十一月八日(月) 晴
観たいテレビを予約したり、図書館から本をしこたま借りてきたものの、どうもそれらを消化できそうもありません。よくよく考えたら、いえ別によくよく考えなくとも当たり前の話です。観たいテレビが重複していたり、かみさんと競合したにすると即録画します。しかし普段観たいテレビは厳然とあるわけですし、それを観たりしていたら録画したのがなかなか再生できません。
その間には本も読みたいし、散歩もしなくてはならぬし、勿論三度の食事もちゃんと摂らなくてはならないのですから、これで老人暇があるようでなかなか忙しいところがあるものです。
そうでした、他にもブログを読ませていただいたり、コメントを入れたり、肝心のブログを更新したりと、やはり暇があるようでないものと実感いたします。
年寄りの究極の贅沢として小生、いの一番に上げたいのが晴耕雨読の境地ですが、これがなかなか難しいです。天気が良ければ「一寸水戸まで出かけてみますか」と娑婆っ気たっぷりにニヤニヤ致します。雨が降れば降るで、「草取りも出来ないな今日は」なんて何にするでもなく、ごろごろしてテレビを観たりと、どうも最近締まらない生活態度に落ち入ってしまいます。
いつ頃からでしょうか、どうも考えますに、喜寿を迎えたあたりから生きる気合いといいますか、針路が波間に隠れしてしまったようなのです。今はあと二年弱で八十才、今さら人生の目的とか、ましてや向上心なんて抱けるわけでもなし、ただただ朝夕をこれ繰り返すだけの、惰性一途の日常にはまってしまっているのです。日々これ惰性で生きている。いけません。人間幾つになっても初心忘れることなく、日々これ精進。分かっているのですが、肌つやの老化とともに、精神のほうもたがが弛むというか、皺々になってしまっているようです。
それに人間、こう気持が萎えてきますと、こうした生活態度が実に気楽でして、自然とこんな心境が住み心地よくなるのではないでしょうか。
貧すれば鈍する、これ経済的な面だけでなく、精神的な面にもどうやら当てはまるようです。気合いを入れてこうした気持のあり様から、一刻も早く脱却せねばと反省はしているのです。どうやら小生、老いたさまよう羊のようです。
蛇足
保育所に勤める孫が、どんぐりが必要と言うので、散歩のコースの林の中に一杯落ちているからと、かみさんと拾ってきました。何に使うのかと精しくは聞いておりません。