暇つぶし日記

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イギリス の ケンブリッジ、ノフォーク、サフォーク州 旅行 (4)夜中のパーティー

2015年08月18日 17時14分59秒 | 日常
 
 

 

2015年 7月 31日 (金)

田舎の海岸からケンブリッジの町に入ると車窓からは若者に溢れる喧騒が眺められた。 そこではことに中国人の若者が溢れていた。 そこを抜け2kmほど離れた田舎の村に住む家人の師匠というべき女性造形作家に会い、この日の晩のパーティーに参加するのが今回のイギリス旅行の核心で、これに付随して何日かノフォーク、サフォークの海岸を巡るのがプランだ。 ケンブリッジと言うのはケム川に架けられた橋というのが意味らしく大きくもないその川の上流にその村はあった。 彼女の工房は戦前にはクリケット・フィールドの休憩場所、パヴィリオンでそれを使っていて、それに続く嘗てのクリケット・フィールドは今は牧草地になっておりオランダのホルスタイン種とは違って薄茶色の乳牛があちこちに散らばっていた。 彼女の家はそこから歩いて2,3分のところにあるパブ近くのほぼ単身者用の普通の住宅で、そこで息子を二人そだて今は彼らは二人とも40前後にはなっていて一人はコーンウォールで芸術家用の長期滞在用の貸家を提供しているはずだ。 この日、オランダから飛んでくる娘を加えてはその家には4人も泊まれるわけでもなくそこから3kmほど離れた村のキャンプ場にテント二張りを設営してから彼女の工房を訪ねた。

嘗てのパヴィリオンは周りに木が茂り小さな森の中の寂れた温室の雰囲気を持っており彼女はその近くに掘っ立て小屋を建ててそこに電気を絶ってこの6か月住んでいたた。 パン、ミルク、と基本的生活維持に必要なものだけで暖房もなく日本のどこかの河原に木を集めてきて枠組みを作りそこに自分だけの空間を創造して住む老人たちと同じだ。 必要最低限な機材は揃っており寒さと湿気を除いては何不自由はない晴耕雨読の6か月だったらしい。 この夜も彼女の知人が二人泊まると言うので森の中にブルーのビニールシートが二つ離れて藪の中に架けられているのをみた。  彼女に会ったのは家人と知り合った頃の1983年頃だったと思う。 自分は1980年に大学助手としてグロニンゲン大学で働き始めてから市の外れにある墓地公園を見下ろす学生アパートの10階、3mx4mの小さな部屋に住んでいて、美大で造形・陶芸を専攻している学生だった当時の家人と知り合った頃で、彼女は15kmほど離れたドイツ国境に近い大きな農家を改造したコンミューンに工房を持っており、その村とグロニンゲンを往復していた。 その頃陶芸の講師としてオランダに来ていたこのオーエン先生に知己を得てこの彼女のうちを何回か訪れており、このパヴィリオンの傍にも二人で窯を築き作品を焼いている。 娘と家人は何回かここを訪れているのだが息子と自分は今回が初めてだ。 

今年の2月に彼女は久しぶりに我が家を訪れ三日ほど家にいて彼女のこの1年ほどのプロジェクト、「ブルー・ムーン」にのことを語るところでは、コーンウウォール、スコットランド、イングランド、オランダ、フランスと自分の作品、12個のムーンボウルをその人たちを訪れては贈り、プロジェクトが完成する7月31日の満月にはこの森の牧草地で80近くなる彼女の行き越しを想いながら皆と月を愛でようではないかという趣旨のパーティーに招かれ、また彼女の周りの人たちに興味を持ちつつ家族4人で訪れだったのだった。

息子がロンドンが郊外の空港から娘を拾ってきてこの村のグリーン・マンというパブ・レストランの裏庭に落ち着きビールやワインを飲みながら席が空くまで待って陽が落ちて肌寒きなってきたと感じられたころに呼ばれて中に入れば昔の民家を改造した空間だった。 階級社会であるイギリスではここは労働者階級の来るパブではない。 客の大抵はケンブリッジ、その近郊から来る中産階級、その子弟と思われる。 地元の連中はオーウェン先生の家から3軒ほど離れたパブなどに行きそこでオダを挙げる。 残念ながら近所のパブは一杯だったからここに来たのだけれど喰い物はそつなく悪くはなかった。 そこを出て息子が車で入れなかったという工事中の村の外れの橋を見ているともうパーティーが始まる8時だった。 川に沿った曲がりくねり薄暗く細い道を早足で15分ほど歩いて牧草地の外れに来て牛糞を避けながらパヴィリオンに向かうと遠くに30人ほどがこちらに向かって横一列に並んでいるのが見えた。 他に我々とは反対の方向から来た10人ほどと一緒に列に加わると、中世の魔女とはいかないものの白熊の毛皮を纏いそのころ老婆が被っていたような帽子えお付けて長い紐に自分の作品を何メートルも繋げたサラが我々が今来たケム川方向に無言歩いて行く。 招待状には8時からは自分は別人格のサラであるから儀式が終わるまで無言である旨書かれていたから皆お互いにその意味を戸惑いながらも想像しつつそれに従い広いなだらかな牧草地を川辺に向かう。

川に来てみればそこには遠くにカヌーが一隻控えておサラは筏に作品を乗せ幾つもの蝋燭を点しカヌーの若者に促されそれに乗って小さな筏を引いて下流に消えた。 すでにこの頃には互いの顔を見るのも怪しくなっている。 別の何人かが川に近い傾斜地に備えた大きな6つのカーペットとその周りに備えた12の松明の壺に火を起こし、そこからそれぞれが持ち寄った飲み物、喰い物でパーティーは始まった。

始めはそれぞれ互いに知らないもの同士だったけれど口にいろいろなものが入りだすと話が弾みここではサラではあるけれどオーエンさんとはどんな縁故になるのか話が続き、初めはサラの詩の朗読の中では雲間に隠れた月を呼び出すべく叫び歌ったのだがそのうち宴が闌になる頃には満月が川の向こうに眺められた。 自分のプレゼントにはもう10年以上使っていない中国土産の硯と墨で「蒼月」と小さ蘇武に倣って認めた書を贈っていたからこの薄桃色の満月は蒼月とはちょっと違うな、と思ったのだった。 ギターを弾く若者が二人我々が歓談している間にそれぞれ歌い弾き、その中にはジャズのスタンダード、Blue Moon もあって年寄りたちはそれに唱和したし子供たちも音楽関連で彼らと話しを弾ませてもいた。 けれどそれぞれ火桶の熾火が静かになり日付も大分変った頃にはそれぞれ三々五々と家に散り、そこには薄オレンジ色の月が残るだけだった。 

印象的だったのはそれぞれと四方山話に弾んでいる時にサラがこちらに来て来て自分がスコッチを勧め、それを啜った後彼女に何か訊こうとしたとき、あなた、又難しいことをいうのでしょ、と言われたことだった。 今まで喋っていて何もそんなことを訊いていないのにそれは意外だった。 

サラ(オーエン先生)と初めてあった30年以上前に自分のフラットから歩いて家人と3人でグロニンゲンの映画館に出かけ、大島の「愛のコリーダ」完全版を初めて見た。 そのあと、家人は日本のことはよく分からない、彼らの関係は甚だ暴力的で自分の好みではない、と言ったけれど、私はこんなに女に優しい男はいないよ、とそれに遮り、その前に小沢昭一が実際に阿部定にインタビューしたときのものを読んでいたから大島の作品などのことを彼女たちに説明し70年代にみた大島を含め様々な作品などの印象を語ったのだけれどサラの口からはそのとき何も聴かれなかったから、やはりヨーロッパ女性として男女の愛の形には否定的だと思って済ませ、それから10年以上たってその時の彼女の印象を言うと、それは自分の誤解であの後いろいろ思うこともあってあれは素晴らしい作品だと言うのを互いに確認したのだったけれど、今80に近い彼女の口から又難しいことを、と言われるのがそのことに関連しているのか他のことかそれを聞きそびれてしまいその時の成り行きから次の機会まで先送りになってしまった。 60人以上のパーティーでそれぞれに親しく接するというのは楽ではないのはこの3か月ほど前に自分がホストとなったことで経験している。 次の機会にそれが何だったのか尋ねてみようと思う。

そこを辞し草地の中をもう何百メートルも先を行っている家族の後を頭に付けたランプの灯で牛糞を避けながらやっとのこと車のところに来、何もない暗い深夜の田舎道をキャンプ場まで戻ってテントに潜りこもうとしたら彼方には雲間から覗いている満月が望めた。 Blue Moon You Saw Me Standing Alone,,,,,,,

 



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