歴男パパが びっくりした、歴ママの おはなし。
歴男パパに、わたし、尋ねました。
「あのねー、育児ストレス解消を兼ねて 鴻臚館跡のおべんきょうの読書をして ノートにまとめている間に
うちのおちびも 「○ヵ月です~」から 「○才です~」に なりましたがっ
ここ最近の読書でね、しょくにほんぎを読んでね~。
筑紫や大宰府や、当時だと 筑紫館だよね~?舞鶴公園内、あの場所にあった施設が
新羅からの使のね、当時の朝貢というかたちの外交でね
とっても大事な役目を果たしてたんだなーってことがわかってきたなーっておもうとー。
いろいろ世界史の 当時の東アジア史を復習してった中で
朝貢とか、蕃国とか、あー そういう ものの捉え方してた時代なんだなーって あらためて確認して、
やーっと 筑紫館の外交施設としての重みが 前より少しばかりわかった様な気もしてるんよねー。
結局、きゅうこくはくの絵本で
唐以外との当時の外交の大事さに 気づいて
文章としては 660年代後半から30年間のことがメインだったけど
新羅使のことに触れてあったから、
だとしたら、もっと後、779年までの約100年ちょいのあいだのことでも、
新羅使って 大事なんじゃないかなぁって思ったとー。
でも、小学生が読むような歴史マンガや 中学生の参考書、高校生向けの教科書の類には
そーんな新羅との関係のことって 触れられてないから、いろいろ 本を読んだんけどさぁ・・・・。
大仏開眼の時の新羅使のことでも、筑紫館って やっぱり意味のある建物だったんだなぁって思ったんだけど
今回、しょくにほんぎの現代語訳を読んでねー、
『筑紫の大宰府は遠く西海道に位置し、諸蕃の国々の朝貢してくる船舶を眺めわたすことができる』とか
『筑紫の大宰府は遠く辺境の要害にあって、常に不測の事態を警戒し、併せて蕃国の客も接待しています』とか書いてあったから、
筑紫館や鴻臚館について「ここ、すごい場所っちゃねー!」って伝えるためには
やっぱり、新羅との行き来の関係って 大事なことなんじゃないかなーって思ったんよー。
でもね~。
鴻臚館の展示館では、新羅使のことって、そーんなには 触れられてないやーん?
それって、しょくにほんぎで書かれていることに触れられてないような気がしてさー、
なーんとなく もったいないなーって思ったんけど・・・・・・・・・・・・・・・・・どう?」
パパの反応。
「・・・・・・・すごっ。さすが、やねぇ・・・・・・・。」
そのあと、しばし ことばなく・・・。
えっとぉ・・・・・その反応の、その先が欲しいんですっ、わたしは~~~!!!!
うぅぅん・・・・・・。
うーん、歴男パパの動きを 一瞬とめてしまいましたよ
ちゃんとそのあと、
「じゃあ、結局、筑紫館や大宰府って、当時の外交と防衛を担当してたってことだから、
当時の大宰府のお仕事は、外務と防衛で、外務次官と防衛次官がいたってことなのかなー??」なんていう話に
進んでいきました
よかったー、何も反応なく終わっちゃったらどうしよーって思ったので。
ま、それだけ一生懸命 がんばって いろいろ調べたってことは、
それだけ 結構 育児ストレス、日々 感じてたってことなのよぉぉぉぉぉ~~~!!
よかったよかった、育児と福岡市の歴史のおべんきょうの2色刷りの毎日で。
福岡検定・初級も 合格できたし・・・・。
育児一色になってたら、わたし、ぜーったい もたなかった
いやー、おちびさん、どんどん大きくなっていく割には、
鴻臚館跡のおべんきょうをノートにまとめる作業が 思うようにはかどっていきませんが
(1歳の誕生日を迎えるまでに、ぜーんぶまとめきってると思ってましたまだ半分てとこなのにーーー!!)
でもっ!!!!!!
1歳6か月健診までには、鴻臚館跡のおべんきょうをまとめる作業、済ませたいと思っています
そのためには、いまの足踏み状態を 早く解消させなければ~~!!!
770年から779年、そして780年・790年代の筑紫館のことと いろんな背景を なんとかちょっとでも理解して
ノートにまとめて、先にすすませなきゃー!!!
がんばれ、わーたーし~!!!
歴男パパに、わたし、尋ねました。
「あのねー、育児ストレス解消を兼ねて 鴻臚館跡のおべんきょうの読書をして ノートにまとめている間に
うちのおちびも 「○ヵ月です~」から 「○才です~」に なりましたがっ
ここ最近の読書でね、しょくにほんぎを読んでね~。
筑紫や大宰府や、当時だと 筑紫館だよね~?舞鶴公園内、あの場所にあった施設が
新羅からの使のね、当時の朝貢というかたちの外交でね
とっても大事な役目を果たしてたんだなーってことがわかってきたなーっておもうとー。
いろいろ世界史の 当時の東アジア史を復習してった中で
朝貢とか、蕃国とか、あー そういう ものの捉え方してた時代なんだなーって あらためて確認して、
やーっと 筑紫館の外交施設としての重みが 前より少しばかりわかった様な気もしてるんよねー。
結局、きゅうこくはくの絵本で
唐以外との当時の外交の大事さに 気づいて
文章としては 660年代後半から30年間のことがメインだったけど
新羅使のことに触れてあったから、
だとしたら、もっと後、779年までの約100年ちょいのあいだのことでも、
新羅使って 大事なんじゃないかなぁって思ったとー。
でも、小学生が読むような歴史マンガや 中学生の参考書、高校生向けの教科書の類には
そーんな新羅との関係のことって 触れられてないから、いろいろ 本を読んだんけどさぁ・・・・。
大仏開眼の時の新羅使のことでも、筑紫館って やっぱり意味のある建物だったんだなぁって思ったんだけど
今回、しょくにほんぎの現代語訳を読んでねー、
『筑紫の大宰府は遠く西海道に位置し、諸蕃の国々の朝貢してくる船舶を眺めわたすことができる』とか
『筑紫の大宰府は遠く辺境の要害にあって、常に不測の事態を警戒し、併せて蕃国の客も接待しています』とか書いてあったから、
筑紫館や鴻臚館について「ここ、すごい場所っちゃねー!」って伝えるためには
やっぱり、新羅との行き来の関係って 大事なことなんじゃないかなーって思ったんよー。
でもね~。
鴻臚館の展示館では、新羅使のことって、そーんなには 触れられてないやーん?
それって、しょくにほんぎで書かれていることに触れられてないような気がしてさー、
なーんとなく もったいないなーって思ったんけど・・・・・・・・・・・・・・・・・どう?」
パパの反応。
「・・・・・・・すごっ。さすが、やねぇ・・・・・・・。」
そのあと、しばし ことばなく・・・。
えっとぉ・・・・・その反応の、その先が欲しいんですっ、わたしは~~~!!!!
うぅぅん・・・・・・。
うーん、歴男パパの動きを 一瞬とめてしまいましたよ
ちゃんとそのあと、
「じゃあ、結局、筑紫館や大宰府って、当時の外交と防衛を担当してたってことだから、
当時の大宰府のお仕事は、外務と防衛で、外務次官と防衛次官がいたってことなのかなー??」なんていう話に
進んでいきました
よかったー、何も反応なく終わっちゃったらどうしよーって思ったので。
ま、それだけ一生懸命 がんばって いろいろ調べたってことは、
それだけ 結構 育児ストレス、日々 感じてたってことなのよぉぉぉぉぉ~~~!!
よかったよかった、育児と福岡市の歴史のおべんきょうの2色刷りの毎日で。
福岡検定・初級も 合格できたし・・・・。
育児一色になってたら、わたし、ぜーったい もたなかった
いやー、おちびさん、どんどん大きくなっていく割には、
鴻臚館跡のおべんきょうをノートにまとめる作業が 思うようにはかどっていきませんが
(1歳の誕生日を迎えるまでに、ぜーんぶまとめきってると思ってましたまだ半分てとこなのにーーー!!)
でもっ!!!!!!
1歳6か月健診までには、鴻臚館跡のおべんきょうをまとめる作業、済ませたいと思っています
そのためには、いまの足踏み状態を 早く解消させなければ~~!!!
770年から779年、そして780年・790年代の筑紫館のことと いろんな背景を なんとかちょっとでも理解して
ノートにまとめて、先にすすませなきゃー!!!
がんばれ、わーたーし~!!!