自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

幕末の苦悩~体制内変革・阿部正弘と尊王攘夷・徳川斉昭(1)

2018-08-08 21:05:56 | 自然と人為

 幕末は薩長の討幕運動を中心にした大河ドラマが多いが、その外側からの破壊ではなく、責任ある内側からの幕府改革には忍耐と将来への責任が伴う。阿部正弘は若くして25歳で老中、27歳にして老中首座と幕府の要人となったが、ペリー来航を始め諸外国からの開国要求に対して、幕藩体制をどう維持、変革して対応したのであろうか。
  
 NHK番組「英雄たちの選択:阿部正弘 開国不屈の外交戦略(動画)」では、18歳で福山藩主となった聡明な阿部正弘が、全国で30万人もの死者を出した天保の大飢饉で蓄えていた米を放出し、領内に一人も餓死者を出さなかったことについて、「菅波信道一代記」を引用し、城に向かって感謝を捧げる農民たちの画と「上様は飢餓を憐れんで米を与えてくださった。」という記録を紹介している。藩主となったばかりの阿部正弘は1837年、最初で最後の福山の国許入りをし領民を助けた。

  
  
  
  
 明治維新の敗者となった幕府方の仕事は歴史の表舞台から消され、薩長連合、ことに西郷隆盛と坂本龍馬がヒーローとなっている。阿部正弘も福山藩主と紹介されているが、徳川幕府の重臣として江戸に住み、阿部家も5代藩主阿部正邦が7代福山藩主として転封されるまでは、関東で家康の家臣として、また領民のために働いていた。13代福山藩主となった阿部正弘も、藩主となってすぐの1837年に一度だけ福山に帰っているだけであり、領民にもあまり知られていない。ここでは、阿部正弘の生涯について調べてみた。ことに諸外国と開国した経緯を調べるとともに、幕府内の対立に阿部正弘はどう対応したのか、ペリー来航に際して海防参与として幕政に関わった水戸藩主徳川斉昭が、水戸学の立場から尊王攘夷論を主張したこととの関係についても調べて見た。
 参考: 阿部正弘と幕末の始まり
      「作られた歴史」
      阿部正弘は偉人か、無能な老中か(1)(2)(3)(4)(5)
      福山城-ペルー来航から日米修好通商条約交渉まで
      英雄たちの選択:無念なり!悲運の大老~井伊直弼・開国への決断~(動画)

1.阿部正弘・第13代福山藩主になる 
 阿部正弘第11代藩主阿部正精(あべまさきよ)の五男として江戸西の丸屋敷で生まれた。阿部正精は30歳で家督を相続し、襲封から半年も経たない1804年に奏者番に就任し、同年寺社奉行を兼任する。その後、病を患い寺社奉行を辞任するが1810年に再任された。
 当時の将軍・徳川家斉は1787年に15歳で第11代将軍に就任していたが、家斉が成長するまでの代繋ぎとして家斉と共に第11代将軍に目されていた松平定信が老中首座に任命され、家治時代に権勢を振るった田沼意次は家治の死により罷免されていた。この定信が主導した政策を寛政の改革と呼ぶ。寛政の改革では積極的に幕府財政の建て直しが図られたが、厳格過ぎたため次第に家斉や他の幕府上層部から批判が起こり、家斉と定信は対立するようになった。1793年、家斉は定信を罷免し、定信の元で幕政に携わってきた松平信明を老中首座に任命した。1817年、松平信明が没すると、将軍徳川家斉は密かに幕閣改造を企てる。まず側近の水野忠成を側用人兼務のまま老中格に上げ、続いて阿部正精を寺社奉行から大坂城代、京都所司代を飛び越えさせて老中に抜擢した。これは、家斉が寛政の改革の厳しさを嫌っての人事であり、正精が保守派にとって都合の良い存在であったことが伺える。幕政は徳川家斉の側近から老中となった水野忠成に掌握され、その間は田沼時代をはるかに上回る空前の賄賂政治が横行したという。1823年、阿部正弘の父・正精が病のため老中職を辞し、1826年に死去すると、兄の正寧第12代藩主を継ぎ、正弘は本郷(文京区)の中屋敷へ移った(現在でも中屋敷のあった文京区西片には文京区立誠之小学校、阿部公園(西片公園)など、由来する施設が残っている)。しかし正寧は病弱だったため、10年後の天保7年(1836年)12月25日、正弘に家督を譲って隠居した。

2.阿部正弘 老中首座に
 1838年、奏者番に任じられ、1840年に寺社奉行となり大奥と僧侶の乱交事件智泉院・感応寺事件)が第11代将軍徳川家斉の非を表面化させることを恐れて温厚に処断した。12代将軍家慶は1837年に45歳で将軍職を譲られたが、この時は家斉が大御所として強大な発言権を保持していた。家斉が1841年に没すると、阿部正弘の寺社奉行としての処断を目にしていた家慶により、1843年に25歳で老中となる。
 水野忠邦は1839年に老中首座となっていたが、将軍家斉の死後(1841年)「天保の改革」(風紀粛正、奢侈禁止をすすめ、感応寺の破却)を始める。しかし、上知令への不満が大きく、2年老中を務めたばかりの堀田正睦(ほったまさよし)は辞任し、阿部正弘が老中になった直後に水野忠邦は罷免され、土井利位(どいとしつら)が交代した。しかし、1844年5月江戸城本丸が焼け落ち、外国問題の紛糾などから水野忠邦が1844年6月に老中首座に復帰した。これに老中・阿部正弘をはじめ、土井らは忠邦の再任に強硬に反対し、水野忠邦も仕事への意欲もなく、天保の改革の際の不正を理由に罷免され、変わって阿部正弘が1845年2月老中首座になった。若くして老中首座となった阿部正弘は、身分にとらわれない人材の登用、政治に対する多くの意見(黒船対策募集)を求めるなど柔軟に幕府の政治を行った。
 
3.19世紀前半まの諸外国からの開国要求等

 阿部正弘が老中首座になった19世紀前半までの諸外国からの開国要求や事件等を羅列しておいた。各項目についてはクリックして調べて欲しい。ペルー来航までに諸外国からの開国要求だけでなく、漂流民の保護と帰国、領民と外国人との直接交流等があり、諸外国の情勢についてはある程度知られていた。すでに異国船打払いで問題が解決される時代ではなかった。

1791 アメリカのジョン・ケンドリック(2)が紀伊大島に上陸
1792 ロシアのアダム・ラクスマンが北海道の根室に来航・通商の要求
    松平定信とラクスマン、そして幕末
1804 ロシアのニコライ・レザノフが長崎に来航・通商の要求
1806 露寇事件
1808 フェートン号事件
1824 大津浜事件 宝島事件(2)
1825 異国船打払令(2)
1837 モリソン号事件
1839 蛮社の獄(2)
1841 ジョン万次郎遭難・救助・帰国(1851年)
1842 「異国船打払令」を廃し、新たに「薪水給与令」を公布
1845 阿部正弘・老中首座に
1846 ジェームズ・ビドルの来航と開国の要求
1849 ジェームス・グリン(2)(3)の来航と米国捕鯨船員の解放
 参考: 幕末の砲艦外交
      日米交流 1.日米国交樹立以前

3.諸外国からの開国要求の背景と阿部正弘・老中首座の対策
 
 アメリカは1823年に欧州大陸とアメリカ大陸の相互不干渉を唱えるモンロー宣言を発表、これは「アメリカ大陸はアメリカ合衆国の縄張りである」というモンロー主義となり、「アメリカ合衆国内の先住民の掃討」に専念した。(参考:アメリカ合衆国の歴史
 一方、イギリスはアヘン戦争により1842年に南京条約を締結、香港の割譲などの権益を得て、ヨーロッパ勢力によるアジア植民地の第1歩となったが、これに便乗したアメリカが、望厦(ぼうか)条約を1844年に清に認めさせた。
 阿部正弘が老中首座となった翌年の1846年、清との条約の批准の帰りに日本との通商を求めて、アメリカのジェームズ・ビドルの艦隊が浦賀にやって来るが、外国問題にとりくむ阿部正弘は鎖国を理由に断っている。なお、アメリカは1948年、メキシコとの米墨(べいぼく)戦争でカリフォルニアを獲得している。(参考: 1848年革命ウィーン体制の崩壊~フランス革命ナポレオン戦争後のヨーロッパを、革命前の絶対王政に戻し維持しようとした保守反動体制であるが、ヨーロッパ資本主義諸国によるアジア、ラテンアメリカ諸地域への植民地支配の本格化の始まりでもある。また、ヨーロッパ社会の新たな対立軸は従来の絶対君主対市民ではなく、資本家階級と労働者階級という階級対立に移った転換点を示すマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』が同年に発表され、社会主義運動の出発点になった。)

4.ぺリーの黒船来航
 1853年6月3日、浦賀沖にぺリーの黒船来航。その前年にオランダ商館長のクルティウスが長崎奉行所に書簡を提出し、アメリカのペリー提督率いる艦船が、翌年3月に来航することを知らせていた。ペリー来航の19日後に将軍家慶逝去。家慶の遺言により攘夷派の徳川斉昭が海防参与を命じられる。また、阿部正弘に才能を認められて1844年に抜擢されていた水野忠徳(みずのただのり)は1852年に浦賀奉行、1853年にペリーとの交渉のため長崎奉行に任ぜられていた。ペリーに遅れること約1ヵ月でロシア使節の提督プチャーチンが、日本の開港と北方領土の画定を求めて長崎に来航したが、英仏とのクリミア戦争の勃発により一旦日本を離れる。
 1854年1月、ペリー再来航で江戸湾に侵入し、江戸城内騒然。1854年2月、徳川斉昭は求めにより登城、攘夷論で井伊直弼(開国論)らと討論、翌日には長崎での石炭補給、そして3年後をめどに交易を始める、という妥協案を提示した。しかし、幕府は通商問題を先延ばしにしたまま開国を決意し、1854年3月に日米和親条約(2)(3)(4)を締結し、下田と函館(当時は箱館)の開港(箱館は翌年の開港)とアメリカ船の日本における物資の確保とアメリカ人の安全の保障などを決めた。日米和親条約により開港された下田にペリー艦隊の船が順次入港(2)し、下田入港に際しての細則の下田条約が決められた。

 また、英露戦争によりプチャーチンを捕捉すべく長崎に来航した英国東インド・中国艦隊司令ジェームズ・スターリングは、ロシアがサハリンおよび千島列島への領土的野心があることを警告し、幕府に対して局外中立を求めた。ペリー来航に備えて長崎奉行となっていた水野忠徳の提案により、1854年10月に日英和親条約が調印されている。さらに、ペリーによる和親条約締結を知ったプチャーチンは新鋭船ディアナ号に乗って下田に来航し、1855年1月に日露和親条約(2)を締結した。1856年1月には、日本とオランダとの間で日蘭和親条約が結ばれるのだが、日本とフランスの間では、最後まで和親条約が結ばれることはなかった。フランスは清との間にはイギリスと同等の条約を締結し、日本との貿易を想定して琉球の租借を要求して清に拒否されているが、日本からの和親条約締結の打診には積極的ではなかった。
 ペリー来航のときは条約交渉を先延ばしにすることに注力していた日本が、日米和親条約締結後は英仏に対してむしろ和親条約締結を提案している。一度日米間で条約を締結したことで、倣うべき前例ができたことも大きく影響していると思うが、西洋各国間の牽制効果を狙ったのであれば、鎖国体制から転換して間もないにもかかわらず幕府はなかなかしたたかな外交を行っていたのではないかとも思える。
 参考:日仏修好通商条約、その内容とフランス側文献から見た交渉経過(1)
      19世紀中葉のフランス極東政策と宣教師 琉仏条約締結をめぐって(上原令)



初稿 2018.8.8 更新 2018.8.14

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