暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

哲学五重奏、「オランダ(人)にとってはアイデンティーとは何か」 

2013年06月21日 03時11分52秒 | 日常


哲学五重奏、「オランダ(人)にとってはアイデンティーとは何か」というテレビシリーズがあるらしいと知ったのは夜中に居間に降りてきて、初めを見過ごした深夜映画を見ようとつけたテレビでオランダテレビ局の日曜午後の番組を再放送をしているのを観たときだ。 見覚えのある背景はアムステルダム中央駅の丸天井を船着場の向こうにみるオランダ・ジャズの殿堂、BIMHUIS の入り口廊下であるし、そこに出ている四人のうちの二人は知らない仲でもでもない人たちだ。

十年ほど前に市民大学の講演で、現代フランス哲学がひとあたり行き渡った中でドイツ系、とりわけナチズムとも関係があるとも言われるハイデガーの再検討を試みるていた若き哲学者 Ad Verbrugge を引率者としてゲストを毎回三人づつ呼び、アンカーを加えて哲学に関して彩り様々な和音・不協和音の5重奏を奏でようとするプログラムのようだ。 彼の傍にはオランダ中世文献の専門家であり,自分の好きなことだけをしていたかったのに業績が祟って学部長、オランダ学術協会の長の職が廻ってきて断れないと愚痴をこぼしながらもまだ小さい子供たちのフィールド・ホッケークラブで観戦しながらそんなことをいいつつ、また町で時々買い物の途中立ち話をする、そんなご近所さんの Frits van Oostrom を久しぶりにテレビの画面にみて、彼らがどのようにオランダ(人)のアイデンティーを歴史の観点から語るのかに興味をもって番組を見始めた。

教鞭もとる哲学者二人(Ad Verbrugge, Marten Dorman) と19世紀を中心に研究するオランダ学者 Lotte Jansen に加えてオランダ中世専門の Frits van Oostrom に司会者を加えて五人での五重奏という趣向らしい。 これから何週間か何ヶ月か不明だが自分の観たこの番組は下記のサイトで観られるだろう。

哲学四重奏、「オランダ(人)にとってはアイデンティーとは何か」・歴史の視点から; オランダ語のみ
http://www.uitzendinggemist.nl/afleveringen/1351104

話はこの100年以上続いていた女王の御世がこのあいだまで三代以上続いた女王から国王となったウィレム=アレクサンダーの即位のことから始まり、取り分け、新王にとって彼のアイデンティティーとは何だろうか、ということで歴史性を語ることから始まった。 日本と同じようにオランダは立憲君主制であるけれどその歴史はかなり違う。 天皇家とオランダ王室の近さは同じような年代の新国王と皇太子の関係で比べられるようだ。 オランダ王室は国民にかなりオープンであり個人の意見を述べるという点では彼らのインタビューでの言動をみると明らかな違いがあり、それは日蘭の政治、文化、伝統の違いを反映しているともいえるだろう。 彼らの意見では新王は彼の母親、祖母、曾祖母の時代とそれぞれの負った役目を認識しており自分が現代の国民から求められている王の役目を母親以上に意識しているのは確かでそれに沿うよう努力しているように見受けられる、それが国王としてのアイデンティティーであり歴代王の中でも他とは違った王として個性を示す意思表明をしているとの意見だ。  新王のインタビューで自分はプロトコールを嫌いヴィレム四世と呼ばれるのではなく自分をヴィレム・アレクザンダー王と名づけたこともその現れであり、時代により王室も変わっていくということであるとの声があった。  これには王室も皇室も時代によって変わるというひとつの例が Frits van Oostrom から示された。 2000年に日蘭交流400年の記念行事で天皇が来蘭されたときに謁見されるる事になってプロトコールとして天皇に挨拶するときには15度の角度でお辞儀する事、深すぎればへつらうことになり浅すぎれば失礼にあたる、15度を守ることとその筋から聞かされて何度か練習したあと実際に望んだら天皇から声がかかって握手を求められた、そのときの戸惑いは聞かされていた仕来りも時代やその場に応じて変るということが日本でも起こっているという事例で実際にその一端を理解した、ということだった。 

次にそれぞれオランダがオランダとなったと思う年月日を示すよう司会の女性コメンテーターから問われたのだが、 Marten Dorman は1830年代に兼ルクセンブルク大公でもあったウィレム3世が建てた様々な像、建物に象徴されている19世紀がその瞬間だといい、とりわけアムステルダムに建てられたレンブラントの像が当時の国家意識高揚の時代を示すものだと指摘する。 レンブラントは17世紀に生きた画家ではあるけれど国にとってはそういう意味では19世紀の人間なのだとあおり、その喩えには他から微笑が湧いた。 自分の経験からしてもレンブラントの大判の絵には19世紀の印象派の筆使いみたいなものを見ていたので彼の説には別の角度から共感ができた。 

19世紀を中心に研究するオランダ学者 Lotte Jansen は国家規模でのアイデンティーティー構築のメカニズムはナショナリズムとの関係が大きく、特に先進国各国では産業革命後、国民国家が起こるにつれてその兆しがつよかった19世紀にそれが顕著であり、オランダでは16世紀の80年戦争の後、国としての統合を謳うに際して最初のナショナリズム及び国としてのアイデンティティを構築する作用が権力を持つ市民の間から起こっのを指摘、特に Ad Verbrugge は自分の出身地ゼーランド州のオランダ独立に際して活躍した英雄的行動が同時に奴隷貿易で巨額の富を蓄えたミドルブルグの暗い歴史と裏腹にオランダ人というよりゼーランド人というアイデンティティーをアイロニーとともにもつと指摘、19世紀の世界規模のナショナリズムが様々な形をもって現代史につながると看做す。 けれど一方、Frits van Oostrom はナショナリズムの問題とも絡めてアイデンティティーというのは農場のコンポストのようで様々な要素が重層的に絡まって時間と共に発酵しそこからときに応じて必要なものを我々は引き出し使うのであってその要素は何時の時代にも細かく存在するのであって一つをとりあげることには賛成しないとその質問自体がバイアスになることを憂慮する。 しかし彼の態度はある種、番組の骨組み自体を問うものであり哲学的な問いではあるけれどある種の歴史、伝統の基盤の再考をうながすものである。

この他オランダ(人)についての様々なクリシェを批判的に検討しそれでもオランダ的と言われるものごとの根拠をオランダの歴史のなかからさまざまな都市の経済的発展のプロセスのなかに見ることに異をとなえない。 そこに自立的でさまざまな反対意見に対する態度・方策に共通するパターンを見てそれをオランダ的要素とすることには参加者皆の共通の同意があるようだ。

この番組をみていて、このようなテレビ番組が存在する事自体かなり熟成した市民社会のなかでの考察としてみられるのだが、それなら一方、1960年以降経済発展を遂げてきた日本ではそのアイデンティティーを探る日本論というものが猖獗をきわめているけれどそこに多く欠落しているものは市民社会についての考察であるのだが、そのこと自体が日本にはまだ成熟した市民社会というものが存在していないという査証になるのだろうか、それともそれに対しては日本は他国とその歴史も文化も違い相対化はできない、とするのだろうか。 

オランダの夜中にテレビをつけたら日伊サッカー戦をやっていた。

2013年06月20日 02時17分57秒 | 見る

テレビでアフガニスタンの女囚監獄のドキュメンタリーを見ていると日にちが替わり、昼間に片手鍋でやっつけた月見うどんを喰っただけだったので腹が減り、そういえば3日ほど前に酢で締めておいた鰊がまだ冷蔵庫の中にあるのでそれをビールと白米で喰おうと炊飯器にスイッチを入れ、山葵醤油に鰊の半身を三つ浸しつまみとビールをもって居間に降りて飯が炊けるまでとまたテレビのスイッチを入れた。 

見たドキュメントの監獄は先進国のものとは施設もその収監されている理由もかなり違う。 ここでの問題は多分イスラムのシャリア法だと思われる。 男尊女卑がこう沁み込んでいる上に常に戦争状態の国で劣悪の環境で罪人とされた女達だ。 これをどの国の女性達がみてもその意見は多分一致するだろう。 理不尽であるし、これではある種救いの無さに襲われるものの、それでもDVから逃げたもののその家族から訴えられ監獄に入れられる理不尽さと、それでも監獄の外にいるとDVや生命の危険があって、それは婚家と実家から両家の恥を理由として刺客が出る状況の中、壁の中のほうが外より安全だといいつつ壁の中では父親のところには戻りたくないという子供たちと一緒に笑いさえ出る安堵の場所といういささか倒錯てみえる世界なのだ。 表見はまるで日本と違う世界の映像だという向きも多いに違いないが日ごろ悲惨なDVのニュースが絶えない日本とも繋がりはまるでないともいえない要素もあるのではないか。 そこに見える看守たちは法の理不尽さを理解して狭い土の壁に囲まれた子供を多く抱えた折の無い雑居監獄で裁判官や時には外から会いに来る家族以上に囚人たちの理不尽を理解し同情的にさえ映る。

この理不尽は嘗て、もしくは今も残るといわれている差別の状況にも似ているけれどそれは表向きにはシャリア法のような法は日本にはないもののその差別で男女が引き裂かれるという例は不思議でもなんでもない。 事実自分が子供の頃遠い親戚でもあったことだ。 壁越しに10年以上隔てられていた駆け落ちして両家に恥とされその素行から刑期を短縮された女性が出たときには駆け落ちして壁の向こうに収監されていた男が実家に説得され目の前で女を棄てて去る光景がカメラの前に示されればこれをどのように見るかはアンケートをとる必要がないほどの意見の一致をみるほどだろうと思う。 これが自分の娘の身の上に起こったとしたら怒りに身を震わせるだけで済むだろうかと考えても見たくないシナリオを思いそうになる。

スイッチをつけたらオランダテレビ局でイタリア・日本戦のサッカーの試合が行われていた。 自分はサッカーにはあまり興味がなくあまり見ない。 それにチームも知らないし過去のこともしらない。 ときどきオランダのサッカーチームに日本人が入ったということはこの20年ほど聞いているけれど見ないから名前もしらない。 カガワとかホンダという名前は聞いた事がある。 あまり興味もなくイギリスBBCテレビにザップしたら同じ映像が映っていて、へんだな、この遅い時間にこういうのは普通かからないのに、と暫く見ているとブラジルからのライブだとわかった。 イギリスBBCテレビの解説者がむやみやたらといらぬ解説がやかましいのでオランダ局に替えてゆったりした解説ながらわかりやすいから音声だけをワイヤレスのヘッドホンで聴きながら二階に上がって飯の炊け加減をみていると日本選手の名前ばかり出てきてその動きがなかなかいいということだ。 飯をもって下に降りると前半20分ほどのところでぺナルティーキックで日本が先取点を得た。 イタリアのキーパーの反則ということだが自分にはよく見えなかった。 少々判定がきびしいのではないかという声があったものの、その後のカガワかホンダのゴールは素晴らしいものだった。

オランダに30年以上住んでいていくら興味がないといってもヨーロッパカップや世界カップのときのどんちゃん騒ぎをなんども経験しているから知りたくないといっても様々な情報は耳にはいるし時には画面を眺める事はするけれど細かい事はしらない。 ましてや遠い国、日本のサッカー状況など知る由もない。 アジア地区の対戦相手などヨーロッパレベルから見れば無視できるようなものではないか。 オランダは今まで名選手が続出して日本のマンガに出る事もあったそうだし、そんな選手たちも多額の契約金でヨーロッパの強豪チームで活躍し、正月にイスタンブールに行ったときにはスキポール空港にはそんな一人の選手が移籍先のチームにでかけるらしいと私達が乗る飛行機を目当てに多くの野次馬が見られたことも思い出し、またナショナルチームであれば監督を輸出しているくにでもあるらしい。 韓国ナショナルチームの元監督で今でもロシア・チームの監督かもしれない男、というような例もある。

家人の姉はシシリア人の左官の男と結婚し一男二女をもうけ二人の孫がある。 上の孫は中学校に入るひ弱なこどもで去年オランダ人の彼の祖父の棺を覗くのを怖がった。 それが長女の子供で長女は父親と同じ名前の電気工の男と結婚しシシリアの村で家を守っている。 次女はオランダの美術学校をでて今は売れないインプロヴィゼーション・フリージャズピアノをするイタリア人の男とブリュッセルで住んでいる。 二年ほど前に名のあるドラマー、バシストと遺産を使ってニューヨークでCDを創り出来はいいものの売れてはいない。 だからオランダで今人気のミュージカルの音楽技師をしに一週間に二度ほどオランダに来る。 それを聞いたのは一昨日左官に来ていた義兄からだった。 義兄はしシリア人気質で賭け事、サッカー、カーレースが好きだからこの試合も普通ならもう寝ていなければならない時間だけれど起きてビール片手に見ているはずだろうし、日本には負けるはずが無い、とも思っているにちがいない。 自分もそれには反対しない。

日本の二点目は綺麗に入ったしみていて気持ちがよかったもののこれでは済まないとは思っていた。 それにイタリアには密かに贔屓にしているマリオ・バロテッリがいる。 いかにも向こう気が強く悪い事もし、しばしば針小棒大に反則をアピールし警告をされているのだがどこか憎めない。 今回もすでにそれがあったそうだ。 そのごイタリアが得点しこれでイタリアも始動しだすのかとおもいながら飯を喰った。 後半に3対3のまま推移しているときに日本のボールの動きがイタリアを凌いでいて解説もそのように言っているしテレビを聴いている人のためだろうかボールの動きにつれて名前をいうのだが殆んどが日本名だった。 ホスト国ブラジルの観衆もはっきり日本びいきと思える歓声を上げている。  そのうち日本にはオランダ名の選手がいる事を言い出し、そろそろそれが出てもいいのではないかと言っていると長身のマイク・ハーフェナーがとびだした。 何歳か知らないけれど日本チームに入っているということは日本国籍をもっているということか。 そういえばどこかでオランダ人の顔も格好もそうだけれどオランダ語ができないサッカー選手がいるときいたことがあった。 この選手がそうかもしれない。 日本の帰国子女で海外が長かったから日本語が話せない者もいるのと同じ事がこの選手にもあったのだろうか。そういえば昔ロイ・ジェームスという司会者がいて英語ができない、というのをきいたことがあったけれどそれも戦後すぐのことで今とは状況が違う。 こういうことがあるからかオランダの解説者の日本チームに解説の時間をより割いているようにおもうけれどそれも由あることとしよう。

試合終了まで10分も無いうちにイタリアチームが得点し、結果はオフサイドで無効にされ逃した日本の得点を除いて4-3で負ける事になった。 日本がこれほど的確なパスを素早くまわすチームだとは知らなかった。 善戦だとは思うけれど結果は予想通りだった。 見終わったらヨーロッパ時間の午前2時になっていたけれど、考えてみると時差を考慮すると日本は朝の9時で、この試合も通勤通学の途中で見たり聴いたりしている人が多いに違いないとおもった。 まともな人はこの時間にゆっくりテレビを見ていられはしない。


セージの花が咲いた

2013年06月17日 05時25分42秒 | 日常


ことしも庭の隅にセージの花が咲いた。 セージは肉料理で煮込みなどをするときには他のタイムとならんで欠かせないものだ。 今年は台所の改装に紛れて庭の香草類も放ったらかしで去年まで二種類植わっていたタイムも枯れてしまいセージだけが残っている。 このセージは我々の年代なら若いときによく聴いた サイモンとガーファンクル の「スカボローフェア」で

Are you going to Scarborough Fair?
Parsley, sage, rosemary and thyme,、、、、、

と歌われた パセリ、セージ、ローズマリー、タイムの一つだ。 去年までは全て庭に揃っていたのだがことしはこのセージだけだから料理するにもちょっと不便だけれど、いつも壜入りの乾燥ものがあるので差しさわりがなく、けれどやはり新鮮なものを摘んできて鍋に入れたいものだ。 うちのセージ(オランダ語では salie サリー)は今花が盛りでまだ柔らかい小さな葉の先についていてそのうち花が終わると葉が大きく伸びてやがて白い細かな毛のようなもので全体が覆われるようになる。 この植物は生命力が旺盛でもあるようだ。

ウィキペディア;セージの項;
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%82%B8

それで今まで気がつかなかったのだけどこのあいだ裏庭で今来ている職人さんたちとコーヒータイムをしているとそのうちの一人が葉をひとつ摘んで指で葉を磨り潰しミントのような香りが指の間からするぞ、これなら今女性方がいくようなトレンディーなカフェーで大きなガラスカップに入ったミントの小さな束に熱湯をジャバジャバ注いで呑むミント茶にもできるなといい、でもイガリとか慣れない味がすれば困るな、といいながらそのままにしていたのだけれど、上のサイトでやはり茶にして飲めるとあったのでそれなら今度試してみようと思った次第だ。


父の日、午後9時半

2013年06月16日 23時10分32秒 | 日常

父の日だったらしい。 というのは父の日も母の日も斟酌せずこの何年か過ごしている。 家人や子供たちには評判が悪い。 二児の父親だけれど別に祝って欲しいとは思わないしそれは誕生日でも同じで、取り分け何をするということもなく、言われれば最低限度のことだけをするという態度だ。 やっと一人で猫と一週間家で留守番をして過ごすことになる、人にわずらわせれることなく好き勝ってができると思っていた矢先に、二日ほど前に息子から父の日のディナーを娘と一緒に町のレストランでご馳走される事になった。 そのレストランの事を聞いてみると何日か前に日本から来た友人の家族とランチを摂ったレストランの2軒ほど運河に寄ったところにあるらしいそんなレストランだった。 若者に人気があるからそこを選んだのだといい、そういえば友人達と歩いたときに目に入っていて何だトレンディーなものができたなと思ったぐらいのところだった。

夏休みに入る前に揃って妹と一緒に15kmほど離れた村に済むオランダのおばあちゃんのところに見舞いに行くといいながら息子と娘が、甘酢でしめておいた鰊に白米、ビールで昼食を摂っていた空のうちに車の鍵を借りに来て3時間ほど経って戻った際に、パパ、シャワーを浴びてちゃんとした格好で7時にレストランに来るようにと釘をがつんと刺さして子供たちはそれぞれ自分の下宿に戻って行った。

子供たちが帰って少し経ち二軒隣先の子供たちが玄関に来て、多分ここまで来てないと思うけど念のために裏庭に注意していて欲しいと言いに来た。 ペットの亀がいなくなったのだと言う。 ハリネズミや犬ならいざ知らず亀はここにはどのルートを考えても来ることはないと思うものの気をつけておくと言うとその高校生と中学生のこどもは帰って行った。 考えてみると彼らの50代半ばの父親が亡くなったのは2年前の今頃だったのではないか。 日本にもあるオランダに本社を持つマルチナショナルな食品会社でこれも世界中輸出されているアイスクリームの製法で会社に特許をいくつかもたらたその功績から博士号をもらい教授として農業大学で授業もするようになったと葬儀のおりスピーチで聞かされたのだったけれど日頃はスポーツマンで2mに届くような実直な男に見えた。 癌だった。 ケモセラピー中には毛糸の帽子を被っていて或る時期からはもう手遅れだと言われ自宅でそのときを待っていた。 そういう風に一人去り二人去りする。 そういう風にこの通りを22年見てきた。 彼らは今日どのように父の日を過ごしたのだろうか。

レストランは学生、二十代、三十代の女性が半分以上を占めていて様々なテーブル、カウンターがある60席ほどのスペースで Fresh 'n Fast と名前がついている通り自然食を謳ったトレンディーなメニューが揃っており、自分は前菜にエスカルゴ、主菜に鱒のムニエルを選んだ。 子供たちは Fastfood の代表であるハンバーガーを選びそれらはレストランの主菜にふさわしいもので量といい質といいハンバーガーで育った若者にスローフードへの橋渡しとなるものなのだろう。 そこで子供たちのこれからのプランを聞かされた。 娘は9月から一ヶ月ほど長崎大学の医学部に研修に行けるかもしれないこと、息子は彼が属している学生団の連中40人ぐらいと来年インドネシアに10日ほど卒業研修旅行とは名ばかりのバカンスに行く予定になっていることを改めて知らされた。

それに食卓でこの夏休みの計画を詰めた。 娘は二三年前に出かけたクロアチアの保養地にまた友人たちと出かけ一人電車でオーストリアのチロルに来て自分を含む家族三人と落ち合うこと、息子は家人と一緒に三人で去年と同じくテントの入った牽引車を引いてドイツで一泊か二泊して四年ほど前に行ったあたりでキャンプしそのあいだにオランダ山岳会が組織する3500mあたりで岩登り、氷河歩きのトレーニングに参加することになっている。 これもこの4,5年のバカンスの過ごし方とは変わらないから取り分け特別なことではなくなっている。 個人的にはフランスのブルターニュあたりをぶらぶら歩きたいのだが家族の多数決ということもありバカンスといえどもそれぞれの都合もありそれを折り合わせるとこうなったということだ。 来年再来年になると子供たちもそれぞれの大学でそれぞれの勉強も忙しくもなりその後はもう今のような家族揃ってのバカンスも少なくなるかもしれない。 息子のガールフレンドも連れてくればいいじゃないかと誘うとあいつは山の経験もないし去年グロニンゲンのあんな平らなところを30kmほど二日で歩いたときもあんなこと初めてで山なんか、と言って、その代わりチロルに行く前に二人で去年行ったフランス、ボルドー近くの海辺に一週間行って来るらしい、なんと遊ぶのに忙しいことか。 娘は今のところボーイフレンドもいないし、いても勉強の邪魔になるとおもっているふしがある。 そういう意味では2年前に別れたボーイフレンドやそれまでの友達の経験があるから別段急ぐ事もないと思っているのではないか。

そんなことを想ったのは、我々の後ろの長テーブルで14,5人の英語で喋る若者もいる学生と思しき男女のグループの喰う量に圧倒されつつも7時から9時半までのんびりと食事し、コーヒーを済ませ子供たちに食事の礼をいいレストランの前で別れてぶらぶらとまだ暮れない午後9時半の濠端を自転車で走っているときだった。 ボートを前景に一枚写真を撮ったのだが実際のほうがもう少し明るかったように思う。

久しぶりにゆっくり寝た、といっても10時起きだったけど

2013年06月15日 13時58分47秒 | 日常

鬼のいない間に洗濯、と言う言葉があるけれど家人がいない一週間をこれからどうしようかと嬉しい算段をするのにかなり時間を費やした。 一人になるとどれほどグウタラになり日常のテンポがぐちゃぐちゃになるか自分でよく分かっている。 仕事があったり人と約束があるならその時間に間に合うよう調整して早起きもするのだが特別にそんな事もなければ夜も昼もないような生活になる。 もっとも、家人と二人だけなら就寝・起床の時間がばらばらでも食事にお茶の時間というものが何時間おきかに規則正しくあり、それでも昼をかなり回ってごそごそ起き出し、昨晩の残り物をビールで流し込んで朝昼兼用の食事にするようなことをやっていればことさら夕食が重要なことになる。 6時半ごろが毎日規則正しく夕食の時間なのだとこの30年来生活時間にはっきりと刻印されている。

けれど、一人だけだとそのあたりにあるものでやっつけてしまい碌にわざわざ一人分料理をする気にもならず、まだ冷蔵庫に残っているものをそのままやっつけにしたり、そのうちそれがなくなると以前作っておいて冷凍したものを解凍してボソボソと済ませてしまうというシナリオも頭をよぎり結局初日からそのような事をしている。 

この一ヶ月ほど8時に起きるようなことをしているから夜も4朝の時、5時までも起きていられなくなった。 だから今朝ゆっくり寝たな、という自覚をもって目覚めたらまだ10時で、起きるのも妙でそのままグズグズ寝床の中でタブレットを眺めて時間を過ごし1時ごろにパジャマのまま起き出して白米を解凍し卵かけご飯とキムチをビールで流し込んだ。 そうすると気持ちよくなってゆったりと机の前に座れ、インターネットで時間をつぶしじきに土曜のマーケットに行く時間になった。 青空マーケットに行くにしても何を喰いたいかその欲がないものだから行き当たりばったりでさくらんぼとグレープフルーツをとりあえず買い、ネギの束も忘れず買い物籠に放り込んだ。

4時半からマーケットのそばのカフェーで地元出身のジャズギタリストがライブをするというので久しぶりに寄った。 一セットだけ聴いて帰宅した。 帰宅途中、近所の屋敷町のはずれのケヤキか何かの大木が並木になっているところまできて、それを見て青空に入道雲の兆しも見えるようでやっと普通の5月に感じるような初夏の雰囲気がこの陽射しにも並木の繁り方にも現れているような気がした。

また今年も大堤防を通ってフリースランド州に行った

2013年06月14日 13時28分23秒 | 日常

家人は毎年今の時期に一週間ほどオランダの北の島に行く。 そこではオランダで人気がある芸術・演劇・大道芸などのフェスティバルがあり彼女の妹達や姪たちと女ばかりの骨休めをするためでこの4,5年の恒例行事となっている。 ことしもそのために朝7時に家を出てハーリンゲンという港町まで送っていった。他の女どもはすでに2日ほど前に向こうに行っており今年は島で貸し自転車を借りるからそれまでのように車の後ろに乗せて運ぶ必要がなかったからちょっとは楽だった。 アムステルダムの環状高速を通っていくのだが金曜日とあってその内外は混んでいた。 週末でイライラしているのか無茶な割り込みをしてくる車がいくつもあった。 9時15分発のフェリーだったのだが着いのは15分前だがこのフェスティバルに向かう人たちで船着場は一杯だった。 フェリーはこの時期には予約しておかなければ乗れない。 3年ほど前の日記を見るとそのときには昼前の切符がとれなくて早朝8時30分の便だけに空きがあったのでそれに乗るためには5時起きだった、とある。 今日は去年の一つ前に空きがあって席が取れたがルートは毎年同じだ。 締め切り大堤防(オランダ語:Afsluitdijk)を通っていく。 この5年ほど毎年同じような天気だ。 雨にあった事が無い。 

毎年同じようなことを書いて同じような写真を貼っているいるのであとは省く。

http://blogs.yahoo.co.jp/vogelpoepjp/62748676.html

11時まえに家に戻ってから朝9時前から来ている職人たちにコーヒーを出し、それからは猫と二人きりの一週間が始まった。


日本では空梅雨だといっているけど

2013年06月13日 12時19分32秒 | 日常

先週一週間ほど初夏のいい天気だったのだが予想の通りそのままでは行くはずもなく、また温度が7,8℃下がり空も鬱陶しいものが覆うようになっている。 体は環境に順応していたのか急に寒くなって戸惑ったのか驚いたのか腹を冷やしたかして下してしまった。 夏風邪のようなものだが体の温度調節がうまくいかなかったようで変調は腹だけで他はどうということはない。 けれど腹に力が入らないというのはなんとも覚束無いものだ。 とはいっても日中することといえばこの一ヶ月ほど台所の改装に来ている職人達にお茶を出すぐらいで力仕事などすることはない。

庭の隅に低い楓の立ち木がある。 精々肩ぐらいの高さだろうか。 赤紫蘇色のくすんだ色模様で美しくは無い。 だからもうそこに何年あるのか見当もつかないのだが家人はこれを見て日本だ日本だと言っている。 こちらは日本の楓であれば見知った山の初夏の美しい新緑の輝きと燃えるような秋の色に慣れているからこんなものでは日本は感じないと釘を刺す。 うちにあるのは常緑樹のようで一年中くすんでいるものだから自分はあまり注意を向けないのだが今年はそこに際立った赤色が見えてそれに目が行った。 それは蝶ネジとも蜻蛉の羽ともいえるような二枚広がった赤でその根元に点のような種がついている。 言われてみればこれは子供の時から見知ったもので地面に落ちたそれを頭の上まで放り上げて眺めるとクルクルと回りながら下に降りてくるというものだ。 けれど自分の見知ったものは大抵茶色の薄羽根のようなものでこのような鮮やかか赤色のものは知らない。 銀杏だとかほかの植物のものを山や森を歩くときにそんな時期に見かけたのではないか。

日本のニュースで今は空梅雨ではないか、と言っていた。 そういえばこちらの今の天気もちょっと雨が降るか降らないかという梅雨の季節に似ている。 温度が高いような低いようなそれでいて湿度が普通よりあるから汗ばんだりそれが冷めて悪寒がしたりするから大まかに比較するとそんなものかもしれない。 しかし湿度は日本の梅雨の時期にははるかに及ばない。 日本の本格的な梅雨はもう30年以上経験していない。

史上最大の作戦 (1962);観た映画、 June ’13

2013年06月12日 09時22分24秒 | 日常



史上最大の作戦  (1962)

原題;THE LONGEST DAY

179分
監督;  ケン・アナキン、  ベルンハルト・ヴィッキ、  アンドリュー・マートン
原作:  コーネリアス・ライアン
脚本:  コーネリアス・ライアン、 ジェームズ・ジョーンズ、 ロマン・ギャリー 、 デヴィッド・パーサル、 ジャック・セドン
撮影:  アンリ・ペルサン、 ジャン・ブールゴワン、 ワルター・ウォティッツ
音楽:  モーリス・ジャール

出演:
ジョン・ウェイン
ヘンリー・フォンダ
ジャン=ルイ・バロー
ロバート・ライアン
リチャード・バートン
ロバート・ミッチャム
アルレッティ
ショーン・コネリー
ロッド・スタイガー
ロバート・ワグナー
ジェフリー・ハンター
リチャード・ベイマー
ポール・アンカ
メル・ファーラー
フェビアン
スチュアート・ホイットマン
スティーヴ・フォレスト
トム・トライオン
サル・ミネオ
ロディ・マクドウォール
レッド・バトンズ
エディ・アルバート
エドモンド・オブライエン
ケネス・モア
クルト・ユルゲンス
ゲルト・フレーベ
ブールヴィル
クリスチャン・マルカン
イリナ・デミック
マドレーヌ・ルノー
フランソワーズ・ロゼー
マーク・ダモン
フランキー・アヴァロン
レイ・ダントン
ブラッドフォード・ディルマン
フランク・フィンレイ

1944年6月、フランス、ノルマンディー。第二次世界大戦は佳境に差しかかろうとしていた。この地では、司令官ロンメル率いるドイツ軍が、英仏海峡を挟んで戦機をうかがう連合軍の攻撃に備えている。敵には人数で圧倒されているが、天候を味方につけて堅固な防御態勢を敷いていた。一方イングランドでは、アイゼンハワー司令官率いる連合軍が、ノルマンディー上陸作戦の日であるDデイを何日にするか最終的に絞り込んでいた。こうして6月6日の早朝、連合軍の空挺部隊が降下したのを皮切りに、いよいよ熾烈を極めた上陸作戦が始まるのだった…。

44年6月6日、連合軍によるノルマンディー上陸作戦に材を取ったコーネリアス・ライアンのノンフィクションを基に、名プロデューサー、ダリル・F・ザナックが製作費36億を投じて作り上げた一大戦争パノラマ。米・英・仏・独のトップスター総出演と、大画面いっぱいに展開される戦場の再現は、映画的興奮に満ち溢れ、至福と驚嘆の3時間を約束する。ビデオはワイド版の他、コンピュータによるカラライゼーションを施した<カラーライズ版>(サイズはスタンダード)がある。

上記が映画データベースの記述である。 オランダ・民放テレビ局のゴールデンタイムに観た。 この時期になると毎年放映される。 もうこれで何回この映画を観たのか記憶にないほどだ。 まだ小学生の頃大阪難波駅前の南街劇場という映画館で封切り時に観たのが最初だったと思う。 何年か前まではモノクロ画面だった。 けれど今回初めてコンピューターで彩色された画面を観てあたかも明治時代に撮られた写真を石版で色づけして後年売られた日本の絵葉書、風俗写真の色合いのようだと感じた。 例えば軍服、景色の緑、顔色などとフィルムの陰にそういうものを感じたのだ。 多分劇場封切り時にはスタンダードサイズだっただろうものが後年テレビ放映のときシネマスコープサイズにして妙な割合になっていたり画面が切られたり人物、物の伸び縮みがあったりと内容に関係のないところで映画に集中する事を妨げられる事もあったのを思い出す。 古い映画をデジタル処理で色のあせたものをよみがえらせDVDにして再販するというような作品をこの何年も観ていて1950年代のカラー映画が色鮮やかに蘇ったものを観て驚いていたのだから1962年の本作の色づけ処理された結果が1959年代の再処理されたものより時代掛って映るというのも我々にとっては第二次世界大戦の影響を引きずっている時代の色を感じてむしろ現在のCG映像より生に見える少々倒錯したような思いに浸ることになり、これには本作に初めて接する二十代の人たちには理解しにくいセンチメントなのだろう。 もっとも若い人々がこれから40年経って自分の少年少女時代の映像作品をどのような感慨をもって観るのかには大いなる関心はあるけれどそれもその時代に軽いワープでもしなければ自分には知る由もない。

それぞれ少年少女時代に接した映像作品は意識・無意識を問わずそれぞれの人生の様々なところで様々な影響を沁みこませているのであって特に歴史を描いたものであればそこに通底する様々なメッセージ、思想に触れるのであるからその影響は無視するわけにはいかない。 自分にとっては本作は日本の敗戦から17,8年経って中学生になったかなっていない少年が観たものとしてある。 それを今に移し変えてみると、例えば、エジプトの中学生が湾岸戦争とイラク戦争の間の頃を理解するために嘗ての敵国側が作った映画をどのように観るか、というような少々例えは歪であるとしてもそんなものだろうと思う。 周りにはその戦争を直接間接に経験した人々が取り巻き、様々な言説が渦巻いてる中で制作されたものだ。

1950年に生まれたものにはまだ直接間接に太平洋戦争の影響は大きくあったように思う。 子供にはそれを比較する基準が無いのだからそれをそれとして周りのものを貪欲に吸収消化していくのだが、後年ある時期に振り返り自分が育ってきた次代を相対化することができ、そこである種の感慨や意見を持つのだがそのときには次世代、次次世代の育った時代との違いに気付き自分の育った時代、その前、などと近い過去の歴史を物語にした映画にある種の深い思い入れを持つのを自覚する事となる。 その一つとなるが本作だ。 けれどそれでは戦後日本に育った子供にとって第二次世界大戦を代表する映画が本作であるとすると少々の倒錯がそこに見て取れないだろうか。 英米などの連合国に対する日独伊・枢軸国として戦った日米であり本作はヨーロッパ戦線で日本の同盟国ドイツが日本の敵国アメリカに破れる決定的な端緒となった作戦をもとにしたものである。 日本は一切出てこない。 しかし1962,3年当時では本作に比肩する作品は登場していない。

娯楽として製作された戦争映画の諸作では戦勝国、特にアメリカの戦果を極度に英雄視し敵国を不必要に貶めるような作風が絶え間なくみられる。 当然その殆んどがアメリカ映画であってそれは単に戦争映画だけに限らず犯罪、アクション映画などのジャンルにも亘って顕著なのだが、雑にいうとそれらの差異がA,B,C級映画のランクになるとでも言える場合もあるようだ。 様々な戦争映画にみられる制作国の嘗ての敵国の扱い方の違いを論じるとそこには興味ある姿が浮かんでくるだろうしそのことによって思想性が大きく見えてくるということもいえるだろう。 それはただ単に暴力を視覚・聴覚から排除しようとするポリティカル・コレクトネスの範疇だけには収まるものではなく歴史を通じて現前してきた戦勝国を中心にした世界思潮にあてはまるものといえるのではないか。

いささか風呂敷が広がってしまった恐れがあるのでここでは本作に現れるドイツ軍の様々な描かれ方について見てみよう。 本作以降様々なヨーロッパ戦線に関する映画を見てきて本作でいえることは勝ち組、負け組み、若しくは善玉、悪玉のとりわけ悪玉とされるドイツ軍将兵が例外的なぐらいにフェアーに描かれている事で、ドイツ軍の参謀本部の将官にはある意味では米軍以上の威厳がみえることだ。 それがロッド・スタイガーに具現されているようだ。 我々はこれ以後現在に至るまで醜いほどの善玉対悪玉の構図を見てきておりそれをイケ面対悪面として視覚化されたものの洪水に浸っている。 だからほとんどの映画では初めから筋を追わなくとも登場人物がどのような性格付けをされているかが分かる仕組みにもなっている。

邦画では本作に似たタイトルで日米開戦の事情を基にした「日本のいちばん長い日(岡本喜八監督、1967年)」があるが質は別としてもスケールの点では比較にならなく、ここでもあの戦争の性格であった量の圧倒的な差が認められるようだ。

カメラワークでいつも息を呑んで見つめるシーンがある。 ドイツ軍が陣取るカジノに攻め込む場面なのだが、ヘリコプターから見下ろして撮るカメラは兵隊が走り進む姿を追って運河か岸壁に沿って移動しながら最後は回りこむようにして長いシークエンスを終えるのだが自分にはこれが数多ある戦争映画の中でもっとも忘れられないものとなっている。

30年ほど前にノルマンディーからブルタニューの海岸沿いをバカンスの折、車で移動した事がある。 ユタ、オマハ海岸と名づけられた辺りの崖から海を見下ろして細かい雨が降る中で昼食を摂ったのだが海岸から少し離れた沖にまだ点々と戦争当時の上陸用舟艇がそのまま残されているのを見て驚いた。 我々が見たのはそのときから40年前の残骸だったのだ。 今からもう70年前の話だ。  

ここでもタイルだ

2013年06月11日 03時36分36秒 | 日常

もう大方一ヶ月ほど台所の改装が行われており、やっと昨日床に焼かれていないポルトガル・タイルを張り終え、今その上に表面処理をするためのベンジンかシンナーのような揮発性の高い油液を擦りこみその後の本格的な最終処理を待っているところだ。 この一ヶ月は二階まであたりまで遍く一面に届くような細かいセメントの埃に悩まされ、今またその油性揮発液の匂いが家の中に充満してシンナー中毒でハイになるかもしれないと危惧もし、これも一難去ってまた一難というようなことなのだが、そういってもこれらは初めから予想されていたとはいたのであるけれどこの状態にはそれでもかなりうんざりして、この長いトンネルの先に早く明かりが見えて来ないかとそれを頼みにしているようなところだ。

だから今日の日記のタイトルをこれまでの「キッチンの改装(4)タイルも大分敷かれてきたけれど」の続きとして(5)にしてもいいけれどこれには自分でももう少々食傷気味でもあるのでここは距離をおいて次にこのミニ・シリーズの(5)とするには「やっと終わった」だの「のどもと過ぎれば熱さを忘れ」だのというタイトルで締めたいと思うのだが果たしてどうなることやら。

とはいえ話しはまたタイルだ。 今日のものはうちのものでもなく、焼かれていないポルトガルのタイルでもなく床のタイルでもない。 町のカフェーで見かけた、壁に貼り付けられ、彩色焼入れされた古いオランダのタイルの絵だ。

土曜に息子が属する学生団の小グループで父親と息子が一日飲み喰いして遊ぶというイベントがあったことを昨日の日記の一部にした。 その時まだぼやっと北西の空が明るい夜の11時ごろにそれぞれ二つ三つカフェーを回り30人ほどあったグループが流れ解散状態で人数も少なくなっていた。 その次に土曜の午後5時ごろからいつもライブジャズがあるカフェーによろうかと何人かが外に出て様子をみても生憎この日は夜中までのパーフォーマンスがなく、鎌倉時代に築かれそれ以降外敵を防ぐ最後の拠り所として盛り土をした上の砦の麓にあるカフェー前から何かライブ音楽が流れてきたのでそれに向かって20mほど歩いたのだがそこに着く前に演奏が終わってしまい、仕方なくまた別のカフェーを探してぶらぶらと歩き始めたのだった。 そのときにはもう日付が変っていた。 何人かの父親はこの町のことを知らないからその息子やその同輩に付いていくしか仕方がない。 もうこの頃にはみんなに十分アルコールが回っているし昼の2時からずっと一緒に飲み食いしているのだからもう互いの遠慮もない。 夜中の二時以降まで開いているカフェーがあるのでそこへ行こうということになった教会を周ってすぐだから千鳥足で向かっても5分とかからない。

そこはかなり込んでいて無理かと思ったけれど息子の一人が顔なじみであるらしく奥を片付けて7人ほどを分散して坐れるようにした。 ここは何十回何百回と前を通っているのだが中には入った事がなかった。 BonteKoe(色とりどりの、多彩な、数ある 牛)という名の古いカフェーである。 装飾品は殆んど様々な牛に関するものでアンティークも色々ある。 坐った一番奥の壁にはタイルが張られていて古いオランダの田舎道が遠近法を効果的に使って描かれている。 右側を一列になって乳牛がこちらの方に歩いてくるのに対して天秤棒を肩に担いで何かをぶら下げて向こう側へ運んでいく女がいて左側には牛が牽く荷車が遠く向こう側へ行き男が牛を一頭こちらに引張って来るという牛と人がいる田舎道がモチーフだ。 絵付けされ焼かれたタイルなのだが多分注文品なのだろう。 と、こんなことをそろそろ頭が朦朧と仕掛けてきたところで考えていたら、そのときこんなことをしている場合ではなく翌朝やらなければならないことがあるのに気づき、他のテーブルを周って皆に挨拶してそこを離れたのだった。 家に戻れば2時を周ったところだった。
 

本格的な初夏になるかどうか、まだそれは分からない

2013年06月10日 12時04分53秒 | 日常


この一週間ほどは気持ちのいい初夏の天気が続いた。 日本から来た友達とその家族に自分の住んでいる町をぶらぶらしながら案内するのにもってこいの日和で、それが今のオランダの気候ではあるけれどまるで天の恵みのようなもの、観光客用のものだと彼らに強調して説明した。 本当のオランダの天気は12月から3月ごろまでの惨めで鬱陶しい灰色の世界なのだ。 それを経験すると多分オランダの気質が幾分分かるものだと訂正しなおしたりもした。 実際、観光ポスターにみられる青空の下、色とりどりのチューリップ畑に風車というのは代表的なものではない。 オランダ人たちにしてもうんざりした顔でああ、あれね、というに違いない。 由比ガ浜か美保の松原からみられる風呂屋の書割のような富士の姿は一年に何回見られるのだろうか。 それは少ないとしても多分その回数はオランダのポスターに見られる風景の回数よりもはるかに多いに違いない。

土曜には息子が属する学生団の「父親と息子のバーベキューの会」があり、他の14,5人の父親達といっしょに町を散策しその後バーベキューで飲み食いした。 息子も娘も属する学生団体は2000人ほどの団員がいてこの町の大学の団では二番目に大きいものだそうだ。 5年前に入った息子はだからそこでは最年長のようだ。 団では同期のグループが12,3人、年齢縦割りのグループが40人ぐらいのもの、と一つの学生団でも幾つかのグループに組織されているようだ。 息子も娘も小さいときからやっていた地元のフィールドホッケーのクラブに属しているのだがそこでもこの学生団メンバーだけのチームも男女それぞれあるから多用だ。 今回のグループは縦割りのもので初めて会った父親達が殆んどで5年前にあったねえと声をかけてきた父親が一人いたけれど学生達にしても見知った顔は殆んどいなかった、というより会ってはいるけれど憶えていないということだ。 町を散策するあいだには自然と父親と息子が大体ペアになって話しながら歩いていたからそれぞれの顔を見比べているとこの親にしてこの子あり、といった具合に外見は大体想像がつく。

アジア人は自分ひとりだけでもう一人トルコ人がいた。 もう36年オランダにいてトルコとオランダの両国籍をもっていると言った。 イスタンブール出身だそうで正月に行ったときのことを思い出しそんなことも話しながら今トルコで起こっている事などについても話したのだが彼の医者の性格なのか外国人としての配慮なのかイスラムや宗教、とくに原理主義者への懸念を強調していた。

長くこの国に住んでいるとあちこちの町に行った経験があるからそんな町から来た父親たちとも共通する話題で親しく話ができるし、そのうちの3人は日本に行った経験があり大抵日本経験者がいうようなそんな感想をここでも聞いた。 新幹線であり奈良京都の寺社や旅館の朝飯のことであったりする。

散策のコースは先週日本から来た友人を案内したコースと重なる部分が多く、町の中心にある古い砦の土盛りでは日光浴をしたり寝転んでくつろぐ若者が多く見られたのだが、果たしてこの天気がこれからこのように続くのか訝りもあった。

日曜は古式銃射撃オランダ全国大会で例年のように自分の属する射撃クラブが主催クラブとなっているので朝10時から夕方5時まで射場監視員を務め、間に25mピストルの部に出場した。 遮蔽された中で一日中いたので外の天気の事はよく分からなかったけれど徐々に崩れて行っている様に思えた。 温度が下がって14,5℃だったように思う。 その前日、夜10時ごろまでバーべキューをしていたときには天気もよく風もなかったのに肌寒くなっていたこともあり初夏もこれでまた途切れるのかと思って日曜、月曜の天気には驚きもしなかった。