暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

エリックを探して  (2009);観た映画、July '14

2014年07月08日 03時27分13秒 | 見る
邦題; エリックを探して   (2009)

原題;  Looking For Eric

117分  イギリス映画

 
 
大のサッカー好きという社会派の名匠ケン・ローチ監督が、かつて名門マンチェスター・ユナイテッドでエースとして君臨した元フランス代表のスーパースター、エリック・カントナとの異色のコラボで贈る、心温まる人生一発逆転コメディ。 なにもかも上手くいかず、どん底で苦しむ中年男が、突然現われた憧れのヒーロー、カントナのアドバイスに勇気を得て難局を乗り越えていく姿を仲間たちとの熱い絆を軸に描く。

マンチェスターの郵便配達員エリック・ビショップは、しょぼくれた中年オヤジ。 2度の結婚に失敗した彼は、7年前に出て行った2度目の妻の連れ子2人を一人で育ててきた。 しかし、その2人の息子はいまやすっかり問題児。 おまけに、未だに心から愛しているものの、今さら合わせる顔がないと感じていた最初の妻リリーと再会しなければならなくなり、気持ちが沈んでいた。 そんな彼の心のアイドルは、地元マンチェスターの英雄、エリック・カントナ。 今日も自室に貼った彼のポスターに向かって愚痴をこぼすエリックだったが、なんと突如どこからともなくカントナ本人が現われた。そして含蓄ある格言で彼を励まし始めるのだったが…。
 
上記が映画データベースの記述である。 今ブラジルで世界サッカー選手権がたけなわの時期に合わせてサッカー好きなら、おや、と思うような嘗ての大選手エリック・カントナを配した作であるから準決勝までまだ日がある日曜の夜にテレビで放映するのに最適な作だと睨んだのか、昨夜はオランダ局で、今夜はベルギー局でとどことも思うことは同じようだと苦笑しながら観た。 それにカントナは同じくイギリスのサッカー選手だったヴィニー・ジョーンズと並んで今や映画スターでもあるので本作を興味深く観た。 いつだったかカントナが出演した映画のことを次のように書いている。
 
French Film (2008)
 
上記の作ではカントナの経歴のことを思うと役柄がチグハグでそれが面白くて笑ったのを覚えているのだが、ジョーンズの方はアクション映画で苦味走ったハードな役をこなしておりカントナーの一歩先のような印象を持っていたのだが本作を観るとジョーンズとの違いがはっきり出てフランス人カントナが頭一つ前に出たかのような印象を持った。 それには本作の監督の腕、話の中でのカントナがサッカー選手以後のカントナとして出ていること、原案がカントナのものだということが大きく関与しているのだろう。 現役時代気の喰わない監督、フーリガンと何度も揉めた「武闘派」なのだ。 それらの記憶は90年代に戻る。 威勢のいいフランス人のスタープレーヤーがイギリスに移籍してきた頃のことだ。 日本でベッカム旋風が起こる大分前だ。 それから日本各地にサッカーチームが出来、ブームが起こり、果ては文芸批評でもヨーロッパ・サッカーのことをタネに若いフランス文学・思想出身の若いのが文芸雑誌に書き始めていた頃だ。 本作でカントナが活躍していた頃の映像が挿入されてその頃のことを徐々に思い出していた。
 
地元のパブで泡の少ないラガーやビターを啜りながら近所のサッカー・ファン達がそれぞれの家族も交えて集い、、、、というのは大体どこの町にでも見られそこでの地元チームへの熱愛ぶりは他チームのサポーターとの争いの元となり、果てはその過熱振りに時には死者を招くようなことも起こる。 フーリガンと呼ばれる者たちはそのサポーターに混じり只単に騒動を起こすのを目的として屡犯罪者たちとも交差点があるとも言われている。 本作でもフーリガンまがいのことも起こるけれど話の筋からしてその目的、方法はフーリガンとは区別されるものである。 尚、主人公を郵便配達の職場の中に設定し、労働者階級の日常、地元、職場でのつながりを描いたのはケン・ローチ的テーマであって、それをコメディー仕立てにしたのは賢明だ。  本作と同様、サッカーのスターの名を本人は出演していないもののタイトルにしたイギリス映画に「ベッカムに恋して(2002)」がある。 ここでもイギリスの社会階層の文化の差が一つのテーマになっている。

 


ミニ

2014年07月06日 18時11分15秒 | 日常

 

ミニと聞くと我々の年代なら若いときの習慣からミニ・スカートとモーリス・ミニクーパーという単語が出て来る。 ビートルズがまだ楽天的なロックンロールをやっていたころに流行ったツィッギーの履くミニ・スカートを履きこなしているのを見て当時そんなスマートな日本人女性は甚だ少なく、そんなツィッギーのファッションには眼は引かれるものでもそれをセクシーだとは思わなかった。 まだ大根脚にピチピチのミニを履いている女の子の方に色気を感じる青二才だった。 その後オランダに来てからはツイッギーのようにミニを履く女性を日常にみることもあり、その細く屹立するような女性が股を開いて立つ姿には綺麗だと思うことはあってもセクシーだとは感じたことがない。 それが当時の中性的なファッションだったからだろう。 そこにはファッションなど頭にない青二才がそこにないものをねだっていたようだ。 

穿った言い方をするとモーリス・ミニクーパーにしてもミニ・スカートにしてもそれから80年代になり軽薄短小が言われるようになる前の先駆けとして出たもののようだった。 70年前後に高校・大学を経験したものにはミニクーパーはカッコいいものだった。 それはそろそろ流行り始めていたスーパーカーブームで名前が出ていた高級車たちとは違い、肩肘張らない庶民の車の匂いをさせているものだった。 スーパーカーは80年代のバブルと成金の持ち物を象徴しているようで自分はそれにはまったく興味もなく、時々街で見かけるミニクーパーを眺めてはカテゴリーが違うそれらの所有者の比較を頭の中で想っていたような記憶がある。 ミニと並ぶのはビートルズのビートル、ビートルズがハンブルグからはじけはじめた当地ドイツの国民車、フォルクスワーゲン・ビートルでも同じような想いをもったのだがそれでもそれはミニとは多少は違っていた。 もしそんな車がもてるならシトロエン2CVかミニ・クーパー、格がちょっとあがってフォルクスワーゲンのスポーツタイプ、カルマンギヤを持ちたいとぼんやり想っていたのが日本にいた頃の自分だ。 

1980年にオランダに来て初めの2年はプジョーのサイクリング車で毎日10km以上漕いで生活していたから1年もしない間に84キロあった体重が20キロ減った。 中学生の頃は別として今までで一番体が軽く自由に動かせた時期だった。 それが3年目に2CVの姉さん、Diana 6 の中古を当時3万円ぐらいで買ってからは変った。 その当時にはまだオランダには車検というものがなかった。 オランダの北の村の農家の納屋までバスに乗って買った車を受け取りに行き亡羊と広がる田舎道を走っているときには車を買ったという想いよりそんな何もないところをトコトコ走る気持ちよさはこんなボロ車のものだと思った記憶がある。 この村には2年ほど前に30年ぶりに出かけておりその時は徒歩だった。 そこはオランダ縦断遊歩道ルート450kmほどの始点・終点だからだ。

くすんだオレンジ色の冴えないDiana6以来ずっとフランス車に乗っている。 理由はただ安くて性能が安定しているうえに中の空間に馴染むものがあるからだ。 オランダの知人に日本車ばかり乗る人が何人もいて、お前は日本人なのにどうして日本車に乗らないんだ、いいよ、日本車は、といわれるけれどそれにはいつも、日本車高いから、自分に買えるのはこれぐらいだだ、と答えることにしている。 実際にそうでさまざまな条件をまとめると偶々フランス車ばかりになったというだけのことだ。

さて、ミニだ。 そのサイコロのような小さな車体には興味はあるけれどオランダの高速や幹線道路を走るにはいささか難があるようにも思う。 たとえば大型トレーラの後ろを走っていて急にトラックがブレーキをかけるようなことがあるとするとミニだと車体がトラックの下に潜り込んで運転している者の首から上が見事にちょん切られるように感じて怖い。 実際義妹が若いときにミニを運転していてそうなりかけたことがあるのでそれには現実味がある。 けれど一昨年日本のゴミ屋敷を整理していたときに旧国道沿いの郵便局の近くにミニを中心に昔のヨーロッパの車ばかり置いている中古車屋があったので面白く思い散歩のついでにそこに寄って主人と話をしたことがある。 人口10万の町の近郷ではミニに乗っているものが50人はいると聞いて人気があるものだと思ったし、高校を出たばかりの若い男の子がミニに惹かれてそれに乗っていてそこに来てメンテナンスのことを詳しくその主人に尋ねているのに接して好ましく思ったものだ。

今日屋根裏部屋でモニターに向かっていると表をホーンを鳴らして走る音が聞こえた。 どうせ昨日のサッカーの試合でオランダが準決勝まで進んだことを喜ぶクラクションだと思っていたら家人がミニのパレードだと言って部屋に入ってきた。 毎年今の時期に隣町のミニ・愛好会が近郷近在のミニを集めてその町にある精神薄弱児の施設の子供たちを乗せてパレードするのだという。 だからそんな子供たちに手を振って答えてやろうよ、と言い下に降りた。 そういえば何年か前にもそのようにして見たような記憶が蘇ったのだがそれは大型バイクのハーレーのパレードだったのかもしれないし独特な構造をもつ軽量オートバイというか原付自転車というか、ソレックス愛好会のパレードだったかもしれない。 何れにせよ下に今は止んでいるものの時折雨が降っていてまだ濡れている芝生を横切って道路に出るのに木靴を履いてのこのこ出て行くと最後の三台が前を通り過ぎ、後を途中で止まった場合に引張っていくレッカー車と警察の白バイが続いたのだが残念なことにその最後の三台はミニを焼きなおしたBMWのものだった。 少なくとも100台は通り過ぎているのだから味のあるクラシックのオリジナルを残念ながら見過ごした。 自分には現代風の焼きなおしたものは似て非なるものに思えて親しみは湧かない。 近所にはビートルの焼き直し、フィアット500チンク・チェントの焼き直しがあるけれどそれも同様だ。 2CVの焼き直しはまだ見た事がない、、、とここまで書いてネットでよくよく見てみたら2CVにも焼き直しがあった。 それにも親しみが湧かない。 これは一体なんなのだろうか、ディズニーランドを毛嫌いするのと共通するものがあるのかどうか気が向いたら一度は考えてみたい。


モロッコの旅(10)エッサウィラ,  アパートの空

2014年07月06日 04時18分37秒 | 日常

 

夜は12時前には眠りに入っているから朝は比較的早い。 アパートの中庭を部屋の中から覗くと灰色が見えて何だ曇りかと思うけれど上にぽっかり空いた穴を見上げるといつも青空でこの青がエッサウィラの印象となった。 中庭といっても小さな丸いテーブルと椅子が二脚、洗濯物を干す簡単な針金細工のようなもの、植木が二つ三つというだけの狭い空間だがこれがグーグルマップスの衛生写真で小さな黒い四角になって見える。 こういうのがあちこちに見えるからこういう庭が普通にあちこちにあるのだろう。 家主はすぐ上に住んでいて何かあれば頭を出してやりとりする。

真上から陽が射さない限りこの空間は薄い影のようになっていて壁もフロアも薄い灰色にみえるから曇っているように見えるのだがそのたびに上を見上げるとこの青があり何故か安心する。 そして起きて近くのパン屋に出かけてクロワッサンとモロッコの小さなパンを買い、そのついでにまだ早いメインストリートをもうすこし余分に向こうに行ってアパートの部屋に戻ってくる。


モロッコの旅(9)エッサウィラ, メディナのメインストリート

2014年07月04日 11時58分54秒 | 日常

 

今回のモロッコの旅行で覚えた言葉がある。 メディナ と スーク だ。 メディナは旧市街の中心部、スークは小さな商店が密集している商店街, バザールのことで我々の行動範囲のかなりの部分がメディナ、スークだったから自然と耳に入り覚えたということだ。 エッサウィラでは城壁に囲まれたメディナのすぐそばに借りたアパートがあったので城壁の北東、Bab Doukkala 門から入りそのままメインストリートの Oqba Ibn Nafiaa 通りを何かにつけて行ったり来たりしていた。 これがいわばこのメディナを横断するメインストリートでその中心には小さな方形に囲まれた青物、肉、魚を売る市場がある。 そこがこの町の核だと言ってもいいようだ。 だいたいどの青物市場に行っても肉の売り場はともかく魚、ことに鶏を売る場所にはその圧倒するような強烈な匂いのためになかなか深部に近づけなかった。 迷宮のようなカスバの小さいスペースにある日よけも何もなくただ地べたにシートをひいてそのまま店を広げ、臓物類を切り刻んだものはそのまま脇によけて蠅、犬、猫のするがままに任せている様なところは例外的だったかもしれないが大体のスークにはそういうところがある。 

このメインストリートは Bab Doukkala 門から1kmほどで漁港に抜けてしまうのだがここにはしゃれた店など一軒もない。 多分世界遺産認定の条件にそのように規定されているのだろう。 ここに来ればほぼ昔から続いてきた町がそのまま機能しているように見える。 大型トラックや乗用車は入れないから近郷からは野菜などを昔懐かしい自動三輪車に満載して直接運び入れ、ときにはロバに牽かせた荷車で、また城壁外の駐車場からは手押しのリヤカーに分散したさまざまな物が人の力に依って流入する。 イスタンブールでは大型トレーラーから箱を高く積み上げて背負い倉庫なり店なりに運ぶような人夫が見られたけれどここでは山の強力のようなそれは見られなく、のんびり押したり引いたりして運ぶリヤカーがその役割を果たしている。 それが出来るのはここには坂道がほとんどないからだろう。 自分達のスーツケースや荷物もこのようにして数百メートル離れたバス停まで押して行ってもらった。 朝の涼しいうちにそんな物が運び込まれ昼の暑い時間になると地元の人通りも少なくなるからその分観光客が目立ち、夕方から夜更けまでは老若男女が賑やかに行き交う。 11時も過ぎると通りは残り物の茶にするミント、明日のパン、スイカに装飾品、衣料品などを売りさばこう物売りで一杯になる。 けれどそれもここと二、三の通りを除くとあとは闇の迷宮があちこちに残り人はそれぞれ密やかにドアの向こう側で過ごすという処だ。

いつだったか港に近いレストランで昼食を摂っているときにアジア人らしい若者を見かけたので話しかけたら慶応の学生でアメリカ留学の帰りに南アフリカ、モロッコ、スペイン、ロンドンを一ヶ月で周って日本に帰るのだと言っていた。 マラケッシュを朝出てここに3時間ほどいてまたマラケッシュに戻ると言う。 ここに5日居る、と言うとここそんなに居て観る所ありますかと言い、あとはアイパッドに眼を落とし何やら情報を収集しているようだった。 言われてみて観る所があるかどうか考えた。 毎日ぶらぶらあてもなくここを歩いてみて悪くはないし何ならマラケッシュより居心地がいいようにも感じる。 それは青い空と涼しい風がそう感じさせるものかもしれない。 3kmほど行くとウインドサーフィンの世界大会が開かれるようないい浜があるんだよ、と言ってもその青年はそれには別に興味なさそうに寄ってきた何匹かの猫にタジンの肉を食わせていた。 


Gerrit Dou 展 に行ってきた

2014年07月04日 00時05分54秒 | 日常

 

外国語の日本語表記は面倒だ。 オランダに長く生活していて日本語表記には悩まされる。 それは元の言語の発音をカタカナにすると その言葉が話される現地で生活している者にはしばしば全く見当のつかないものになって、それは日本語にない音を聴いた結果無理やりカタカナに押し込める結果でもあるのだが、 Gerri Dou の場合はそれにはもう一つヒネリがかかっているように思う。 実際には違うけれど強いて言えば へリット・ドウというのが原音に一番近いのではないかと思う。 今ブラジルで開かれているサッカーの世界選手権ではオランダがかなりのところに行っているけれどオランダ選手の名前にしてもこれが顕著で、メディアに見られる選手の名前がどうしてそんなカタカナになるのか苦笑し首をかしげるものが多い。 それはオランダ語に通じない者たちがオランダ語表記を英語風に読みそれをカタカナにしているからだったり翻訳、通訳をするものの中途半端な判断がそんなカタカナになったりするからのようにも思える。 それにしてもオランダ語で正式名が Gerrit であるものを何故 ヘラルト(Gerard とも呼ばれることもある、というのであればそれはヘラルドだろう)にしたのかという難癖もでないでもない。 いずれにせよ取敢えずウィキペディアの項を引く。

 ウィキペデア;ヘラルト・ドウの項

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%83%A9%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A6

 

本展覧会に関する画像の幾つか;

https://www.google.nl/search?q=gerrit+dou+lakenhal+leiden&tbm=isch&tbo=u&source=univ&sa=X&ei=Aee0U-qBIsjvPIzsgcAJ&ved=0CDUQsAQ&biw=1679&bih=922

 

先日ふと思いついて自転車で今までもう何度も出かけている自分が住む町の美術館で開かれている展覧会に行ってきた。 アメリカにあるものを20枚ほど借りてきてそれを一時里帰りさせた企画だそうだ。 その画家の名前は聞いたことがあるけれど17世紀の風景画をよくした人だろうと思っていたら他の画家と思い違いをしていた。 その人に関する知識はその程度だった。 レンブラントが生まれ幼少期からアムステルダムに出るまでいた町に生まれ、死ぬまでそこで住んでいるから自然と自分が日頃歩いたり自転車で走ったりするあちらこちらの通りや場所の名前が説明に書かれていて、それでレンブラントと同じく彼にちなんだことを知るようになりレンブラントと同じくこの人を身近に感じるようになった。 この画家がレンブラントが生まれ育った場所から近いところにガラス職人の子供として生まれたのはレンブラントが7つの時で、15歳のときにレンブラントの弟子になっているのだからレンブラントはそのとき22歳、今から考えるととても若いように思えるけれど今でいうと中学を卒業する年齢で職業教育をうけるのだからそれも分からなくもない。 レンブラントが22歳のときなのだから今で言えば国立美大で天才学生がそのまま教授になりその助手としてキャリアを始めた、というようなものだろうか。 今の美大以上に専門性が強かったのだろうからそれだけ自然と早熟性も強かったのだろう。

 

展覧会で観たものはどれも小さく個人の注文の肖像画が多かった。 取り分け縦15cmほどに描かれた細密画のようないくつかのポートレートはレンブラントにはあまり見られないものでそれがこの人の専門性のようなものを示しているのではないか。 つまりこのような小さな作品でも生活の糧を得ていた、ということのようだ。 レンブラントは当時の富と権力を誇るアムステルダムの富豪、ギルド等の注文を受けていたから自然と大きなものを描き当然収入もそれに応じたものとなっている。 師の陶薫を受けていたのだから技術的には申し分がなかったのだろうけれどアムステルダムに出ることも外国に出ることもなく地元にいてそこに来た注文に応じて生活をしていたようで当然注文主は裕福な層であって貧しくはない。 鼻をカンバスにつけるようにして観た小さなポートレートは大広間に飾って大勢に見せるものでなくこじんまりとした部屋、棚において観るものであり、それはまさに今、仕事場の机の上や家庭の居間に飾られるちょっとしたポートレート写真に相当するものだ。 地元の写真館に出かけて作ったものに等しい。 けれど150年ほど前の肖像写真は別としてもこんな小さなポートレートを描くのに坐る時間の面倒さを考えるとちょっと堪らないような気がする。 モデルを前にしてこんな小さなものに細かな筆で背を丸めて覗き込むようにして作業する姿が眼に浮かぶようだ。

 

小さなものばかりでもなく当然普通のサイズのものも見られ、その中で取り分け興味深かったのがレンブラント作にみられるのと同じ人物がモデルとして登場し描かれていることだ。 去年インスブルックで観たレンブラント作の一枚のことを次のように書いた。  


インスブルックの美術館でレンブラントを見た

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63723893.html

 

インスブルックで観たものは1630年の作だ。 この人物がモデルになっているものが二枚あった。 横向きの男ともう一つはこの展覧会のパンフレットになっている「羽根ペンをけずる学者」と題するもので、そこには傾いた砂時計、火の消えたランプは命の終わりが近づいていること、毛皮のマント、金のイヤリングは富、羽根ペンを削る仕草は知性を磨くというような寓意になっていると説明されていた。 これらは1630年から35年の作だとされているからへリット・ドウ17歳から23歳の作である。 インスブルックのものはレンブラント24歳の時のものだ。 ライデンに生涯住んだ へリット・ドウ がアトリエをもっていたのは処刑された者が晒しものにされていたライン川沿いの岸でそこの跳ね橋の近くでレンブラントは生まれレンブラントの父親がもっていた粉引き用の風車は橋を越してそこにある。 昼休みにそこを通り過ぎたときに撮った写真と文を下に引く。

 

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/63924988.html

 

 

苺一粒

2014年07月03日 04時32分04秒 | 日常

 

裏庭で夕食を摂りデザートにひしゃげたような形の小さな桃を喰った。 小さなものだったので物足りなかったから何かもう少し、、、と思っていると家人が目の前のガラスの皿にポットから摘んで来た苺を一粒置いた。 これが今日の分、いくつかはナメクジに食べられていた、と言った。 

 

家人の妹から苺の小さなポットをもらったのは去年で、去年は何も実らなかった。 今年はもう何粒採れたのだろうか。 何日か前に2,3粒を幾つかに切ったものがサラダに入っていたぐらいだろうと思う。 半月ほど家を留守にしていたときに幾つか出来ていただろうけれどそれは時々家に来ていた子供たちが摘んでいたかもしれないしそのままナメクジに喰われていたかもしれない。 大体デザートにするにはそんな小さなポットではとても足りないからその分はマーケットで買っている。 摘むことに関しては今蔓が繁ってきているフランボワーズの方に向いていることもあって苺のポットにはあまり気が行かない。

 

目の前のちっちゃな苺を摘んで口に放り込んだ。 ナメクジに喰われる前のものなので熟れてはいず酸味があるものの苺の風味はあった。 何か喰ったものは「喰う」のコラムに入れるのだがこんなちっぽけな苺一粒はそこには入れられない。 

 

 

 

 


モロッコの旅(8)エッサウィラで映画「イヴ・サン=ローラン(2014)」を観た

2014年07月01日 21時21分59秒 | 日常
 
 

エッサウィラでは5日借りたアパートで2日ほどは自炊をして外で食事をすることへの疲れを少しは癒したのだが自宅で食事をするとその後時間が余る。 読書をしたり音楽を聴くのは昼寝のときにするから夕食後のまだ大分明るい外を散歩して海を見たり閉める前の店を覗いてから戻りベッドでその日の日本やオランダのニュースをアイパッドで見ているともう11時半を周っておりそのうちコトリと眠りに落ちている。 あるとき町を歩いていると映画放映のポスターが貼ってあるのが目に付いた。 ホテルのレストランのコース・メニューで食事をしながら毎日違った映画が安価で観られるというものだ。 その日は比較的新しいというか出来たてのフランス映画「イヴ・サン=ローラン(2014)」を見せるというので出かけた。 アパートで食事を済ませていたのでコーヒーだけを頼むとコーヒーにちゃんとしっかりしたお茶請けがついてきた。 小さなホテルのレストランには我々を入れて3組のカップルが居るだけだった。 他の二組はモロッコのスープの前菜、それからタジン、フルーツにヨーグルトのデザートという献立を摂りながらホテルの従業員がコンピューターを操作してプロジェクターで壁に映画を写すホーム・シアターのようなものだ。

イヴ・サン=ローランというのは名前は知っているけれど取り立ててファッションに興味のない自分にはどうということもなかったのだが、ここに来る前にマラケッシュの町を歩いていて公園めぐりをしたときに我々のホテルのある旧市街から世界中どこでも大都市に見られるような現代的な新市街まで歩いたときに暑さを凌ぐためにイヴ・サン=ローランが70年代から住んでいて死後近しいものが受け継ぎ故人の遺志をついでそのまま公園としているという場所があるとガイドブックに載っていたのでそこに出かけた。 金をとって人を入れる公園というのはここぐらいだった。 当然宮殿や遺跡、宗教建築物には庭がありそこで一息つくことはあったけれどそこに入るまでに些細とはいえ入場料を払っていて庭だけに金を払うというのは珍しい。 イヴ・サン=ローランの名前に惹かれてくるのか観光客で一杯だった。 けれど入場料を払って入った庭は他のものとは格別に違っていた。 入ると京都の竹林を思わせる竹薮が続いており格段に涼しい。 そのあとは様々なサボテンや砂漠の植物が植えられ手入れが行き届いている。 潤沢な水が湛えられ真昼に涼を取るには最適だった。 その中にあるベルベル族の民族博物館的な展示スペースや衣料、装飾品のブティックをみていると明らかにフランスの香りがしたのだが、何故パリのデザイナーがマラケッシュにこんな屋敷を、、、というのが疑問だった。 そのうえ中にあるのが何とも言えない70年代にアメリカで流行ったような眼を見張る色彩の家だったのだがその種明かしをしてくれたのがこの映画だった。

マラケッシュにいるとこの家の芥子色というか狐色は別として紺色には気がつかなかったけれどここエッサウィラでに来て町が白と紺、薄い青で統一されているのを見て納得がいくとともに映画の中で70年代に触発されたのがピート・モンドリアンの構図、色彩だったという件がありなるほどと思った。 面白かったのは現在の庭にある建物と映画の中の当時の建物が少し違うことだった。 当時には三角形の屋根が現在の建物の上についていたのかそのように撮られていた。 それに映画ではイヴ・サン=ローランの父親はモロッコで保険会社の代理人をしておりそイヴの幼少時の思い出、パリの生活から一時逃避するための場所だったということが示唆されていた。 エッサウィラにはジミ・ヘンドリックスが滞在していたというようなヒッピー全盛の時代なのだ。 マラケッシュのあちこちで今では老人となったその頃からの居残りヒッピーが見かけられたことを思い出す。

映画が終わり薄暗い路地をエッサウィラのメインストリートに来ると老若男女で賑わっていた。 この町にはブランドものの店などどこにもなくメインストリートといってもショーウインドウなどあるような店もない。 マラケッシュでも旧市街はここと同じだ。 世界中に見られるファッション・ブランド物の店は新市街に行かなければならない。 そういうところがこの町の城郭に囲まれた旧市街が世界遺産に登録されている所以なのだろう。  門の中に一日中寝そべる浮浪者を含む人々全てがこの旧市街で生業するその総体が世界遺産なのだと思った。