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いつでも君のこと好きだったよ

月と六百円 佐藤佐太郎『帰潮』

2016-11-03 21:24:46 | 日記

 きのうは月と六百円の会でした。

 

 歌集は佐藤佐太郎の『帰潮』。 その後記にこういうことが書いてあります。

 

 「私は自由になる時間が欲しいと思つて独力で出版社をはじめた。」

 

 自由になる時間というのはサラリーマンのように決まった時間拘束されたくないということでしょうけど、出版社をはじめるって・・・

 

 「そして幾ばくもなく挫折した。」

 

 あらら。

 

 「それから養鶏をはじめたが、私の企画は一つとして成功せず、敗戦後の数年を貧困の中に送迎したのであつた」

 

 佐太郎の歌は「てにをは」がかなり個性的に使われているのだけれど、こういう文面にもそれは現れています。 最後のところ、普通なら「成功せず、貧困の中に敗戦後の数年を過ごしたのであった」とか「敗戦後の数年は貧困の中にあった」とか、かなり元を生かしたとしても「貧困の中に敗戦後の数年を送迎したのであった」とするところでしょう。 真ん中の「貧困の中に」がぐにゅと入ってきています。

 

 養鶏を始めるっていうのも当時としてはありえることだったのかもしれないけれど、いまから読むとかなりのチャレンジ。そして、こんなふうに続きます。

 

 「もつとも鶏の方は経験もなく資力もないので、傍業として百羽程の鶏を養つたに過ぎず、ただ何か実務を持たなければ生活内容が稀薄になり、それは作歌にも影響するだらうと思つて、かういふ事をしたのである。」

 

 百羽程って、かなりの数のように思えるし、理由づけとして「生活内容が稀薄になる」「作歌にも影響する」とか言って、やっぱりかなり個性的な人だと思います。

 

 「一般に表現は限定する事だといつてよいが、短歌に於いては、先づ感情生活の中から詩的感動を限定し、それを五句三十一音の形式に限定するののである。限定された直感像即ち詩的感動は、生のリズムとして意味に満ちてゐるけれども、その意味は概念的に抽象し證明することの出来ないものである。」

 

 このあとがしびれるのですが、

 

 「ただ何となく大切なかけがへのない感じとして胸中に置かれた生の核心である。このいはば意味なきものの意味に満ちた瞬間と断片との裂目から人間性の奥底とか生命のニュアンスとかいふものを見るのが抒情詩としての短歌である。」

 

 ここの部分を読んだとき、この会に参加してこの文章に出会えてよかったなぁと心から思ったのでした。

 

 長くなるので、私が選んだ3首。

 

 ・にはたづみ乾きし跡のしづかなる泥を目守(まも)りて縁(えん)立ちゐし

 ・ぬきいでて空に光のそよぎゐる銀杏(いちやう)見ゆその下に行かまし

 ・麦畑にのこれる雪のさやかなる夕明りにて麦やはらかし

 

 レポートをしてくださった、牛尾今日子さんも吉岡昌俊さんもそれぞれに自分の目で掬い取った論点をまとめていて、とてもよかったと思いました。

 

 来月は斎藤茂吉『あらたま』です。

 

 

 

 

コメント
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