福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

『古代乃博多』 ざぁっとですが 読みました

2014年07月31日 21時17分35秒 | 子どもがいるとバタバタね?!だけど頑張るまちまなび・まちあるき
おちびさんがお昼寝している間に ざぁっと読んで、線を引いていました。

『古代乃博多』。

中山平次郎先生の論文の本です。

鴻臚館のおべんきょうをするからには、いつの日か 目を通せたらいいなぁ・・・
でも、そうそう簡単には 出逢えないだろうなぁ・・・

と思っていたら。

あっさり図書館で出逢ってしまいましたー!!!!!

あら、うれしいー!!

・・・・・・・しっかり勉強してね、ってことですね、きっと

例のごとく、必要なところをコピーして、線を引きながら読んでいました。


論文当時だと、海岸と人の距離って近かったんでしょうね。


今は 市内では 日々生活していても そーんなには海の音って 聞こえないものだと思うのですが、
論文当時は きっと海の波の音が西公園下では感じられたんだなぁと思いました。

・・・・・・・・・なーんて 読み深めていたら。

お昼寝から起きてきた、おちびさん登場。

「ママ、何してるの?」と言いたげな顔をして近づいてきて、
赤い色鉛筆を取って、参考にしていた地図に線を・・・・・・・・・・・・・・・って、それはやめてぇぇ


・・・・・夜中に読めたらいいな・・・・・。
この頃きつくて、夜中のおべんきょうが ぜーんぜんはかどらないんだけれど。

新羅商人のことは、いつごろよりかは やっぱりはっきりとしてなかったんだなぁと思ったのですが、

少し気になる年号の説明もあったので、
おちびさんの寝ている間の貴重な時間を、なんとか読書にまわせるように、
いろんな家事を段取りよく回していきたいとおもいます

とても暑い日 おでかけできなかったので お昼寝のあいだは 読書に活かします 

2014年07月30日 21時59分24秒 | 子どもがいるとバタバタね?!だけど頑張るまちまなび・まちあるき
非常に暑くなるということだったので
出かけるタイミングを見計らっていたら、おちびさんにお昼寝されて おでかけしそこなった火曜日。

お昼寝のあいだの時間は 読書時間に かえました。

確認したかったのは長安と 新羅の商人のこと。

長安に 新羅商人って いたのかなぁ・・・と ふと思って。

異国情緒あふれる長安の実態として
西域からの文化や故商の存在などは いろんな冊子でも触れられていたし、
読み直した『詳説 世界史研究』や『隋唐帝国』の本でも 触れてあったんですけど。

統一新羅の商人って、当時の長安の 東市・西市の国際市場に いたのかしら・・・・??

結局、そのほか 今の わたしの手持ちの本では よくわかりませんでした

うーん
『詳説 世界史研究』のなかでは、首都長安の説明の流れのなかに
“日本や新羅など東アジアの諸国からも多数の留学生や商人が来訪するなど”
と書いてはあったんですけどね・・・・。

うーん。


鴻臚館にやってきていた 9世紀の新羅商人の はじまりのはじまりって、
どうかんがえたらいいっちゃろうかー?!

・・・・・・・・・・今週末、総合図書館に 何か 本かりにいこうかな

うん、そうします


明日あさっては、この本をコピーしたのを綴じなおして、ざーっとでも読みます。


『古代乃博多』。

ちょっと難しそう?!だけど、読めるところまで 読みます

古代の時代、国際交易人として いかに自らの強みを生かすか・・・って、実は 大事???

2014年07月28日 13時31分11秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(2013年ママになってから)
新羅商人と筑紫および鴻臚館の関係について
いろいろイメージングしています。妄想ともいう?!
どちらにしろ 楽しいです。

今までは 新羅での飢饉や疾病の蔓延を契機に 多くの人々が国内に流出し・・・という内容を基本にして、
その一部が国際交易者となって九州北部へもたどりついていました・・・という内容を確認したいわーと
いろいろ探していましたが・・・・・

土曜日に図書館で見つけた、韓国の教科書での『統一新羅商人の 唐での 国際交易活動』という内容に
「あ!そうかぁ・・・
 国際都市・長安での新羅商人の活動を忘れないようにしつつ
 唐の海岸都市が、新羅商人の国際交易の拠点となったということを考えなきゃいけないんだな!」と
あらたな視点を得たと思いました。

そして、また、ふと気づく。

気付いたきっかけは、女性の小規模起業を 中長期的な視点で支援されている方のブログで
市場開拓や 自らの強み発見という内容を読んだからなんですけど
(わたし自身に小規模起業ニーズがあるわけではなく、ママたちの働き方の多様性を調べてたんですよね~)

新羅商人の日本での交易の拡大って、
飢饉や疫病の蔓延を契機に、多くの人々が国外に流出し・・・というきっかけもあったのかもしれないけど、
もともと 商人として生業をたてていた人々の立場からだと・・・・
結局 自分たちの取り扱う商品の強みを発揮して、
唐以外に 市場を開拓だぁーってことで 
ニーズはあるはずの 日本貴族市場を 当時なりに 開拓した結果なのかなー???なんて思っちゃいました。

羈縻政策も もういちど確認しないとなんですが、
新羅は冊封国だから、
日本みたいに 10年20年に1回 朝貢でいいよーって国ではなくて
まめに頻繁に朝貢しなさいよ、っていうことだからこそ、
唐の海岸都市に新羅の拠点ができたのは、いたく自然なことー?!どうだろう~?!というのが まずあるんですが。


日本と新羅とだと・・・・・
ほんとは けーっこう前から 遣新羅使と新羅使の行き来があるから、
それぞれに貴族社会が成立していることは わかっていたことなんですよね。

日本の貴族社会では、いいものに対して、仏教に対して、非常にニーズがあることも わかっていただろうし・・・。

だからこそ、752年の大仏開眼の時には
新羅使とあわせて多くの新羅の商人と様々な物が大船団でやってきて、
まずは筑紫について、そのあと京にいって、「買新羅物解」にあるような
貴族のみなさん&東大寺を作る立場の方々の いろーんなもの&たくさんのものの お買いものがあったんだろうなーと。

その翌年の正月朝貢で、席順を争って、日本と新羅の関係は またよくないものになっちゃったようですが


だけど、755年から763年は 唐は 安史の乱で とーっても大変だったわけで。

そうしたら、当時の 高級なものを取り扱う 新羅の国際交易人としては
自分たちの取り扱うものの強みを最大限生かせる、
唐以外の 新しい市場を開拓しなきゃー!!!!となると・・・・・・・

海の向こう、日本の貴族社会は どうよー?!
いろいろあるけど・・・・いってみるっきゃなくなーい?!

・・・・・・・・・・・ってことも あったのかもよ??!??


なーんていろいろ イメージングしています。

どんな時代でも、売るという立場では、新規市場開拓の視点を忘れちゃいけないのかもですね
開拓した市場が、継続的に高価なものを買ってくれる、購買意欲が つよーい人々の集団であれば、もうバンバンザイ!ですもんね

“商人として、強みを活かす”ことを、“国際交易”の場でどう“市場開拓”していくか・・・


新羅商人と筑紫および鴻臚館の関係というところから おべんきょうがスムーズにすすみませんが
でもでも もういちど、冊封体制、安史の乱とそのあとの唐社会、
そして新羅商人の拠点と中継貿易の担い手として取り扱ったものの生産地など
いろいろと 東アジア社会の状況を いまいちど確認して

そのうえで、鴻臚館での交易のこと、しっかりと見直していけたらいいなー♪と思います。

もちろん740年代以降から続く 飢饉や疾病などの社会の混乱による 新羅国外流出者の増加の事実も、しーっかり押さえておかないと、
770年代以降の筑紫の状況を しっかり理解することができなくなるので、
いろいろ ほーんとに いろいろあわせて、理解しなきゃいかないんだろうなーと思うんですけどね
唐と新羅の混乱期の密貿易という表現もあるし、いろいろなこと、確認してみなきゃってことかなー?!


ううーん、いろいろ あわせて理解しなきゃいけないことが多くって・・・結構大変そう!
でも、せっかくだし、がんばりまーす

午前中の おべんきょうの本との時間も 午後の絵本との時間も どちらも私にとって楽しい時間でした

2014年07月26日 23時16分08秒 | 子どもがいるとバタバタね?!だけど頑張るまちまなび・まちあるき
午前中は 夏バテ胃炎の薬をもらいに行きつつ、近くの図書館へ(パパ、子守り、ありがとう!)。

新羅商人について、何か触れている本はないかな・・と思い、
教科書や歴史の本の 該当しそうな部分を コピーしました。


夜になって、しっかり目を通してみたら・・・・
参考になりそうなのは コピーした3冊の中の 1冊だったんですけど・・・・

唐と新羅のあいだでの 商人の行き来や 取り扱われた品々に触れてあったのは、
いままでのおべんきょうで 抜け落ちていた視点!!
この先、新羅商人と日本の貴族の方々が求めたものとの接点を考える上で、先々 参考になるんじゃないかなーと思いました


さぁ・・・・明日こそ、『古代乃博多』の必要な部分を コピーしなきゃ!!

私は やっぱり 赤い色鉛筆と黄色の蛍光ペンで 線を引き引き読書することで
「そういうことか!」と気づきをたくさん得るようなので、
中山平次郎先生の『古代乃博多』の、鴻臚館に関係するところのコピーをして、
この本だけで2穴ファイルに綴じこんで、深く読み込めるようにしなきゃぁです。

新羅商人と鴻臚館のこと、ノートへのまとめ作業自体は、月曜からかな。

うん、でも、がんばります
むずかしい本を読んで、他の本で得た知識と どう関連付けて理解を深めるか、し~~っかり頭を使うのって、楽しいですね~


午後は おちびさんと一緒に 毎年恒例の絵本ミュージアムへ!
これも 私にとっては 大事な時間!


ちょうどいいタイミングで、サイン書いてもらえて、よかったです!

かわいいおはなしで、好きなんです
おちびさんも 先々 このおはなし好きになってくれたらいいな!

新羅商人と国際交易、そして筑紫や鴻臚館との関係・・・おさえておかなきゃいけない 年号を書いてみよう!

2014年07月25日 14時15分53秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(2013年ママになってから)
新羅商人と国際交易、そして筑紫や鴻臚館の関係についてを理解するために
おさえておかなきゃいけないんだろうなぁと思った年号を ちょっと走り書きしてみました。


779年から始めたのは、
中継交易の担い手としての新羅商人ということを考えると、
779年から780年あたりの、最後の新羅使というところを ちゃんと押さえておきたかったんで、779年からの流れを書きました。

ほんとうは そのずっと前から 新羅からやってきている人って 多かったようなんですけどね。
そのあたりのことも忘れないようにと、774年も書き入れましたが、
ほんとうは750年?760年代あたりから 「帰化」とか「流来」とか おさえておかなきゃいけないのかもと思ってはいます。
「帰化」とか「流来」のことで、824年も それなりに意味のある節目だったんだろうなと思って
この走り書きの紙に書き入れました。

国際交易と筑紫および鴻臚館との関係ということでは
831年から841年の10年っていうのが ひとつ大きなところなんでしょうね。

そのあと、842年から869年?870年?が また一つの かたまりかな???

869年の新羅海賊による博多津での官船襲撃を受け、
870年に大宰府管内での居留環境の喪失(強制的に陸奥移配に処す)という貞観十二年勅が出たのが 非常に影響が大きかったんだなぁ・・・ということで、
870年を一つの区切りにしています。


さて、この約90年・・・100年くらいの間の 新羅商人と筑紫および鴻臚館の関係、うまく理解できるでしょうか


まだ「だいじょうぶでしょー!なんとかなるでしょー!!」とは言えないですが・・・・
やるぞーと決めたからには、頑張ります


・・・・・・・・・・・よし、おちびさん、このブログ書く間、寝ててくれてありがとう!
おべんきょうも がんばるねー!
先々、おちびさんに 鴻臚館のこと、ちゃんと内容すっとばなさいで話せるようになれるよう、がんばるねー