暇つぶし日記

思いつくままに記してみよう

久しぶりに夜を徹して音楽に浸った

2007年06月03日 10時24分55秒 | 日常
さまざまな音源で音楽を聴くのは日常のことだがロックとかパンク、レゲエ、果てはスカにゴシックなどという音楽は日頃自分から聴くことはない。 何週間か前に知人がカフェを借り切って10時ごろから朝の5時ごろまでパーティーをやる、他の若い知人たちも演奏、歌唱に踊りとこの何週間か練習していた自分たちのバンドで賑やかにやるからこないかと誘われた。

その日はオランダでも人気がそろそろ出かけているプロとアマが混ざったビッグバンドが見知った会場で9時ごろから夜中まで2セットの合間の休憩を挟んで公演するというのでそれを聴いてから自転車で10分もかからないそのカフェに出かけようかと予定していた。

ビッグバンドはそのメンバーに知り合いがいたり、20年以上前にハーグで、今では知名度の高いアメリカ人トランペッターがその何年か後、麻薬とアルコールの果てに悲惨な最期をとげる予兆を見せたステージであれほど惨めな舞台がないような体たらくを見たのだが、そのときオランダの受け入れ側としてそのトランペッターを介護して自分もステージでテナーサックスを吹いていたそのオランダサックス奏者がゲストとして目の前で演奏することもあり、休憩中や演奏の合間に立ち話をして時間を忘れかけ慌てて又の再開を約して外に飛び出し自転車に飛び乗り、行くと約束をしていた知人のステージがもう半時間以上過ぎている満員のカフェになだれ込んだ。

先ほどのビッグバンドが60年代から70年代にかけてのノスタルジアを誘うスイングとドライブの演奏のあと、夜の涼しい真夜中に自転車の鍵をかけカフェのドアを開けるともう既にそれまで別のバンドなども含めもう2時間ほど演奏していた熱気と汗が充満する内部はアンプで増幅された電気楽器をかき鳴らし叫び飛び跳ねる知人たちの音の坩堝だったのだがそれぞれと挨拶をしようとしても轟音に声がかき消され話のしようがない。

ま、ステージを横切って音が多少は耐えられるようなコーナーにたどり着くと若い顔見知りの女の子たちが各自飲み物を手ににタバコと、ちょっと踊ってから休憩中というとというところでに出くわし、既に十分舞い上がっていた彼女たちに手を引かれバンドの前に連れられて行かれディスコかゴーゴー、ジルバにモンキーなどの踊りを誘われた。 私の年齢の人間が皆無の中で彼女たちも若い男たちと踊るのであれば幾分かの緊張感があるのだろうが父親と踊るのとさして変わらないような男と踊るのだから安全だとみられているのかはなはだ好き勝手に踊っている。 そのうち、このようなリズムに乗る年寄りに驚いてなんとかの冷や水かと眺めている様でもあり、少々驚いている風でもあったのだが結局そこで何時間も踊り、合間には冷たいビールで咽喉を潤し他の男女たちと話をしたりして結局つかれきってそのカフェを出たのが既に朝の4時を廻っていた。 これは30年以上前の宵の過ごし方の一部でもある踊りで汗をかいて運動不足を解消しようとするパターンだった。

こんなことはもう30年ほどなかったのではないか。 姪の結婚式のパーティーや義弟の誕生日のパーティーにも生バンドで踊ったりしたことはこの数年の間に何度もあることはあるのだが、しかしそれらは夜の1時ごろにはお開きになっているから今回の宵はは例外的なことだ。

別ジャンルの生バンドを続けて4,5時間かそれ以上聞くのは夏のなんとかフェスティバルではあるのだが踊りがそれほど付くのはあまり経験がない。



Japon ; 見た映画、 June 07 (1)

2007年06月03日 09時52分43秒 | 見る
Japón

122分
Mexico/Spanje/Duitsland/Nederland, 2002
監督: Carlos Reygadas
撮影: Diego Martínez Vignatti

出演: Alejandro Ferretis, Magdalena Flores, Yolanda Villa, Martín Serrano
Kleur, minuten
Distributie: Contact Film Cinematheek

メキシコ映画の新星、カルロス・レイガダス。処女長編「Japon(ハポン)」カンヌでカメラ・ドール特別賞を受賞。

露骨な性描写が一部で物議を醸したようだが、それは決して荒唐無稽なものではなく、むしろ必然の内に留まっており、レイガダスが提示する圧倒的な表現力の一部に過ぎない。堂々とした画面作りは確信に満ちており、ほとんど巨匠の風格を湛えている。まったく恐るべき映画作家である。 と、どこかに解説されていた。

この映画を観る物は最初から、杖を頼りに憂いを含んでメキシコの荒野に入る男を追うことになるのだが広大な田舎の土地を背景にこの自然には映画はこうあるべきだという風な空間を持たせたテンポで進むのだが、この映画はドラマであるのだから観るものは主演の男には演技を期待するのは当然で男もそのように振舞うのだが後の出演者にはそれが見当たらないほどの自然でありこれがドキュメンタリーであるといわれても納得するかもしれないし、見ることにすれっからしの観客にはカメラとそのほかのスタッフがこの映画のストーリーを追う設定ではドキュメンタリーではありえないと半眼で答えるに違いない。

主演の男が演技するのは当然だと書いたが見た後でほとんどBGMがなかったと錯覚するほど静謐な作品の中で雨の音や男の息遣い、立て付けの悪いドアのきしむ音などが豊かな日常の効果音となりこの男の内面に沈降し男の過去をさぐる助けにもなるようだ。 それにこの男の好むショパンから甘さと悲しみを除いたようにも聞こえるクラシックやズタ袋に入った画集のページに添った現代音楽以外は排除しようとするのは村の居酒屋のほの暗い庭で強い酒を飲んでいた際、村の男たちがカラオケを始めてそれにいらだった男がその装置を酔った勢いで投げつけて壊してしまうところにも現れている。 本人はそのとき耳に差し込んだイヤホンから自分の好みの音楽を聴いているのだからこれも都会の喧騒から逃れようとしても逃れられないという現実の謂いか。

私にはこの男の物語はともかくとしてこの男以外に興味が惹かれた。 そこでは演技やプロットがどうかと斟酌することももはや不要なドキュメンタリーであるからだ。 貧しい村の保守的な仕組み、寡婦の生活、子供たちの珍しい訪問者に対するまなざしとアプローチの仕方、村の男たちの異邦人に対する態度、等々に世界中の田舎に共通するものが見られるだろう。 現に私自身の少ない経験でも日本の田舎で経験したことを反芻してみて納得できることであり、だから人間の営為の歴史的現実をなぞるものだといえるだろう。

半世紀ほど前までは日本でも普通であったような、村の中には精神、肉体の障害者がおり日常では老人から子供までが現実の中で混ざり合って生活する世界があり、世界を逃れた男が行き着く地の果てには緻密なミクロコスモスが息づいていて、そこで自分を救済できるか、というのがテーマであるかと途中で思い至る仕組みでもあるのだが、生は性でもありここで性に執着する男は礼儀正しくその執着を老婦に乞い、老婦の対応も甚だ敬虔なカトリック信者には真摯かつ人間的である。 ここではこの老婦には慈悲だけではなく自分の生をいきる、ということも踏まえた人間的な行いがカメラの前に示されるのだがこれが露骨な性描写と捉えられる背景には今の社会に蔓延する、「俗情との結託」に疑問をもたない性描写のステレオタイプになれたものが性の現実の一面を見るときにその現実を示されたことに対する痙攣的反応がこれを露骨といわせるのだろう。 現実は露骨である。 その現実から逃れるための装置としてポルノが機能するとすればここでの描写はそのポルノからはもっとも離れたものである。

この男が羽織る赤に黒の格子模様の厚いジャケットが老婦と男の関係の変化を語る小道具になるのは肉体をただ単に触れ合いその余韻の親和力に任せたからだけではない。 老婦の生がカトリック倫理に従い現実を生きるうえで理無造作にベッドに投げられたジャケットのポケットにいくばくかの金を見つけた後に男の屈託を理解したからでもある。 

男を代表する都会の洗練と老婦の田舎の自然が交差するのは、この「芸術映画」が男によって老婦に示された現代芸術初期と思しき画集を眺め現代音楽を、今では世界中の若者が日常にアクセサリーとも見まがうイヤープラグから流れるのを二人で片方ずつ耳に差し込んで聴くときであり、素朴とも取れるその芸術観の吐露がすばらしい対話になっているのだが、これが多分、がけふちの草原で腹を割かれた馬の臓物近くに横たわる男のシーンと並んでこの監督が自分の映画であると刻印する作為の瞬間であろう。

男が自己救済、自栽のためにズタ袋にいれて持ち歩く、ドイツ将校が腰にしたためていたであろうルガー08拳銃の手のひらにしっくり来る細かく刻まれた木製グリップの感触は戦争中に幾多の兵士が敵にこれを向けるだけでなく自栽目的にも数限りなく使われたものである。 この男が果たしてこれを使うことがあるのかどうかについては我々は他の映像を待たねばならないのかもしれない。