きのう、楽しみにしていた映画「春原さんのうた」を観た。まだ心の整理はついてはいないけれど、大事なことを忘れそうなのでいま思っていることを書いておきたいと思う。
この映画を観ながら、浮かび上がってきたのは、いかに自分が常にストーリーを追い、なにかとなにかを繋げようとし、いつも原因を探っているか、ということ。
たとえば、道で子供が泣いていたら、「どうしたの? 迷子?」「お腹痛いの?」「お母さんは?」などと声をかける。まぁ、本当に迷子のこともあるから、それはそういう対処でいいのかもしれないけれど、なんというか、「泣いている」ということだけに向き合うべきなんじゃないかなと、強く思った。なにかしら悲しいことがあって、その悲しい思いのそばに立つということ。
はじめは、主人公とその周りの人々との関わりがスライドを1枚1枚めくるみたいに展開されて、このひとはどういう人?とか、どういうつながり? とかいろいろ考えていた。スマホで写真を撮られるシーンが多いけど、この子はもうすぐ死ぬとかだろうか、とか。みんながこの子を労わっているし、心配している。なんらかの理由で。ホスピスから抜け出して最後の時間を生きているのかとか、スライドから推測して自分なりの物語を組み立てようとしていた。
でも、見ているうちに涙があふれてきて、ああ、もうそういうのはいいんだ、と思った。
去年(もう一昨年かな)、亡くなった叔父のことを考えていた。私が若いころ、いっぺんにいろんなものを失った時期があって、叔父は普段は優しさを前面に出すようなことはなく、いつも笑いながら「おまえはバカだなぁ」と呆れられていることが多かったのに、そのときだけは「元気だせ」と言ってくれて、心の深いところの叔父の優しさを知ったのだった。
自分のなかにあった、温かかった記憶が底のほうから剝がれるように浮かんできて、関係とか、理由とかはそういうものの前ではどうだっていいことなんだなと思った。
この映画を観た人はいろんなことを考えたり思い出したりするだろう。つらかった自分と会うかもしれない。でもそのときに包まれた温かさも思い出すかもしれない。
主人公が叔父さんとバイクに乗るシーンが何度かあったけれど、雨の中、バイクを止めて合羽を着たり、ヘルメットを拭いたり、行こうとしたときにまた「タオル」って言ったシーンが素晴らしかった。いい歌集と同じで、人によって好きなシーンはそれぞれ違うと思うし、そしてまた次に観たときは別のシーンが一番好きになるかもしれないけれど、ずっと大切にしたい作品と出会ったと思う。