自然とデザイン

自然と人との関係なくして生命なく、人と人との関係なくして幸福もない。この自然と人為の関係をデザインとして考えたい。

芸術はすべて心である~人生もすべて心である

2018-05-29 17:42:36 | 自然と人為

正しい美しい心が
からだに一パイになると
あふれてこぼれるようになると
いい美しい画になります



芸術はすべて心である
芸術修行とは
心をみがく事である



 日曜美術館「芸術はすべて心である~知られざる画家不染鉄の世界~で、有名ではないが素晴らしい画家、不染鉄を知り、「人生とはすべて心である」と教えられた。動画で紹介したいが、私のパソコンが駄目になったのか、マイクロソフトの仕様変更なのか原因不明だが、動画配信ができなくなってしまったので、NHK番組を丁寧に紹介されている上記ブログをご覧いただきたい。また、不染鉄の紹介等については「謎多き幻の日本画家・不染鉄」(2)(3)(4)を引用、参考にし、ここでは私の心に残っている部分だけを紹介させていただく。
 
不染鉄先生の紹介

 不染鉄は1891年(明治24年)6月6日に東京、小石川の光円寺住職不染信翁と母・梅田かの子の間に生まれる。僧侶は明治時代までは妻帯を禁じられていたので、幼少期は他の家庭環境と違うことへの真っ直ぐな反発からか、素行の悪さで周囲を困らせたという。20歳前後で両親を亡くす。画を志し、23歳で日本美術院研究会員となる。制作に邁進するも才能と将来に不安を抱え、その頃出会った妻とともに伊豆大島へ渡る。悪天候のなかたどり着いた漁村・岡田村で温かく迎えられ、漁師のまねごとをして3年程暮らす。
 「画風が変わるのは伊豆大島へ移って以降。興味深いのは、画風が変わるだけでなく、不染の思い出が作品に投影されるようになり、それが彼のスタイルになっていくところ。繊細な筆致で描かれた農村や漁村の風景からは自然とともに生きる人々の暮らしが見え、郷愁を誘います。不染が育った小石川や房総、伊豆大島などを描いた作品には、「母はランプの下でしきりにはたををっていた事などを覚えております」(原文ママ)のように画中に思い出が綴られたものが多く、これがまた心に沁みます」(不染鉄展
 27歳の時(1918年)、京都市立絵画専門学校(現在の京都市立芸術大学)予科に入学して、学生であった1919年(大正8年)の第1回帝展で「夏と秋」が初入選。1923年3月、京都絵専本科を首席で卒業。在学中から10歳以上年下の上村松篁と親しくした。松篁によると、「不染鉄は当時流行していた写実主義による写生を好まず、学校の図書館で『一遍上人絵伝』を模写していた」という。卒業後は奈良で奈良県正強中学校の図画教師として勤め、そこの理事長が戦後の公職追放にあったため、かわりにの2代目理事長に就任し、その後(1946年)に校長となり、中央画壇を離れ、飄々と作画を続けた。1952年に正強学園(現在は学校法人奈良大学法人本部)理事長を退職後、67歳で妻を亡くし、市内の知人の好意で敷地内に小さな家を建て、のんびりと絵を描いて暮らす。1976(昭和51)年2月28日、84歳で直腸がんのため死去。
 これまで不染鉄の没後20年と30年に、それぞれ奈良県立美術館と東京の星野画廊で回顧展が行われ、京都国立近代美術館新館開館記念展(1986年)で開かれた回顧展「京都の日本画 1910-1930」で不染鉄 山海図絵(1925)が展示されたが、その画業の多くは謎に包まれてきた。没後40年の2017(平成29)年、東京ステーションギャラリーと奈良県立美術館の2カ所で巡回回顧展を開催し、大きな反響を得た。
 参考:不染 鉄(奈良県立美術館)
     特別展「没後40年 幻の画家 不染鉄展」出品リスト(奈良県立美術館)
     『不染鉄之画集』~いつか見た光景への追慕~
     日曜美術館 不染 鉄
     不染鉄(不染鉄二) - 奈良風景(展覧会出品作)
     不染鉄 没後40年 幻の画家 第1報
     不染鉄、没後40年、初めての画集刊行!

 東京の大学生だったころ不染と出会った倉石美子さんは、「私は不染先生の言ういい人になりたいと思って来たし、不染先生は私の人生の恩師だと思っています。」と言う。

 150通を越える絵はがきに綴られた絵と文章について、「これはあなたを世の中の的として放つ矢なんで個人の通信文ではない」と自身が私信で語ったように、個人への便りの形をとりながらも、人間・不染鉄の人生感がにじむ魂の記録でもあり、不染鉄からすべての人の心に宛てた便りである。(不染鉄ノ便リ)
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中秋名月
ああそうか、よくわかった
正しい心になります。
いい人になります。
77です。
いつ死んでも残念でないよう。
美しい心の人になります。
ああそうか。そうだなあ。
お月様は神様の様で
美しくて立派だ
ほんとに真心の人になれば
お友達にもなれそうだと思う
何だかうれしい
歩くと、どこまでもついてくる
私の心もこんなにすみわたりたい。


不染鉄78歳の頃、奈良の粗末な家を訪ねた倉石さんが、
先生お一人で寂しくないですかと尋ねたら、

僕はね、今までの思い出を画にしているんだよ
思い出はいっぱいあって楽しいよ
それを全部画にしているだよ
だから寂しくなんかないんだよ


あばら家で将棋を楽しんでいる
立派な家もいいけど
つぎはぎの家もいいですねえ
身に沁みて美しい可愛い




 不染鉄は日本美術院で絵の修行中に奥さんと伊豆大島に3年程滞在し、魚が好きで漁師をしたこともあるが、そのころの思い出を画に多く残している。

毎日、釣りや、網に行った
大ざめを釣って、売ったこともあった。
冬は、海の荒れる日は
暖かい日なたに、うつらうつらして
何事もなく、暮らした

夕方は東京を思い、絵描きを思い
寂しくなることもあったが
気楽な、幸せな生活に
すぐ消えていった

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『海』 クリックすると拡大


魚への想いがつのった不染の幻想的な画 伊豆の竜宮城?

 不染は中学を転校して自称「わる」と言っているが、正義感はあったようなので、やりたいことに熱中するが、気の向かないことには「怠け者」だったのかもしれない。

中学以来まあ不良の私
卒業の時は一番で答辞をよむ
父よ、母よ、心配をかけた皆さまよ
ほんとに一番だ
胸がいっぱいになる

不染鉄の卒業制作 ― 「冬」

上村松篁は晩年、不染のことをこう書き記しました。
不染さんは、たいそう聡明で正義感が強い人ではあった。
世の中の表、裏を知っているので、
人を見抜く眼力があった。
唯一の欠点は、怠け者であるということである。
不染さんは、私の生涯に最も大きな影響を与えた
得難い親友であった。


     寒林白鷺(不染鉄の寒林と上村松篁の白鷺)

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終戦少し前のことである
日本は軍艦、大きな船はもうない
南の島々には飢え死に寸前の兵隊が沢山いる
未教育の鉄砲を持つことを知らない
農業の人、商人、サラリーマン
にわかに徴用、芝浦から出帆
  ・・・・・
手を振る、勇ましいような鳴くような楽隊
船も海も、初めての人もあるだろう
  ・・・・・
誰も帰ってこなかったと、申します。


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お墓は寂しいと言うけど
そうではないよ
いろいろな人が、たくさんいて
とても、賑やかだよ
男も女も、若い人、年寄り、赤ちゃん
どんな人も、いるねえ
やがて夏が来る
夕立が降って、みんな濡れるだろう
いいねえ
秋は落ち葉が、散ってくるだろう
冬は粉雪が降ってくるだろう
楽しいねえ
この世にいるときは
優しい、美しい人もいたろう
見たかったなあ
がめついやつもいたろう
実に、いろいろだったろう
今は、みんな仲良く、喧嘩もしない
この方がいいねえ
幸せとは、これを言うのか
あーあ、なるほどそうか
それだから極楽と言うのか

有名になれずこんな画をかくようになっちゃった
だけどいいよねえ         不染鉄



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東京ステーションギャラリー 没後40年 幻の画家 不染鉄展
不染鉄展 第1章「郷愁の家」、第2章「憧憬の山水」
不染鉄展 第3章「聖なる塔・富士」
不染鉄展 第4章「孤高の海」、第5章「回想の風景」

日曜美術館「芸術はすべて心である 知られざる画家 不染鉄の世界」(動画)


初稿 2018.5.29 更新 2018.11.27(動画追加)


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