暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

年寄りたち

2007年06月26日 13時09分09秒 | 日常
我が家のトイレの壁に日めくりが懸かっている。

懸かっているのは日めくりだけではなくカレンダーも懸かっていてこちらの方はオランダの普通の家庭のトイレと同じくその年、もしくは月々の30余りの余白には家族、親戚、友人、知人の名前と生年が記されており折々にそれを眺めては、ああ、また誕生日のパーティーだな、ええと、プレゼントは今度は何にするかな、、、と沈思黙考、ロダンの考える人ポーズをとり本来の目的を暫し忘れることにもなるのだが、それはそれとしてこの日めくりだ。

毎年暮れが近づくと12月5日のシンタクラース祭(オランダのサンタクロース、いやサンタクロースが世界のシンタクラースといった方が正しいだろうか。 これがサンタクロースの元になっているのだから)かクリスマスのプレゼントにこの日めくりが我が家に届く。 もう70を幾つか越したオランダの一こま漫画家、ペーター ファン ストラーテンの日めくりである。

Peter van Straaten (Arnhem, 25 maart 1935)
http://nl.wikipedia.org/wiki/Peter_van_Straaten

我々の年代に大体の焦点をあてて様々な人間の相を描いているようで、これをめくるたびに、味にはいろいろあるように、人生の味を濃淡甘渋様々な笑い、ユーモアに表してある。 必ずしも年端の行かぬ我々の子供たちには理解できないこともあるようで時々子供たちが家人になぜあれが面白いのか訊ねているところも見ている。

絵とキャプションの組み合わせであり、絵だけで示すこともたまにはあるものの、大抵キャプションがここぞと笑いを引き出す引き金になっている。

ここでは「ああ、なんて古臭い年寄りたちよねえ」という20-40代の二人の婦人の台詞が付けられているのだが、ここで気づくのは実際に四半世紀前にはこのような婦人たちの少々呆れたような笑いが出なかったことだ。 このような服装の年寄り夫婦をしばしば見かけたものだ。 しかし、60年代のヒッピー世代以後服装は変わり、私がオランダに来た80年には当時の40歳代までの服装の好き勝手さに驚いたし着たきりすずめでも誰にはばかることのない服装にはそれまで日本で毎日スーツ、ネクタイで暮らしていた生活からはここで鎖を解かれた感じがしたものだ。

しかし、一方、現在70を越した年代には公衆の場でちゃんとした服装を、という意識は抜けていない。 それは日本では殆ど比べられることのない宗教文化からでもある。 すなわち土、日の教会礼拝時の服装である。 実際今でもこのような服装は充分見られるし、何ヶ月か前に夫婦で自然遊歩道を歩いてたまたま日曜の礼拝時に田舎の教会近くを通り過ぎたときに礼拝に向かうこのような夫婦を多く見かけ時計を巻き戻した世界に来たような意識を持った。

町と田舎の違いであるのだが、町の中でもたまにはこのようなもう80をとっくに越して90にも届いているだろうかというような人々を見ることがある。 その人たちの意識で今の人々の服装を眺めるとどのように映るのだろうか。 諦めということがあるのだろうが必ずしも肯定的な意見を持つものではないだろう。 60年代から考え方を掻きまわされて来た年代にはほぼなんでもあり、というような考え方があるものの、この年代の人々には年の移り変わり、戦争を経験して、他人は他人でも自分はこうでなければならない、というようなものがあるようだ。

だから、ここでは今時の婦人たちが「なんともはや、今でもああいう人たちいるのよねえ」と笑うことの価値観の変遷とともに、生き残った年寄りの中に、そういう過去を知らず、知ろうともしない若い世代に対して「今の若い奴らはのう、、、、」という、彼らの渋い顔のしわの間に苦い笑いをひそかに隠して孫たちの世代が動かす社会の中を化石のように生息するのが見られるかもしれない。

一方、日本ではどうなのだろうか。 このように正装して日々を暮らす年寄りがゆったり歩き回る街は保障されてはいないだろうし、都市の公共交通機関の朝晩のラッシュアワーは老人排除の空間であると聞くこと以上に、年寄り自体が夫婦で正装して街の中を普通に歩く光景は普通のこととして見られないのではないか。 それは繁華街だけというのではない。日常に正装もしくは「ちゃんとした」服装で暮らす老人たちが生息しているのかどうか、ということでもある。

この絵の老人たちを瞬間移動マシンで日本の都会に連れて行ってみたいという想いがよぎる。

グレープフルーツの皮を剥く

2007年06月26日 12時04分57秒 | 日常

私は小さいときから柑橘類が好きで日常よく口にする。

大阪南部で育ち、柑橘類が豊富に周りに見られるような環境では子供の頃は殆ど柑橘類は買うことなく周り、親戚からまわってきたもので用を足していた。 今でも思っただけで口が萎み奥から唾液がでそうな極度にすっぱい夏みかんも口にした。 八朔は甘い部類に属す。 もっとも、農家の叔父叔母たちは新鮮で誠に酸っぱいものは玉葱に甘みをつけるためにその頃は手袋もつけずに直接牛糞を肥料として畦の若い玉葱の間に施したあと荒れた手を酸で中和するのだと言って夏みかんの果汁で洗うようにしていた。

ミカン山では甘みをつけるために海で大量にとれた鰯を肥料にしておりものすごい腐敗臭を漂わせているところもあったのだが魚のリンが甘みをもたらすのだと聞いた事がある。

70年代の初め四国のミカンどころの町で学生時代を過ごし、そのころに日本が米国と貿易摩擦の解消策の一つとしてオレンジを自由化して輸入することになりそれまで保護されていたミカン農家がそのあおりで首を吊るような者がでるようになったとニュースで報道され始めた。 その後まもなくして甘みの強い輸入オレンジを口にすることになるのだが、同時にそのころ初めて苦味と甘みの混ざったグレープフルーツという柑橘類の果実を口にしたのを覚えている。

その頃にそのキャンペーンの一環としてどのようにグレープフルーツを食べるかというような手本として細長いアイスクリーム用ともみえるスプーンもみられ、そのスプーンの先が3つほどに割れてその中の一本の先がどういうわけか尖ったものだったように記憶するが、それは西洋で一般的な、グレープフルーツを横一直線に二つに切り、中心から放射線状に広がる粒の断面からスプーンで果肉を掬い取り口にいれる、というものだった。

それに対抗して甘い八朔のキャンペーンに、ミカンのように皮を放射線状に剥いて中から実のボールを取り出すための、先が鉤状に尖ったプラスチックの小片をもらったことがある。 八朔は皮がミカンのように柔らかくはなく簡単に親指を入れて剥くわけには行かないから厚い皮にプラスチックの小片で切れ目を入れてそれから親指を使って剥く、という方法だった。 先ず、5mmほど鉤になった部分を地球で言えば北極圏の上方とも言えるあたり、八朔の頭を中の果実の袋を傷つけない程度に輪切りにして白い内側の皮が見えたら再び鉤で八朔の表面に南極方面に経度を記すのだ。 それで小さければ八つ、大きければ12ほど皮に切れ目をいれて果肉のボールを中から取り出し薄皮を剥き袋から一つづつ果実を取り出して食べる、ということを習ったようだ。

それは70年代ではなく60年代の終わりごろ、高校生のころだったかもしれない。 ともかく、その方式で八朔に慣れていたから初めてグレープフルーツをスプーンで食べる経験をしたあともグレープフルーツをスプーンでちまちまとほじくる食べ方が気に入らずオランダに住んでからも八朔方式、ミカン方式でグレープフルーツ、オレンジを食べている。

子供たちも小さいときからこの果物が好きでよくこのように剥いて食べさせていた。 オランダ人の妻は相変わらずキッチンナイフで横一文字の胴切り、スプーン方式である。 

今日何気なく各自が好きなデザートを摂った後、高校生になる娘の食べ終わったグレープフルーツを見たら私の八朔方式になっていた。 別に教えたわけではないけれど日頃見ていて覚え、それがきれいで丸ごと果実が食べられる合理的な食べ方だと悟ったからなのだろう。

梅雨かと思わせるような雨模様だ

2007年06月26日 06時37分17秒 | 日常
この数日雨が続き庭の植木に散水をしないで済むので助かるし暑い暑いと言わなくとも済むので悪くはないと喜んでいるのだが外に出る子供たちや家人には評判が悪い。

日本の梅雨と違うのは降り続くということがないことだ。 雲の動きが案外早く、雨が一挙にザーッと1時間も降ればそのあと小ぶりになり青空も見え雲の切れ目から日差しさえも出ることだ。 夕食時には外は叩きつける雨だったのにもかかわらずニュースでイギリスでこの雨のため浸水するところが出たのが報道されているのを見た後、台所で洗い物を済ませた10時ごろには青空が少し出て、これを幸いと40分ほど運河沿いをジョギングで公園まで出かけ運河の向こう側を戻ってきたのだが、それで4kmほどになると思うがそのあとシャワーを浴びているとまた外で雨がバルコニーを叩いている音が聞こえるという有様だった。

ジョギング中もまだ明るい夕方の空を雲が動いているのが見えたが遠く西空が暗く見えてそのうちまた降るな、とは天気予報の雲の動きから想像できたのだが天気予報の概況として伝えるとおりこの数日間の空は秋の天気だそうだ。 気温も日中15度前後になるらしい。 地中海地方では45度になっているところもあるそうなのだが当分はそういう天気はうらやましくはない。