じいの徒然日記

内野聖陽さんにfall in loveしたじいのおバカな毎日を綴った日記

カラムとセフィーの物語

2010-10-11 23:53:04 | 観劇記
今日は秋晴れ……を通り越して暑かったですぅ~~昨日は電気カーペットを出す&夏冬入れ替える、、、頑張ったのに切ないぞ~ でも、コレっていつものパターン 夏⇔冬の準備をする度に起きてる空模様な気がします

そんなわけで収めたはずの半袖を引っ張り出してきて外出 文学座アトリエ60周年公演の第2弾!「カラムとセフィーの物語」を観に行ってきました。今回もトロイアに引き続き最前列~~それでなくても濃厚な空間と芝居に溢れていて、息苦しくなるほどの熱気と頭を占拠する中身の詰まった作品なのに~~近すぎてノックアウト気味 やっぱり観終わった後はズッシリげっそり~~エネルギーを吸い取られ使い果たしたって感じの疲労感。ま、これが心地いいんですけどね

~あらすじ~

肌の色の黒いクロス人が支配し、肌の色の白いノート人が支配される地域。クロスとノートの間にはあらゆることで差別が生じていた。ここに1つの愛が生まれた。クロスの少女セフィーとノートの少年カラムの間に・・・。大きな障壁をこの愛は乗り越えられるだろうか。(文学座HPより)

『カラムとセフィーの物語』の原題はNoughts and Crosses ○と×を五目のように3つ続くように並べ合うゲームのこと。このゲーム、相手にミスがなく両者が真正面から真剣に向き合う場合には、勝負がつかない。(チラシより)

2時間45分(休憩10分含む)の全2幕。「トロイアの女たち」と同様に左右2つのブロックに分かれていて、真ん中に舞台があるというパターン。さすがに2時間超えになるとパイプ椅子の観劇はきつかったかも~~ 正直最後ら辺はお尻が痛くて また、今回は特に大掛かりなセットがあるわけではなく、最初は床のあちこちにバラが植えられていて(カラムとセフィーが子供の頃に一緒に遊んでいた庭…らしい)それが取り除かれた後は全体は黒色で縁のみ白く塗られた椅子と机を移動させたり組み合わせたりしてセットとして使われていました。

クロス人とノート人、肌の色の違いを表すために、頬骨辺りにクロス人→黒、ノート人→白のペイントが施されていたので分かりやすかったです 実際に外国で上演される時は本当の黒人&白人のキャストを持ってくればいいんだろうけど日本ではなかなか難しいし……ま、他にも仮面を被せてみるとか?白塗りにしてみるとか??いろ~んな手法があると思うけど←超素人発想でゴメンナサイ ただ、、、クロス人の女子高生には突っ込まずにはいられない部分が 一昔前のやまんば女子高生状態なのよね~~しかも演じている方々はリアル女子高生な年齢ではないわけで……以下省略 ま、そういう意味のリアリティは問題ではないので大丈夫だったんですけどね~~そうそう、あと……カラムの父親がデパート爆破テロの罪で縛り首になる場面。執行直前に恩赦になる……ってコレ、どこぞやで触れた流れじゃないですか ここにツボったじいは、、、はい、縛り首決定~~

この作品で一番最初に目が行くのは、黒人が白人を支配するという設定でしょうか。ありがちな……というか現実には逆パターンが一般的なので そこが皮肉めいているようであり人間の本質を表しているようでもあり……でもね~~この設定はあくまで入り口であって物語の中心ではないと思いました。そういう「一般的な」「分かりやすい」「典型的な」ものだけを描いていないと感じたので。それと、ストーリー的にはシェイクスピアのロミオとジュリエット……確かにそういう部分はある。敵対し合う人種同士の間で生まれた純愛 でもね~~じいが思うにはそんなに単純で涙を流せる物語ではない。ロミオとジュリエットがシェイクスピアの四大悲劇に入らない理由に繋がっているのでは?とふと考えたわけで……考えようによっては悲劇ではないんですよね~~ロミジュリって。文学研究的な専門知識はないのでじいの勝手な意見だけど、、、ロミジュリは確かに結ばれることが許されない環境が生んだ悲劇ではあるけど二人は愛に生きればよかった分幸せだったと、まぁ乱暴に言えばそういう部分があると思うんだけど、本当の悲劇って割り切れない思いであったり、どうしようもない人間の性や切なさであったり誰も裁けない罪であったり、そういう「やるせない哀しさ」だったりすると思うのよね~~そういう意味では、この「カラムとセフィーの物語」はロミジュリに足りない悲劇の本質をプラスαした、四大悲劇の仲間入り要素を詰め込んだ濃密な物語になっていたのではないかと思いました

ノート人クロス人……差別する側とされる側。よくある構造なのは差別する方は悪で差別される方が善。でも、この作品を見ていると必ずしもそういうものじゃないのでは?と思いました。一番分かりやすいところでは要所要所に出てくるニュースキャスター ←階段の上から出てきたりポール下りしてきたことも!(いきなり目の前に下りてきたのでビックリ)メディアと実際は違うという部分は違うという部分も含めて(何だか妙に実感してしまう今日この頃)……支配層であるハドレー家(セフィーの家族の方ね)も被支配層であるマクレガー家(カラムの家族)も実のところ違いはなくて良いと悪いが共存しているし、人種差別を反対するセフィーの中にも無意識の差別意識?あるいは相違の意識といった方がいいのかな??そういう部分はあるし……というか差別意識云々というよりも人間が持つ他者への意識と言った方がいいのかもしれないけど そして、同じようなことはカラムにも言えるのよね~~恵まれない境遇やすれ違い云々じゃない、別の意味でこれまた人間が持つ他者への意識がある。はたまた同じようなことはこの作品の登場人物全てに言えることだと思うのよね~~セフィーがカラムを庇うために敢えて、でも思わず出てしまったノート人を示す蔑視用語←覚えてないの~~ セフィーを守るために言ってしまった/やってしまったことが逆にセフィーや彼女の属する人種に対する憎悪に繋がったこと、セフィーが仲良くしようと手を差し伸べたノート人・シャニアが後でセフィーは偽善だと罵ったこと、カラムの母やセフィーの母が表したクロス人やノート人に対する愛憎の気持ちなどなど……いろ~~んなところに含まれていた交錯する心、生き方。2幕の、セフィーの母親がカラムの父親の裁判で有能な弁護士を雇うための費用を出したことやかつては友人同士であったことを告白する場面、カラムとその兄、仲間たちが起こしたセフィー誘拐事件の後に警察に追われるカラムがセフィーとハドレー屋敷内で再会する場面……特に後者の方!カラムは結局逮捕されるんだけど、その時にセフィーに投げかけた「君はこうなることを知っていたのか?」という言葉。何か妙にすっごく引っかかったのよね~~それまでのすれ違い同様にただの誤解なのか、実は本当なのか、思いっきり藪の中状態だったりするんだけど……意識or無意識に関わらず、人間ってこういうことってしていると思うのよね~~他者に対する差別や区別も然り。善悪の区別はできないし、普段は敢えて見ないように、考えないようにしていることに触れられた気がして妙に乾いた風が心に吹いたような、、、そんな気がしました。

ラスト、、、床に書かれたROSE CALLIE(だったと思う……うろ覚えでゴメンナサイ)という文字。結局カラムは処刑され、カラムとの間にできた女の子をセフィーは産んで育てていく決心をしながら歩いていくところで終わる。この場面で流れていた音楽 鉄琴の音に重なるように流れていた不協和音が耳につくというか、何かあるのでは?と思わせるようなラストに彩りを添えていたような気が そこら辺は観る者の心に委ねられたような感じでしたが でもね~~この床に書かれた名前にスポットライトが当たって最後まで強調されている照明の演出、とっても良かったですぅ~~

中身の詰まった作品を軽やかなテンポで流れていく舞台でしたが、う~~ん、もう少しメリハリがあってもいいのかな~と思うところもなきにしもあらず。でも悪くはない流れだったから……良くもあり悪くもありという感じでしょうか。役者陣、、、ちょいと目に付いたのがカラムの兄・ジュード。悪キャラが引き立つような喋り方はいいんだけど、一本調子の熱さで深みがなかったのが残念だったかな~~ でも、全体的にはやっぱりさすが!と思わせる皆さん。中でもカラムの母・メギーとカラムの目にはいきなりやられましたね~~主人であるセフィーの母・ジャスミンを見る目 諦めと憎しみと優しさが入り混じった光を感じていきなり目が離せなくなっちゃった~~カラムの目にもドド~ン と。無垢な目の光の中に交錯する陰影が被さっていく……その佇まいや空気感を含めて素晴らしかったです

コメント    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« イリアス 兵庫大千秋楽 | トップ | 日常が戻ってきた »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

観劇記」カテゴリの最新記事