福岡市を知る&学ぶ&楽しむ!子連れおでかけと地域史を学び続ける日々

大好きなまち~福岡市~での育児やおでかけと、福岡市の地域史を知り次の世代に伝えたいと学び続ける日々を綴ります。

819年から847年まで 地図に反映させた 人とモノの動きを 改めて見て・・・

2015年10月22日 23時37分40秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(2013年ママになってから)
昨日 綺麗にまとめなおした地図は・・・

お昼のうちに B4に拡大コピーして、ノートにぺたりと貼りました。

122倍になったから、より見やすくなって よかったです


こうやって まとめなおしてみると、
円仁さんは、張宝高さんが ノリに乗っていた頃に 唐に行ってるんだなとわかります。
838年から839年といったら
清海鎮大使になってから もう10年ほど経ってる頃だから
そりゃぁ もう、唐(山東あたりから揚州くらいまでは確実に)でも新羅でも おおっきな影響力をつけていますよね


張宝高さんが活躍していたころの人とモノの動きについては
“兵馬使兼大唐売物使”の肩書を持つ、崔暈さんの役目についても、おさえていたほうがいいんだろうなーと 思っています。

唐から新羅へ向かう、神武王を慰問し、王の称号を与える冊立使とみられる遣新羅使が唐から派遣された際に、
唐の船ではなく、
“張大使交易船”を利用したというのも、見落としてはならないところですよね。

その、もう、半年後・・・?くらいには、神武王は亡くなり、文聖王になって、ゴタゴタいろいろ・・・になるわけではあるけれど・・・


円仁さんが唐国内での仏教弾圧の影響を受け、日本に戻るとなった845年では、
崔暈さんは もう“自分の船を持っていなかったと思われる”ということが書いてあったので

やっぱり 張宝高さんが いろいろあってなくなったあとは、崔暈さんは 唐-新羅-日本のあいだの交易に かかわれなくなったんでしょうかね・・・・。

張宝高さん配下ということでは、
平盧軍節度同十将 兼 登州諸軍事押衙という役職にのぼりつめてた張詠さんも いろいろビミョウだったのかなぁ??



うーん、そのあたりの内容をまとめて、5冊目のノートを終えたいわ~~!!!!!


・・・・・・・・・でも、明日は おちびギャン泣き確実の、小児科行きがあり・・・・・・・
母の気も 絶対そがれるので、今日は ひとまず、このへんまでの振り返りのみで





819年から847年・・人のうごき、役職の変化、見やすく まとめなおしました

2015年10月22日 01時07分44秒 | 鴻臚館とその時代を 一から知る・深める・伝えるっ(2013年ママになってから)
昨日の 手書きで書き入れた地図は

正直いって、非常に 見にくかったので・・・・

おちびが お昼寝している間に、コレ↓を打って


おちびが 夜 寝付いた後に ペタペタ貼ってみました。


819年の平盧軍節度使李師道の反乱から、847年の円仁さん唐から日本へ戻るまでの、結構長いとしつきが反映された地図になりました

いくつかの本を参考にして年号と役職とをあわせて打ったので
どの人が どういう動きをしてたのか、
いくつかの節目節目を経て、どういうふうに立場が変わっているのか
パッと見て 確認しやすくなって よかったーと思っています


改めて まとめてみると
明州あたりは 遣唐使の南路だから、急に840年代にクローズアップされたというよりかは
前々から 日本との行き来には なじみがある場だったんだよねーだとか、
819年に日本に着いて、唐の平盧軍節度使李師道の反乱を伝えたのは、越州の唐人だったんだなーとか、
越州の唐人も、819年時点で“新羅人の船に乗って来たる”なんだー、あ、だから舟山群島の確認が大事なんだーとかとか・・・
藩鎮は違うけれど、
でも、大運河を使えば 楚州、揚州、明州は、行き来は結構 やりやすかったかもねーとかとかとか・・・
いろいろ「あ、そっかー」という気づきがあります


ひとまず、この地図をまとめたことで、
842年を節目として、鴻臚館での交易が変わった、ということについての ノートへのまとめ作業、
ちょっとしやすくなったような気がします

文章を追いかけてるだけでは、ちょっと 頭のなかが混乱してたんですよね

よーし、明日以降も なんらか頑張ろう~!!!!

・・・・・おちび次第ですが