暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

フライングハイ  (1980);観た映画、 Aug. '15

2015年08月17日 05時04分01秒 | 見る

邦題; フライングハイ  (1980)

原題; FLYING HIGH
    AIRPLANE!

88分

 
「ケンタッキー・フライド・ムービー」で注目を集め、近年では「裸の銃を持つ男」などを手掛け、コメディ界に君臨し続けるトリオ“ZAZ”が、食中毒の発生したジェット機内のパニックをパロディ満載で描いたスラップスティック・コメディ。「JAWS/ジョーズ」に始まり「エアポート'75」「大陸横断超特急」など数々の作品がネタにされている。
 
上記が短い映画データベースの記述である。 夏休みでテレビも休み気味である今の期間、一昔のコメディーをベルギーの国営テレビの深夜映画として観た。 懐かしい顔が並ぶ。 子供のころテレビのシリーズで深海にもぐる海洋アドヴェンチャーで見知った空港責任者ロイド・ブリッジス、ここではぴかいちパイロットであるけれど、自分の子どもの頃には「アンタッチャブル」シリーズでFBIのエリオット・ネスだったロバート・スタック、当時スパイ映画の主役で本作では機長であるピーター・グレイブスにテレビシリーズで見知ったレスリー・ニールセンが機内にいた医者として出てくるのだから彼らのドタバタコメディーには真面目に演じる彼らにゲラゲラ・クスクス笑わずにはいられない。 大阪では「しょうもない」という詰まらないギャグの連続には呆れるのだが一分に一つ以上あるギャグに流されては致し方もなくこちらもそれにへらへらと流されていく。 まだ9・11もイスラム国もない時代、1980年なのだ。 自分が日本からオランダに渡った年であり大韓航空に勤めていた知人が自分の40キロ以上あるサムソナイトをフリーパスで持ち込みここに坐れと機内までどかどか連れていかれた記憶がある。 一年後に帰省でヨーロッパから戻った折には自分の近くの空いた席に勤務を終えて韓国に戻るパイロットが制服の胸元を緩めて巻きずし用にするような海苔を肴に数人で酒盛りをしていた光景と共にまだそのような牧歌的な時代だったのだと思い出すし、オランダで近所に住む日本人の先輩がKLMの社員としてスキポールに来た時は着いた飛行機にタラップを付けて雨が降ったら傘を差してそこまで歩いていかなければならなく、当時日本人の国際司法裁判所の判事がオランダでは捨てる鰊の卵、数の子をバケツに2杯両手で機内に持ち込んだこともあると聞かされたものだ。 ルフトハンザの若く神経を病んだパイロットがテロ防止のため外から入れなくしたことをいいことに自分だけになり南仏プロバンスあたりの山に突っ込み多くの乗客を巻き込んだことも記憶に新しいもののここでは能天気にだれもがパイロットのところに来てそんな子供を膝の上に乗せかねないペドフィル気味の機長とのやりとりも面白く乾いた笑いを誘う。
 
本作のザッカー兄弟はこのジャンルでは別ジャンルに属するコーエン兄弟に比較されるだろう。 ザッカー兄弟には「ケンタッキーフライド・ムービー(1977)」以来笑わされ続け本作以後もニールセンを主役にした「の銃(ガン)を持つ男」 に続くのだがいづれにしてもここにはユダヤの喜劇人の血が流れているのを確認するのだが先達としてはアメリカ映画の歴史上このジャンルには例を挙げるに両手に余る数が上り、メル・ブルックスなどが彼らの先輩筋になるのだろうがブルックスの「ブレージングサドル (1974)」や映画スター・ウォーに材を採る「スペースボール (1987)」などにはそれら題材の裏を知った上での落ちが散りばめられており本作でもいつの時代でもシリアスで怖いもの見たさで観客を引き寄せる「災害もの」ジャンルに材を採るドタバタにはある種笑ってはいけないところでその詰まらない「しょーもない」ギャグに腰砕けのようにヘラヘラとなるものもあり、本作をみながら二日ほど前に天津の港湾付近で大爆発を起こした事故の画面を見るにつけそのなかでこんがりと焼けた餃子をもって右往左往するぼろぼろに焼け焦げた中国人をも不遜にも思って笑い出しそうにもなるのだがそれで災害の悲惨さから多少の救いにもなるような種類のものでもある。 これらのバカバカしい次から次へと繰り出すギャグにはどこか子どもの頃テレビで見た「シャボン玉ホリデー」を思い出しそれらはテレビスタジオ内でのものであったのだが本作でも規模は大きいものの今の技術に比べると嵐の中を飛ぶジェット機のちゃちな模型にはそれもちゃちさを意図的に出しているのだと思い返しもし、今から30年前の安手の映画に作った体裁にもジョークが感じられる。
 
コーエン兄弟のことに触れた。 彼らの西部劇「トゥルー・グリット(2010)」はジョン・ウェイン主役の嘗ての同名映画の焼き直しで主演となったジェフ・ブリッジズは本作のロイド・ブリッジズの息子であり幾つかのハリウッドで成功した俳優一家の一つでもある。 尚戦闘機ものでいえばトム・クルーズ主演の「トップガン(1986)」をコメディーにしてチャーリー・シーンを主役にした「ホットショット(1991)」ホットショット2(1993)」の監督は本作の3人である。 本作同様のしょーもないジョーク満載である。

時代の世相が穏やかでなく荒みがちなところでは例え生焼けジョークの連続であってもそれに身を任せて暫しの休息になるのは周知のことである。 本作冒頭の雲の上の垂直尾翼をジョーズにしてサメの如く飛び上がるオープニングやサタデーナイトフィーバーの場面では当時、自分も仕事の後そのようなディスコで踊り汗を流した狂騒が偲ばれたと共に本作でのスチュワーデス、ジュリー・ハガティのこのシーンだけはオランダ人の自分の義妹にそっくりなのに驚いた。 今から35年前のことである。 義妹はいま何人もの孫に囲まれていても大きな胸と長い足をジーンズに包んであたりを闊歩している。

自分はこのような「しょーもない」ドタバタコメディーを愛するものである。 しょーもなければしょーもないほどウンザリしつつもそれでも中途半端なドラマやアクションものよりはましだと見做す。 しょーもないことに金と人手に時間をかけて一秒にも満たないようなジョーク・ショットを作ろうとする営為は尊いものでもある。 先日久しぶりに観た「ブルースブラザーズ」にみるような典型的なカーチェースで何台ものパトカーが雪崩を打ってひっくり返り重なり合い、、、という場面にはそれにかかる人手と金には実際ウンザリするのだがそのようなシーンは本作で言う「しょーもない」ジョークとはあまり関係がなくただ無駄なものなのだ。 しょーもないものでも単にしょーもないものとしょーもなくないものもあるようだ。 

水村美苗 著  「母の遺産、 新聞小説」 を読む

2015年08月15日 23時21分02秒 | 読む

 

 

水村美苗 著  母の遺産、 新聞小説

中央公論社 刊  2012年初版、2012年八刷

ISBN978-4-12-004375-5-C0093

 

昨年か一昨年日本に帰省した折に求めたものだ。 水村の著作には親しんでいる。

水村の経歴にについてはウィキペディアの記述に譲る

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B0%B4%E6%9D%91%E7%BE%8E%E8%8B%97

自分は30になってからヨーロッパに渡った者ではあるけれど彼女は12歳の時に渡米して以来の当時のいわゆる帰国子女でその後日米欧文学に親しみ主要大学で近代日本文学を専門に講じてきた経歴をもち著述に身を置く作家である。 90年代の初頭、漱石の未完の小説を文体をそのままに続けようとして現した「続明暗」で文壇に登場したらしいのだが自分との接点はその次の横書き文庫版の「私小説」だった。 海外に身を置き少なくとも当時日本の主要な文芸雑誌に毎月眼を通していた自分にとっては文学で横書きと言うことには違和感を得たもののその内容には甚だ興味を覚えた記憶がある。 その後、ブロンテにインスピレーションを得た「本格小説」には十分楽しませて貰うともに自分の近くに当時日本の生え抜きエリート外交官が住んでいたものだから彼にそれを見せて貸すと彼の夫人があとで、これはまるで私たちの世界だったじゃないのというコメントを寄せられてなるほど、こういうことも実際にあったのか、という感慨に捉えられたものだ。 尚その外交官の家系については戦前戦中戦後と彼の運命も含めて波乱万丈だったのだが小説に限ると夫人の方が専らに興味深かったと記憶する。 彼の部下がスキャンダルに連座して収監されその間に体力・知力を磨き退職を余儀なくさせられた後の文筆活動には目を見張るものがある。 ここでは政治の馬鹿さ加減が国益に貢献する有能な外交官たちをはじき飛ばし、あとには面白くもなんともない凡庸な外交官たちをハーグに送ってきた25年ほどを見てきた中でその外交官だけが原稿もなく自由闊達に話し、そこにいるだれもを虜にする稀有な人材であったことはひとえにただの外交官試験をうけただけでなった人間ではなく何代にも亘って外交の世界を自分のものとしてきた家系、血がそうさせたもので、だから国益のために田中真紀子外務大臣へのレクチャーで土建屋の娘にそんな性格が嫌われたのではないかという憶測も湧く所以もそこにある。 

日本語が亡びるときではその趣旨には海外に長く生活していて自分の言葉の意味を考えさせられ戦後の言葉の変遷、オーディオ・ヴィシュアル時代における言葉の分析等にはそこに身を置いて分析研究してきた単なる言語学に収まらない逆に言えば日本社会に警鐘を鳴らす役目を意識した作だと感じた。 だから後、彼女に対する批判の主なものが世界に視座を置く論者でもなくただ単に井の中の蛙でしかないことにため息をつかずにはいられなかった。 外に出てそこに身を置かねば分からぬ、感じられないことがいくつかあるのだ。 種類は違ってもそれは例えば、感覚・刺激を基として作業を続けている赤坂真理著「東京プリズン」にも通底する部分がある。 尚、「日本語が亡びるとき」についてはネットで彼女を大国主義者と断じた次の興味深い評論も見られる。

http://postcolonialwriting.blogspot.nl/2008/08/blog-post_27.html

本作に於いては「本格小説」に次いでの「新聞小説」であるからその表現媒体にも十分考慮し、時代、歴史、われらが住む現在につなげる結構にして尚且つロマンでもなければならず、ロマンという保守的な「本格小説」の流れにして現在に繋がる部分に重点を置く考慮がなされなければ戦後70年、誰が好き好んで今の新聞小説で明治以来の文学の系譜を読むだろうか。 そこに目の前の餌、として伏線化させたのが、「あたみーのかいがんさんぽすーる、かんいーちおみやーのふたりーずーれー」だったのだ。 このテーマは人類普遍の要素を含んでおり現代、ポスト何乗目かのモダニズム時代にも当然形を変えピチピチと生き続けているものであるから読売新聞の読者を40歳以上が主体だと想定すれば今の世の中にも明治から続く家族のサーガとしては甚だ興味深いものであり、とりわけ賢かったのは524頁あるなかで200頁あたりから今の社会に溢れる現象対策に移っていることだ。

西欧といっても各国にデコボコがあるものの概ね公共にゆだねようとしてきた70年代からの社会福祉、とりわけ今顕在している老人医療に眼点を起きそれがこの経済不況下でまたもやリヴィジョニストたちの跋扈によって緊縮財政にあえぐヨーロッパではあるが、日本に置いては私が身をもって経験もしてきた福祉インフラを作って来なかった日本の中に身を置く女性の視点には読者の半分以上が女性だっただろうということまでも思いが行き読者たちが自分、自分の周りにあることとして読んでいる姿が思いやられる。 つまり、明治以来の世界でどのように女が自分というものを威厳をもって生き延びられるかという軌跡を家族の紆余曲折を交えて小説の形で現したことが本格小説ということなのだろう。 

帯にある「親の介護、夫婦の危機、忍び寄る更年期、老後資金の計算、、、、」という惹句で20代の女性に冷や水を浴びせるとともに若い世代の若い「愛」の諸相を経験したものとしてそこに提示する手法は女のものだなあ、と感心した。 男がこういう小説を書いたとするとどのようなものになるのだろうかとおもうと思わず苦笑が漏れるようでもあり、日本で屈指の経済学者(思想家)である水村のパートナーの一定の距離を置いた意見も反映されているものとみてここでのこと細かい計算は傾聴に値する。 そこには「細雪」の牧岡家を念頭に置いていることは確かで谷崎と言う男性作家が描く女系家族とは趣の変わった女性作家の手になるものであり男の読者である自分が感じたのは本作の男たちはある意味マッチョで豪放か優しく彼女らに幾何かの距離をもって接するように多少の両極化を感じるのは主人公が切って捨てる男の性格を自分が持っているのだろうかと自問するとき、ああ、これはある種お嬢様の視点なのだとも納得し、それがロマンなのだとも自分とは違う世界を垣間見させてもらったことに想いが行く。 少年の時に垣間見た少女漫画雑誌の目に星、周りに鳥が飛び交う世界は全く縁のなかった男にはある種、棄てられた男に同情心を持たなくもないし、そのようにして海外に出て勉学に励む若い男女の学者を何人も見てきたのだが年齢が違うのと入れ替わり立ち代わり2,3年で通り過ぎていくので彼らの内部までは知己を得る機会は少なかったものの、外交官として勉強している者の中には外交官試験に通って派遣されてきたものの乏しい海外経験をもとにして中小出版社からガイドブックを出しさっさと辞めていった女性外交官の卵、自分はアートを極めたかったのに面白くないからと当時まだ町田町蔵と名乗りその後芥川賞を取った町田康のパンク・ロックと詩に傾倒し辞めていった男のことなども思い出す。 あとで大使館員からあなたと話すと辞めていく若いのがいるから困ると苦情を言われたことも思い出し、つまり彼らにとっては大志をもって国益に値する活動に身を投じる気概があってもこの時代の組織がそんな若者の士気を削がせるものとなっているということなのだろうと受け取った。 そんな若者には切羽詰まって目の前しか見えないのかとも思うもののいつの世も我々は目の前の世界のことに追われて走り回っているのだ。 ロマンに水を差すのが巷に言われる「金の切れ目が縁の切れ目」ということで本作に出てくる金勘定の数字をみて、ああ、やはりこれはロマンなのだと年金生活者は嘆息する。

表紙の題字、遺産の「産」に添えられたダイヤの指輪のことで思い出すことが二つある。 一つは子どもの頃に親しんだ中田ダイマル・ラケットかの漫才で間貫一がお宮にいうセリフだ。 「高利貸し、とみやまのダイヤモンドに眼がくらみ、、、、」というところを「ダイナマイトに眼がくらみ、、、」で大笑いするのだがそれもあながち違ったものでもないように思うことだ。 明治開国以来その意味を求め続けている「愛」をダイヤモンドがダイナマイト級に破壊するかどうかという命題なのだ。 皆が口にするものの日本語では曖昧模糊とした「愛」をどのように破壊できるのだろうか。

もう一つこのダイヤモンドについて本作にも関連して思い出すのは60年代アメリカの女優・歌手ジュリー・ロンドン歌う「Diamonds Are a Girl's Best Friend」だ。 ネットで見つけたその訳を下に牽く。

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 DIAMONDS ARE A GIRL'S BEST FRIEND

[ヴァース1]
フランス人は愛のために死ぬと言うわね、
彼らは喜んで決闘に臨むの、
でも私は生きている男の方がいいわ、
高価な宝石をくれるから。

[リフレイン1]
手の甲に口づけするなんて
極めてヨーロッパ風ね、
でもダイアモンドが女の子の最良の友よ。

口づけは素晴らしいことかもしれない、
でもそれじゃ家賃は払えないのね
あんたのつつましいアパートの。
それに簡易食堂の料金さえも、(★)

男はいずれ冷たくなるわ
女の子が年をとるとともに
最後には魅力も失せるのよ。

でもスクエアカットやペアシェイプ (pear-shape)、
これらの石は姿が衰えることはないの、
ダイアモンドが女の子の最良の友よ。

(ティファニー!
 カルティエ!
 ブラック・スター!
 フロスト・ゴーラム!
 ハリー・ウィンストンのことを話して、
 全部教えて!)


[ヴァース2]
お行儀のよいランデヴーは
少女の心臓の鼓動を速める、
でもランデヴーが終わった時でも、
これらの石は輝きを保っているわ。

[リフレイン2]
いつか若い娘にも
弁護士が必要な時が来るかも、
そんな時はダイアモンドが女の子の最良の友よ。

いつかこんなことが起きるかも
冷徹な雇い主が
あなたをナイスと思う時が、
でもアイス(ice=宝石)は取らなきゃ目が出ないわよ(no dice)。

彼はあなたの男
株価が高い間はね、
でも下がり始めたら気を付けるのよ。

そうなったらあの嫌らしい奴らは
配偶者の元に帰ってしまうの、
ダイアモンドが女の子の最良の友よ。


[リフレイン3(映画ヴァージョン)]
恋の話も聞くけど
完全なプラトニックな恋のことを
そうなってもダイアモンドが女の子の最良の友よ。

それで私が思うに
関係性を続けなきゃいけない恋なら
それはそれで賢い賭けよね
可愛い娘ちゃんが太いフランスパンになるようなら。

時はたつもの、
それにつれて若さもなくなるわ、
そしたら腰が曲がってまっすぐにならなくなるわ。

でも硬くなった背中や
しなやかさを失った膝でも、
ティファニーの前ではしゃきっとするわよ。

ダイアモンドが! ダイアモンドが!
私の言うのは模造ダイヤじゃないのよ!
ダイアモンドが女の子の最良の友よ。

※: 歌詞ソースはReading Lyricsを参考にした。映画では、ヴァース2は歌われていない。3番の歌詞は映画だけのものらしく、インターネットを参考にした。

★ Automat:自動販売式のカフェテリア(小銭を入れて小さなガラス窓の裏の食べ物を取るような方式の食堂。1930年代に流行した装置で、昔のアメリカ映画などで時々見られる風景。

作詞: レオ・ロビン Leo Robin

作曲: ジューリー・スタイン Jule Styne 
出典: 舞台ミュージカル Gentlemen Prefer Blondes (1949) でキャロル・チャニング (Carol Channing) が歌った。
映画版 「紳士は金髪がお好き」(1953) では、マリリン・モンローが歌った。(この映画は、著作権更新手続きが行われず、パブリック・ドメイン扱いになっているらしく、ミス・モンローの映像がYouTubeで見ることが出来る)

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以上である。

西欧文化に精通している著者にはキーボードに向かうBGMとしてこの歌を流し、「あたみーのーかいがんさんぽーするー貫一お宮のふたりずーれ」に関連したロマンの整合性を探る縁としていたのかどうか自分には知る由もない。 


隣家の猫に餌をやる

2015年08月14日 19時16分01秒 | 日常

 

隣家に40代半ばの外見ではそれとは分からぬ普通のゲイのカップルがいて子供もいなく、二人ともちゃんとした職業をもっているから子供(達)がいればそれに費やしたであろう出費も自由に可処分コストとして使えるから比較的裕福な生活を送っていて我々にとっては心地よい隣人であるのだが、贅沢な大型のキャンパーを駆ってヨーロッパ中ヴァカンスを楽しみ、先日も4週間ほどクロアチア方面に出かけて戻ってきたばかりだった。 うちを含め両隣がおなじように飼い猫を亡くしていて彼らには3か月ほど前に子猫を2匹得ていたたということは聴いていた。 けれどその後、どんな猫なのか子猫ならそろそろ我が家の庭にお目見えしてもいいのに、と思っていたし、先日は反対側の隣家では彼らの知人がヴァカンスに出発した折から預かっていた比較的若い猫を見失い、ここにそのことを書いたのは記憶に新しい。 だから昨日保険会社の中堅社員であるロバートがうちにきてルークと二人で二、三日オランダ中部の国立公園に出かけるのでこの二匹に餌をやってくれないかと頼みに来たのに一も二もなく引き受けて子猫たちのことを訊いた。

雄がKito(キト)メスがXara(サラ)で両方とも生後3か月ほどらしい。 雌猫2匹を貰うところが貰ってみれば雌雄二匹と分かりそれもびっくりだったのだが、この3か月ほど外に出さずに中で育てていたらしく、生後半年たてばそれぞれ不妊手術となり厄介なことの予防とするらしい。 我が家でも子供たちがまだ小さい時に雌のカヴィア(モルモット)を二匹貰ってきたらそのうち3匹になって雌同士の間に子供が出来た、奇跡だと笑いあったのだがそれは結局一匹が雄だったことで収まり何年か飼って子供が世話をすることでもらったものが大人がせっせと世話をする結果となり、それも自分の子どもの時の兎を飼った経験からしても同じことだったことも懐かしく思い出す。 けどこの雌雄二匹の子猫には私が持ち主の二人以外に見るのが初めての人間になるらしく、こちらとしてもそれなら甚だ興味深いものだから預かっていた鍵で彼らの居間から台所に繋がる空間を前の二匹のように歩き回り遠目に自分を眺めているのに話しかけながら見合っていた。 

死んだ二匹のときは我が家の庭に出てきては時には一匹はうちの猫の食い物を狙いもう一匹はおっとりと庭で昼寝をしたりしていたのだが自分が彼らの家に入るとなると脚に纏わりついて疎ましいぐらいだったのが何年も前に行儀を教えていたから何か月かに一回餌を与えに台所に来るとすばしこい一匹は流しに登ってきて忘れている行儀を知らしめるのに手で払って落とすと大人しく下で自分たちの皿が来るのを待っていたのだがこのチビたちは初めて見る異人には遠目に眺めて距離を置いている。 腹が減っているけれどそれよりも安全かどうかが眼目なのだろう。 腰を下ろしてしばらく子猫たちを眺めていても距離を測って近づいてくるものの意図が分からなく、立ち上がって餌を準備しにかかれば寄ってくる。 流石に子猫であるから物欲しさ半分怖さ半分といったところで餌の皿をそれぞれ下に置けばすぐさまそれに取りついてクチャクチャと貪り明日一日分のカリカリの餌を別のものに入れて置くとそちらをちらりと眺めながら皿の底を舐めてきれいにする。 水を補給して終わりなのだがそんな子猫たちを眺めていてもしも何かの具合で逸れてしまった時のことに備えて写真をと構えたがこちらを向く気配もなく今はカリカリと野菜や肉の乾パンを齧っており大声を上げた瞬間にこちらを見たショットを一つ撮っただけであとはそれぞれ勝手に歩き回りこちらを窺っている様子だった。  こちらもオーブンに入れたままにしてきた晩飯が気になったのでまた明日来ることにして子猫たちをそこに残して帰宅したのだった。


エリック・フォファーのインタビューを YouTube で観る。

2015年08月12日 12時47分03秒 | 聴く

 

ことの始まりはたまたま見つけたエリック・ホッファーの2冊の著作だった。 

 

みすず書房 田中淳訳  エリック・ホッファー 「波止場日記  労働と思索」   初版1969年、 日本初版1971年 2004年 第五刷

作品社   中本義彦訳 エリック・ホッファー 「魂の錬金術  全アフォリズム集」 初版1955年、73年、 日本初版2003年 2005年 第六刷

彼の人となりはウィキペディア英語版に詳しいが日本語版でも幾分かの概要が掴めるかもしれない。 70年代にホッファーのことは朧げに記憶しており今まで著作に触れることはなかったのだが上記の「波止場日記」から読み始めひょっとしてインタビューもあるかもしれないと試しに YouTube で牽いてみたら50分ほどを5つに分かれたインタビューがありそれを観た。

You Tube; The pationate State of Mind、Interviewed by Eric Sevareid,  CBS TV (1967)

https://www.youtube.com/watch?v=kTcv4HyEY3w

書かれたものは書かれたものとして読まれるべきものであるが書かれたものは生身の人間が自分の思索のまとまりとして提示するものとして創り上げられたものであればそれを補足する、あるいは自然な思索の発露としてのインタビューはその人間のある側面、もしくは核になる部分の提示もあるやしれずそれを探る上では甚だ有意義な場合もあるけれど退屈な決まりきったセリフや偽善とまではいかないものの何かの意識を纏って防衛一方のインタビューもあるから現在さまざまな技術・メディア露出の場でみられるものの場合では様々なアドヴァイザーに囲まれ仕込まれたインタビューではそればかりが露わになって興ざめする場合が多い。 現在の政治家はスピーチライターによって作られコンクリートで固めた柔肌のタッチは今更それをそのまま出たものとしてうけとれないのは言うまでもないのだが日本の政治家の能天気ぶりにはそれでも繕った穴から地がみえることもあり、それはそれなりに楽しませてくれることもあるからこういうスペクトラムをもつジャンルとしてのインタビューは面白い。 

だがホッファーのインタビューにはそれを吹き飛ばすぐらいの1967年9月というアメリカの状況から鑑みて甚だエキサイティングな、それは現在にも友好的に射程が十分届く十分有益なものだ。 あの時期自分がこのインタビューの存在を知っておりこれに接していればかなり自分の思索の方向がもっと豊かな方向に行っていたのにと悔やまれることでもあるがそれからほぼ50年経ってホッファーが65の定年で沖中士と大学教授職から同時に引退し著作に専念するというときの一つのまとめとしてのインタビューであれば自分が今彼と同年配であることからしてこのインタビューにはさらに奥行きが加わっている。 力がはいってインタビュワーをぐいと見つめる眼や思索を続けながら語るときに眼をつむり集中し語るその語り口、相手の誤解なり誘導に抗って力強く説明する態度は長らく労働運動のリーダーとして現場で培った知性を基にした強靭な体力が感じられこのような教授がやわな学生をあいてにどのように料理するのか甚だ興味深いものだ。 日本の60年代からの悲劇はこのような大学人が育たなかったことだ。 だからその結果として80年代からの雪崩を打っての総崩れの結果が現在の世界に全く通用しない「知識人」を量産してきたという結果になっている。 実際自分は1985年にオランダの院レベルの学生グループ・教授を引率して日本の科学研究センターを一渡り見て回った経験があり例えばオランダの学生と日本の主要な大学の学生のレベルの違いに愕然とした経験があるからこの10年ほどの日本の惨状には驚くこともなく当然の結果だと受け取っている。 それは知識の質とか量ということではなく普通の人間が賢くどのように知性を発露できるかということになり、その結果多分そこそこ知性のある外国人留学生が日本の学生を評して「子供っぽい(ないーぶ)」というのも当を得ている。 だから若者の間で「大人の」なんとか、という言葉が出てくるのはそれを自覚しているという証でもあるのだ。

このインタビューで面白かったのは彼の確固とした「インテリ」を排除する態度だ。 一見すると、それでは一般的に、彼の著作を読み彼の知識・思索を共有しようとする人間のグループを知識人というカテゴリーに入れるとするとそれは「インテリ」には入らないと自分で言うだろう。 つまりそれは自分の思索・思想は自分の生きてきた職業の中から培われたものの中から出たものでいわゆる大学・象牙の塔・メディアに属する「インテリ・知識人」ではない、と規定することにある。 世界の問題はこれらの知識をもったいわゆる「インテリ」の問題なのだ、ということだ。 つまり世間知らずのおぼっちゃん・おじょうちゃんたちが権力に使われるそのメカニズムが問題なのだ、「インテリ」の脆弱さが問題なのだと指摘する。 彼は「インテリジェントな者」を排除せずこういう人間に向けて発言し「インテレクチャル(知識人)」にも賢くなれる要素はあるものの、彼らの階級規定、脆弱さによる囲い込まれ、知性の有効化利用ができない状況を指摘する。 だから当時のこれらの発言に対してヒッピーたちに大きな影響をあたえることにもなるのだが、彼自身はヒッピーを白人中産階級の甘やかされ人種だと規定して所詮「知識階級」予備軍だと切り捨てる。 いちいち彼の言動を当時の状況、それから日本の60年代から現在までの「知識人」の動向に照らし合わせてみるとアメリカ並みにも届かずまさに日本の知識人たちの脆弱さ、「インテリ」のインテリたる所以を露呈しているのが明らかになる。 先日鶴見俊輔が亡くなって当時のべ平連関連の様々な言動を思い出すのだが彼にはホッファーとの接点がなくもなかったように忖度する。

インタビューの中でMr. Sevareid をミスター・シヴィライズド(文化人さん)と聴きちがえ彼の論旨から面白い揶揄の仕方をするものだと思ったのだが実際CBSのエリート・ジャーナリストは典型的な文化人・知識人であってその英語に対するホッファーの強く内容も筋肉を感じさせる冲中士の英語も自分の誤解を補佐するものだった。 自分をインテリジェントな大衆の中の一人だと規定しインテレクチャル・文化人から大きく距離を置きながら皮肉も敵対心も持たず大きな包容力をもって語る思想家の姿には労働と思索の両方を自分の手と頭で築き上げ続けてきた稀有な一般人の姿がある。 このような人間を20世紀以来生み出してこなかった日本の悲劇をみるようでもある。

 

 


まだこんなものが残っているのだなあ

2015年08月12日 05時02分53秒 | 日常

 

晩飯の食材を買いにマーケットに向かっている通りで珍しいものを見つけた。 70年代日本にまだ住んでいたころ退屈な車の形ばかりなのに比べて流石フランスの車だと感心し、もし自分のものになれば一度乗ってみたいものだと思っていたのが シトロエン2CV、通称「醜いアヒルの子」で、今日見たのはその業務用のバリエーションの一つだ。  70年代末、スイスで研修し堺で開業していた知り合いの歯科医が当時発売されていたフォルクスワーゲン「ゴルフ」に乗っていた。 醜いアヒルの子もフォルクスワーゲンも時代はずれるもののどちらも国民車なのだが例え堅牢経済性に優れるドイツ車といってもそれには魅力は感じなかった。  ブリキ細工のような2CVが粋に感じ、学生時代自分がアルバイトをしていた垢抜けしないのとは別のジャズ喫茶のマスターのカミさんが女子大の事務に通うのに使っていたソレックススのバイクとならんでいつかは、、、、というアイテムだった。

それがそれから5年もしない間に思ってもみなかったヨーロッパに来ることになり、初めの1年半は中古のプジョーのサイクリング車で毎日10km以上漕いでいたから83kgあった体重が65kgほどまで落ちて自分の生涯で最高に体調がいい時期だったもののそれでもやがて長距離移動のために車が必要となり自分の懐具合と相談したら結局この35年の間に乗り換えたのが中古フランス車ばかりということになっていた。 その選定に当たっては奇妙なことに何処製にはこだわらなかったのだがその都度偶々そうなったということだけだった。 初めには2CVの姉さんにあたるぼろぼろの「ディアーヌ6」だった。 鈍重であまり格好がいいとも言えないものの基本は2CVだった。 当時はオランダでは車検もなく2万円ほどでオランダ本土最北端の村のガレージから買ってきたものだ。 キャブレターの調子が悪ければ自分でスパナーをつかって開けて石油が溜まるブリキの弁を指で曲げるような原始的かつ自分で反応が簡単に確かめられるものだったし、後部座席も簡単に外されて日向ぼっこのソファーに最適なものだった。 床はぼろぼろで開いた穴から車線の白い帯が右に左に動くのが見えたほどのボロだった。 それでも1年ほどは乗っただろうか。 その後、石鹸箱とかクッキーの缶とも言われたルノー4、シトロエン・ヴィザ、シトロエンBX, プジョー406ブレークとなり今のプジョー407SWに続いている。

これを見て思い出したのは1986年の夏だった。 まだGFだった今の家人と老犬でルノー4にキャンプ用品一切を積んで3週間ほどあてもなくフランスのノルマンディー、ブルターニュと移動していた一日、ノルマンディーの片田舎の村のキャンプ場にきてみて公民館の前に広がる芝生が村立キャンプ場でそこに来てみて紙切れに書かれている電話番号にかけてみればとコトコとのんびり公民館の鍵をもってきた管理人の村の配管工が乗っていたのがこれだった。 その翌日、我々のテントの先5mほどの人がいるわけでもない道を突然喧しく怒涛の如く通り抜けて行く集団にあっけにとられそれがツールド・フランス’86だったのだがその思い出と共に、そうだそのときの管理人の車がこれだったのだと記憶がもどってくる。

シトロエンに興味がなくなったのはそのデザインが凡庸になり、性能にしても取り立てて魅力のないものになったことと、何か粋の要素が消えてきたように思えることからだろう。 あとは財布と相談して選んだのがプジョーだったということだ。 実際、今、車がなくとも生活ができ、ただ何かの折に必要と言うだけで日常に乗ることはないので経済性ということからこうなったのだろう。

それが今日買い物に向かっているともう何年も前に通っていた禅寺のあたりに停めてあった車に目を惹かれ通り過ぎてから戻って無粋乍ら周りを眺めて中も覗き作業車がそのままハンドルはオリジナルのまま、座席はぼろぼろ、助手席には大きな灰皿が吸殻一杯のまま、後ろのワゴン部分にはガラクタが詰まっているのをみてその懐かしさにパチリとシャッターを押したのだった。 

自分には車に対する執着は別にない。 けれど何かその時々で選択の余地があり、懐具合と相談すればこうなっていたということだ。 たとえ懐が熱く好き勝手に使えても別段どれが欲しいということはない。 時速150kmほど出れば何と言うこともないのだから250kmも出るようなものを持ってもフラストレーションが溜まるだけだとも思い、それだけの金があればいくらでも他に使い道は知っているし一日で数億使ってもいいと言われれば喜んで使うことも出来るけれどその中には車は入っていない。 ただ手元にないからそれを「曳かれ者の小唄」だと言われればそうかもしれないとも思うしまたそうでもないとも思う。 

兎に角、そんな車に執着がない、と言ってもこういう物が未だ残っているのを見てそこにワザワザ戻ってくるというのはどういうことなのだろうか。

 


探し猫

2015年08月11日 05時22分37秒 | 日常

 

もう大分日も短く感じられたように思ったのは先週休んで2週間ぶりに行ったフィットネスを終えて出てきた時だった。 もう暗いのであれ、曇っているのかと見上げた夜空は雲もなく紺色がそのまま深くなっていたのだが西の空を見ると地平線の方はまだ薄い青でピンク色もみえていたので夕焼けのおわりだった。 10時にフィットネスが終わるのだからその10分後ぐらいだろう。 もう4年ほどこんなふうにして自転車で5分ほどの間を決まった時間に行ったり来たりしているとそれで季節の移り変わりが分かるのだ。 暗い、明るいで言うとこれで夏が終わった、という感じだ。 今のところ汗で濡れたスポーツ姿で自転車を漕いでも寒くもなく大丈夫なのだがそのうちジャンパーを着ないと寒く感じるようになり一か月もすれば家からスポーツ着ででかけずちゃんと服を着て出かけなければ寒いと感じるようになるのだろう。 

汗で濡れたままジムから家に戻ってくると隣人が家の表戸の隙間に紙切れを差し込もうとしているところだったので立ち話をしたのだが、二週間ほど家を離れてスランスにバカンスに出かけている友人家族から預かっている猫がいなくなったのだと言う。 初めの何日か家の中に居させていたものがこの暑さで締め切るわけにもいかず開けた裏戸から庭に出てそのままいなくなったらしい。 1日たっても戻ってこないからその家族の家に行って様子を見ても戻っている気配はない。 だから裏庭から隣家に出て戻って来れなくなりどこかの裏庭の軒先か納屋に入ったままになっているのかもしれない、そのうちも猫が入ったと気づかぬままに物置を閉めてしまって出られなくなっているのだはないか、とそれに気を付けてくれるようそんな注意書きを100枚ほどプリントして家族で手分けして近所、周りの家のポストに入れて回っているのだと言った。

うちの猫が死んでもう2年になる。 うちの猫に前後して両隣の猫もそれぞれ老衰で死んでいて両方ともに新しい猫がきている。 もう一方の隣では3年前と同じように子猫が二匹来て3か月ほどになるのだがまだ外に出していないのか庭に出ても我が家の庭まで来ないのかまだ顔をみたことはない。 裏庭には毎日あちこちの猫が顔を見せ横切っていく。 我が家の猫の友達だった黒猫も来るし大きな三毛猫もみかける。 けれど探し猫の写真にあるような猫はまだ見たことはない。 まだ一つにもなっていないのだそうだ。 フーシェという名前だそうだ。 たとえこの猫を見かけてこちらからフーシェ、と呼びかけてもそれに反応するのだろうか。


恋人たちの予感  (1989);観た映画、 Aug. '15

2015年08月09日 09時17分36秒 | 見る

邦題; 恋人たちの予感   (1989)

原題; WHEN HARRY MET SALLY...

96分

 
 
初対面で最悪の印象を互いに持った二人が、“男女の間に友情は成立するか”という命題に苦悩しつつ、11年の後に結ばれるコメディ・タッチのラブ・ストーリー。散文詩的な作りの中で魅力をフルに発揮した主演二人(特にM・ライアンはポスト・ゴールディ・ホーンとでも言うべきキュートさ)とNYの色々な顔を美しく捉えたバリー・ソネンフェルドの撮影が素晴らしい。
 
上記が短い映画データベースの記述である。  本作を初めて見たのは90年代の初めのテレビで、その後切れ切れにテレビにかかっていたものを見たのだがところどころで思わず爆笑するシーンが多く印象に残り70年代に舞台を置いた89年の作をニヤニヤしながら今回はベルギーの国営テレビのゴールデンアワー放映で観た。 上記データ・ベースではライアンはポスト・ゴールディ・ホーンというべきと評されてはいたが本作に関してはむしろ当時アメリカのシットコム「Cheers」で人気のあった シェリー・ロング に比べられるべきだろう。 ホーンには男に媚びるようなコケッティシュなところがあり鼻息の荒いロングに比べられると適正だろうと思う。 それは後のトム・ハンクスとのラブコメでの演技でもみられるものだ。 
 
もう一つ本作を観てみようと思ったのはこの音楽を担当している元はジャズシンガーで俳優でもあるハリー・コニックJrの選曲が適正で素晴らしくBGMや場面場面の移り変わりに挿入されるサッチモ、レイ・チャールズ、シナトラなどの歌詞がストーリーにぴったり合い70年代のまだ50年代からの香りを残していたポピュラー音楽の伝統を示していることにも見続けた理由がある。 
 
本作を観る前日に久しぶりに家族で「The Blues Brothers (1980)」を観た。 それを観て当時観た「カー・ウォッシュ(1976)」や「グリース(19780」の系譜につながるものと見做すのだが、ここで本作とブルースブラザーズでデブのブルーシを殺害すべくあらゆる武器を駆使して単独スポーツカーからやたらとぶっ放していたキャリー・フィッシャーの9年後を観て喜んだ。 77年「スター・ウォーズ」のレイア姫である。 本作では嘗ての御姫様がクリスタルの親友、中年グルメライターとライアンの親友フィッシャーを繋げるエピソードがおかしい。 いずれにせよ大学卒業後11年というのは人生の中でも怒涛のものであるらしいのは今でも同じようなものであるので邦題はこの映画の趣旨を示していないように思え、「ハリーがサリーに会った時」と原題にあるような場面を見るとここでの主題「男女間の友情は成り立つのか」を考える一助になるかもしれない。 そのセックス観を交えた議論には今でも再考を加える余地は十分にあると思う。

イギリス の ケンブリッジ、ノフォーク、サフォーク州 旅行 (3)ノーフォークの崖ぞいのキャンプ場

2015年08月09日 02時17分10秒 | 日常

グレート・ヤーモスから北に海沿いに狭い道を45kmほど辿りやっとついたのが Beeston Regis Caravan & Camping Park というキャンプ場だった。 ここは Cromer  というグレート・ヤーマスに比べれば小さいけれど活気があっていい海水浴場のある観光地と   この辺りの鉄道の終点 Sheringham のあいだにあるただ教会が一つだけ崖っぷちにある緑に恵まれたゆったりとしたバンガローやテント、キャンピングカーなどを収容するキャンプ場だった。  テントから10mほど行くと高さ30mほどある砂と粘土が混じったような崖が続いておりその上空にその縁に沿ってパラグライダーが行き来していた。  海からの風が崖に当たって上昇気流となりそれによって浮力を得、崖に沿って行ったり来たりしているようだ。 それはこの辺りを飛ぶ鴎などと同じやり方だけれどパラシュートでは羽ばたけない分自由が利かない。 あとで難儀していた何人かに訊くと今日は風が少ないから崖に沿って幅は10mもないと言っていた。

息子はせっかく来たんだからと少々波の荒い海で泳ぐべく海水パンツ一つにサンダルをひっかけてすでに崖を降りていた。 久しぶりにそんな柔らかい崖を飛び下り飛び下りほぼ垂直に降りていくのは楽しかった。 ひっくり返って下に落ちたとしても砂なのだからどうと言うこともないのだが運動が得手でない家人は降りるのを手こずっていたようだけれどそのうち降りてきたら息子は荒波のあるものの泳げなくもないとおもわれる腰辺りまで進み大きな波に打たれながらそこで逡巡していた。 そして足元が不如意で駄目だと言って戻ってきた。 今上げ潮の痩せ細った砂浜でも波が来るところからずっと沖まで両手で包んで持て余すような丸い石が続いているようで歩けない、それにしてもまだ嵐の余波が続いているのか波が高すぎるというのが泳げない理由でありそれはよくわかる。 もう50年ほど前に南紀白良浜で台風が来ている時に泳いだことがある。 そこは砂浜が続いているところなので沖まで難なく行けたのだが大波にもまれて気がついたら砂浜に打ち上げられていたということもありそれは下が砂だったから無事だったもののあれが石であり岩の尖ったものであれば危ないことになっていただろう。 波にもまれて上も下も分からず上だと思って掻いていると砂底でその波が引いて砂浜に残されていたという経験もしている。  そんなことも思い出しつつ濡れて冷えた体の息子と我々は持って行っていたポットから暖かいコーヒーを注いで崖下で暖を取り1kmほど歩いてテントに戻った。

晩飯の材料を Cromer  のスーパーで買ってテントで最初の料理にしようと出かけたらもう閉店間際でおまけに入ったスーパーには思わしいものがなく結局そうすると辺りを歩いて適当に喰おうということになり崖から下に降りれば海に突き出した古くからある桟橋仕立てのアミューズメントパークのようなところも歩いてみる。 そのうち東の空にほぼ満月のオレンジ色の月も上りやっと海辺に来たという感じになる。 桟橋からは何かを釣る太公望たちがたくさんいてあまり釣れているとも思えないけれど海釣り経験のない人も夏休みだから、というところもあるのだろう。 腹も減ってきたので崖上に登りホテルでありレストランもある Red Lion(赤獅子亭)というどこにでもあるような名前のところが活気があったのでそこに入ると海が見えるいい席が一つだけ開いていたのでそこに落ち着いた。

それぞれにそこそこ満足のいく食事を摂ってテントに戻ったのだが赤獅子亭にはオランダに帰る前々日の食事に娘と4人で来ることになったのは偶然だった。

翌朝小用に立ちテントの外に出ると水面に何か明るい光のようなものが見えてそれがそのうちそこから真っ赤な点が登り、それが太陽だと思ってみていると5分ほどで丸い未熟なトマトのようなものが水から出てすぐ上の薄雲に消えた。 それから大分上で雲もなくなり薄茜色から雲一つない薄青色になるのだがまだそれぞれのテントで寝息を立てている人の他は誰もいなく周りを見渡すと野兎があちこちで飛び跳ねながら草を食んでいた。 5時10分だった。

それからまた一寝入りして8時を周って起き出しゆっくり朝食にした。 そのあと垣根を越えれば入れるような All Saints 教会を見た。 その内部はグーグルマップスから次のように上下左右自由にカーソルを動かしてパノラマ画像として見ることができる。

https://www.google.nl/maps/@52.940975,1.234476,3a,75y,91.1h,99.82t/data=!3m7!1e1!3m5!1s3fMCfE3tqBQAAAAGOx4wzw!2e0!3e2!7i13312!8i6656!6m1!1e1

この敷地に入るには柵を開けて入らねばならず、そこには外から野兎が入って墓場を荒らす恐れがあるので出入りのあとには必ず柵を閉めるようにとの注意書きがあり、そんな小さな兎でも害になるものだと感心もする。

ここでは少々のんびりしすぎてキャンプのチェックアウトが10時半になってしまった。 テント一切を車に積みその後、ケンブリッジに向かいそのの中心から2kmほどの村に住む知人を尋ね2月以来の再会となる。






一日中家にいて、、、、

2015年08月08日 13時56分33秒 | 日常

 

イギリス旅行から帰って一息ついている。 旅行と言っても運転は息子に任せて自分では何もせず家族が行くというところに附いていってブラブラしているだけだから疲れもしないのだけどそれでも一週間でキャンプ地を3か所変えているのだからそれなりに気疲れと移動の疲れがあるのだけどそれも贅沢はいっていられない。 家に帰ってのっぺりとした日常に戻りほっとしている。 何かにつけて、さて、っと、、と別段しなければならないこともないのに予定を考える。 そして何もないのに安心と少々の罪悪感を覚えながら庭に出る。 空はこの間のイギリス東岸の空と同じだ。 キャンプ場の管理人と話したときに大抵はここでは陸から海に向かって吹くのだからあまり大したことはないと言っていたのを思い出すけれどオランダの自分の住んでいるのは北海から10kmほど内に入った町はずれでそこに吹く北西の風は海峡を渡ってそのキャンプ場あたりから吹いてきたものでもある。 このところ30度まで行かない晴れたいい天気が続いている。  空を見ていると  Summertime and the livin' is easy,  Fish are jumpin' and the cotton is high,  Your daddy's rich and your ma is good lookin'、、、、という歌をおもいだすけれど、生活はのんびりしたもので向かいの運河では魚は飛んでいるかどうかは分からないけれど頭の上にはゆったり綿雲が流れている。 父ちゃんは金持ちでもなく母ちゃんは、、、、、まあ、、すべては事もなし。

家人が仕事に出ている間家の中を整理してから晩飯を作る算段にスーパーにぼろぼろの買い物袋を提げて自転車でのんびりと出かける。 見知った景色の中を自転車を走らせていても今の時期、人通りが少なくそこに夏の物憂い雰囲気が増しているのは一週間たってもっとはっきりしてきている。 学校に行く子供たちが夏休みなのだからその親たちが子供たちを連れてヨーロッパのあちこちに散らばっているのは戦後この70年変わることもなく、だからのんびりしているのも道理だ。 8月もそろそろ半ばに入ろうとしてもうそろそろ9月からのことに準備を始めている若い者もちょっと気を付ければそろそろ日が短くなってきたと感じる夏を今を盛りとあと2週間ほど若さを若さと感じなく謳歌しているようすがハッキリと彼らの表情に見える。 買い物を終えて帰路濠端に来ると白鳥の親子の子どもたちは薄茶色の羽毛がまだ抜けてはいないものの体つきは目立って大きくなってきているのが分かりここでも季節の移りを感じる。 


イギリス の ケンブリッジ、ノフォーク、サフォーク州 旅行 (2) 上陸して英国式朝飯を喰う

2015年08月06日 15時26分04秒 | 喰う

 

オランダから目と鼻の先のイギリスの港町ハリッジに渡ってきてフェリーを降りる前にカンティーンでクロワッサンと濃いミルクティーを虫養いにしてコンテナーセンターだけのみすぼらしい港から北東部の北ノフォークに向かうべく先ず近くのサフォーク州の州都イプスウィッチに行った。 取敢えず古い町の中心に行こうと9時ごろのセンターに来てみるとまだ通りは起きだしたところ、店も開けているところだった。 中心の教会やそれに続く大通りといってもつつましやかなものでチューダー朝の建物を残した呉服屋が異国情緒をそそる。 青空マーケットにしてもバンがあちこちに停まり荷物を持ち出し近くのテントの屋台に並べているところだった。 船の中の無国籍料理ではなくちゃんとしたイングリッシュ・ブレクファストを摂ろうと開いたばかりのどちらかと言うとフランス風の御菓子屋に近いような店に入って座れば3つほど先のテーブルに20代半ばほどの夫婦が2つちょっとぐらいの男の子と朝食を摂っていた。 一般にヨーロッパの男性旅行者(イギリスは島国でヨーロッパではない。 EU にしても距離を置いていて、保守党政権はもちろん、労働党の部分でも参加することはない、とおもっている連中が多く、今回のギリシャ危機にしても見たことかと思っているのが英国人の大半だ)たちに英国式朝食は朝から腹にこたえるものとして機会があれば喜んで注文するものが多い。 コンチネンタルの朝食と比べると理解できるだろう。 朝から暖かいミソスープと焼き魚、生卵を炊き立ての飯にかけて海苔で巻いて喰うというような習慣には日本でも今は少なくなっているのと同時にそんなものはヨーロッパ大陸の旅行者にはエキゾチズム以外の何物でもない。

ヨーロッパに35年住み和食というものもエキゾチックなものと成り果てている日常には習慣的にトースト、ジャム、チーズ、ハムにコーヒーか紅茶、精々それにオレンジジュースがつくようなもので朝飯にしていて偶にバカンスなどでフランスなどに行くと地元のパン屋で朝、クロワッサンやバゲットを買いそれを朝食にして旨いと思うけれどそれも腹にこたえるものではない。 なんといっても英国式朝食はどっしりとくる。 それを喰えば60も半ばになれば昼食はもういいとも思う。

表のマーケットを眺めていると目の前に来たのがヨークシャー産のハーブが入ったソーセージを焼いたものが二本、黒パン二枚分をトーストして対角線に半分に切った三角形のものが4枚、目玉焼きとどちらにするかと尋ねられ注文したスクランブルエッグ、フライパンで焼いたトマトの輪切り2つ、焼いた厚いベーコン2枚、トマトソースで煮た白豆、豚の血と練り物で作った太いソーセージの輪切りをフライパンで焼いたブラックプディングに水煮した小さなシャンピニオンにコーヒーを頼んだ。 ここはフランス風菓子屋なのでコーヒーはフランス風で信頼できた。 大体イギリスではパブに行ってもどこにいってもロンドンなどの大都会以外はコーヒーは不味い。 けれどその代り紅茶は大体旨い。 オランダのスーパーで売っている普通のティーバッグは葉の量が少なすぎ大抵毎日それを二つ使ってなんとか濃いミルクティーにして凌いでいるのでイギリスに来れば濃いティーにミルクを入れて飲む。 大阪南部の百姓家ではありながらほんの小さな1950年代中ごろに子供の時から茶こしにタップリ入れた紅茶をカップに注ぎルビー色になったものに砂糖をたっぷり入れて飲んだのが紅茶だったからその強烈な印象から1969年に知ったトワイニングのダージリンに出会って以来それに親しんでいる。 とは言っても今では別段何にこだわることもなく濃ければ有り合わせでいい。 昔スカンジナビアに行くのに使ったカーフェリーの食堂で摂った豪華な英国式の朝食では銀器に盛られたバイキング式のいろいろな食べ物の中に何かの肝臓を炒めたものや魚の燻製があったのだがこの頃の普通の朝食にはそれはないようだ。

息子と自分は英国式、家人は日頃の食生活がしみ込んでいるから朝からこんなもの、と自分はハムエッグとコーヒーで我々のものを皿から時々は摘まんで口にしては顔をしかめている。 流石にここではビールのビターを注文しなかった。 それがそこから古い海岸の保養地グレートヤーマスに出かけ、まさに英国民の嘗ての栄光の町の寂れた大通りを歩いている時にあざといほどの一日中英国式朝食アリマスの看板を見かけたので写真に一枚収めた。

上から午前11時までの「早起き鳥スペシャル」

一日中朝食メニューとして

「寝覚めの朝食」、「二日酔い、もしくはこれから夜に出陣まえの朝食」、「メガ 朝食」とある。 B級グルメでもないどう言えばいいのか困る国民食のようだ。  この写真の看板を見たのは既に寒々として今では少々憂鬱を誘う嘗ての保養地を歩いた後、もう昼も廻っていたので100年以上も続くとガイドに書かれていたブールバードに沿ったパブでエールを飲みながらイギリス式揚げイモにマヨネーズ、トマトケチャップ、HPソース、地元の酢などをつけて3人で昼食にしたあとだったのでこの看板を見ながらもう当分はいいと思いつつシャッターをきったのだった。