暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

大晦日、別段変わったこともなし ’07

2007年12月31日 13時47分23秒 | 日常
例年のごとく兄弟の子供達、友達を集めて義弟のうちで忘年会新年会の飲んだり喰ったり遊びをしたり花火を豪勢に打ち上げるのが例年のことで昨年は我々家族は日本に帰省していたものだからそれもなく、皆が待つ寿司を40人分ほど昨日から下ごしらえをしながら今も続けているのだが、寿司飯を蒸らしている間にちょっと日記をと屋根裏部屋に上がってきてキーボードを打っている。

稲荷寿司を40個弱、夜が明けたらあと20個分は買ってこなければ作ってある黒ごま入りの内容物が余ってしまうし、一晩あわせ酢で締めておいた生のニシンの握りも50個弱これから作らねばならず、そのあといつもの、海沿いの魚屋で散らし寿司に乗せる新鮮生魚の買い物をするついでに天気予報では小春日和になるとのことだからそれを信じればそのあと家人とそのあたりの海岸を二人で二時間ほど散歩してそこにあるレストランで昼食にする予定なのだが、子供達は家で大晦日、元旦と過ごしたい、おじさん、おばさんの家に行かずに友達と家で過ごしたい、というのだが、まてよ、勝手に家の中のものを飲み食いして帰ってみればパーティーのゴミのみが残ると言うような新年は迎えたくなく、注意してあるのだがされ、どんなものか。

子供達が大人とこどものまだ間でうろうろしている状態の扱いには戸惑う。 大きな口を利く子供達にはそれなりに可愛げがあるのだが度を過ぎたときにはその処理には大人の対処の仕方があるけれど、そういうときには子供のエゴがむき出しになって家庭外でみせる顔とは違う子供の顔が出て子供に対する対処の仕方をするのだがとかく世間で言われるような、子供は親の思う通りにはならない、ということで結局は頑固親父と子供達の間で家人が何とか納めるようだ。 上の坊主はもうほぼ母艦からのカタパルトに登っていて発艦するばかりなのだが、思春期の扱いがたい娘にはあと4,5年は必要なようでもう少し鬱陶しい父親でいなければならないようだ。

ま、ここまで書いてきて、さて、飯も蒸れたことだから寿司飯を合わせて鰊の握りを始めようか、それが終わると40人分の3分の2が終わったことになる。 やっつけ日記でもう2ヶ月ほど前に撮った近所の公園の写真を貼り付けて今年の最後とする。

読み齧りの書物

2007年12月31日 07時42分40秒 | 読む
ネットの読書コミュニティーで読みかけの本のアンケートがあったので以下のように回答した。 


* 笙野頼子  萌神分魂譜   すばる 9月号 

よっぽどしっかり心得ていないとふりまわされる。 ひとすじ縄ではいかない人です。

* 東郷和彦  北方領土交渉秘録  新潮社

ああ、あのころは実際はこうだったのか、という高級官僚の国際政治のなかでの外交の様子がわかり手に汗を握るようです。 それにしても日本の報道のひ弱さがあちこちに露呈されています。 5分の3ぐらいは行ってるのかな。

* Belcampo     De Zwerftocht van Belcampo      1938

もう25年以上前に住んでいたオランダ北部の州都で知り合った老人が著名な作家だったということは後ほど聞かされたのだけれどその老人とは主に骨董のオークションで会ったり買い物のマーケットで立ち話をした人だけの間柄でその町を離れ、それから10年ほど経って亡くなったということをナショナルニュースで知ったけれど一貫して匿名で済ました人だったから写真も出ず、作家名のベルカンポという名前で通した老人だった。 夫人から若いときのことをいろいろ聞いていたのだけれど我々の会話は殆ど私のわけの分からないオランダ語と、何ヶ国語も話すけれど老人が話したくない英語で行われていたので今となってはあのときにオランダ語が流暢に喋れていたらという悔いが残る。 

* Geert Mak  Hoe God verdween uit Jorwerd  1994

今オランダのテレビの日曜ゴールデンタイムに31回にわたってヨーロッパの歴史を個人的にレポートしている作家の書いたものであるのだが、自分が育ったオランダ北部の村がどのように戦後の歴史の中で変わったかを自叙伝風に綴ったものだ。  神は如何にしてこの村から消え去ったか、 というのがタイトルで1945年から1995年に亘る戦後高度成長に翻弄された日本の地方の村の様子ともパラレルに見られるのだろうが日本の村には神などは民俗学的対象だけでしかなくもともと存在しなかったのだからだれも能天気にやり過ごしてきたものがヨーロッパの宗教を絡めているところが興味深い。

* 立野正裕  精神のたたかい 非暴力主義の思想と文学   スペース伽耶

作家が対話する老作家に曳かれて読み始め4分の1まで届いて一休みしている。 非暴力の可能性を否定するような銃器を趣味として扱うものには示唆に富む書物だ。 文学に現れた暴力、非暴力の系譜を辿るのは20年ほど前に読んだ老作家のライフワークを再読するようでもある。

* Translated by Taigen Daniel Leighton and Shohaku Okuma
  Dogen’s Pure Standards for the Zen Community       1995

永平清規の翻訳なのだが近所のオランダ人禅僧から借りていて道元の規則で禅の鋳型を作っていく様子が面白いと思うのだがその後の個人の身の振り方を助けるものとしては今でも充分俗世に活用できるだろう。

* John Banville   The Sea  Picador 2005

去年の今頃日本に帰省の折、スキポール空港の売店で手に取ったものだ、往復のルフトハンザ機内で読んだのだが飲み食いと機内の映画に邪魔されて20ページほどの導入部で放ったままになっているのだが、四半世紀以上前にオランダにわたるときに伊丹空港の書店で読み始めたIris Murdock のThe Sea, The Seaに曳かれてほぼその作家のものを読んだのだがこの作家にはそれほどのインパクトがないようにも思える。

他にもまだ幾つか齧っただけのものがあるのだろうが散らばった屋根裏部屋の中では捜せない。