暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

プールで泳ぐ

2015年02月20日 15時02分32秒 | 健康

 

火曜と金曜日の昼に近くのプールに行って泳ぐことにしている。 500mを3回、その間にサウナに10分ほど入る。 始めてから4週間、今日で8回目だ。 前回こういうことをやっていたのは9年ほど前まででその時は毎回記録は12分から13分30秒の間あたりだった。 それが今は14分30秒から16分の間となっている。 2分半ほど遅くなっているということでこれが還暦を挟んで9年間の加齢による身体能力の低下ということなのだろう。 

毎回同じような時間に出かけて同じ小部屋に入り同じロッカーに荷物を置き同じコードを押してロッカーに鍵をかける。 いつも小部屋番号3番、ロッカー番号149は空いていて25mのプールに来てみれば一つのコースにだけ綱が張られていてそこには2人同じ人が先に来て泳いでいる。 ルーティーンである。 けれど水に入って500m泳いでいるといつも感じが違い、水に乗っている時と体が重く少し沈むように感じるときがある。 前回は気持ちよく水に乗って体も軽く初めて14分22秒と驚くほどの記録が出た。 だから今日どんなものかと水に入って25mほど行ったところで体が重いのを感じて16分台になるだろうかと思ったけれどちょっと持ち直して結局15分15秒と前から1分ほど遅くなった。 一回目が一番よく、あと2回目、三回目と30秒ほどづつ遅くなるパターンだ。

記録など別段どうでもいいのだし年寄りのこんな記録など何の価値もないのだが凝りもせず記録を付け続けるのはルーティーンに変化をつけるためだ。 別段早くなりたいわけでもない、と書けば嘘になるけれど速さにはこだわらない。 自分で泳いでいるうちに体の軽さ、水に乗る、乗らない、などと感じるのだからそれでいいのだけれどそれでは漠然としすぎるような気がしてそこではっきりとした時間が出ればとっかかりとなると思っているのだ。 それに誰が毎回500mづつ3回泳げと決めたわけでもないしそんな義務もない。 けれどそんなルーティーンがなければ途中で放り出してただ行ったり来たりするだけというようなことになり自分では締まりがつかずそのうち来なくなる、とでも思っているようだ。 それは自分の飽きやすく熱くなるのもそれが冷めるのにもムラがある自分の性格が分かっているからでもある。 

15分ほどを3回、毎回45分ほど泳いでいることになる。 じぶんでもよくやるものだと思う。 もうジョギングで45分は走れない。


胡桃を喰う

2015年02月20日 11時42分05秒 | 喰う

 

 

スーパーの食料品売り場の隅に胡桃がたくさん積み上げられていたので小さなショベルで2回ほど掬い上げそれを紙袋に放り込んだ。 一年の中で栗の出る時期は短いけれどどういうわけか胡桃は比較的長く出回っているから時々気が向けばこのようにして買う。 特にこれがスーパーで目につくのはクリスマス前ごろからだろう。 今年になってからポテトチップスや他のつまみを止めたので口寂しくなりそういうときはバナナやリンゴなどの果物かこういうどちらかというと加工以前のものを摂るようにしていることもあってだからこんな胡桃に手が出るようにもなったという経緯がある。 いちいち殻を割り手間をかけて少量の実を口にもってくる効率の悪さがダイエットの効果にもなっているものと見做すとこれも年寄りの身体速度とも相まって少々のノスタルジアも湧いてくるというものだ。

胡桃のことを書こうと思ったのは胡桃割りで殻を挟んで割る作業をしていてほんとに久しぶりに中身を砕かずに実を取り出せたのでそれを記念写真に撮っておこうとしたことによる。 脳のしわのように見える実で構成されていて脳と同じく左右に分かれているようでそれぞれが二つに分かれているので大まかな左右対称が全体には4つに分かれている。 比較的小型のこれはだから中央の境を中に四方に耳たぶかイボが尖ったような形をしていて脳といった丸い形にはまだなっていないように見える。 

大阪南部の農家に育ち小さい時から一年に何回か餅を搗くのを習慣にしていた。 そしてそのとき柔らかい餅を喰うのにそこには大抵小豆の濾し餡や醤油を落とした大根おろしと共に「くるみ餡」というものがあってそれは大豆を煮てそれを潰し砂糖を加えたもので胡桃の味とは共通するものがないようで妙だと思っていたのだがこれを書くのにウィキペディアの胡桃の項をみて初めて「くるみ」が胡桃ではなく包む、「くるむ」のくるみだと書かれているのに接してそんなものかと思った。 それならその言葉は大阪南部にはいつのころか外から入ってきたものなのだろう。 大阪南部では包むは包むで「くるむ」という言葉は使わないからだ。 それに胡桃にしても山にも林にも胡桃の木はほとんどなかったのではないか。 栗の実は普通に山でも林でも見たし栗林もあったけれど胡桃の木を見た記憶はない。 大体胡桃があったとしてそれを喰うのに子供たちがどこかから胡桃割りを持ち出してきて胡桃を割ったという記憶もないし、胡桃だけがあって胡桃割がなければ猿が学習するように石かレンガを叩きつけて割るようにでもしなければ子供には割れるものではないのだからもしあったならそういう記憶もあるはずなのにそれがなかった、ということは胡桃が普通には間近になかったという証になるのだろう。 友人の家族がどこかに行った時の土産で胡桃をニスで固めて繋いであって手の中でグリグリ転がすと中風のまじないになる、と言ってまだ中風からほど遠い子供がグリグリしていたのをかすかに思い出す。 そんなことを思いながらこの胡桃の一塊を口に放り込む。 

 

ウィキペディア; クルミの項;

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%83%9F