夢発電所

21世紀の新型燃料では、夢や想像力、開発・企画力、抱腹絶倒力、人間関係力などは新たなエネルギー資源として無尽蔵です。

偶然という必然

2007-09-02 07:38:23 | 岩木山麓 しらとり農場日記
 この10日間重症児の交流キャンプや東京出張があり、農場に足を向ける余裕がなかった。おとといの夜にようやく帰宅して、昨日は好天にも恵まれたので農場に出かけた。農場ではオーナーと部長(ウーファー)が白菜を定植していた。私は東京のお土産を奥さんに渡し、あうんの畑でキュウリやトマト、万願寺トウガラシ、ピーマン、ジャガイモなどを収穫した。たっぷりと汗をかいていると、一台の軽自動車が畑に近づいてきた。運転席には弘前ねむの会の代表K先生がいるではないか。あのいつもの笑顔を満面に輝かせて、私の農作業姿について「その格好が成田さんにはすっかりお似合いです」とお褒めをいただいた。先生の隣の助手席には、同会でソロ歌手テノールのFさんが座っていた。
 先生によればFさんが元気がないので、しらとり農場にエネルギーをもらえば元気になると思ってきたという。早速オーナーの元に挨拶に行き、私の案内で泉の美味しい水を味わい、胡桃林のコンサート会場でハンモックにも横になり、「気持ちいい」と叫び、先生自ら白菜の定植を手伝って慌しく帰っていった。午後から練習があるという。
 オーナーがきょうはシュタイナー暦では星の位置関係で、お昼までに農作業を終えないといけないと言い、白菜の定植作業もきっかりお昼で終えることができた。Fさんと私、部長、オーナー夫妻でオーナー夫人の野菜たっぷりパスタをいただいた。
 FさんがDrに肝機能が悪いのは運動不足とストレスだといわれたと畑でつぶやいたのが私の頭の中に引っかかっていた。そんなFさんも畑での野菜運びをして、気分が良さそうで、泉の水もおいしくいただき、お昼のみんなでの楽しいひとときが気に入ってくれたようだった。その後、Fさんの自慢の喉を披露してくれるように依頼し、Fさんがテノールの歌声でのイタリア語の歌が部屋の中を流れていった。本当にしらとり農場は音楽関係者が集まると思う。
 その後Fさんが足の裏マッサージをやっているとのことで、早速昼休みに私の足を押してくれた。とても痛いが気持ち良かった。「リフレクション(反射)療法」と呼ばれる方法だと語っていた。オーナーにも勧めてオーナーも気持ちよさそうだった。
 帰途の社中でFさんが「なんで自分が求めてきた場所に成田さんがいるのか不思議だった。でも今わかった。これは必然なんだ。はせくらみゆきさんと共作の「なんくるカード」に越智恵子さん・精神科医が実は私も講義を受けたことがあった。どこかで聞いた名前だと思っていたら、成田さんつながりであった。この農場に求めてきた自分と成田さんが出会ったのも、偶然ではなく必然かもしれない」と。
 本当に人と人が出会うのは不思議です。この間まで遠くで活躍して気になってはいても、それ以上にならない方が、今はなんだかとっても親しい人になっているのは何故でしょう。それは誰にもわからない形や力なのだと感じています。きょうはそういう嬉しい出会いが農場でありました。

「名山名士出・・・・」陸 羯南(くが かつなん)

2007-09-02 06:54:50 | こころに残る言葉
 陸 羯南(くが かつなん)(1857~1907)生誕百五十年没後百年の記念講演とフォーラムを聞きに行きました。羯南は「津軽が生んだ近代ジャーナリズムの先駆者」、『国民主義を堅持し、論陣を張った新聞「日本」の創始者』「正岡子規との深いつながり」この三つのタイトルが紹介のチラシに大見出しに書かれています。
 羯南はM40年9月2日に51歳で亡くなっていますから、きょうがその命日になります。昨日は弘前文化会館大ホールにて開会セレモニーが催され、松山市長も挨拶をされました。初めに「陸 羯南と正岡 子規」について復本 一郎現神奈川大学教授が記念講演を行ないました。その後のフォーラムでは松山市立子規記念博物館長・竹田美喜さん、弘前出身でルポライターの鎌田 慧さん、九州工業大学教授で羯南研究家・本田 逸夫さんが「人間陸 羯南」について紹介しました。
 正岡子規が24歳の時に東京上根岸の羯南の上隣に引っ越し、生活が困窮する子規が軌道に乗れるように羯南があれこれと身の回りの世話をしたといいます。実は子規は5歳の時に父親を無くしており、そのために子規は母親と妹の3人世帯となります。羯南の親友でもあった子規の叔父・加藤 拓川(たくせん)は松山藩の藩主が渡仏する際にその通訳をするという名目で不在のために、羯南を頼れと子規に言ったのがその初めとのこと。子規と羯南の年齢差は10歳あり、子規が若かった。結局羯南は子規の没後も母親と妹の世話をし、墓地まで創ってやるような寛大で優しい男でもあったようです。
 子規は羯南を父親のように慕っていたとのことで、脊椎カリエスで病床に臥してからも、羯南のもとに這いながらも訪ねたといいます。
 羯南を語る時に「反骨の人」「反逆の人」と肩書きされますが、宮城高等師範学校在学中に、学校経営に抗議して退校処分になったり、転校した司法省法学校でも、賄征伐事件に巻き込まれ放校となった。M22年に新聞「日本」を創刊して社主兼主筆。しかしこの新聞社も、8年間の間に30回合計200日以上の新聞の発禁処分を受けていました。佐藤紅緑や子規がその新聞社で働いていました。子規を採用したのも羯南でした。「金のために働いているわけではない」というのが彼の主張だったそうです。新聞の役割について彼は、「世論の先になって新聞記事は書かなければならない。社会啓発啓蒙こそ新聞の役割だ」と「independent Writer」(独立的記者)を宣言したのです。「ジャーナリストとして、日本はどこに行くべきか」を考え主張することができるよう、新聞人は自由であるべき。大記者は要らない。新聞が世論を創っていくんだ」とも言われた。足尾鉱毒事件で田中正造が裁判を起こす際に、弁護士を世話したのも羯南だということでした。標題の「名山名士を出だす・・・」は羯南の書で弘前市大狼神社の近くに陸 羯南厳城の詩碑がある。この名山とは岩木山で名士とは誰なのか?実は名山とは陸 羯南で、名士とは子規のことではないのかとシンポジストの鎌田 慧(弘前出身・ルポライター)が熱く語っていました。子規の生涯に渡り庇護をした羯南の寛大な人間性と厳しい反逆精神は彼の最大の魅力となっているのだと思いました。
 松山市での正岡子規は記念館も作られて、多くの人々にも愛されつづけ理解されているようですが、弘前市出身の羯南については、私も弘前在住30年にもなろうとしているのに、今ようやくその存在を知ったような状態です。永年暮らして、どうも津軽人は棟方志功や笹森義助などをはじめ、太宰治、石坂洋二郎など中央で評価されている人々に対して、何も知らないでいることが多いのではないかと思うことがあります。今回のイベントもこれが単なる町興しの起爆剤として使われたり、記念イベントの材料としてだけ使われ終わるのではなく、今の時代にこそこのような人が日本社会のあり方を正しくつき示していることを理解し、伝えていかなければならないのだと感じました。