暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

サンタが町にやってきた

2007年12月16日 12時41分00秒 | 聴く
土曜日のマーケットを今日は別段何を買うことも無いからぶらぶらとしているとどこからか音楽が流れてきてこれはクリスマスキャロルだなと分かった。

耳からプラグを外して歩いて行ったら男女十人に満たない数のブラスバンド員がおなじみサンタの衣装で市役所裏の広場でライン川の支流の両岸に沿って一週間に3度建つマーケットの行きかう客達にむかって吹いていた。

赤鼻のトナカイや夢見るホワイトクリスマス、諸人こぞりて、などなどクリスマスムードをもりあげようと、それを聞きながら鼻歌で通り過ぎるひとびとへのメロディーであるのだが、この10日ほど前にはこの場所でオランダのサンタクロース、いや元祖サンタクロースのシンタクラースが数千人を集めたところであるのにもうクリスマスの時期かと想う。

そういえば、サンタが楽隊になるのはあちこちにあるのだが、シンタクラースが楽器をやるというのはみたことがない。 ギリシャ正教の頭よろしく決して軽味がない、ツエをついた数百歳のシンタクラースではその演奏する音楽は何十とあるシンタクラース賛歌ではありえないし重苦しいものになりかねない。 勿論、何人もいる従者の黒人ピート達が色々な楽器を演奏するのは何度も聴いてはいる。 シンタクラースが五つ子でそれがそれぞれ別楽器を演奏すつと言うのだったら一時間ぐらいなら私の時間をさいてもいい。

この次の日の昼、4時からオランダジャズの女性奏者たちのコンサート会場になるカフェーでスコッチを一杯ひっかけてぶらぶらここまで歩いてきてこのサンタにうかれたのはスコットランド産のウイスキーを飲みすぎたせいなのか、響きは悪くはなかった。

小振りの寒椿

2007年12月16日 03時59分31秒 | 日常

何月だったろうか、家人がガーデンセンターでビーチボールほどの嵩の椿を二株ほど買ってきて植えたのは。 九月の中ごろか十月の初めごろだったろうか。 

子供の頃、田舎の椿の木によじ登って遊んだり、花が咲き乱れる頃にはいくつも真っ赤なものをむしりとり花の付け根のほのかに甘い微かな蜜を吸い、実が出来る頃にはドングリのように拾いその中の種をセメントにこすり付けて椿油だといって時間をすごしたこともあり、 家人がこの椿を植えるのを見てこれがあのように育つには50年以上かもっとかかるのを想い気が遠くなりそうになったのだが、とりあえず椿だった。

それでも背丈ほどに伸びるには5年か10年ほどかかるだろう、花が咲くには2,3年かと踏んでいた。 けれど先日、家人が椿に花が咲いてるよ、と言ってるのを聞いて驚いた。 まだ、3ヶ月ほどだし背丈も50cmもないのだ。

それに気温が氷点に近づく今頃咲くのだ。 芽が4つ5つある中でその白い寒椿が一人前までそう遠くないほどの大きさでたった一つ咲いている。

冬枯れ

2007年12月14日 07時03分30秒 | 日常
気持ちいい季節の兆しが見え始めた。 手袋が要り、そろそろ耳当ても捜さねばならぬようなキリリとした冷たさが訪れた。

これから一週間ほど一日の最高気温が5度、夜間の気温が零下でマイナス5度まで下がるそうだ。 それよりぐっと下がって氷でも張るようになるといいのだがそうは行かないようで年を越して半月ほどになれば上手くいくとマイナス15度以下が来るかもしれない。 けれど、この3日ほど太陽と青空が覗くような日々が続きこの間までの鬱陶しさも少しは和んだのだからこのような寒さは歓迎だ。

朝と夕には道の表面が汗をかいたように湿りこれが急に北極からの寒波でもくればたちまち凍結してアイスバーンができるから注意はしなければいけない。 もう10年ほど前に仕事帰りの6時ごろ、その半時間前ほどから寒気が襲いそれで帰り道の古い橋の少し猫背になった橋のレンガの間と表面に溜まった露がかなりの氷になっていて小さな運河沿いに自転車を走らせこの橋を緩く直角に渡ろうとしてスリップしてしまい転倒した。 自転車の下敷きになりながらずるずると勾配を少し滑り降りて止まったのだが起き上がれなくて少しの間そのままにしていたらそこを歩いていた二人組みの若い女性が親切に、どうもないかと私を起こそうと手を差し伸べたのだがその途端に滑ってバランスを崩し私の上に一人が落ちてきた、ということがあった。 彼女は別段重くは無かったからどうと言う事はなく、そのご婦人にも私にも痛みも傷も無かったので、ひっくりかえるほうも助ける方も互いに注意が必要だな、と笑って別れたのだが、そういう寒い冬もこの10年ほど経験していない。

2日ほど前に朝早く仕事場に行かねばならない用事があり久しぶりに朝出かけるために徹夜した。 というより普通なら寝床に入る時間に家を出た、というほうが状況に合っている。 そのとき幾つかある仕事場までの自転車道のルートの一つ、16世紀に町を外敵から守るために星の形に掘られた環濠に沿って濠を渡り公園に入り、旧大陸から新大陸に移民するピルグリムファーザーズたちの公式文書が残された建物の裏あたりにある小さいものの町で一番の太鼓橋を渡ろうとしたのだが諦めた。 凍結防止用に町の交通局が夜間に塩の混ざった白い凍結防止剤を撒いていたのだが10年前の出来事を思い出して迂回しても大して距離のロスにはならないから無理はせずにその100mほど隣の平らな橋を渡ってやりすごしたのだった。 普段はそこを弾みをつけて勾配を上り頂上から向こう側に乗り越すのを子供のように楽しみにしているのだがこれから2月の終わりごろまではこれは止めた方が賢明かもしれない。

午後、30分ほど時間が出来たから冬枯れになった付近の木々を見て耳栓からながれる音楽を聴きながら庭の枯葉を掃き集めて大きな袋を背負い近くの枯葉を集める金網の囲いのところまで持っていったらその金網が撤去されていて枯葉の小さな山だけが残っていた。 市の公園局も気ぜわしいものだ。 二週間ほど前に全て落葉したのだからもう終わり、ということなのか。 それにしてもうちと同じくそれからでも枯葉集めをしてここに持ってきている人たちもいるのだから我々が別段怠惰というわけでもないのにこれはどういうことなのだろうか。 その小山の上に私の枯葉を乗せていると近所の年寄りが同じように公園局の文句を言っていた。 その家の枯葉はうちの枯葉のかなり下で先週ここにもってきたものだと指で示しながら市のやることは、と毒づいていた。 けれど私は、今の季節だから朝夕の湿気で重くなるし嵐もこないから飛び散る心配もなくそのうち清掃車が来てもっていくだろうと楽観的に答えたのだが、もしも嵐が来たらどうなるのだろうか。 それはそのときのことだが、まあ、そこから家まで7,80mぐらいの距離では枯葉の100枚も飛んで戻らないだろう。 


オランダ料理屋

2007年12月12日 15時06分56秒 | 喰う
正午を周ってのこのこ寝床から這い出し、キッチンで昨日の残り物のZuurkool(実際の発音ではジュールコールとなるのだがウィキぺディアではオランダ語の分からない者が勝手にズールコールとカタカナ表記していて)それを暖めてビールを飲みながら新聞を読んでいたらこういう記事が出ていた。

「一体オランダの伝統料理を喰わせるレストランがオランダにどれだけあるのだろうか」 と記事は言い、これだけ世界中の料理があちこちで手軽に口に入るのにオランダ料理のレストランがオランダ国内に殆ど無いのがどうしてなのか、との導入部、 ロッテルダムの港近く、多様な人種が集まる低所得者層が多い場所で、歳取って今まで続けていた大衆食堂が立ち行かないという伯母さんの店を、内装も何もかもそのまま譲り受けてその甥姪夫婦が伝統的なオランダ料理を日替わりにしてこの12年ほど経営している店が紹介されている。 ヴォリューム満点の一皿料理が約750円らしい。 何も伝統料理だけを旨として出してるわけではないのだが伯母さん伝来の料理は自然とオランダ大衆が今まで営営と何世紀も喰い続けている昔からのもので、それは今も一般家庭では当然と消費されているので、普通には今更どうしてわざわざ外食するのに自分達の日頃喰っているものを喰わねばならないのか、というのだが単身者が多いところではこの普通の料理が喜ばれ、店の最大の敵は夫婦が上手くいく事だというのも理屈で、これがオランダ料理店がほとんど国内にない理由のようだ。今度機会があれば是非この店に行って見たい。 テーブルクロスもゆったりとした空間もないのだそうだ。 不必要なものは切り捨てもうほぼ40年になろうかという時には相席になる空間らしい。 こういう食堂は信頼できる。 常連客が殆どだ、というのがそれを証明していてこの記事のためにどっと客が押し寄せて店の今までのバランスが崩れないことを祈るものだ。

オランダに限らず北欧は元来は寒冷で野菜が誠に貧しい土地であり伝統料理というものは生き残るための食事として摂られ、エネルギーとミネラルのバランスが要点、見た目も単純なものであるけれど、伝統料理であれば何世紀も人々が咽喉に通し親しんだものだから他国の人間が急に来て味わうなら慣れない味覚ではあるのだろうが長くここに住んで風土に親しむと出来合いのものと手造りのものが分かってきて家庭料理としてのものは悪くない。

もう四半世紀も前に知人の貿易会社の社長がヨーロッパ集金旅行にアムステルダムに立ち寄った折にオランダ料理を喰いたいと言うので王宮裏の、今はショッピングモールになっている旧郵便局の立派な建物近くのオランダ料理専門店に連れて行ったのだがそこでは伝統料理が銀盆に美しく飾られ目の前に現れてまるで昔のフランス料理のように盛られてきたのには腰を抜かしそうだった。 それは日頃一鍋料理であったりそれを皿の上に無造作に盛り上げるものだから味は同じなのだが見た目の落差に驚くのだ。 それにオランダ人は来ない店なのかこちらは原材料もその値段も分かるから最後に出てきた勘定書きの数字にも腰を抜かしそうだったのだ。

その点、この初老夫婦の店の味は言うまでもないが、はオランダでも最近は子供達になじみの薄いオランダ料理をこの値段で喰わせる正直さに何か心が温まるのだ。





ザワークラウト
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B6%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%83%88

Nicholas, Daly, Winter + Simon Rigter

2007年12月12日 11時06分51秒 | ジャズ
Dan Nicholas (g)
Hohny Daly (b)
Rene Winter (ds)

Simon Rigter (ts)

On Tue. 11 December 2007
At Cafe Pavlov in Den Haag, The Netherlands

http://www.pavlov-denhaag.nl/


先々週かの日曜日にアムステルダムのJazz Orchestra of the Concertgebouw の定例演奏会に行った時にこの日から常任テナーのメンバーになったSimon Rigterからハーグのカフェーでセッションやるから来ないかと誘われていてたまたま用事が無かったこととセッションが夜の10時からだというので出かける気になったのだ。

それに一昨年、昨年と水曜日にはよくハーグの他のカフェーでハーグ中心のジャズメンたちのセッションに出かけていたのだがそれらのカフェーで続かなくなり灯が立ち消えるように行かなくなっていたので一年ぶり以上にまたもや去年のように車で出かけたのだった。

オランダの誇る国立ダンスカンパニー、NDT(Nederland Dance Theater)と市役所のまん前、繁華街の中心にこのカフェーがあり、この市役所の地下駐車場に車を停めて上に出れば昼間はスケートボード遊びに興じる若者達が集まる広場の石畳は森閑としており50メートルほどのこの広場を越えて市電の通りを渡ればカフェー、パブロフだ。

10時から45分のセットはアイルランドトリオとも言うべきピアノ抜きギタートリオとテナーのシモンが調子よくハードバップのチューンを飛ばしているのだがシモンはバップ、ハードバップ、コルトレーン、元気のよかったアーチーシェップあたりのインプロヴィゼーションをフィールドとしてソロを飛ばす。 Polca Dots & Moon Beam をゆったりとしたバラードで中期コルトレーンのように演奏するのには感心した。 それにこの日のギターは滑らかで透明、良く鳴っている。 このアイルランド人ギタープレーヤーはこの3年ほどハーグのジャムセッションで時々聴いていたのだがそのときはいつも古くてサイズは普通より小さいもののかなり分厚いギブソンのジャズギターで肉厚のある音をさせていたのだが少々こもり気味だったものが今は同じくギブソン同型だが厚さが半分になっている。 指も滑らかに動き、もともと速く動いていたもののネックの具合がいいのか一層速く、音の立ち上がりがはっきりして素晴らしくなった。 休憩時にこのことを訊ねると古いのはいよいよいけなくなって丁度一年ほど前に新品を買ったとのことで本人も今のに満足しているそうだ。 このトリオにオランダに滞在中のハーパー兄弟のトランペット、フィリップ・ハーパーとアルトで同じくハーグ派ジャズメンのマルコ・ケーヘル(Marco Kegel)を加えてこのギターで夏にCDを作ったのだという。

Nicholas Daly Winter
Reflections
Maxanter Records MAX 75374

http://www.nicholasdalywinter.com/

なるほどこのCDは録音もよく、カフェーで鳴っていた響で様々なスタンダード曲が聴かれる中、ギターの音色の抜け方に耳が行く。

第二セットは11時から1時までのジャムセッションで、徐々に集まってきたハーグ内外の腕に自信のある連中が順番を待って隙があれば加わろうとする熱気のあるスペースとなった。 この日はアルトは現れなかったもののシモンを中心として4本のテナーバトルが繰り返される中、West Coast Bigband のピアノ、 Bob Wijnann も加わり Oleo 、Whisper Not、 I Rember April などを元気に演奏した。

ハーグのコンセルバトワール、ジャズ科の学生、卒業生たちも参加して英語が多くオランダ語の聴衆の間に混じっているのだがまだ若い東洋人で韓国人に見えそうな二人に声をかけてみれば案の定ソウルから勉強に来て一年たった現在二年生だそうだ。 二人ともドラムをオランダジャズドラムの権威、Erik Ineke に師事しているのだそうだが、そのうちの一人が掛け合って2曲ほどスティックとブラシを披露したのだがなるほど学生のドラムスで平均的、そういえば今でもまだ15,6才にしかなっていない彼らの同級生のオランダ人少年のほうがはるかに生彩のある撥捌きをみせるのだが、その少年には3年ほど前に別のハーグのジャズカフェで時々みたのだがそのときには深夜のセッションには子供は不都合なようで保護者である父兄同伴だった。 今年74歳かで亡くなったピアノのケース・スリンガーの孫のように見えるニホンザルのように機敏な少年だったのだが20歳までの若者が集まってカルテットかクインテットを組、その活動に対してジャズ奨励賞を送られたとジャズ雑誌で読んだのは半年ほど前だったような気がする。

来週は私の町で West Coast Bigband の演奏がありそのときに今晩のピアノと再会すること、テナーのシモン・リヒターとは来月アムステルダムのJOCの定期演奏会でまた顔をあわせる事を約束して外に出れば小雨も止み今は星空が見える道を渡って1時には閉まる地下駐車場に急いだのだった。

Simon Rigter のサイトでは彼のサックスが聴かれると共に共演の様々なジャズメンとの写真が見られる。

http://www.simonrigter.com/






跳ね橋

2007年12月09日 13時42分54秒 | 日常

先週の金曜日の午後だったろうか。 家人のコンピューターを新しくしたから古いのは要らなくなり息子がネットカードとかヴィデオカードを抜いてある残りの箱とモニターを私は市の廃棄物集積場の近くにある、要らなくなったものを持っていけばそこで修理したりして再利用、古物商より安く売る、環境循環社会福祉プロジェクトの作業場に持っていった。

家具や衣料に電気製品、それこそ雑貨が広い建物に展示され、古物商の雰囲気が充分にその実際の匂いにも感じられ裏の作業場に詰まれた電気製品、コンピューターの山に持って行ったうちの物も並べて何人かそこで働くボランティアに声をかけ、展示場の上階に向かい、所狭しと並べられた古着や瀬戸物、雑貨、書籍にLP、CD、DVDにビデオなどを眺めていたのだがジャズと区分けされた数百枚のLPの殆どジャズとはいえないものの中から70年代のオランダジャズの渋いものを2枚見つけて300円ほど払い車に戻って家路についた。

金曜日の午後4時ごろだったろうか。 週末がすでに始まっていて人は早く仕事を終え、家路につきたがる。 全国的にそうだからこの時間に車を使うものは大抵ラジオをつけて交通情報に耳を傾けるか、毎週この時間に車を走らせるような人たちは毎週のことでもあり渋滞の時間を既に計算済みで車の列の中で諦観しているようだ。

私はそれを忘れていて、買ったLPを隣のシートに置いて車を走らせ角を曲がった途端に大型トラックの列の後ろに並ばざるを得なくなったのだ。 平日の3時ごろには普通ありえない渋滞の仕方だ。 ここから家までは5,6kmなのだが町の反対側でもあるから町の中心は通れない。 一方通行を多くして町の中心を抜けることが出来なくしてあるので近道ができなく、迂回しなければならない。 町外れの中島になったようなところに色々な企業の物流センターやアセンブリーの工場が集められてありその外れに市の廃棄物集積場があるというわけだ。

それでこの5,6kmなのだがそのルートに橋が4つある。 オランダでは大抵の橋は跳ね橋になっていて鉄道を除いて跳ね橋では通行する船に優先権があるようだ。 私がトラックの後ろについたところから200mほどのところに1つ、そこを抜けるとすぐ一方通行がぶつかる交差点、帰宅するにはそこを右折して100mほどで次の跳ね橋、4kmほど走って交通量の多い跳ね橋、家の手前300mほどの所にある跳ね橋、となる。

夏の間は運河や川をヨットやスポーツボートなどのレジャー船舶が通行し跳ね橋が上がっている間、それらの船がのこのことゆっくり渡っていくのを通行止めの車、自転車の人たちが眺めて待つ、という風景が見られる。 けれど今はそのシーズンは遥か以前に終わっており静かになるはずなのだが丁度、この部分は様々な運搬船ルートとなっており水上交通量は多い。 金曜日の今の時間、当然ながら皆家路に急ぐのだが、運搬船にはラッシュアワーがあるとは思われないのだがこの分ではそうでもないらしい。

普段ならこの4つの橋の内、一つぐらいは上がっていても5分ぐらい、多くても10分以内、待てば通過できるのだがこの日は金曜日の渋滞、おまけに戻るまでに4つのうち3つの橋が上がって、普段は15分ぐらいで帰れるとことがその間にいくつもある信号でも渋滞で結局1時間半以上かかってしまった。 持っていってあったCDを聴いたりラジオを聴いたりしてイライラをなだめようとしたのだが、けれども自分の前後の車のいらいらぶりもこちらに伝わって落ち着かなかった。多分これは当分どうにもならないようで諦める訓練をするかこの時間を避けるのがどうも賢明なようだ。




楽器店にて

2007年12月08日 08時58分40秒 | 日常
オランダのサンタクロースであるシンタクラースは既に2日ほど前に子供達にいろいろなプレゼントをばらまいてスペインに戻り、その後、町はただちにクリスマスのキャンペーンに突入しているのだが、我が家ではまだ済んでおらず、これをどうするか決めていなくて、とにかく明日、土曜日の夜に皆家にいるからなんとかしよう、というはなはだ消極的なことになっていた。

それぞれが現実可能な小額の希望のプレゼントを4つほどリストにして書いておくこと、それを見て各自、ひとりづつがそれぞれ他の家族の希望するものを一つづつ用意すればそれでいいということになった。 息子のリストの中でコンピューターで色々な音を合成したりして作曲のできるプログラムかそういったことを説明した書籍を希望しているので今日、町の古い楽器屋にでかけた。

ちょうど私がその店に入ったときには年寄りの夫婦がハーモニカを買おうとしていたのかいろいろとそこの主人と話してあれこれみせてもらっていた。 その前日、私はアムステルダムでシカゴブルースのコンサートに出かけていてブルースハープを聴いていたから客が興味を示すハーモニカがどんなものか気になっていた。 その老人は昔ハーモニカを吹いたことがあるといっていたものの店の主人が出してきた1オクターブに上下が少しついたブルースやフォークソングに使われる短いものはハーモニカとは見なしていないようだった。

ゆっくり時間をかけてあれやこれやと長短いろいろある種類の、それも調子がCなりGなりと同じ種類でも沢山キーが違うので迷っているようだった。 そこで興味を惹いたのは新しいのが出されるたびに音を出すのにつかわれるフイゴのような道具だった。 もちろん音を試すのは必要なのだが衛生面から直接ハーモニカを口に触れさせるようなことは好ましくない。 そこでその器具、というか道具の登場となる。 フイゴの口のようなところにハーモニカをつけてフイゴを上下して風を送りハーモニカを左右に動かせて音の動きを出す。 全体からすれば原始的なオルガンとかアコーデオンの原理であるのだが、そういう道具があるというのを知らなかったからびっくりした。 物自体はとても古く、軽く50年は使っている、と言っていた。 珍しいものだったから主人に頼んで写真を一枚撮らせてもらった。 客と主人に写ったものを見せたのだが主人がおどけて、「私の手を見る限りではまだまだ歳を感じさせないなあ」と言っていた。

この古い楽器屋には現代のそのようなソフトウエアも書籍も置いていないといわれたのだが、私はこの店で去年のプレゼントとしてコンピューターに接続するためのそれだけでは音の出ないキーボードを買っているし、ここにはCDも楽譜も売られているけれどそこから先はこの店の範疇ではないらしい。 

JOC with Javier Girotto

2007年12月07日 13時04分56秒 | ジャズ
Jazz Orchestra of the Concertgebouw with Javier Girotto

Sun. 2 December 2007 at BIM Huis in Amsterdam

1st Set
1) Blues
2) Brad's Feast
3) La Poezia
4) Waltz

2nd Set
5) Whole Bunch (Martijn van Iterson)
6) Tango Cuto (Galiano)
7) El Malon
8) Malvinas
9) Che querido, "CHE'

Encore
When The Lights are low (Benny Carter)

定例の毎月第一日曜日はJOCの演奏会で通常9時15分から始まる会に1時間ほど早く会場に着いても皆はまだ音あわせに余念なく本来なら楽団員たちがバーに隣接するアムステルダムの港を見晴らすテーブルで各自バイキング形式の夕食を摂っているはずなのだがこの日はまだ舞台で指揮者とこの日のゲスト、ソプラノサックス奏者のJavier Girottoを交えてリハーサルの様子、覗いてみると何人か新顔がいる。 ギターは常任の Jesse van Ruller に代わって同僚 Martijn van Iterson 、が久しぶりに師匠譲りのギブソンを置いて舞台からこちらに歩いてくるところだった。 新録音の様子はどうなのか問うと来年の四月発売の予定で進行中なのだという。そのうち他の連中も上がってきてその中のマネージャーと顔をあわせるといいニュースだ、と顔を輝かせる。 やっと資金の算段がついて08年の11月に中国公演、09年10月に日本公演が決まったということだ。 半年前には800万円ほど足りなくて中国に行けないと誰かから聞いていたのだが各国公演にはそれぞれ一億五千万円ほど要るその資金の算段がついて、しかも日本公演は二週間ほど前にやっと決まった、ということだった。

このプランを初めて聞いたのはもう3,4年前だっただろうか。 このビッグバンドの常任ベース、Frans van Geest が私の住む町でテナーを交えてカルテット演奏をしたその休憩中だった。 自分が以前ピアノトリオかで日本公演の折、日本の聴衆の質の高さに驚いたのと自分がJOCの発起人だからどうにかしてこのビッグバンドで日本公演をしたいのだけど、あなたが日本人なら何かいい考えがないか、と初対面ながら日本人の私に話しかけてきたのが縁だった。 その後、自分の分かる範囲で色々な人たちと時々連絡を取り合ったのだがその進展ぶりはなかなか楽ではなさそうでこの前の金不足の話の後、このプロジェクトもたち切れかと思っていたところだったのでこれは誠に嬉しい知らせだ。

常任ピアノのPeter Beets もビールが飲みたいと自分のパートのリハーサルが終わったのか上がってきてそそくさとバーの方に行ってしまった。彼は昨年までは自分の巣窟として小さなハーグのカフェーでハーグを中心とした若手、中堅ジャズメンを募って毎週水曜日にジャムセッションをしていたのだが近所からの騒音の苦情で、演者7,8人観客5人、普通の飲み物代だけではカフェーのオーナーも音を上げて止めてしまっていたこともあるのだけど、その後、ニューヨーク録音やあちこちの演奏会など彼の活動が活発になったこともありそのうち何処かであんな楽しい巣窟をまた見つけたいと言っているもののそれも出来そうも無いくらい忙しそうだった。 彼の人柄は誠に愛すべきおっちょこちょいで初対面の人にはその辺はボロは出さないけれど彼を知っている人と話をすればいくらでも面白い話には不自由はしない。 上記の録音のメンバーにテナーとトランペットを加えてPeter Beets American Quintetだったか、そういう名前でハーレムジャズフェスティバルに出たのを8月の終わりに千人以上収容できるテント会場で見たけれどその時、ギターのコーンは昔ならしたテナーのアル・コーンの息子だと会場でアナウンスされていた。

そのうち助っ人のギターとベースを交えて立ち話をしているときにたまたまポケットに入っていた小さいミカンを何個か二人に「ビタミン補給にどうだい」といって差し出すと、MvIは「これ、健康すぎるからやめとくわ」と言って彼らしい反応、一方ベースマンは「俺はもらうわ、(夜の仕事にはこういうの必要だから、お前のように不健康なタバコを吸うものには要るのになあ、、、)」とちくちくあてつけを冗談めかして言う。 MvIのいいところはこういうマッチョなところがある反面、妙にシャイで人付き合いの苦手そうなところにもある。

尚、この日、このオーケストラのレパートリーにもなっているMvIの当り曲、The Whole Bunchを自身、主題、ソロとも豪快に弾ききった。

演奏会は定刻より少し遅れて始まったが各セットの初めはこのバンドのレパートリーで快走し、アンコールもスタンダードのレパートリーでソロとテーマをゲストが担当してしっとり終えた。 この前日、翌日にも別のセッティングでそれぞれこの会場から100kmほど離れた場所で公演があるらしく体力としっかりとした技術がなければなかなか勤まりにくそうだ。 現にピアノも演奏中にスコアに鉛筆で何箇所か訂正を入れて確認していた。 この日のゲストが持ってきた分厚いスコアは各地に散らばった団員にネットであらかじめ送られていてA4版のプリントアウトをセロテープで各自繋ぎ合わせたものだ。 時々最前列に座った私の隣に長いソロが何人か続くときには腰を下ろしている指揮、編曲の Henk Meutgeert の指揮台の下には曲ごとに一冊の分厚い総スコアとなったものがいくつも転がっている。

指揮がこの日のゲストのキャリアを紹介するのだが、ゲストの祖父が1900年にイタリアからアルゼンチンに移住してゲスト自身は若いときにイギリスとアルゼンチンがフォークランド諸島を巡って戦争となったときに徴兵されそれに参加、その後イタリアで作曲、リード奏者として活躍、イタリアのビッグバンドのために自分の来歴を含めたCDを昨年製作してそのスコアを元にこの日の演奏の運びとなったのだけれど、この日リハーサルが長引いたのはイタリアとアルゼンチンの情熱が溢れるのかリズムが複雑に交錯するものがありテンポと間合いに調整が必要だったからで、その2拍子からワルツ、フォービート、エイトビートにアルゼンチンタンゴの色が濃い独特の作曲はゲストの在住国イタリアを除いてヨーロッパ初演だとも言う。

この日、Javier Girotto はソプラノサックスだけで荒削りにも聴こえる響きで3)のイントロとテーマを始めたのだが調子が乗ってくるに従って荒々しさのテンポとヴォリュームは保つものの徐々に細やかなニュアンスも入ってくるようでもある。 9)はチェ・ゲバラに、8)はフォークランド諸島の戦いで亡くなった友人に捧げるために作ったのだと時々は開いた前列の席に腰掛けて他の団員のソロ、アンサンブルを聴いているときにそのように言っていた。 戦争の時は18歳で幸いなことに補給部隊でイギリス軍上陸の直前で島から引き上げたのだが友人は戦死、ひどいものだったとそのときに様子を少し語ったのだがその当時こちらではイギリスからの情報ばかりでそちらの様子は何も伝わらなかったというと、まあ、ヨーロッパは敵陣営だったからなあ、とも言うのだった。 でも、アルゼンチンは時期オランダ国王の妃でもあるマキシマ妃の生まれ故郷でもありオランダとしては微妙なこともある、ということを語るにはゲストの休憩は短すぎる。

8)の自分のソロが終わり次にトロンボーンの巧者 Paul de Boer がソロを執った後、二人の掛け合い、バトルが見られたのだが二人とも追いつ追われつなかなか譲らずトロンボーンとソプラノサックスの空中戦の巴のような合戦に会場から惜しみない拍手に口笛が混じって二人とも汗を流したのだったがこれには各団員もニコニコしながら眺めているのだったが時間が許せばJOCのサックス連中とも合戦が出来たはずだ。 もうすこしゆっくりこの人の話を聞きたかったのだが夜汽車に乗り遅れないためにまだ熱気の残る会場を離れたのだった。

尚、この日のドラムスは常任の Martijn Vinkに代わり見知らぬ顔だったのでセットの合間にバーの隙間で行き合わせたときに、リズムパターンの中に70年代マイルスバンドで聴いて惹かれた後打ちリズムだけれどあれ上手く使っていたね、と振ると、ニューヨークでそのアル・フォスターから習ったからだと言い、日本人だろ、日本に行ったことあるよ、というので驚くと、European Piano Trio のドラムスだからそれで行って名前はオランダより日本の方が知られているんだよ、という。 そういえば何回かCDは聴いたことがあるけれど名前はピアノとベースは覚えているもののドラムスは覚えていなかったので、国外公演が多いしオランダのジャズとはあまり接点がなかったのだろう、とその時思ったのだが、なるほどジャズの世界もこのように一期一会的なことがあるのだなあ、と夜汽車の席でそう思ったのだった。

Jazzorchestra Of the Concertgebouw
http://www.jazzorchestra.nl/en/index.htm



Javier Girotto
PMJO Parco della Musica Jazz Orchestra
Argentina: Escenas en Big Band
PARCO DELLA MUSICA RECORDS   MPR 004CD

Mortimer Flintlock Rifle

2007年12月07日 12時23分46秒 | バンバン
先日何か折に仕事場の連中が集まってたまの立ち飲み会みたいなことを仕事場の中庭でやったのだが、そのときに偶々、仕事場の若い者が自分は爺さんからの形見でもらった古い銃があるのだけれどあれ何ですかねえ、と訊ねられたものだから、興味本位に、じゃあ、それを事務所に持ってくれば見るし、分からなければ射撃クラブの連中に訊いてみようと言ったら次の日に彼はそれを持ってきた。

その彼が、自分は銃のことは分からないから, といっていたから鉄には鋳物と鋼の違いがあって鋳物ならそれは単なる置物でそんなものをぶっ放したらして大変だし、それが単なる飾りだとしても1880年以前に作られた本物だったら骨董品として違法ではないけれど、それ以後のものだったらたとえ飾りだとしても違法だから兎に角持ってくれば見てあげる、と言ってあったので、その辺は自分で鋳物か鋳鉄の区別ぐらいは調べたのだろう。 けれどまあ考えてみると素人が家に黒色火薬かニトロ火薬をもっていることもないし、ま、どんなものが来るのかと楽しみにしていた。

梱包を解くとそれは全長6、70cmほどの非常に小型の長銃でそれは妙に寸足らずなような印象を持った。 昔、その当時に長い銃が面倒でそれを短く切って使うということはされていたし、それはそれで使いようがあるのだけれど、この銃には筒の根元に撃鉄のような親指ではじくものがついている。 といってもこれは火打石式のフリントロック式だから銃身の横の小皿の上に受け皿があってそこに撒かれた細かな黒色火薬を発火させて撃つものだから撃鉄は銃身の中心線状上にはない。 けれどそこにはそんな撃鉄のようなものがあるのだからそれを指で起こそうとしたのだが透明なニスで固めてあって動かない。 よく見るとそれは撃鉄ではなくて留め金で、その留め金を指で外すとそのことで銃身の上に沿ってこちら側に折りたたまれているバヨネット、つまり槍状の剣が銃身の上に向こう側に伸びて短い銃身から飛び出し槍状の剣で普通の長さになるような意匠なのだ。

これは甚だ危険なもので、当時としても、といっても多分1800年以前のものだろうと推測されるのだが、一般の家庭でこういうものは持たないだろうし、それに銃身の先が妙に緩やかなラッパ状に広がっており銃口は60口径以上の持って行った2cm弱ほどの丸い鉛の弾丸を入れてみようとしてもとてもそんなものでは足りず、ごそごその大口径であるからそれは普通の決まった弾丸を込めるのではなく金属製の釘かその辺の道端の細かい石礫をやたらと詰め込んで黒色火薬でぶっぱなす大型のラッパ状のものでもないから細かな散弾を込めて発射するようなもののようだ。

なんともはや物騒なものだ。 銃身の鋼の何箇所かにこの銃が本物であるしっかりした証の鋼で打ち込んだ幾つかのIDが見える。 それに撃鉄の横にはメーカーのMortmer というのが見えるからそれはロンドンのH.W.Mortimer社のものである。 現に証文のH.W.というのが紋章の下に彫られているから本物と見て差し障りがない。

我々の間でもMortimerを撃つものがいることはいるのだが殆どがピストルで長銃を撃っているのを見たことが無い。 19世紀になってパーカッションになるとピストルはそのデザインが簡素でモダンであり19世紀後半にこういうものが作られたというのが信じられないほどの現代風のものだ。 それに調べてみるとこの会社では18世紀ごろから流行した決闘のためのフリントロックのペア・ピストルも製作しているようだ。けれど目の前にある銃は英語でBlunderbuss、オランダ語でdonderbus (thundergun) といわれオランダ起源の後年ショットガンに繋がるその源であるようだ。 

残念なことに握りの木製部分には上から下まで貫く大きなヒビがあり、それはもし今、この銃に合う火薬を装填して発射すれば確実に反動で割れてしまうようでもあり危険であるから、いつのことかそれを見越して頑丈なニスで撃鉄も固めたものなのだろう。 昔は、といっても100年ほど昔には銃に関する知識は普通にあったかもしれず、子供を除いて大人にはこの程度で保管していれば問題はない、とこのように固めたのかもしれないけれど、今ではついこの間、日本でもバカな医者が散弾銃に弾を込めたまま手入れの場を離れ、その間に子供がそれを弄び、引き金を引いて近くの小さな子供に散弾が当って挙句に死なせたというような、まるでアメリカでよくあるようなことも起こったからそれはそれで油断はできないのだけれど、これに関してはそういうことは起こりそうも無いなあ、とその彼に言ったのだった。

バヨネットが何か不気味で、ヨーロッパの町を繋ぐ馬車の護衛に使われたとものの本に書かれていた。 ワンショットだからもし、ことが起こればワンクリックで剣を装填して突き刺すようにして自分を守らねばならぬからこのようなバランスになっているのだろう。 それにしても物騒なものだ。

200年以上のものを目の前にしてそういう場面を想像した。




http://en.wikipedia.org/wiki/Blunderbuss
http://www.firearmscollector.com/cat/cat_details.asp?id=299

夜の電車

2007年12月07日 11時17分16秒 | 日常
一日これということもしないで木曜のスーパーで今日は35kgぐらいの今日の食事の用意を別にして一週間分の買い物の後、晩飯をオランダ料理、豚の赤身の肉とヘルダランド名物のソーセージを加えたジュールコール(ドイツではザウアークラウト)を皆に食わせてビショビショ降る雨の中自転車に乗って、アムステルダムのジャズハウスで久しぶりのシカゴブルースのコンサートがあるというので遊びに出かけたのだが、駅に入ってきた上り列車はかなり混雑していたものの下りはガラガラで他の列車の通過待ちか比較的古い車両の入り口の所で手押し車を挟んで年配の男女が座っていた。

そういえば上りのほうでこういう人達を見たことが無い。 ま、自分は列車に乗り込むと大抵二階建ての上のほうに行ってしまうからこういう年寄り、身体障害者などは入り口のところにい二階建ての下にも上にも行かないのだから見ないのかとも考えてみるがしかし、プラットホームの待つ人の先頭でいることもあるだろうからこういうことが今まで無かったのはどういうことなのだろうか。 まあ、電車に乗ると言っても人が帰る晩飯時に出かけ日付も変わって1時間以上たって戻ってくるのだから見ないのも当たり前なのかもしれない。

男は夜道でも反射するような蛍光塗料が混ざっているのか黄色のジャンパー、老婆は普通の毛皮の防寒コートで手押し車に腰掛けて同じく大きなスーツケースを置いて壁から下ろした仮座席に座って老婆と何か話しているのだがその様子は親子にしては男のほうがかなりの歳だから多分姉弟なのだろう。 カナダかアメリカの親戚を尋ねてスキポール空港で姉さんを迎え帰宅の途中なのかもしれない。 

そう思っているうちに上りの列車も来てしまい乗り込んで上階に上れば開いた座席が一つあり座ってみれば、向かい側にDellのラップトップコンピューターで一心に何かを打ち込んでいる私と同じ年恰好の男がいた。 わざわざこんな時間でもキーボードを打たねばならぬような仕事とはせかしないことだ。 こちらは慌てて買って上ってきたコーヒーとビスケットを抱えてこれから半時間ほど今日日本から届いた季刊文学雑誌に目を通した。