡の桜の開花も、もう 今から とーっても楽しみ!!!
〝全国でも有数の桜の名所に、全国の有名な桜を愛でることができる場所に〟という思いが込められた桜の花・・・・ですもんね。


・・・・・・ただ、今日の作業で 前のめり過ぎて書き物してたからか、ちょっと嫌な すじちがいの痛みを 身体に感じているんですよね・・・・。

明日のお出かけ、予定通り 出来るんだろうか・・・・・
今からでも安静にしておこうかなぁ・・・・



ペタペタ 貼り作業 〝掘って わかったこと→交易・貿易編〟 こんな感じで まとめてみようかなー

2013年02月18日 19時20分46秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(~2012年)
スマホで写真を撮ってみるのですが、いまいちカメラ機能を使いこなせてません
ピントの合わせ方は~?
影が映りこみすぎじゃない~~??

やっぱり、デジカメ使わないとダメですね・・・うーん。



さて。本題。

貼り作業で、こんな感じにまとめてみようかなーというのを決めてみました。




鴻臚館跡って、古代の外交やおもてなしの場所としての在り方が バーンと説明されることもあれば
発掘されたものから 交易とか貿易とかの場としての在り方が バーンと一番説明されることもあれば
そういう在り方ではなくて、たてものの規模がどうだったか、ということが バーンと一番に説明されることもあれば・・・で、
いろいろあるのは それはそれで 歴史に重なりがあって いいなぁって思うんですけど、
逆に どう その場のすごさを理解したらいいのか 
感じてほしい 際立つ個性??みたいなところが ぼやけてしまうなーと思うときもあったりで・・・。


まぁ 私がいまいち わかってないっていうのもあるんでしょうけど、
鴻臚館跡が見つかって、話題になったずいぶんと後に引っ越してきて このまちに住んでるよっていう立場なので
とにかく〝情報は 自分で獲ってこなきゃいけない〟ので、
うんちく部分も含めたような、細かく細かく詳しく詳しく・・・という形では まとめきれないと思うけれど、
ひとまず、あの場で行われていた交易の在り方の〝キソのキソ&ちょっとだけ「へぇ~そうなんだ~」というところ〟を
なんとか整理できるようにしたいなぁと思います。

貼っていくうちに、内容変更することもあるかと思うんですけど、まぁ、こんな感じで。。。という素案っぽいのは 出来たってことで!


相変わらず のんびりペースですが、ちゃんと かたちにするぞー!!


ほとけの教えと まちまなびと・・・これも ある意味 不思議なご縁?!

2013年02月15日 20時51分07秒 | まちを知るための学び(2010年~2012年) 
今日のおかいもの↓。大人女子だと考えても・・・・渋いですかね?



でも、先々、絶対いる内容だろうなーと思って。

密教と 禅宗の違い・・・このまちの まちまなびをし続けていくとなると、
いずれ何がどう違うのかっていうこと、必要になってきますよね????

禅宗のお寺と、密教のお寺が ほぼ同じ地域にあるけれど、本当は お寺のつくりとか いろいろ違うんだよねー?とか・・・。

なので、偶然の出逢いでも 見つけたときに こういう雑誌は買っておくのです。


でも、ここに書いてある内容を きっちり覚えようとは思ってません
だって、この手の雑誌は、大人男子向けでしょう??
男性のワンスイッチ脳向けの雑誌だと思うので
大人男子の独特の記憶力の世界に、無理して入ることはないよねーと思っている今日この頃なんですけど・・・ダメかしらん??

まちあるきツアーもいろいろあるので、そういうのに参加して
めっちゃ詳しい大人男子に教えてもらって「そうなんだ!」って感動する機会をとっておくというのも、まちまなびの楽しみかなー・・・なんて思うので


日本での仏教宗派の違いに 特別の興味関心があるわけではないというのも、あるんですけどねー。


私が なんだか 気になって いろいろ読んでいるのは・・・・こちら。

初期仏教?小乗仏教?
どういうジャンルで表現したらいいんでしょうねー??

ちなみに、今 読んでいるのは、赤丸に囲まれたものです。

おっと様に見つかった時は「渋っ!!!!」と叫ばれましたが。
そうですかねー??
そんなことないデスよ。たぶん


あいかわらず、こちらも好きです。
カトリックといいますか・・・・シスターの世界といいますか。

昨日は、夕方のNHKの情報番組に、シスター渡辺和子さんが出演されていて、
お話をうかがうことが出来て・・・・・・・・・・とても嬉しかったです

「ひとりの人として、ひとりの女性として 今の時代 これからの時代 いかに生きるか」ってことを、やっぱり考えちゃうんで・・・・この手の本、読んじゃうんですよね~。


鴻臚館跡のペタペタ貼り作業を進め出す前の、ちょっとした息抜きですかね


・・・・・・・・・・・息抜きにしては、ちょっと渋いかな?!



でも、修行僧の方々が仏教の習得の思いを熱く強く心に抱いて、鴻臚館から出発し、苦労して戻ってきたことを考えれば、
ほとけの教え関係のことに関心があるのも、わるくないかなーと思うのです・・・・って、
でも、その傾向が強くたのは、このまちの神社仏閣の御朱印集めにめどがついたかどうかって時くらいからだから、
人生における、ちょっとした不思議なご縁・・・なのかなぁ~?!

なんだか、修行僧の方々と鴻臚館との関係をいまいちど知った時に
「博多には 夢がある 希望がある」っていう、まちの特徴を なんだか改めて感じたんですよね~。


まぁ、不思議な人生のご縁に導かれつつ、いろいろ頑張りまーす。

次にするペタペタ貼り作業の内容「貿易・交易」も、
私にとっては
「博多には 夢がある 希望がある」の 詳しい内容を再確認する作業になるはず・・・
楽しいまちまなび作業になりますようにー