きょうは山城歌会での『白へ』を読む会でした。
京大短歌の牛尾今日子さんも来てくださって、参加者は16名。 選歌とコメントのみの方1名。普段歌会に使っている部屋が満席状態となりました。 皆が同等に読みあいながら議論できる人数はこれくらいがMAXなのではないかと思っています。 いろんな歌会やクラブ(?)で読む会を開いていただいて、今回が4回目。 過去の3回のいずれかにも参加してくださっている方もありましたが、きょうはまた別の視点から歌を5首選んできてくださいました。
12時から年始のお祝いのお弁当をいただき、13時からスタート。 15時から15分ほど休憩してまた16時すぎまで、一人10分弱の発表とそれについての意見、疑問、読みなどが展開されてゆきました。
16名のうち、半数の8名が「高安国世を読む会」のメンバーでもあったことから、高安短歌のことが語られたり、「私は土屋文明の弟子ですから、アララギ的な歌を」といって「アララギ的」な選歌をしてこられた方もあって、集めてみると「アララギ的」な歌もかなりあるんだなと自分のことながら、あらためて気づいたりしました。 坂田博義の歌を引用しながら、坂田の死の場面について語っていただいたり、私が今まで書いてきたものや読んできたものまで含めた俯瞰的な批評がでたりして、「同じ時間を歩いてきた」人たちならではだなぁとありがたく聞いていました。
また、初参加の牛尾さんも、私の好きな歌「金の羽ひとりひとりに差し出して冬のある日に消えてしまいぬ」を引いて、「幸福の王子」のようだといってくださったり(亡くなってしまった大好きな歌人のために作った歌だったので嬉しかった)、「作中主体と話者の離れ具合」についてみなさんで話し合うきっかけを作ってくださったり、大活躍でした。
ほかにも 「イマジネーションの豊かな歌」「夢、目覚めの歌」「影の歌」「リフレインの歌」「犬のセブンから5首」「無垢からグロテスクへの歌」と、それぞれ個性的な選をしてきてもらって、じぃんとしたり、驚いたりの3時間でした。
山城歌会では、毎年1月は、前年に歌集を出した人があれば、前半は歌集を読む会、後半は通常の歌会(その月だけ1首提出)が行われ、前年の全国大会で受賞された歌をみんなに披露してお祝いをする、という流れです。 今回は参加者も多かったので、はじめに全国大会(花山多佳子賞の坂根美知子さん、互選賞1位の山下裕美さん)の歌が紹介され、そのあとは読む会にあてていただくという贅沢な時間の取り方をしていただいて申し訳なくありがたいことでした。
選が重なっていた歌
・血のなかを光の通るおどろきに雲雀は高く高く啼くのか (4票)
・ゆれるゆれる蝶がきてゆれる風がきてゆれるみんないなくなってゆれる (3票)
・木漏れ日を浴び続ければ白樺の木になりそうなほどひとりなり (以下2票)
・雀をみれば一羽の雀を思いたり君の話の中の一羽を
・便箋に書かれし文字に掌をあてる文字のむこうに君の掌がある
・おはじきの中に閉じ込められているかの日の湖の水草の揺れ
・ぼくがここで眠っていた日を思い出す光や雨や葉っぱのことを
・一生を繋がれていたガレージに来てくれた雀、ヤモリ、夕焼け
・夢のドアいくつも開けて目を覚ます最後のドアはまぶたであった
・おじいさんが集団逃亡した後の景色みたいだ冬の蓮田は
・投げられし檸檬のゆくえ思いつつきょう初夏の聖橋越ゆ
二首目の「ゆれるゆれる」の歌についてはきょう残念ながらお休みだったKさんが素敵なコメントを書いてくださったので、それを引用します。
「一首に「ゆれる」が五回使われて、とてもわたしたちに出来ることではない。また、なにが「ゆれる」のかは明かされていない。草木なのか、わたしなのか、あるいは、草木のわたしなのか。主客の混淆した感じがする。読んでいるうちにわたしたちも「ゆれる」ので、もうこれに身を任せるしかないのである。」
ほんとうに素敵な日でした。 ありがとうございました。
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