仕事場の前にもう100年は経つだろうというような栃の木の大木が聳えていて、夏にはそこに繁る大きな葉が涼しい影を作り、秋には広げた大人の手よりも大きく色づいた葉が落ちて絨毯となり、その上をかさかさと音を立てて歩く楽しみがあって、そんなときもう冬が近いということを感じるわけなのだ。 今回の冬は妙な具合に2月までは平年並みで、みなそんなに寒いと感じなかったけれど3月になってからはオランダでは今でも続いている1947年以来の寒さだとニュースでは言っていたような気温だ。 だから寒い寒いと何回も口に出していたのはあながち自分の歳のせいでもなかったようだ。
仕事を終えてその大木の枝越しに空を眺めると陽射しはもう明らかに春のものであり、温度も8,9度まで上がっているから今日は久しぶりに手袋をつけずに自転車を漕いでうちに帰った。 もう27年も見ているあの栃の木も例年なら今頃はもう芽吹いているはずなのにまだ裸坊主のままだったから今年の春はまだちょっと遠いような気がする。 けれど一旦春になるとすぐに夏の陽気になってまた急に暑い暑いと言い立てるようになるのだろうか。
帰宅して夕食を摂り、その後、8時のニュースを見てから、昨日はイースター(復活祭)二日目でそのため休みだった毎週月曜のフィットネスクラブに今晩でかけることにした。 二日前に冬時間から夏時間になり時計が1時間進んだから9時に始まるフィットネスに間に合わせるのに自転車を漕いで5分ほどの場所に出かけるときには外が明るいのに驚いた。 この何週間かはまだ暗く寒い中を自転車の灯りを頼りにスキー帽を頭に被って急いでいたものが、今は同じ通りの夕暮れに家並みが黒くシルエットとなっているもののその縁はぼおっと明るくメロンの微かなオレンジ色が見え、その上には透明な青が暗くなっていくようすが窺えて気温を考慮しなければそれだけで春から初夏に進んでいるような妙な気持ちになった。 地球の傾きがなすこの日照時間の変化に今更ながら感心する。
考えてみれば人工的に時間をずらせ夏時間になって9時でもこんな風に明るいけれど冬時間だとすると8時なのだ。 北緯51度だからもっと緯度が上がればこの差がもっと甚だしくなるのだろうし、自分の育った北緯34度の大阪の村では夏でも午後8時はもうとっぷり暗かったから、この20度ほどの差がこれなのかと感心するのだが、一番日が長いときは今見ているこの夕暮れが午後11時ごろのものになるのだ。
仕事を終えてその大木の枝越しに空を眺めると陽射しはもう明らかに春のものであり、温度も8,9度まで上がっているから今日は久しぶりに手袋をつけずに自転車を漕いでうちに帰った。 もう27年も見ているあの栃の木も例年なら今頃はもう芽吹いているはずなのにまだ裸坊主のままだったから今年の春はまだちょっと遠いような気がする。 けれど一旦春になるとすぐに夏の陽気になってまた急に暑い暑いと言い立てるようになるのだろうか。
帰宅して夕食を摂り、その後、8時のニュースを見てから、昨日はイースター(復活祭)二日目でそのため休みだった毎週月曜のフィットネスクラブに今晩でかけることにした。 二日前に冬時間から夏時間になり時計が1時間進んだから9時に始まるフィットネスに間に合わせるのに自転車を漕いで5分ほどの場所に出かけるときには外が明るいのに驚いた。 この何週間かはまだ暗く寒い中を自転車の灯りを頼りにスキー帽を頭に被って急いでいたものが、今は同じ通りの夕暮れに家並みが黒くシルエットとなっているもののその縁はぼおっと明るくメロンの微かなオレンジ色が見え、その上には透明な青が暗くなっていくようすが窺えて気温を考慮しなければそれだけで春から初夏に進んでいるような妙な気持ちになった。 地球の傾きがなすこの日照時間の変化に今更ながら感心する。
考えてみれば人工的に時間をずらせ夏時間になって9時でもこんな風に明るいけれど冬時間だとすると8時なのだ。 北緯51度だからもっと緯度が上がればこの差がもっと甚だしくなるのだろうし、自分の育った北緯34度の大阪の村では夏でも午後8時はもうとっぷり暗かったから、この20度ほどの差がこれなのかと感心するのだが、一番日が長いときは今見ているこの夕暮れが午後11時ごろのものになるのだ。