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ビアンカの  GOING MY WAY ♪

昨日・・今日・・そして明日
   人生は ・・・ダバダバダ・・・

孤高の画家

2010-09-18 | art/exhibit/museum

爽やかな秋晴れの昨日、久し振りに美術館に出かけました。
千葉市美術館で先月から開催されている 「田中一村 ~ 新たなる全貌」展。猛暑が一段落してからにしよう、とチャンスを窺っていましたが、やっとその日の到来です。しかしまだしつこく日中の日差しは強烈で、日傘を忘れたのでシミの増えることを気にしつつ、駅から美術館までの、あまり好みでない区間を、必死でこっちの日陰あっちの日陰、と飛び歩きながら行きました。画像は美術館兼市役所の入口です。太い柱に巻いてあるポスターを柱二つ分入れると一方の絵が見にくくなるので別々に撮ってくっつけてみたものです。

田中一村(1908-77)は、栃木県に生まれ、千葉市に20年住み、
奄美大島に渡って亜熱帯植物を題材にした日本画を描き、生前
それらの作品を公表する機会もなく無名のまま没した画家です。
没後の1980年代、テレビの美術番組での紹介が空前の反響を呼び
広く全国に知られるようになりました。

パンフレットにはこのような説明がありましたが、私がこの画家を知ったのは去年か一昨年、友人を通してでした。田中一村記念美術館に行くだけの目的で奄美大島まで飛んで行き、日帰りした彼女から、行った甲斐があった!という話をきいていたので、新聞で展覧会があるのを知り、この画家の絵との出会いにワクワクしていました。

美術館に着いて、その混み様にびっくり。中高年がとても多いことにもびっくり。もしかしてテレビで特集でもあったのかしら・・と思ったら、先週の日曜美術館で紹介されたようですね。19日(日)の夜8時からは再放送されるとのことです。

展覧会の構成は:

第一章「東京時代」 1-1神童 「米邨(べいそん)」
          1-2東京美術学校退学後の大活躍
          1-3昭和初期の新展開
第二章「千葉時代」 2-1千葉へ
          2-2千葉寺風景を描く
          2-3「一村」への改号(昭和22年 戦後の新しい出発)
          2-4公募展への挑戦
          2-5襖絵の仕事
          2-6やわらぎの郷 聖徳太子の天井画制作
          2-7四国・九州への旅
          2-8千葉との別れ

第三章「奄美時代」 3-1奄美へ
          3-2スケッチについて
          3-3奄美での作品

資料も含み250点、と、過去最大規模の展観で一村の画家としての実像に迫った展覧会です。神童と呼ばれただけあり、会場に入ってすぐの短冊に描かれた「蛍図」は、8才の子供が描いたとは思えません。後に続く作品でも、これが十代のときの作品か、と、画家の年齢と絵とを見合わせながら誰も彼も感心していました。

千葉時代に移り、米邨から一村へ改号するきっかけとなったのは、「白い花」が川端龍子主催の第19回青龍社展に入選してから。しかしその後出品した「秋晴」と「波」のうち、「波」が入選し、自信作だった「秋晴」が落選したことで「波」の入選を辞退。川端龍子と意見が合わなくなり青龍社から離れます。このあたりが一村の性格というか、生き方を象徴しているように思えました。その後の公募展は落選が続き、中央画壇からも離れ、奄美大島へ、と移住することになります。こんなことはきっとwikiで全部わかることですね。

(白い花)

見ていてゾクゾクする絵も沢山あるし、あれっ、と思う絵もありましたが、奄美時代はハッとするような南国の風景画が続き圧巻でした。左下は奄美時代の最大の作品である「不喰芋と蘇鉄」。美術館入口の柱の絵の一つです。

《背景が神の時間と言われる夕暮れの空
クワズ芋は花芽から実が朽ちるまでの姿が描かれ、
四季を表わすとともに、誕生から死までの時間の
経過もこめられているかのようだ》

との解説を読んで、はじめてそうだったのか~、と尽々見つめてしまいましたが、皆さん同じ思いのようで、ここで流れが止って渋滞でした。この隣には入口の柱の左側の絵「アダンの海辺」があり、それにも色々な意味が含まれているようです。

生計を立てるため、地元の紬工場で染色工として働きながら最後まで絵を描き続け、お世話になった人には描いた絵をお返しにし、生前一度も作品を公表することなく無名で独身のまま没した田中一村。もし彼が中央画壇に認められていたら、きっと奄美大島には行っていなかったかもしれないし、このような南国の風景は描き得なかっただろうし、「孤高の画家」などとは言われなかったし、・・・と考えて行くと、人生ってアッ、と思ったときはすでに遅しだし、だからと言って戻って別の道に進んだほうが良いとは限らない。最後は自分との対話のみかも。

奄美の美術館に行った友人からお土産に貰った絵ハガキの絵はこんなでした。

「奄美の杜①」~ビロウ・コンロンカに蝶~

又、そのとき貰ったパンフレットに書かれていた一村の言葉は;

私の繪の最終決定版の繪がヒューマニティで
あろうが、悪魔的であろうが、畫の正道であ
るとも邪道であるとも何と批評されても私は
満足なのです。それは見せる為に描いたので
はなく私の良心を納得させる為にやったので
すから・・・・・・。(田中一村の手紙より)

見応えのある展覧会でした。
一村さんについてもっと知りたくなりました。
美しい独身のお姉様のことも知りたくなりました。



蛇足:
このとこるずっとマウスの調子が悪く、目指している場所にすんなり動いてくれずイライラしていたのですが、今日とうとう動かなくなりました。マウスが使えないとパソコンが使えないんだ、と初めて認識。寿命だったのでしょうか。慌てて息子の使っていないPCからマウスだけ拝借して、やっと投稿にこぎつけました。スイスイと動くマウスは快適だ~、と、あたり前のことを喜んでいます。次はパソコン本体かなぁ。その前にデフラグとかクリーンアップをやってみようと思っているのですが、私、出来るかどうか。

 


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三人娘、上野に行く

2010-07-08 | art/exhibit/museum

チケットが三枚 手に入ったから、との嬉しい電話があり、幼なじみ三人と「カポディモンテ美術館展」を見に出掛けてきました。雨に降られてもおかしくない梅雨の時期なので、待ち合わせは美術館の中。私が最後に行った美術展と同じ、国立西洋美術館が会場でした。

カポディモンテとは「山の上」の意味だそうで、ナポリを見下ろす丘の上に建つ、イタリア有数の美術館の一つとのこと。1738年にブルボン家のカルロ7世(後のスペイン王カルロス3世)によって建造が開始された宮殿が、そのまま美術館になったそうです。

展示される作品は主に、ファルネーゼ家が収集したルネッサンス及びバロック美術の作品と、ブルボン家が収集したナポリ・バロック美術の作品です。

               ナポリ・宮廷と美
   カポディモンテ美術館展
             ルネッサンスからバロックまで

         

上の画像が、パルミジャニーノの「貴婦人の肖像(アンテア)」(1535-37年制作)。
パンフレットにも使用された、今回の目玉となる絵画です。チーズを連想するような名前なので、初めて聞いてもすぐ覚えられそうですが、本名はフランチェスコ・マッツォーラといいます。

     
  ★ヴェチェッリオの「マグダラのマリア」 ★エル・グレコ「燃え木でロウソクを灯す少年」

 
              ★グイド・レーニ「アタランテとヒッポメネス」

上の絵の女性アタランテは、ギリシャ伝説に登場する俊足で狩りが得意な娘。
求婚者たちに、自分と競争することを強い、求婚者たちが負けると殺した。
ヒッポメネスはヴィーナスから黄金の林檎を3つもらい、アタランテに挑む。
走りながら林檎を一つずつ落とし、アタランテの気を散らそうとする。
アタランテは誘惑に負けて、その林檎を拾いながら走る。
そうしてヒッポメネスはアタランテに勝ち、求婚を成功させる。(web上より)

絵画には、ヒッポメネスの投げたリンゴをアタランテが拾う場面が描かれていますが、いくら伝説とは言え、そんなひどい物語ってあるんでしょうかね。

なぜそういう絵があるのか、理解に苦しむような血なまぐさい絵画もありました。二人の女が寝ている男の首を落す絵だなんて、だれがどう言う意図で画家に注文したのでしょう。もっと美術史を学ばないと判らないことだらけですが、見て楽しめれば、私はそれだけでいいかも、です。
全80点の絵画でしたが、思ったより早く出口に来てしまいました。会場内では3人バラバラで見ていたので、出口のところで待っていましたが、一人が全く現れません。で、ケータイを掛けたら、すでに常設展会場の中の人となっていました。

この4月に、ジョルジュ・ブラックの絵が一枚、常設展示に加わったとのことで、探しましたが、33×24cmほどの小さな絵だったので見過ごしてしまいそうでした。左がそれで、タイトルは《静物》。
家に飾るのにちょうどいい大きさだ、なんて思いましたね。
常設展の、19世紀の印象派の絵画は何度見ても飽きずにいいな、と思います。
又、新館2階の版画素描展示室にて「オノレ・ドーミエ版画展」も同時に開催中でした。19世紀フランスを代表する風刺画家ドーミエ。カリカチュール誌に掲載された40点のリトグラフ作品を見てきました。上にリンクを張った美術館HPでも、それらの作品が見られますので、よかったらどうぞ。

お昼のランチは上野広小路に出て、ビルの7~8階にある「厳選洋食・さくらい」へ。

日本の洋食が好きな友人のお勧めです。が、まさかハンバーグステーキをいただくとは思ってもいませんでした。
ここではこのデミグラスソース味を注文しなくてはね、と言うんです。確かに濃厚。
そしてパンかご飯か、ではなく、黙ってご飯が運ばれる所が洋食屋さんらしい。

友人の一人は、結婚後海外に移り住み、三人の子を育てている娘さんのところから帰ってきたばかり。彼女、同居の母親と一緒に行ってきたのですが、向こうで忙しく過したので帰国後熱を出してしまったとか。なのに母親のほうは次の日に、もうスポーツクラブへ行ったそうで、ビックリ仰天です。私の母親より少し上ですし、スポーツクラブに毎日通っているだなんて、考えられません。又、娘同士が同い年なのに、一方は三児の親、こっちは未だに独身を謳歌しているんですからね。別の友人は、産休をとっていた娘が働き始めるので孫の世話を買って出ているといいます。当分会えなくなる、と言っていましたが、保育園が決まったそうで、お迎えだけになったようです。娘たちも同様ですが、三人三様、性格も趣味もまるで違う昔の三人娘だからこそ、昔のままの気ままさで会えるのかもしれません。そして帰りはいつものようにうさぎ屋に寄り、ドラ焼きをお土産にしました。

これで終りにしたいところですが、先月、最終日の6月27日に「伊藤若冲・アナザーワールド」を見てきた、ということを付け加えたいと思います。これはカメリアさんとかぐやひめさんブログでご覧になった方もいらっしゃるでしょう。私も教えていただき、是非行って見たかったのですが、うっかり忘れそうになりました。

 

たまたま、申し込んでいた「若い芽のαコンサート」が同日、千葉県文化会館で開催。「若い芽」の一人は、以前バラのコンサートのときにフルートを演奏した沼田絵恋さんで、コンサートのことを知ったのも、そのときに彼女がお知らせしてくださったから。

もう一人も我が街出身の高校三年生生ギタリスト、岡本拓也君。そして岡本くんと同じ高三で、音大三年にも在学中の(そんなことが可能なんですね。)青木尚佳さんはバイオリニストです。

この三人の演奏のバックオーケストラはニューフィルハーモニーオーケストラ千葉。前途有望なミュージシャンの卵たち、なかなかいい味だしていました。ただ、私の席の後ろのおじさんのイビキが・・・とても気になったのですけどね。

コンサートのあと、市美術館まで行くのに徒歩では少し遠い、と言われましたが、健脚な?私にとってはたいしたことなかった、けど暑いのが参りました。途中「珈琲問屋」というお店があり、日曜日で静かな道路沿いなのに、店内は結構人で賑わっているではないですか。お客が多いのは美味しい、安い、という事。そこで出来合いのサンドイッチと珈琲をいただくことにしました。出来合いのサンドイッチのセロファンを取って、ホットサンドにしたのをお皿に入れて出してくれたのには感激。ちょっとしたサービスが人を呼ぶのですね、きっと。歩かなければ出会えなかったお店でした。

     

さて、この後美術館で、生涯描き続けたという若冲の水墨画が中心の展覧会を堪能しました。最終日の、あと二時間弱で閉館となるときでしたから、それなりに人は多かったですが、上野の美術館とは人の数は比べ物になりません。でも内容はとても充実していました。一枚一枚を丁寧に鑑賞出来たし、最後に駆けつけるだけの熱意のある鑑賞者が多かった気もしました。

 


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駒沢・深沢 歩け歩け

2010-07-06 | art/exhibit/museum

以前、この建物について書かれた記事を読み、一度行って見たいと思って切抜きを保管しておきました。そんな切り抜きなどの紙類が、狭いマンションの居室に増えていくので、行って見たい近場は一つ一つクリアして、紙類を無くそう、と思いました。それなのに、行った先で更に資料などを貰ってしまうので、一向にモノが減らないのです!
最近、死ぬ準備の勧め、のようなことが書かれていた本を読み、本当にそのとおりだと納得したものです。死ぬ、というとどうも縁起が悪そうですが、いつ死が訪れても後悔しないように生きる、という意味なので、老若関係なく一つの生き方として説得力がありました。
さて、この建物は駒沢大学旧図書館~耕雲館~です。1999年に都の歴史的建造物に認定され、その後開校120周年の記念事業の一環として、2002年に禅文化歴史博物館として保存・活用することになったそうです。「耕雲館」の名は、禅語「耕雲種月(雲を耕し、月に種を植えるように、高い理想を掲げ、着実に努力する意)」から採られたとのこと。
建物を設計したのは、旧新橋演舞場、銀座サッポロライオンビヤホールなどを手掛けた菅原榮蔵(1892-1968)。昭和3(1928)年に図書館として建設、使用されたそうです。
ここでは禅寺にある「鳴らしもの」を実際に手に持って慣らすことが出来ますし、写経コーナー(一ヶ所)も利用できます。
 
あとから一人で入って来たおばさんが、静かに鳴らすように、との注意書きを読んでないのか、次から次へと力まかせに鳴らすので頭が痛くなりました。
 
中央ホール上の照明がとてもレトロですてきですが、その下に金ぴか!の須弥壇と一仏両祖像(釈尊・道元禅師・瑩山禅師)が祀られていたのです。それがちょっと不釣合いな気がしないでもないのですが・・・。

「維新回天帖~幕末維新を駆け抜けた志士と禅僧~」という企画展では、達筆すぎてさっぱり読めない書簡類が展示され、ぐるりと一周しただけでしたが、西郷隆盛が書いたり受け取ったりした書簡もありました。最後に写経をして帰るつもりが、電球か何かがホール床に落下して、その清掃作業が始まったので断念しました。あのおばさんが思い切り音を出したから、そのはずみで落ちたのじゃないかしら?なんてね。

 

さて、そこから駒沢公園通りを次の目的地までウォーキング。公園入口付近の塀という塀が面白い絵で埋まっていました。その近くにオープンカフェスタイルのフレッシュネスバーガーを見つけ、ひと休みすることに。

ここのハンバーガー、だ~い好きです。中味が溢れるほどで食べにくいのですが、デカ口開けて思いっきり喰らいつくと上手くいきます。通り沿いではペットショップがやたら目に付き、犬の散歩をしている人の多いこと。そのためにペット同伴OKスタイルのハンバーガーショップにしているんでしょう。

駒沢公園の近くには知人が住んでいたので何回も来ていましたが、その先を歩くのは恐らく初めて。地図を見ながら新しく出来たギャラリーへ。周りは高級住宅街。人の姿が見えず、看板も目立たず、通り過ぎてしまいそうでした。

而今禾
Jikonka TOKYO
世田谷区深沢7-15-6
open 11:00ー18:00
closed 水・木


玄関前にはこんな方々からの開店祝いの花やアレンジが飾ってありました。
靴を脱いで、スリッパに履き替えて、拝見したものは・・・

2005年に他界された陶芸家の、炎を感じるようなどっしりした作品群でした。時々拝見している藤野在住の方のブログでこの展示会を知ったのですが、耕雲館から少し遠いけど、徒歩で行ける範囲だと思い、立ち寄る気になった次第です。
入り口もこの部屋も、たぶん、たまたまだったのでしょうが 人の姿がなく、作品の紹介文のようなのも見当たらないのでちょっと困惑しました。まるで誰か知らない人の家に侵入しちゃったような気分でしたが、確かにこの古家具の上の展示物が青木氏の作品なんだと自分に言い聞かせました。数は少ないけどすばらしかったです!

 

何の案内も書かれていない階段を恐る恐る上って行き、やっと人と出会いました。上の2フロアーは焼き物と天然素材ウェアーのショップとなっています。深沢の閑静な住宅街の新築風一軒家をギャラリーにするだなんて贅沢~だけど素敵です。



ここで気に入ったのはメイド イン イスラエルのサボ。もう少しで購入するところでしたが、迷った末、今回は我慢することに。わが家の靴箱を少し整理してからにしましょう。

   
帰り道、深沢の住宅街を桜新町に向かって歩いていたら、中学時代、クラスメートの家に行ったことを思い出しました。ウン十年前のことですから、あたりの様子もすっかり変わり、「サザエさん通り」なんて勿論ありませんでした。彼女の和風な家の、廊下に面した畳の部屋で、向き合って仲直りをしたんだったな~。喧嘩ではなく、思い違いによってギクシャクした関係になっていたのでしたが・・・。
いや~懐かしい!まさにサザエさんの全盛期だったかしら。いや、も少し後かな。(サバ読んでいるんでなくって、記憶が遠のいています・・涙

レンガの箱のような建物が長谷川町子美術館。
世田谷区とこの建物とサザエさんがどうも一致しないんですけど。

一週間以上も前のことになり、ギャラリーでの展示も今日が最終日。興味を持たれた方にはご免なさい。すぐあとに別の企画があるようです。
先月下旬に行った美術館のことも、Wカップ観戦が続いたので未だ投稿できないでいますが、毎度ながらマイペースで行くことにしますね。

  

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山本丘人展

2010-06-17 | art/exhibit/museum

梅雨入りしたにしては、あれっ、と思うような真夏日が続き、家の中に居ては勿体ない気分が後押しし、先日見損なった、生誕110周年記念「山本丘人展」を見に行って来ました。会場はガランと空いていて、私もほぼ初めてじっくりと見る画家だったので、《そういうことなのか》と頷けました。でも、思っていたより彼の人となりが興味深く、才能如何によっては画家ではなく、詩人の道を選んだんだ、と思うと、絵を上手い下手かで見るより、そこで何を感じ、何を表わしたかったか、と考えながら見れて、結構面白かったです。

 
     「婦人坐像」(青梅)1922年           「満月夜」1963年

私のお気に入りは「婦人坐像」の下絵の方でした。なぜかというと、私の祖母によく似ていたんですもの!父が7才位の時に亡くなったので、写真でしか知りませんし、あの頃の女性はこのような髪型が多かったのだと思います。

 山本丘人(1900-1986)

幻想的な幽玄の世界、美しく華やかな叙情の世界、荒く厳しい峻厳の世界、
いろいろな世界を日本画の世界に乗せて描いてくれた山本丘人(きゅうじん,
本名正義)は明治33年(1900)1月8日、東京市麻生で生まれました。(戸籍で
は4.15下谷) 父は東京音楽学校の事務官です。

広瀬東畝・篠田柏邦に日本画の手ほどきを受け、東京美術学校(現東京芸術
大学)で学び、美術学校では松岡映丘の指導を受けました。28歳で帝展に
初入選、30歳の時に丘人の号を定めます。むろん「丘」の字は師の名前か
ら一字拝借したもの。

戦時中の1943年東山魁夷らと国土会結成、翌年東京美術学校助教授、1946
年日展審査員(-1947)、1947年女子美術専門学校(現女子美術大学)教授。
しかし、1951年には両校の教職を辞し、創作活動に専念しています。

日展に関しては審査員にはなったものの、その審査基準に疑念を抱きこれ
が1948年に上村松篁らと創造美術を結成するきっかけとなります。この団
体は1951年に新制作派協会に吸収されますが、1974年になってから再び
創画会として独立しています。

丘人は初期の頃は少女絵を好み、柔らかい優しいタッチでロマンティック
な作品を描いています。しかし終戦の少し前頃から奥多摩の自然を盛んに
描くようになり、1950年代に入ってからは一転して厳しい山岳の絵ばかり
描くようになりました。

特に1957年頃北軽井沢に山荘を構えると、そこから見える浅間山をはじめ
多くの信州の山々など峻厳な山岳絵を描き続けました。そして、そういう
絵を描く画家と、みんなが思い始めた1965年頃、突然有情回帰が起きます。

山や林の絵の中に人物が描かれるようになり、やがてそれは夢幻の境地と
なって幻想的なまでの美しさに昇華されていきます。

1984年12月に病に倒れるまで意欲的な創作活動を続けましたが、療養中の
1986年2月10日、急性心不全で死去。享年86歳。(webより)

この日は他に数ヶ所、寄りたいところがあったのに、暑さでダウン。
その一ヶ所が偶然、丘人の(戸籍上
)出生地、上野桜木だったのです。月末に友人と上野で会う約束があるんですが、人と一緒だとあちこち個人的な寄り道が出来ないんですよね・・・。一つ位ならお願い出来るでしょうけど。

ひと休みみしようとデパートの屋上に出たら、いつものベーグルカフェがビアホールになっていました。一人でビールを頼む勇気はありませんでしたので、コーヒーと出来あいのサンドイッチを注文。コーヒーも紙コップなので、それなりのお値段です。屋上はデパオクっていうのでしょうかね?
ちょうど正面に人が居なかったので写真を撮っちゃいましたが、左右後ろには人々が、いい気分でビールを飲んでいました。ここは気軽さの点では穴場だと思いました。



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細川護煕展

2010-06-12 | art/exhibit/museum

   
西葛西のI眼科に行った帰りは、用事で日本橋のデパートへ。
眩しい日差しの下、橋のたもとのところで何人かの中高年グループが写生に励んでいました。地域のお祭りも始まったようです。どことなく聞こえてくるピーヒャラの音色と提灯などで、あたりは和の雰囲気が流れているように感じられました。ちなみにこのお祭りは橋の手前(東京駅側)のもので、日枝神社の氏子地域による
山王祭です。日枝神社といえば赤坂と思っていましたが、広範囲の地域を巻き込んでのお祭りなんですね。提灯に書かれた企業名はさすが都心。日本橋を渡った先は神田明神の氏子地域なので、お祭りの時期が異なります。

用事を済ませたあと、細川護煕展を覗いて来ました。
政界を60歳で引退してからは、(元々は母方の祖父、近衛文麿が保養のために建てたという)湯河原の不東庵で、晴耕雨読の生活を行っている細川家のお殿様。この展覧会を通して、細川氏の生き方にとても感銘を受けました。

先月エルメスでの「市井の山居」展でも、細川氏の様々な分野の作品を目にしましたが、パリ展開催を記念しての今回の展覧会で、更に多くの陶芸、書、漆などの作品 約120点を拝見し、「殿様の趣味」の域を越えたそれら作品群に見入ってしまいました。陶芸も志野、唐津、信楽、高麗など、現地から良質の土を取り寄せるなどして、より良いモノ作りを追求、実践されていますし、花器、茶椀や水差などの茶道具のほか、陶仏や狛犬なども、(たとえお手本の作品をもとにしたとしても)よく出来た、味わいのあるものでした。焼物に花を添えていたのは草月流などの生け花。「書」においては古典や漢詩、和歌などの中からご自身の好きなものを書き写しているそうですが、読んでいてとても気持ちのいい字体だなぁと思いました。さりげなく上手いんです。そして書の内容も、氏の思いが表われている様でよかったです。

 《黒茶碗》2008年
細川氏が目指しているのは桃山の陶工、初代・長次郎の楽茶碗だそうです。会場で流している映像でも、漆黒の深さを追求し、工夫を重ねている姿がありました。

美的センス、冨と名声に恵まれ、それを最大限に生かし切っているイメージの細川氏でしたが、展覧会を観覧後、
 無慾一切足(欲無ければ一切足り)
 有求萬事窮(求むる有れば万事窮す)の
良寛の生き方や、兼好、長明、西行、大雅、道元など、気高く生きた先達に思いを馳せ、そのような人たちを見習いたいと思っている、一人の修行僧のような姿に変わっていきました。
出口のところに展覧会にちなんだ物品が売られていましたが、何冊もの著作をパラパラ捲っていたら一冊読んで見たくなり、「跡無き工夫~削ぎ落とした生き方~」と言う本を購入。帯の裏側の「終章」から抜粋されたこのような文章に引かれたから。

 

 

 

 私は、政治家時代が「主」の人生で、リタイアしてからを「余り」の人生と考えたことはないのです。(ここで中略ですが、略さずに記述します)
「今日という日をどう充実させて緊密に生きるか」ということを、今も毎日真剣にかんがえつづけています。いえ、残り少なくなった時間だからこそ、その時間をできるだけ自分にとって大事なことに費やしたいと考え、そのためには何をなすべきで、何をなさざるべきかに思いをめぐらしています。

もう一つ、書物の中に島崎藤村の「千曲川旅情の歌」の詩句が紹介されていました。それには「昨日またかくてありけり  今日もまたかくてありなむ ・・・」から始まっていましたが、「小諸なる古城のほとり・・・」で始まる詩句の、そのあとに続く内容をしみじみと読んだのは初めてだということに気が付き、あちらこちらに素晴らしいものが転がっているというのに、なんとなく見過ごしているほうが多いんだな、と気付きました。 細川護煕

 

 

 

 【不東庵創作の軌跡~細川護煕展~スケジュール】

  日本橋三越 2010年6月 2日(水)~14日(月) 新館7階ギャラリー
  仙台三越  2010年8月12日(木)~17日(火) 7階催物会場
  福岡三越  2010年9月 7日(火)~12日(日) 9階三越ギャラリー
  札幌三越  2010年9月21日(火)~27日(月) 10階特別会場

本当は近くのデパートで開催中の、もう一つの美術展にも寄る予定でしたが、手荷物が次第と重く感じてきたし、目も疲れたので次回に回しました。なのに遅いお昼は5階のスウィングで。スポーツ用品売り場の奥の、昔ながらのどうってことないつくりがかえって落ち着きます。昔は前がガラス張りで、ハワイアンやダンスなど、友の会サークルの練習風景が見れたんですけど、今はただの壁。リニューアルされてもおかしくない古さなのに・・・そのままにしてほしい気もします。

  

日本橋は、祭りだ、祭りだ~!
そして世界は、
 サッカーワールドカップ2010  
南アフリカ大会開催だ~!

ガンバレ、日本!!
ガンバレ、ブラジル!!

 


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フランク・ブラングィン展

2010-04-19 | art/exhibit/museum


松方コレクションがベースとなって1959年に設立された国立西洋美術館。
その
松方幸次郎(1866-1950)とフランク・ブラングィン(1867-1956)は、コレクターと画家という立場以上の親密な関係だった、ということにとても興味を持ちました。

この展覧会は、国立西洋美術館開館50周年記念事業の一つであり、サブタイトルを「伝説の英国人画家-松方コレクション誕生の物語」と謳っています。松方幸次郎との関係を軸にして ブラングィンの作品を日本に紹介する 初めての企画展とのことで、123点の作品が展観。鮮やかな色彩の絵画だけでなく、ポスター、版画、デザイン画、陶器、家具など、その多才な芸術家ぶりは目を見張るほどでした。が、実をいいますと、ブラングィンの名前も絵も私にとって初めて見聞きしたのです。
「松方幸次郎の肖像画」は、その場で一時間ほどで描きあげたものだそうですが、バックに花を描き華やかな作品に仕立てています。ウィリアム・モリスの工房で働いたこともあり、アーツ・アンド・クラフツ運動にも傾倒していただけあり、装飾デザインはお手のもの。

夏目漱石の「それから」にも作品が登場している、とのことでしたが、漱石がロンドン滞在中に何らかの接点があったのでしょうか。 二人は同い年でしたから。

・・・・・仕舞に本棚の中から、大きな画帖を出して来て、膝のうえに広げて、
繰り始めた。けれども、それも、ただ指の先で順々に開けているだけであった。
一つ画を半分とは味わっていられなかった。やがてブランギンのところへ来た。
代助は平生からこの装飾画家に多大の興味をもっていた。
彼の眼は常のごとく輝きを帯びて、一度はその上に落ちた。
それはどこかの港の図であった。背景に船と檣(ほばしら)と帆を大きく描いて、
その余った所に、際だって花やかな空の雲と、蒼黒い水の色をあらわした前に、
裸体の労働者が四、五人いた。代助はこれらの男性の、山のごとくに怒らした
筋肉の張り具合や、彼らの肩から背へかけて、肉塊と肉塊が落ち合って、その間
に渦のような谷をつくっている模様を見て、そこにしばらく肉の力の快感を認め
たが、やがて、画帖を開けたまま、眼を放して耳を立てた。・・・・・
 
(「それから」より抜粋) 

      
                                 海賊バカニーア


ブラングィンの絵には造船所や労働者が多く見受けられましたが、その点においても川崎造船所(現 川崎重工業)の初代社長だった松方幸次郎とはきっと 意気投合したことでしょう。

鮮やかな色彩
の印象が強いのですが、初期の頃はモノクロっぽいモノも多く、年代によって作風の変化がはっきりと見てとれます。    
                          
特に興味深かったのはブラングィンの原画を日本人の彫り・摺り師、漆原由次郎によって版画にした作品群でした。(この二枚の絵葉書を求めました。)
      
               アルビの古い橋(エッチング)

      

              ローレンス・ヴィニョンによる詩 詩画集「ブリュージュ」
            ブリュージュのプレディクヘレン橋(多色木版)


又、関東大震災と、その後の金融危機がなければ、松方の夢であった「共楽美術館」の建設計画が実現していたと知り、残念に思いました。美術館用の土地も、二の橋から愛育病院方面へ続く“麻布仙台坂”に用意してあったそうなんです!惜しかった~!

      松方に蒐集のきっかけを与え、その指南役となったのが
      画家フランク・ブラングィン。
      造船所や労働者を描いたブラングィンの絵画に魅せられた
      松方はその作品を次々と購入し、ついにはコレクションを
      公開するための美術館、「共楽美術館」のデザインを
      ブラングィンに託します。関東大震災後の経済危機により
      美術館は建設されませんでしたが、実現すればそこには
      ブラングィンの作品が総合的に展覧されるはずでした。
                        (美術館HPより)


背後に別館を配した美術館の俯瞰図

同時開催の 「所蔵水彩・素描展ー松方コレクションとその後」も見たかったのですが、すでに時間切れとなりました。 

 

★遅すぎですが、No Man's Land(3)をupしました★

 


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大観と栖鳳展

2010-03-18 | art/exhibit/museum

・・・前回ブログの続きです。気の効いたタイトル名が浮かばず、とりあえず打ち入れていたつまらないタイトルのまま投稿してしまった前回。今回も・・ひらめきませ~ん。

広尾に移転した山種美術館を訪れたのは二回目ですが、毎回ごとにすでに目にした絵と出会います。貸し出された先で見たのものも含めると、その数は増えるいっぽう。又、同じ絵が・・・ではなくて、お久しぶり~と言いたい気持ちになります。以前も同じことを呟いたかしらね。この日もそのような絵が何点もありました。

 開館記念特別展Ⅲ
 大観と栖鳳 ~東西の日本画~

「東の大観、西の栖鳳」と言われ、常に対比されることが多かったという横山大観と竹内栖鳳の作品はそれぞれ10点ずつあり、見応え充分でした。

栖鳳の絵をこれだけまとめて見たのは初めてで、ポスターにも使われている「斑猫」ーはんびょうー(重要文化財)は、以前見たときよりも印象的でしたし、改めて彼の筆使いの上手さに見とれました。「斑猫」以外の作品もすごくよかったです。

大観は全長17m余の「燕山の巻」と、14m余の「楚水の巻」の二大絵巻が全編公開。二年前に国立新美術館での展覧会で見た、全長40mにも及ぶ絵巻《生々流転》を思い浮かべましたが、上記二つの絵巻はそれより約13年前、中国滞在後に描かれたものだそうです。

今回は大観と栖鳳以外に、東西画壇から何人もの画家の作品が展観。総数56点でした。
東京画壇:橋本雅邦、下村観山、菱田春草、小林古径、安田靭彦、前田青邨など。
京都画壇:菊池契月、上村松園、西村五雲、村上華岳、福田平八郎など。
なんだか・・・「東西名匠老舗の会」みたいですね。

村上華岳の「
裸婦図」、鏑木清方の「伽羅」、上村松園の「春芳」など、一度見たら忘れられなくなる美人画も展示されていましたが、どうして皆が皆、こうも古風で艶やかなんでしょ。絵の中の人物は決して年とらないんですよね。

私がまだ独身時代のとき、知り合いだった画家から頼まれて、イヤだったけど一度だけ絵のモデルになったことがあります。もちろん「美人画」からはかけ離れているのは言わずと知れたこと。
貧乏画家だったHさんは、私の父が、とある仕事を援助のようなかたちで頼んだら、そのお礼に娘である私の肖像を描いて差し上げたい、と言ってきたのです。日本で美術の先生をしていたそうで、ひょんなことから渡伯し、知り合いの又知り合いとして自然と顔見知りになりました。マッシュルームカットの、情熱的で人のいい楽しい方でした。画材を選ばず何にでも描いてしまう彼が描いた「私」は、新聞紙のように薄っぺらな紙に
パステルで仕上げたもの。それを額仕立てにして父に、と持って来て下さったのです。ちっとも艶っぽくはないけどマシに仕上げてくれましたよ。で、その絵を帰国する際、持って帰ろうかどうしようか迷いました。持って行くなら中の絵だけにしようと決め、額からはがしたところ、パラパラとパステルが剥がれ、見るも無残なかたちになってしまいました。結局破棄しましたが、今思うと、その絵の写真を撮っておけばよかった!
商売に向かないHさんのことを、美人画 → モデル → 私、に続き、つい頭に思い浮かべてしまいました。一昨年だったか、夫が渡伯したときに聞いてきた話ですが、何年か前にむこうでお亡くなりになったそうで、そのときの手持ち金が皆無に等しかったので、友人知人たちが出し合ってなんとかお葬式をすることが出来た、というのです。当初はとてもショックを受けましたが、良く考えて見ると、それは充分あり得たことだし、彼らしい最後だったかもしれない、との思いに到りました。

さて、そろそろ選抜高校野球も始まりますね。本当は明日から・・・って書きたいのに、最初の投稿日時のままupしますのでちょっと苦しいところです。こちらも東西対決ですが、初出場の東海大望洋を応援しましょうっと。たった一人で奮闘しているマネージャー平山翔子さんにもエールを送りたいです。
25日9時。対戦相手は なんと、大阪桐蔭! ファイト~~!!

  

 


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猫・ネコ・ねこ

2010-03-13 | art/exhibit/museum

  

金曜日は日本橋での用事のあと、三越で開催中の「ねこ ~岩合光昭写真展~」を見てきました。動物なら割と何でも好き。犬派とかネコ派とか、どちらか一方に属することはあり得ません。ただネコが犬と違うのは表情の豊かさともいうのかな。冷静で、人を小馬鹿にしたような仕草をしたり、人や犬をからかったり、甘えたり知らん振りしたり、とぼけたり・・・。昔飼っていた猫をつい思い出してしまいます。「人がネコを飼う」というより、その逆かもしれない、と岩合さんは感じているんですが、その仕草は見ていて飽きないんですよね。

「猫撫で声」とか「化け猫」「招き猫」「猫の恩返し」などなど、猫は百変化して人の生活に密着しているような気がします。忠実な犬のイメージとはかけ離れたひょうきんさが、写真になるんですね。会場に入るや、最後まで私の頬はゆるみっ放しでした。

期日が15日までなので、取り急ぎブログupいたします。下の二枚の写真は入口の壁面です。猫の写真を持参すると入場料が200円引きなんですって。それらの写真です。

         

  

  

■岩合光昭 略歴
1950年東京生まれ。
19歳のとき訪れたガラパゴス諸島の自然の驚異に圧倒され、動物写真家としての道を歩み始める。以来、地球上のあらゆる地域をフィールドに大自然と野生動物を撮り続けている。一方で身近なイヌやネコの撮影も継続し、多くの人々を魅了している。近年は、地球環境の急激な変化と影響を自身の目で見つめ、数多くのメディアで伝えている。主な著書に「ホッキョクグマ」「ニッポンの犬」「ニッポンの猫」「地球動物記」「パンダ」「ネコ立ちあがる」「ちょっとオランウータン」などがある。
Digital Iwago


  


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No Man's Land〈3〉

2010-03-08 | art/exhibit/museum

 パフォーマンスのあとは 建物内の見落とした場所を行ったり来たりと、適当に歩き回りました。同じテーマでのブログ投稿も三回目になり、見て回った順番が狂ってきています。ま、そんなことは几帳面に考えず、残りの画像を見て頂く事にしますね。って、見てくれる人、いるかなぁ。


    事務室の一つがアーティストのアトリエに?    
  

107号室は、中島崇氏の美しさと醜さ」 ←ネット上で動画を見つけました!
数回通って、作品がどのように変化していったかを見たかったです。

       
  
       

キッチン(給湯室)も、粘土で塗りたくられて・・・
「大使館敷地内の土を粘土に混ぜ、物が削れていき徐々に消えてゆくさまを見せる」
とのこと。建物も粘土のキッチンも共に消滅する運命共同体だ。
保科晶子さんの作品(1971年生まれ、パリ、東京在住)



   ェフ・アエロソルの作品です。
   

赤・黒・白の三色使いのこれらの絵があちこちで目に入ってきました
エアゾールと勘違いしちゃうような名前ですが、有名な方なんですね。女の子の絵の前に置かれたタイプライターにも彼の名前がばっちり。

若かりしころのスタイル抜群なBBは映画史上に名を残す一人だけあり、キュートですね~。ソフィア・ローレン共々、私の大好きな女優でした。

   坂雅子 & アンドリュー・バラスキー
         《最後の桜の木》→
     
ある部屋の棚には、無造作に古い書類や事務用品などが置かれ、それがまた、色とりどりの作品を引き立たせるんですよね。不要なので置きっぱなしなのか、演出なのか、その辺はどうなんでしょう。

  
    
        
           
  
(裁縫)→ 再縫 → Re Sew な~るほど。作品よりタイトルに感心。
  

 
   
ドアも壁もフランス色のイラストが賑やかに描かれていますが、とてもお洒落だ~と思った作品です。
アーティストの名前が判らないんですが、そのうちカタログが書店で販売されるようですので、そのときに調べるしかないです。

すべてがシルバーに塗られた執務室は、オフィス系ショールームのよう。

                

上は、私がとても気に入った作品です。壁の線を追っていくと・・・。

                 
        絵の続きを線でぐるりと繋げたかったのでしょうか。

このあと別館に移動しました。

閉館の迫った6時少し前、外はすでに薄暗く、片付けを始めているところや、誰もいない部屋も多くなりました。全ての部屋をみて回るには時間が足りない、というか、見ている内に時間切れになってしまったけど、人がいる限り大丈夫かな、と思い、とりあえず急ぎ足で屋上まで。
 
急いでドア越しから覗くだけ、のつもりでも、気になったものにカメラを向けている私です。 


                    オレンジ色のリュックがキュート!

 

このベアを作ったのはファンタジスタ歌麿呂さん。男性です。テキスタイルのほか、マンガやアニメ、映像などを手掛けているようです。会場にいらしたので少しお話しましたがHPの中の写真のようではなく、普通の格好をした感じのいい方でした。

  

   
                    螺旋階段の上部が何とも言えず美しい。

  

まるでオバケ屋敷に紛れ込んだような階段。

上まで行くと暗い部屋へと続きます。
もう閉館なので暗いのかしら、と、ちょっぴり怖かったけど、よく目を凝らすと、床や壁に墨絵のように模様が描かれていました。


     
   

そして最後は青く塗られた部屋。  

入った途端アッと驚かされたこの部屋は、もと図書館だったそうです。
青の上に迸る白いペンキ。
この空間を創り出したのは、フランス人建築家 Richard Bliah(リシャール・ブリア)。


フランス国旗のかわりに掲げられていた旗は、 
Asami(アサミ)の「All World Flag」。1982年生まれの方です。
「No man's landとはすべての国籍の人々に開かれた土地」との考えを表現。

     

若い感性を全身に浴びたせいか、元気いっぱいイキイキした一日でした。
現代アートもなかなか良いモンですね。 

最後に・・・・出口を出たところで、こんな張り紙が。
跡地にプラウドのマンションが出来るんですって~。


 Albert Abut
Cécile Andrieu
Asamï
Agathe de Bailliencourt
Masako Ban
Richard Bliah
Christian Boltanski
Lilian Bourgeat
Christophe Brunquell
Nicolas Buffe
c.r.c
Philippe Chatelain
Contrapuntal
Peter Cook
Alexa Daerr
Alice Daquet
Sarah Dolatabadi
Yuumi Domoto
Erkiletlian Romain
Pierre Filliquet
Audrey Fondecave
Monique Frydman
Nobuhiro FukuiEmmanuel Guillaud
HanayoHIROMIX
Akiko Hoshina
J.Jo
Jef Aerosol
Bernard Joisten
Jules Julien
Kare-San-Sui Surrounding
Kengo Kito
Ai Kitahara
Kosei Komatsu
Anne Leigniel
Guillaume Leingre
Claude Lévêque
Julien Levy
M. Chat
Matthieu Manche
Erina Matsui
Harutaka Matsumoto
Mathieu Mercier
Seiji Mido
MIKAN
Shintaro Miyake
Manika Nagare
Takashi Nakajima
Shunsuke François Nanjo
Gwenael Nicolas
Hiroko Okada
Andrew Palaski
Frank le Petit
Aurélie Pétrel
Sabine Pigalle
Plaplax
Pierre la Police
Psykoze
REBIRTH PROJECT
Lucille Reyboz / Hitomi Fujiwara
Georges Rousse
SANAA
Shun Sasa
Speedy Graphito
Kishio Suga
Kouichi Tabata
Mayumi Terada
Kimio Tsuchiya
Christophe Valéry
Julien Védrine
Jean Luc Vilmouth
Shingo Yoshida
Yoshino Shotaro


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破壊前のアートイベント2

2010-02-20 | art/exhibit/museum

 

「赤い服の女」のところに直行したかったけど、大使の旧執務室が自由に見れるとのことなので、もう少し本館内を見てからにする。

階段途中のネオンサイン「鼻血」。去年のベネチア・ビエンナーレでフランス代表だったクロード・レベックの作品とのこと。日本人の男の子に書いてもらった字をもとにしているという。何を表現したかったんだろう。ほぼ縦と横のせんが組み合わさって出来ている漢字が、外人にとっては絵のように面白く感じるのかしら。

プログラムを持っていないので、部屋の入口に小さい字で書かれた解説を読もうとしても、近眼ではいちいちメガネを外さなくてはならず、面倒。だいいち若者の多い会場で、その都度メガネを取り外しながら目を近づけて読んでいるbiancaの姿が許せな~い!

廊下の両壁には歴代大使?のコラージュというか、破いた写真というか、がベタベタと続く。こんな覗き穴があったりするし、ドアに書かれた字に気をとられてつい覗いたりしながら奥へと進む。                  
廊下の一番奥のその部屋はガラ~ンとして、真ん中にオードリー・フォンドゥカヴ(仏)の大きな絵が一つだけ立てかけてあった。窓の外の緑を間近で眺められる大使の旧執務室って、どんな風だったのかな。彼女の描いた絵本が数冊、棚に置かれていました。 

ジュール・ジョリアン(仏)
壁一面トリコロールと日の丸で埋まった部屋。まてよ~、日本の国旗をトリコロールの白として使っているんだった!
          

         モニク・フリードマン(仏)
              

        松井えり菜の部屋。        
           
ユニークなオブジェがいっぱい。
かわいいようでいて何やら不気味。
レースペーパーのシルエットをフローリングの床や壁に写したり、消しゴムカスをそのまま床に残したり。どんな方なんだろう・・とHPを探したら、まだ若い院生でした。



           

リリアン・ブルジャ(仏)
紙を丸めてバスケットボードに入れよう!事務室がバスケットルームにヘンシ~ン。
  

           窓ガラスだってこのとおりオシャレ~。
       

内から更に外を覗いているうち、建物を破壊してほしくなくなった!


マチュー・マンシュ(仏)のアニメ的白と黒の世界。日本在住というだけある。

 

大使の執務室窓からも見えたこのオブジェ、管の中を物体が上下へ行ったり来たりしていた。
        

赤い葉で覆われているのは、鳥小屋?

         前方右にある別館の屋上に見えるのはなんだろう?      
          

緑多いこの広い敷地は、1923年の関東大震災により飯田町にあった公邸が焼失した後、1929年に徳川伯爵家より購入したものだそうで、当時の仏大使はなんと、あのカミーユ・クローデルの弟、ポール・クローデルだったそうだ!その後1952年、ジョゼフ・ベルモン(当時24才)が設計した建物は、半世紀後の今回のイベント後に消滅する運命となる。そう考えるとこのイベントはまさにお葬式の前夜祭のようなもの。

下は、三階の窓から二階の庭を見下ろしたところ。何かがはじまる気配。実際、フィナーレを飾るパフォーマンスがここにある吉野祥太郎氏の作品の前で行われたが、私はそのころ別館にいたので見損なった。残念!

 

さて、お待たせお待たせ~。一階の広場で始まっていたパフォーマンスにカオを突っ込んできました。枯山水サラウンディングによる、舞踏家吉本大輔ほか女性二名のパフォーマンス。吉本氏は土方巽や大野一雄の同時代の方のようです。

  

中庭の桜の木も赤いひもが巻き付けられて
いたけど、あれは一つのアートらしい。

こういった一連のパフォーマンスが舞踏と
言えるのか良く解らないが、次に何が起
こるか・・・予期せぬ出来事を期待しつつ
一つ一つの体の動きに見とれてしまう。





   

階段を昇り中庭まで、じわりと狂気を秘めた三人の、激しくも静かな動作が続く。音楽が奏でられている庭で、壁に隠れるようにして着物を脱ぎ捨てる男性。ジッと見守っている見物人。ほぼ全裸に等しい男性の体は年齢を感じざるを得ず、ちょっと痛ましい気もした。痛ましいけど、余分な贅肉のない体は美しいといえるかもしれない。
  

 
      
 
説明のなにもないパフォーマンス。どう解釈していいか判らないけど面白い。動く現代アートと思えばいいのか。ズケズケとまん前に構えてデジカメを向けていたbianca。あとでその姿を客観的に考えたら恥ずかしくなった。誰かのカメラに写っちゃっていたりして。うゎ~いやだぁ!
(こっそり続く)
  

 


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