自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

我々は物語を生きている~信心なきものの一神教の解釈

2019-09-21 21:43:59 | 物語
 我々は物語を生きている。何故?という疑問に答える空想から常識に至る様々な物語。七万年から三万年前にかけて、人類に言語から物語の想像力が生まれ、フィクションを信じる「認知革命(新しい思考と意思疎通の方法)」が登場した。我々は他者と物語を共有できることで、集団を大きくして生きてきた。集団には必ず支配者が生まれ、支配者は集団が従うべきルールを生む。『旧約聖書』は、古代イスラエルの民の歴史物語で、史実と物語が重なった様々な物語の集大成であり、人間が従うべき支配者として「天地創造の神」の物語を生んだ。一方、集団は都市国家を生み、ギリシアではポリスといわれた都市国家が継続したが、西アジア、中国、インドでは都市国家→領域国家国民国家へと移行した。
 参考:我々は物語を生きている~経済と貨幣の歴史①
     天地創造—神と世界と人間
     ユダヤ教の成立
     20180616-激動の世界をゆく「聖地・エルサレム 大使館移転の陰で…」
     「世界ふしぎ発見! ~森山未來が探る 神秘の国イスラエルの秘密~」
     メソポタミア文明その1 文明の発生
     「都市国家」「領域国家」「国民国家」についての備忘録
     春秋戦国:戦国時代⑧ 邑制国家から領域国家へ
     領域国家と国民統合の将来


 歴史的に、世界には社会のルールを作った権力に適応した多くの人々と、権力から迫害を受け、世界に離散(ディアスポラ)して生きた人々がいる。後者の一つが、ヨーロッパの亡国の民、宗教で帰属が決まるユダヤ人だ。なぜ、世界で最も古いユダヤ教は迫害を受けたのか?ユダヤ教の歴史は古く、物語と史実が混乱しやすいので、キリスト紀元/西暦「人類の出現から文明の形成へ」についてネット検索で整理しておきたい。

 「出エジプト」(the Exsodus)はヤハウェ神によるユダヤ民族に対する救済であり、ユダヤ教の成立の最も重要な契機とされている。イスラエル人を奴隷から解放するように十戒で有名な「モーセ」が要求した相手が「ラメセス2世」とすると、「3300年前」にユダヤ教が成立したことになる。ただし、旧約聖書の天地創造物語が著述された時期は、ダヴィデ王ソロモン王のユダ一族の後継者が500年も王位を継承してきた「ユダ王国」が、紀元前587年、新バビロニアに滅ぼされ、政治・宗教のエリート層の全員が「バビロン捕囚」され、異郷の地バビロニアで生活を強いられ、王国もなく、神殿もない状況に置かれた。このような状況下で、『国はなくてもユダヤ教団として生きる道』を選び、多神教の一つに過ぎなかった民族神ヤハウェを「神ヤハウェが、この世界を創造した神であり、唯一神である」と理解し直された一神教のユダヤ教が成立した。紀元前538年、アケメネス朝が新バビロニアを滅ぼし、キュロス2世はユダヤ人をバビロン捕囚から解放。旧約聖書の「天地創造物語」は、このバビロン捕囚の約50年間に著述されたものである。

 我々は世界の歴史を考えるとき西暦(キリスト紀元)を使うが、これはキリストの誕生をゼロ年としている。しかし、その生誕は明確ではなく紀元前7年という説も多い。ローマの宗主権の下ユダヤ王となったヘロデ王は、イェルサレム神殿を再建した。イェルサレム神殿の祭司によるユダヤ教の儀礼化が進み、それに反発する預言者の運動の中から、イエスが登場した。ユダヤ教は日常の行為を神の定めた「律法(神のために生きる)」を実践することを優先し、神が6日間で天地万物を創造し、7日目に休まれたように神のために仕事をし、神のために休む「安息日」の戒めが、十戒のうちの一つに定められた。しかし、イエスは「安息日は人間のために設けられたのであり、人間が安息日のために造られたのではない」とし、神の人間に対する無限の愛(アガベ―)のもとに、『あなたの神である主を愛せよ』『己れの如く 汝の隣を愛すべし』とした。詳細は『ユダヤは「律法」で滅び、キリスト者は「律法」破棄で勝利した』を、お読みいただきたい。
 イエスはローマの支配と神殿を冒涜したという理由で処刑される。紀元後30年ごろ、イエスが十字架に架けられた後、3日後に復活したことを信じ、キリスト(救世主を意味する)をあがめる少数の信者団体の原始キリスト教団が生まれた。

 古代は多神教が一般であり、一神教のユダヤ教やキリスト教は権力から嫌われ迫害された。ユダヤ人はヘロデ王によりバビロン捕囚から解放され、イェルサレム神殿も再建されたが、その後ローマ直轄地(ローマ帝国)となり、ユダヤ戦争(66年から73年)により、イェルサレム神殿も焼かれ、祖国を奪われ、世界に離散した。キリスト教も当初は弾圧されたが、313年、ローマ帝国・コンスタンティヌス帝が、ミラノ勅令を出してキリスト教を公認し、325年頃にキリストの磔刑の場所、ゴルゴタに教会(聖墳墓教会)を建てることを命じた。また、392年にはテオドシウス帝がキリスト教を国教とし、他の宗教を禁じ、5世紀初めには、シナゴーグ(集会所)建設と布教活動が禁止された。
 古代の宗教は人間が従うべき(ある意味では人間を支配する)物語であり、その物語に集団が従うので、戦争の原因にもなってきた。ユダヤ教はユダヤ人を守るという選民思想の名誉とともに、厳しい多くの戒律により集団の生き方を拘束したので、その厳しい戒律が権力や他集団からは嫌われ、迫害を受けたのかも知れない。

 一方、アラビア半島の商業都市メッカで生まれたムハンマド(マホメット)は、父を誕生前に、6歳のころ母も失い、祖父、つづいて叔父の庇護のもと成長した。成長後は他の一族の者たちと同様に商人となってシリアへの隊商交易に従事した。メッカにおいて、ムハンマドが啓示を受けアッラーへの信仰を説き始めたのはキリスト教紀元(西暦)610年であったが、当初はメッカの大商人たちから迫害され、北方のメディナに移って教団を建設したのが622年であり、イスラーム教ではこのことをヒジュラ(聖遷)といい、この年をイスラーム紀元元年としている。この時、ムハンマドが建設した信者(ムスリムという)の共同体であるウンマが組織され、イスラーム教団が成立した。異教徒との戦い、ジハード(聖戦)はムスリムの義務の一つであり、その戦いで戦死した者は天国に行くことが出来るとされている。イスラム教を迫害したメッカを630年には征服して、力ーバ神殿を一神教の神殿とした。その後、イスラーム帝国の拡張により、692年には「神殿の丘」(ユダヤ教の聖地ヤハウェ神殿跡でもある)にウマイヤ朝カリフのアブド=アルマリクの命令によって、岩を覆うモスクが建設された。
 参考:ユダヤ人の古代史 アラブ人とイスラム教徒
     イスラム教の歴史 イスラーム教 ヒラー山 岩のドーム
     ウマイヤ朝 カリフ
     3分でわかる、イスラム教の創始者ムハンマドの生涯

 一神教は科学における真理の探究にも通じるように思うが、西洋の個人主義とはつながらない。ことに一神教の原点であるユダヤ教は、信頼するラビ(わが師)による口伝律法、モーセ五書(モーセのトーラー)を日常生活でどう考えるかを問い続けることを習慣化し、安息日には一切の仕事を休み、家族の団らんを楽しむ愛に満ちた生活を送ってきた。神の教えを強制するのではなく、神の愛を真剣に受け止めて考える生活を続けてきたように思う。その生活態度が多くのノーベル賞につながっているのではなかろうか?
 生きる目的が神から人間に移行した過程を考えてみたい。まず、12世紀の西ヨーロッパ世界において、それまでのキリスト教とゲルマン文化が結びつき中世文化が大きく変化し発展していた状況(12世紀ルネサンス)があり、これに十字軍の失敗により教会の権力が弱体化する一方で、イスラーム圏との接触からキリスト教的世界観にも変化をもたらし、14世紀から始まるギリシャ、ローマの古典文化を再生するルネサンス、15世紀末に本格化する大航海時代、16世紀の宗教改革、さらにイタリア戦争から顕著になる主権国家の形成などと密接に関係しながら、近代社会の成立につながっていった。

 集団が生きるよすがとして、多くの神々の物語を始めて一神教の物語に至る長い歳月の後、一神教の神から解放されてルネサンスから宗教改革に至る千年近くを経て、人間は人間として生きる道に目覚めた。私は信心なきものではあるが、人は自由に生きるとしても、「己れの如く 汝の隣を愛すべし」を人間として生きる掟にしたいと思う。
 参考:十字軍の暗黒史
     5分で分かる十字軍!簡単にわかりやすく遠征の目的と流れを解説!
     大航海時代1 ルネサンスの始まり (14分)
     『モーセの律法』と『キリストの律法』


 エジプト時代、ツタンカーメンの父アクエンアテン(義理の母、ネフェルティティ)は多神教の神官が力を増して王位継承にまで口出しを始めたことから、多神教を排して一神教、太陽神アテンを崇拝することに変えた歴史があることをNHK番組から教えられた。この点については資料だけ紹介し、またの機会に考えたい。
参考:古代エジプト3人の女王のミステリー=クレオパトラ・ネフェルティテイ・ハトシェプスト
アクエンアテン
 ツタンカーメンの父でもあるこの王は、アメンホテプ4世として即位してから5年後、二つの重大な決定を下す。「アテンに仕える者」を意味するアクエンアテンに改名し、現在のアマルナに遷都することにしたのだ。新首都は太陽円盤の地平を意味するアケトアテンと名づけられた。何もない砂漠が推定3万人の都市となり、大規模な宮殿や神殿が大急ぎで建設された。
 さらにこの王は、宗教や美術、政治を一新しようと試みたものの、その死後は数多くの非難を浴びることとなる。息子のツタンカーメンまで、「神々に見捨てられ、災厄の国となった」と父の時代を批判する勅令を発布している。後の王朝は、アクエンアテンを「犯罪者」や「反逆者」とみなし、彼の彫像や絵を破壊して歴史から消し去ろうとした。
アメンホテプ4世 別名アクエンアテン(紀元前1353年? - 紀元前1336年頃?)
ネフェルティティ
エジプト新王国



初稿 2019.9.21 更新 2020.2.20(ブログ目次削除)


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